2 若林宅(2)
「最初に言っておく」
神妙な様子で座っている夕夜をしばらく眺めてから、正木は椅子の背に腕を乗せたままの格好で口を切った。
「あとで不利になるような嘘はつくな」
「はあ……」
思わず気の抜けた返事になってしまった。
「でもまあ、あの場合はああ言うしかねえわな。その点は俺も同情するよ。ただ問題は――」
ここで正木は実に意地の悪いチェシャ猫笑いを見せた。
「このまま、絶交するかしないかだわな」
「博士!」
「まーちゃん!」
ほとんど同時に夕夜と美奈は立ち上がった。
その拍子に、かなり丈夫なはずのテーブルがみしりと音を立てたが、今はそんなことにはかまってはいられなかった。
「あーもーっ、夕夜が悪いんだからねっ! あんな大嘘つくからっ!」
美奈は夕夜に全責任を押しつける作戦に出たようだ。確かにそのとおりなので、夕夜は何の弁解もできず、ただ「はいはい」と小さく呟いた。
「バカ。それを黙認したんなら、おまえも同罪だ、美奈」
だが、美奈には甘いはずの正木が、今度ばかりはそんな彼女をなじった。それを聞いて、ああ自分はこの人のこんなところが好きなんだなと改めて夕夜は思った。美奈は決まり悪そうにそっぽを向いている。
「別に、俺はおまえたちと絶交したいなんて思ってねえよ」
呆れたように正木は笑った。
その言葉に、あわてて二人が正木に注目する。
「ただ俺は、若林に会いたくなかっただけで……あれは売り言葉に買い言葉ってやつだ。でも、約束は約束だしな。絶交しなくちゃな」
「そんな……したくないならしなきゃいいのよ! 約束なんて無視すればなかったことになるんだから!」
両手を握りしめて美奈は断言した。きわめて身勝手な意見だが、彼女にはこういう発言が許される。夕夜は美奈にこの場をまかせて、自分は黙りこむことに決めた。
「おまえ、悟ってるぞ」
本気で感心したように、正木は自分の横の美奈を見上げた。
今の正木は美奈の思考系に非常に興味を持っているらしい。
「ま、それはそうだな。停戦条約結んでたって、攻めてきた国は山ほどある。んじゃあ、この絶交ってのはなしだ。それでいいんだな?」
「はいはいはい!」
今度も二人そろって夢中でうなずいた。
特に夕夜は心底ほっとしていた。意地っ張りな正木のことだから、本当に絶交されてしまうかと思った。
いったいどういう風の吹き回しか知らないが、今日の正木はずいぶん機嫌がよさそうだ。あれほど会いたくないと言っていた若林に会ったのに。
「だけどな」
その一言で、二人の笑顔は一瞬にして凍りついた。
それを楽しむように、正木はにやにや笑いながら椅子から身を起こすと、テーブルの上に両手を組んで顎を乗せた。
「俺は、ずっとはここにいないぜ?」
――うっ!
見抜かれてしまった。
美奈などは品悪く、チッと舌打ちをしている。
「僕たちも、そこまでは望んでおりません」
そつなく夕夜は答えた。この手の話は夕夜の担当である。
「とりあえず、あなたの新居が決まるまで。――そういうことですね?」
「そういうことだ」
正木は満足げにうなずくと、テーブルに手をついて立ち上がった。
「どこ行くの!?」
「どこ行くんですか!?」
あわてて二人は叫んだ。まさかもう出ていくつもりなのか。
「どこっておまえ……便所だけど」
二人の剣幕に、正木はたじろいだ様子を見せた。
「便所……」
「そんな……美形はトイレに行かないってお約束は……」
「おまえらなあ」
呆れ果てたように正木は声を張り上げた。
「何度も言ってるとおり、俺は人間なんだ! 食ったら出るのは自然の摂理ってもんだろうが!」
そう正木が力説して、ダイニングから出て行こうとしたときだった。
リビングに置いてある電話が突然鳴り出した。
「あ、いい。ついでに出てやる」
急いで電話に出ようとした夕夜を、正木が押し留めた。
「でも、トイレは……」
「まだそれほどせっぱつまっちゃいねえよ。長くなりそうならおまえに替わる。――はい、もしもし、まさ……じゃなかった、若林ですが」
正木は本機の受話器を取り上げると、さすがにいつもよりは丁寧な口調で話した。
相手は一瞬沈黙した。間違い電話かと思い、正木が名前を繰り返そうとしたとき。
『……Hello……Are you……Guy?』
「夕夜ッ!」
正木は通話口を押さえると、夕夜に受話器を押しつけた。
「いいか、今この電話に出たのは、俺じゃなくておまえだ! そのつもりでしゃべれ! わかったな!」
それだけ言うと、正木は一目散にリビングを飛び出していってしまった。
夕夜は美奈と顔を見合わせたが、とりあえず電話に出ることにした。
「もしもし、若林ですが」
まずは無難にそう切り出す。
すると、相手に少し戸惑ったような気配があって、それからよく響く低い声で「ウォーンライトですが」と言った。なかなか達者な日本語である。
「どういったご用件でしょうか」
あくまでも冷静に夕夜は言葉を継いだ。
『ああ……若林教授はご在宅ですか?』
「いえ、若林は外出しております。伝言があれば承っておきますが」
『外出先はK大ですか?』
「ええ、そうです」
『そうですか。それならこちらから大学のほうにかけ直します。ところで、失礼ですが、あなたは……?』
そう問われて、夕夜は一瞬答えに詰まったが、相手が(たぶん)ロボット工学者のウォーンライトであることを思い出し、
「若林のロボットで、夕夜と申します」
と答えた。
『Oh! “YUYA”!』
たった今まで日本人と言われても信じられるくらい流暢にしゃべっていたのに、いきなりウォーンライト氏はアメリカ人に戻ってしまった。
『あなたがあの〝夕夜〟君ですか! これは驚きました! 実に光栄です!』
「……そうですか」
夕夜としてはそう答えるより他はない。ついでに言えば、〝君〟などつけられたのはこの前のコンテスト以来だ。先ほど若林の話を聞いたときには、ずいぶん非常識で傲慢な人間のように思われたウォーンライトだが、こうして話してみると、過剰なくらい礼儀正しい。
夕夜はふと、若林が他人のふりをして話しているような錯覚にとらわれた。若林も他人のロボットには〝君〟や〝さん〟をつける口である。
『それから……最初に電話に出られた方はどなたですか?』
さりげなく、ウォーンライトは探りを入れてきた。これは若林にはできない芸当だ。
「最初?」
夕夜はいかにも不思議そうに問い返してみせた。
「電話には、最初から僕が出ましたが……」
『あなたが?』
そう言うウォーンライトの声は、いかにも不審そうだ。
『しかし、こう言っては何ですが、最初に出た方とあなたの声は、明らかに違います』
ウォーンライト氏は断言した。確かに正木の声をモデルにしているとはいえ、厳密には同じではない。しかし、それは他人にはまずわからないほど、わずかな差なのだ。あの正木の〝親友〟呉千代子からもお墨つきをもらったほどである。
それを聞き分けるとはこのウォーンライトという男、決してあなどれない。やはり最初から自分が電話に出るべきだった。きっと今頃、正木もトイレの中でそう後悔しているに違いない。
「それでも、電話に出たのは最初から僕なんです。きっと、声帯の調子が悪かったのでしょう。申し訳ありませんが、御用がお済みでしたら、これで失礼させていただきます」
有無を言わさず、夕夜は電話を切った。これ以上話していたら、いくら夕夜といえどもボロが出る。それに、夕夜の記憶によれば、正木は間違えて自分の名字を言いかけたのだ。救いは全部は言いきらなかったことだが、あのウォーンライトの態度からすると、十中八九バレている。
「いったい誰だったの?」
美奈が不審そうに眉をひそめる。
「噂のヘンリー・ウォーンライト」
「ええー? 何でうちにー?」
「さあ……若林博士に用があったみたいだけど……」
夕夜がそう答えかけたとき、見るからに不機嫌そうな顔をして、ようやく正木が戻ってきた。
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