第5章 Mの古傷

1 商店街(1)

 毎年、十二月になると、クリスマス商戦が本格化する。

 街にはエンドレスでクリスマス・ソングが流れ、赤と緑を使ったデコレーションがやたらと目につくようになる。二十一世紀になってもこの伝統は立派に受け継がれていた。

 しかし今、そんな十二月の喧騒から正木は隔絶されていた。

 喫茶店を出てきたときには怒りのあまり気づかなかったのだが、しだいに冷静さを取り戻してくるにしたがって、とうとう気づいてしまったのだ。


(あいつ……今朝の時点で知ってやがったのか)


 そのことに気づいたとき、正木は生まれて初めて〝穴があったら入りたい〟という慣用句を理解した。本当にもう、できることなら今すぐ路上に穴を掘り、そこに一生身を潜めていたい。

 だが、そんなことをしたって、今朝自分が臆面もなく若林と顔を合わせていた事実は取り消せないのだ。取り消せるんなら最初から穴なんて掘らない。

 そりゃあ、確かにウォーンライトとは一時そういう仲になった。そのことについては否定はしないし後悔もしていない。でも、若林にだけは絶対知られたくなかった。

 あの頃――正木はいっこうに自分の気持ちに気づいてくれない若林と、何よりそんな男にやきもきしている自分に嫌気がさして、アメリカに短期留学をした。

 ウォーンライトとはそのとき留学先の大学で知り合った。しばらく経ってから交際を申しこまれ、すぐに応じた。もう若林のことはあきらめようと思っていたからだ。

 しかし、そうしてウォーンライトとつきあう決め手となったのは、彼が若林に少し似ていて、若林に似たタイプの研究者で、しかも若林より気が利く男だったからだった。結局、正木はどこまでいっても若林から離れられない。

 でも――やっぱり駄目なのだ。なまじ似ているだけに、ついつい若林と比較してしまうのだ。若林だったらこうするのにとか、若林だったらああするのにとか。

 こりゃ駄目だ、やっぱり別れようと思いはじめた矢先、故斎藤教授から連絡がきた。今度、自分主導で人間型ロボットを作るから急いで戻ってこいとのことだった。

 それだけなら正木は特に心を動かされなかったが、この一言がきいた。


『おまえには、若と一緒に設計をやってもらおうと思っとる』


 ――ああッ、若ッ!

 本人は嫌がっていたが、若林は教授に〝若〟と呼ばれていた。

 正木はこの一言で即刻留学をとりやめ、日本に帰ることを決めた。現金と言われてもいい。やっぱり若林をあきらめきれなかった。

 ちなみに、教授は正木が若林に思いを寄せていることをかなり以前から知っていた。だからこそ、わざわざ若林と組ませてくれたのだ。もしこのとき教授がそうしてくれなかったら、今頃夕夜や美奈は存在していなかっただろう。

 しかし、ウォーンライトに帰国する旨を伝えると、彼はいきなりプロポーズという手段に出た。これにはさすがに驚いたが、かつて初めて受けたときの比ではない。正木は悪いなと思いつつも、はっきり彼にこう告げたのだった。


『俺、そんな気、全然ないから』

『…………』


 確かにウォーンライトは悪い男ではなかった。客観的に見れば若林よりもずっといい男なのに違いない。

 だが、そうわかっていても、やっぱり若林がいいのだ。鈍くても、避けられても、やっぱり若林がいいのだ。とにかく早急に帰国して、約束どおり若林と組ませてもらった。

 最初はぎくしゃくとしてうまくいかなかったけれど、そのうち何とか自然にしゃべれるようになり、〝桜〟が完成したときには、もう親友といってもいいんじゃないかというところまでこぎつけた。ここまでくるのに何と九年! ――我ながら、気の長い話だ。

 そして――あの日。

 若林に、一緒にロボットを作らないかと言われた。

 本当はもっと別なことを言われるんじゃないかと思っていた。

 〝つきあってくれ〟とか〝結婚してくれ〟とか。

 どちらを言われても〇・一秒後には〝うん〟と答える自信があったのに、あの男が言ったのは、〝一緒にロボットを作らないか〟だった。

 考えてみれば、若林がそんなことを言うはずもなかった。浮いた噂は一つもなかったが、若林はゲイではなかった。正木もことさら自分がゲイだとは思わないが――女を除外したら後には男しか残らなかっただけの話だ――外から見ればそうだろう。

 しかし、この申し出自体はとても魅力的だった。若林なら自分が望むロボットを作ってくれるかもしれない。そんな強い期待があったからだ。実際、若林はこの期待だけは裏切らなかった。

 今思えば、夕夜を作って育てていたあの頃がいちばん楽しかった。夕夜にかこつけて若林の家に通うことができたし、しまいには住みこむこともできたし。若林の帰宅に合わせて夕飯の支度をしながら、ああまるで本当に若林の女房になったみたいだぜ、などとよくうっとりしたものだ。

 でも、このままなしくずしに同居を続けるのも嫌で、夕夜が一人で家事ができるようになった頃、正木は若林の家を去ることにした。

 このときも、もしかしたらと期待していたのだ。もしかしたら――若林が自分を引き止めてくれるんじゃないかと。

 だが、そこはやっぱり若林だった。夕夜は必死で引き止めてくれたが、若林はまったく引き止めてくれなかった。

 いつだってそうだ。いつだって若林は正木の期待を裏切る。K大を辞職すると告げたときにも、若林は全然説得もしてくれなかった。

 それで正木はとうとう若林に見切りをつけた。もうこんな男に振り回されるものかと、二度と若林には会わないことを決めたのだが――

 やっぱり。

 若林がいい。

 鈍感だけど、優柔不断だけど、期待を裏切るけれど。

 顔はいいし、背は高いし、腕はいいし、自分の言うことは聞いてくれるし、それでいて言うべきことはちゃんと言うし(ただし仕事関係に限る)、周囲に波風を立てがちな自分をさりげなくフォローしつつも、そんな自分に〝変われ〟とは一度も言ったことがない。

 そして、何より若林は〝夕夜〟と〝美奈〟を作ってくれた。

 〝人〟ではないけれど、愛しい愛しい〝息子〟と〝娘〟。自分が一生持てないと思ったもの。

 だから、今度はそれらを共に生み出した若林が欲しい。そう思うのは欲深だろうか。本当は昔からそのことしか望んでこなかったのだけれど。

 だが、それももう今度こそ終わりだ。その若林に、昔自分がウォーンライトとつきあっていたことを知られてしまった。つまりは、自分がゲイだとバレてしまったということだ。

 それだけならまだしも、若林がそのことを知っているということを知らないで、恥ずかしげもなく若林を問いつめてしまった。ああ、しらばっくれやがって! しらばっくれやがって!


「ねえ。どこ行くの?」


 一応気を遣って何も言わずにいた美奈が、自分の手を引いてすたすた歩いていく正木に、それでも遠慮がちに声をかけた。正木は足元を見つめたまま、何も答えない。


「ねえ。何がそんなにショックなの?」


 美奈はやや声を荒らげた。


「若ちゃんにあのウォーンライトとかいう人とつきあってたことを知られたこと? それとも男の人とつきあってたことを知られたこと?」

「……両方だ、バーロー」


 美奈に図星を突かれ、正木は観念してぶっきらぼうに答えた。


「でも、それ以上に、そんな俺が平気で若林の前にいたことのほうが、ずっとショックだ」


 やはり正木は普通ではなかったのだろう。いつもなら絶対言わないような本音まで美奈にしゃべっていた。


「どうして?」


 美奈は不思議そうに首をかしげて正木を見上げた。


「まーちゃん、もうあの人とは別れたんでしょ? そんなら何も後ろめたいことなんてないじゃない。だいたい昔のことを持ち出すなんて、あいつ男らしくないわよ。卑怯だわ。別れて正解だったわね」


 嬉々としてそう言う美奈に、正木は思わず苦笑を漏らした。


「美奈……おまえさ」

「何?」

「……俺が、男とつきあってたって知っても、何とも思わないのか?」


 言っているうちに何だか恥ずかしくなってきてしまい、正木は自分の横のショーウィンドーを見ているふりをした。いまだ手はつないだままなので、傍目には美男美女のカップルに見える。通りすがる人々は感嘆と陶酔の目で彼らを見送っているのだが、そんなものは二人とも気にも留めていない。


「今時、そんなの普通じゃない」


 あっけらかんと美奈は答えた。


「だって、もう同性婚まで認められてるのよ。まーちゃんって意外と保守的なのね」


 返す言葉を失ってしまって、正木は空いているほうの手で頭を掻いた。

 本当に痒いわけではないが、そうでもしないことには間が持たない。


「だけどな……若林が――」

「そうよ。若ちゃんとだって結婚できるのよ」


 一瞬、正木は硬直した。はっと我に返り、美奈から身を離す。


「いやッ、そんなッ、俺はそんなッ!」


 ――確かにずっと考えてはいたが。

 身も世もなく動揺している正木を、美奈はさも珍しいものでも見ているような顔で見つめていたが、唐突ににっこり笑って、正木の腕に自分の腕をからませてきた。


「若ちゃんもね。ショックは受けてると思うの」


 そのまま、正木を引きずるようにして歩き出す。


「まーちゃんに、昔そんなことがあったのかって。相手が男っていうのも……そうだな、別の意味でショックかな。だってそれって、自分にもチャンスがあったってことだもの。きっと、それがあんまりショックだったから、あのときお酒飲んでたんだと思う。

 今朝何も言わなかったのは――まさか、まーちゃん目の前にして、まーちゃん取りあう勝負受けたなんて言えるわけないじゃない、あの若ちゃんが。それってはっきり〝好きだ〟って言ってることになるもの。

 でも――これだけは忘れないで。まーちゃんには言えなくても、若ちゃんはその勝負を受けたのよ。まーちゃんのこと好きじゃなかったら、そんなバカな勝負わざわざ受ける必要ないじゃない。何とも思ってなかったら、断っちゃえばいいんだもの。

 だから、まーちゃんは自信持っていいのよ。若ちゃんも自分のこと好きだって。夕夜はまーちゃんと若ちゃんが作ったんだもん、誰のロボットにも負けるはずがないじゃない。絶対勝って、きっとまーちゃんを手に入れてくれるよ」

「……おまえ……」


 照れるのも忘れて正木は美奈を見つめた。

 まだまだ子供だと思っていた美奈が、理路整然と自分を慰めている。

 しかも、自分が言って欲しかったことばかり言ってくれる。


「美奈……おまえ、いい奴だなあ……」


 そのプログラムを作ったのは他ならぬ自分なのだが、嬉しさのあまりそのことをうっかり失念してしまっていた。


「私はいい奴よ。決まってるじゃない」


 美奈もまるで人間の娘のように得意げに笑ってみせた。


「けどさ」


 その一言で、美奈の笑顔が瞬間凍結する。


「俺……もう若林と顔合わせられねえよ……恥ずかしくって……俺にとっては、それがいちばん問題なんだよ……」


 言葉にしたとたん、本当にそれが大きくのしかかってきて、正木はいきなりその場にしゃがみこんでしまった。これまで自分が若林とは絶対会わないと宣言していたことなど、すでに頭から吹き飛んでしまっている。


「な……何言ってんのよー。まーちゃん全然悪くないんだから、堂々としてればいいのよー。若ちゃんだってそんなことくらい、きっとわかってるから」


 あわてて美奈もしゃがみこんで、一生懸命正木を慰めにかかった。

 うじうじした奴は大嫌いだと普段言っている人間が、今いちばんうじうじしている。えてして人間とはそんなものだ。


「バカヤロー。いくら若林がよくったって、俺がよくねえんだよ。これからいったいどんな顔してあいつと会やーいいんだよ。……会えるわけねえじゃねえか」


 正木は両腕で自分の頭を抱えこんだ。さすがに美奈もかける言葉をなくしておろおろしている。ちなみに、彼らが今しゃがみこんでいるのは、特に人の往来が激しいショッピング街のど真ん中である。

 どのくらいそうしていただろうか。

 突然、正木がすくっと立ち上がった。

 いつのまにか周りに集まっていた暇人たちがびくっとして距離をとる。


「ま、まーちゃん! どこ行くの!」


 そのまま冷静な足どりで歩き出した正木に、美奈もあわてて立ち上がった。


「銀行」


 少し振り返って正木は答えた。表情も口調もすっかり落ちついている。――いや、落ちつきすぎている。


「通帳は燃えちまったが、カードはあるから引き出せるだけ引き出す」

「……何で?」

「美奈、おまえ、新しい服が欲しいって言ってたよな」


 正木は美奈の質問には答えずに、妙に穏やかな表情でそう言った。


「これから金を下ろしたら、さっそく買いに行こう。いくらでも買ってやるよ。シャ○ルでもド○チェでもピ○クハウスでも」


 ――狂ってる!

 美奈は戦慄した。立ち直ったのかと思いきや、またあの持病が出てしまったのだ。

 普段はどちらかというと倹約家で、あまり贅沢もしないのに、何か嫌なことがあったりするとその反動か、湯水のように金を遣いまくる。

 しかも、その遣い方はものすごく片寄っていて、同じ物をいっぺんに大量に買う。どこかへ遊びにいくとか旅行にいくとかしてくれればまだ有意義なのに、正木はそんなことはしないのだ。さらに。

 そのお買い上げの品々は、すべて若林の家に、若林にはわからないようにして置いてある。


「いらない! いらないよ!」


 正木の腕をつかんで、美奈は必死で叫んだ。


「この前買ってもらったので充分だってば! それならもっと別なことにお金遣ってよ!」


 もうだいぶ前の話になるが、日本神話の研究で誰だか美奈の知らない人間に先を越されたと悔しがり(正木はそんなこともしているのである)、そのときも美奈の服を十着くらい無造作に買ってくれた。確か合計で三十万くらいになったかと思う。

 救いは美奈に似合う服ばかりを選んでくれたことだが、それをまた現金で支払いつづけたのには驚いた。本人の言によると、札びらを切って支払うのが何より爽快なのだそうだ。それに、クレジットカードを使うと際限がなくなるからとも言っていた。正気を失っているようで自制はきいている。といってもその額が半端じゃない。


「バーカ。この前買ったのは安物だろうが。今度はもっといいの買わなくちゃ」


 正木はやっぱりにっこり笑って――ほら、これだけでもおかしい――強引に美奈を引きずっていこうとする。

 やばい。この分では今度は百万くらい遣うかもしれない。これが五万くらいで、一、二着の買い物だったら、美奈も喜んで買ってもらうのだが、何事も正木の場合極端なのだ。しかも印税やら特許やらで金には不自由していないからなお困る。その分若林家の生活費に回してほしい。ロボットが二体もいると、維持費だけでもばかにならないのだ。


「お願いぃー! まーちゃーん! 正気に戻ってぇー! 思いきって若ちゃんに〝好きだ〟って言っちゃえば済むことじゃないのぉー! 何だってそんなヤケ買いに走るのよぉー!」


 今ここに夕夜がいてくれたら! 痛切に美奈は思った。

 夕夜のことだから、きっとあのウォーンライトからさらに詳しいことを訊き出しているのだろうが(夕夜はそういうロボットだ)、彼ならヤケ買いをあきらめさせるのは無理にしても、遣う金額は抑えてくれるだろう。この前のだって、夕夜がいたから三十万で済んだのかもしれないのだ。正木を説得することに関しては、やはり夕夜がエキスパートである。

 しかし、今その夕夜はいない。このまま正木のヤケ買いを黙認するか、それともぶん殴って気絶させて家へと連れ帰るか(彼女は本気でこれを考えている)。美奈が逡巡している間にも、正木はどんどん歩いていこうとする。

 そのときだった。


「おまえら、こんなところで何してるんだ?」


 呆れているような、面白がっているような男の低い声が、美奈のすぐ後ろでした。

 起動して約二ヶ月。美奈はこれほど驚いたことはない。驚きのあまり、思わず正木から手を離してしまった。

 正木はその男の声よりも、美奈が突然自分の腕を離したことに驚いたらしく、怪訝に美奈を振り返り、そして、そのさらに後ろにいる男に気がついて、美奈と同様、茫然とした。


「何だ? びっくりしたか?」


 そう少し得意そうに笑っていたのは、ベージュのステンカラーのコートを着た長身の男――鈍感で優柔不断で期待を裏切る若林その人だった。

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