3 駐車場(2)

「若林。俺、ずーっと気になってることがあるんだけど」


 助手席に座るなり、正木が腕組みをして言った。


「気になってること? 何?」


 はずしていたシートベルトを引っ張りながら促す。


「十六年前のことなんだけど」

「十六年……」


 嫌な予感がした。若林はシートベルトを戻すと、両腕でステアリングを抱えこんだ。


「そー。十六年前。入学式の朝のこと」

「悪かった。本当に悪かった」


 先手をとって若林はひたすら謝り倒す作戦に出た。

 これには正木も出鼻をくじかれたような顔をして、非難するように若林を見た。


「まだ俺、何にも言ってねえじゃねえかよ。人の話、最後まで聞けよ」

「だって……あれだろ? おまえにいきなり〝結婚してくれ〟って言っといて、あわてて逃げたことだろ?」


 まともに正木が見られなくて、若林は窓の外に目をやった。


「そうだけどさ……おまえ、あのとき、俺のこと女と間違えたって言ったろ」

「え……」


 思いもかけなかったことを言われて、若林は正木に目を戻した。

 正木は相変わらず両腕を組んだまま、じっとダッシュボードを見つめている。

 後部席の夕夜と美奈は顔を見合わせ、そして笑いを噛み殺した。どうやらこれを機にあのことを確かめるつもりらしい。


「忘れたのか? おまえ、確かにそう言って逃げてったんだよ。そして俺はそのことにいちばん傷ついたんだ。――なあ。おまえ、ほんっとにあのときの俺が女に見えたのか? あんとき俺はちゃんと男物のスーツ着てたんだぜ? 俺、このことがずっと気になってて、一度おまえに訊いてみたかったんだけど、あんときのことを言うと、すぐそうやっておまえが謝っちまうからさ、訊くに訊けなかったんだ。でも、もういいだろ? 本当に本当のことを教えてくれよ」


 思いつめた調子で正木は言ったが、若林の顔は見なかった。

 そんな正木を困惑の表情でしばらく眺めてから、若林はフロントガラスのほうを向いた。


「ちゃんと男に見えたよ」

「え?」


 正木が顔を上げて若林を見る。

 夕夜と美奈も身を乗り出すようにして若林を見た。


「その……スーツ着てたし、背も高かったし……」


 ステアリングに寄りかかってそう言う若林を、正木は呆然とした表情で見つめていた。


「じゃあ、何であのとき……」


 若林は本当に困っていた。まさか今頃になってこんなことを訊かれる羽目になるとは。

 だが、自分はもうこの男と結婚するのだ(といっても、まだ全然実感が湧かないのだが)。思いきって本当のことを話してしまおう。


「名前……」


 思いきったわりには、今まで以上に小さな声になってしまった。


「え?」


 よく聞こえなかったらしく、正木は腕組みを解いて、若林に体を寄せてきた。


「名前訊こうと思ったんだ、最初は。その……あんまり綺麗だったから。俺と同じ新入生らしいことはわかったんだけど、それも確かめようと思って……」


 あのときのことを思い出すと、若林はいつも顔から火が出るような思いがする。

 それは本当にささいな偶然。

 何気なく大きな桜の木の下に目をやると、そこに正木が寄りかかって立っていた。

 人形なんじゃないかと思った。あんまり整いすぎていたから。

 だが、じっと見ていると、ちゃんと瞬きもするし、動きもする。やはり人間。

 そうと知ったとき、若林は本当に驚いた。この世の中にこれほど綺麗な人間が存在したのかと思った。その人間が〝男〟であるということはわかっていたが、だからなおのこと若林は驚いた。

 夕夜たちに〝面食い〟と揶揄されるように、若林は美しいものを無条件に愛した。といっても、彼の愛し方は愛でるというより崇めるに近かった。決して自分の手では手折らず、ただそばで眺めるだけ。そんな愛し方を彼はした。

 ゆえに、いつまでたっても手折ってくれないと泣く者も出たわけだが、とにかく彼は美しいものが好きで、美しい人間も好きだった。

 だから、このとき若林がその美しい人間に声をかけようとしたことは、まことに稀有なことだった。いつもの彼ならそっと眺めるだけで満足しただろう。

 しかし、この人間にはそれだけで済ませたくないと思わせる何かがあった。滅多にいない美しい〝男〟だったせいかもしれない。しかも、自分がいちばん好きな、冴え冴えとした氷のような美しさ。この手の顔に若林は弱い。思わずひれ伏したくなる。

 でも、声はどうだろう。やはり顔と同じく美しいだろうか。自分と同じ新入生らしいが、学部や学科はどこだろう。あんな綺麗な顔で何を考え、どんなことをするんだろう。いや、それより何よりまずは名前。名前を訊かなくては。名前を知らなくては、彼を呼べない。


「それで……いざ声をかけようとしたら、何をとち狂ったか、『結婚してください』なんて言っちまって……おまえも驚いただろうけど、俺も自分で驚いちまって、次の瞬間……その、ホモと思われると思ったから、とっさにおまえのこと女に見えたって言い訳して、あわてて逃げ出したんだ」


 若林は自分の真っ赤な顔を正木に見られないよう片手で隠した。

 まさか、そう言った相手がホモだったなんて(たぶん、あの頃にはもうそうだったんだろう)、最近になるまで夢にも知らなかった。だが、今はそうと知っているから、余計この話をするのが恥ずかしい。

 実を言うと、このとき正木が『うん』と答えたのは、あれを冗談だと思ったからだとかなりの間思っていた。

 今思えばそうやってごまかせばよかったのだが、とっさのことでそこまで頭が回らなかった。

 それが、どうも違うんじゃないかと感じはじめたのは、正木がしばしばそのときのことを持ち出したからである。

 そうされるたび、若林はすぐさま謝ったが(そして逃げた)、あるときふと、どうして正木はいつまでたっても忘れてくれないんだろうと思った。

 そりゃ、あんなことはそう簡単に忘れられるものではないが、もし正木が本当にあれを冗談だと思って『うん』と答えていたなら、あれほどこだわりはしないのではないか。つまり、正木はあのとき、本気で『うん』と答えていたんじゃないか――

 そう思いついたとたん、若林は本当に恐ろしくなって、以後はもっと露骨に正木を避けるようになった。正木は勘のいい男だから、以降、まったくその話はしなくなった。

 そういえば、『結婚してください』と言われた後の正木は、一瞬驚きはしたものの、すぐに眩しいくらい嬉しそうな笑顔になった。

 しかし、その後、その顔がどう変わったのかは、逃げるのに必死で見ていない。

 これは罪だ。あの年、若林が犯した第二の罪。

 あの年――若林は両親と妹に温泉旅行をプレゼントし、自分は大学受験のため自宅に残った。

 だが、彼らは車で自宅に帰る途中、交通事故で全員死亡した。その知らせを若林が受けたのは、受験を終えた直後だった。

 ――自分が旅行などプレゼントしなければ。

 若林は自分を責めた。大学進学もやめようかと思ったが、彼らはそれを望んでいないだろうと周囲に説得されて、半ば義務感から入学した。そして、そこで正木と出会った。

 あのとき、あんなことを言いさえしなければ、きっと正木はこれほど自分に執着はしなかった。始めたのは自分。だから正木を責めてはいけない。どうして自分などを好きになったのだと思ってはいけない。

 あの不用意な一言で、自分は十七年も正木を縛りつけてしまったから、その償いに正木の望むとおり結婚して、正木を自由にしてやるのだ。

 それでも――かわいそうな正木。どうして償いという意味でしか結婚できないような男を好きになった。


「おまえがそのことで、そんなに傷ついてたとは思わなかった。……ごめんな。本当にごめんな。こんなことなら冗談で済ませておけばよかったな。何しろとっさのことだったから、うまい言葉が全然出てこなくて……」


 顔を隠したまま、若林は必死で謝った。

 その横で、正木は助手席のシートに手をついたままうつむいていた。が、ふとその肩が小刻みに揺れたかと思うと、正木はいきなり狂ったように笑い出した。


「な、何だッ! どうしたッ!?」


 若林は驚いて正木から身を離した。夕夜と美奈も同様である。

 しかし、正木は涙が出るくらい大笑いしながら、しまいにダッシュボードを連打した。


「ああ、若林、わかった、わかったよ。なるほど、そうか、そうなのか。いや、よくわかった。これでこの十七年のわだかまりが晴れた。同時にこの十七年の意味もわかった」


 息も絶え絶えに正木は言って、目からこぼれ出た涙を指で拭った。それを見て夕夜と美奈はよっぽど嬉しかったんだなと思った。

 若林は正木を〝女〟と思ったからプロポーズしてきたわけではなかった。つまり、正木が〝女〟だったらすんなり結婚してもらえたというわけではなかったのだ。もっとも、正木が本当に〝女〟だったら、若林はすぐに結婚したかもしれないが。


「意味?」


 だが、そこまでは思い至らなかった若林には――彼は単純に、正木が〝女〟と間違われたことに傷ついていたのだと思っていた――〝十七年の意味〟という言葉のほうが引っかかった。


「若林。おまえは十七年ばかり先を急ぎすぎたんだ」


 笑いすぎて赤くなった顔を上げ、正木は夢見るように微笑んだ。

 それがあんまり綺麗だったので、若林は思わず見とれてしまった。

 結局、この二人は互いの顔に何より惚れているのだ。


「おまえは本当に超最短コースをとってくれた。でも、それじゃまずかったんだ。夕夜と美奈が作れない」

「え?」


 見とれていて、若林はうっかりそのくだりを聞き逃してしまった。

 しかし、正木はもうそのことは口にせずに、自分の前髪をかきあげた。


「ああ、まるで一分で行ける道を通行止めにされて、一時間もかかる回り道をしてきたような気分だ。でも、その回り道が俺たちには必要だったのさ。陳腐な言い方をすりゃー、〝運命〟というやつだ。まったく、よくできている。これだけで本一冊書けそうなくらいだ」

「運命?」


 正木の口からその言葉が出てきたことは、若林にとっては嬉しい驚きだった。

 あの日、とっさに口から出てしまった言葉は、決して失言などではなかったのだ。ただ、十七年早かっただけで。


「そう、〝運命〟だ。それに意味があるかどうかを考えるのは個人の自由だが、俺はあると信じる。この先はどうなるかわからんが、まあ、気長に行こうぜ、気長によ。あんまり先を急いでもつまんないだろ?」


 正木は顎を上げ、挑むように笑った。

 まるで、すでに自分の幸福は〝運命〟に約束されているのだとでもいうように。


「そうだな」


 若林は微笑んだ。そうとも。世界はおまえのためだけにある。おまえが生まれた瞬間に世界は始まり、おまえが死んだ瞬間に世界は終わる。だから、世界がおまえを不幸にするはずがない。おまえが幸福にならないはずがない。

 若林はシートベルトを締めてからエンジンをかけ、ヘッドライトをつけると、車をゆっくり発進させた。

 正木と出会ってから十七年。本当にいろいろなことがあったが、確かに退屈だけはしなかった。今となってはあの悩んでいた日々も懐かしく思う。

 この正木の伴侶が、なぜよりにもよって自分なのかはよくわからないが、これが本当に〝運命〟によるものならば、心から〝運命〟に感謝したい。

 正木がそばにいてくれるなら、どんな困難も災難も怖くはない。


「なーんか、今日は妙に長い一日だったなー」


 車が動き出してからシートベルトを締めた正木がさすがに疲れた顔をして言った。


「そういや今朝は六時起きだ。道理で眠いわけだ」

「えー、でも、クリスマス・パーティするんでしょ?」


 助手席と運転席の間から、ひょいと美奈が顔を覗かせる。

 ――クリスマス・パーティ?

 正木と若林はぎょっとして彼女を見た。


「待てよ、おい。今からやんのか? 冗談じゃねえよ。やるなら明日にしろ、明日!」


 正木があわててそう喚いた。

 確かに、順調に帰れたとしても家に着くのは九時近くになる。準備もあるだろうし、これでは少し遅すぎる。


「えー、でも、パーティって、普通イブにするもんじゃないのー?」


 だが、美奈はひるまず、今度はそう反論してきた。


「いいんだ、いいんだ、うちは明日で」


 面倒くさそうに正木は答えた。よほど疲れているらしい。

 若林も今日はずっと運転手をしていて疲れていたから、パーティはご遠慮申し上げたかった。

 正木だって運転免許は持っているのだが(しかも大型免許まで)、万が一事故でも起こしたらと心配で、どうしても車は貸せなかった。別に一人でウォーンライトに会いにいかせるのが心配だったからではない。念のため。


「でも、今日やらなきゃ」


 正木の言うことにはほとんど従う美奈も、なぜか今回は強硬に主張した。


「何でだよ」


 正木がそう言うと、美奈はにやっと笑って夕夜と顔を見合わせ、二人そろって声高らかに答えた。


「十七年目にして、やっと結婚が決まった日だから!」


 正木と若林は同時に噴き出し、正木は真っ赤な顔で後部席の二人を振り返った。

 若林はさすがに振り返らなかったが、バックミラーに映っている顔は明らかに赤かった。


「ねー、用意は全部私たちがするから、今日やろーよー」


 にやにや笑いながら、美奈が正木の袖口を引っ張る。

 正木はぷいと前を向いて腕を組み、シートに勢いよくもたれかかった。


「勝手にしろ!」


 夕夜と美奈はまた顔を見合わせて含み笑いをした。

 最初は正木をクリスマス・パーティに招待するつもりだったのに、いざ当日を迎えたら、正木は招待されるどころか招待する側に回ってしまった。

 だが、これは嬉しい誤算というものだ。それこそ二人がもっとも待ち望んできたことなのだから。

 そんな二人のやりとりを聞いているうちに、若林は妙にこそばゆい気分になり、こらえようとしても勝手に顔がゆるんできてしまって非常に困った。

 ふと隣の正木が気になって、横目でそっと様子を窺ってみると、彼もちょうどこちらを見ていて、若林はあわてて前に向き直った。

 でも、わかる。

 正木は今、本当に幸せそうな顔をして、熱心に自分の横顔を眺めている。

 本当は気づいていた。

 この十七年、正木が幾度となくこんなふうに自分を眺めていたことを。

 だが、それを恋ゆえにと断じるには、正木はあまりに完璧すぎたのだ。自分の手には触れられないと思うほどに。

 十七年もかかった。

 これは〝運命〟なのだと認められるようになるまで。

 正木は何年かかったのだろう。やはり十七年? ――いや。

 きっと、正木は十六年前のあのときに、すでにわかっていたのだろう。

 満開の桜の木の下で、すぐに笑って『うん』と答えた。


 おまえは〝運命〟。

 〝運命〟そのもの。


  ―了―

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