07 川路宅
棄権しようと思った。自分の名誉を守るために。
今ならまだ間に合う。例の件は誰にも漏らしていない。たとえ今、川路が参加をとりやめても、実質的な被害は何もない。
今度こそ勝てると思った。あの〝夕夜〟にはかなわないが、やっつけ仕事のロボットには。
夕夜は完璧だ。〝人間型ロボットの最高傑作〟と言われるのも、決して誇張ではない。K大の計算室で、期せずして夕夜と一緒になったとき、川路はそのあまりの美しさに息を呑んだ。まさに、学生時代の正木そのものだった。
――破滅的に美しい。
かつて、夕夜が公開されたとき、ある著名なロボット工学者が、一言そう評した。
確かに、夕夜の美しさは〝破滅的〟だった。彼の登場で、何人ものロボット工学者が己の力の限界を知り、道を変え、あるいは自殺した。破滅的に美しいと評した工学者自身さえも。
川路は挑戦しようとした。夕夜とは違う種類の美しさを作り出そうとした。だが、苦心の末、やっと完成した〝彰〟は、ただ美しいだけのロボットにしかすぎなかった。夕夜のように自然に微笑み、自然に立ちふるまうことができなかった。
そうと知ったとき、川路は激昂のあまり、彰をスクラップにしようと思った。結局、そうしなかったのは、そんな彰を作ったのは自分なのだと思い返したからだ。しかし、川路は彰を家に閉じこめたまま、決して人前には出さなかった。川路には、彰は自分の無能さを象徴しているようにしか思えなかったのだ。
今回、コンテストに出そうとしていたロボットも、夕夜に比べれば遠く及ばない。が、彰よりは人間らしい。スリー・アールのコンテストレベルなら、優勝はまず間違いない。川路はそう考えていた。しかし、渡りに舟と思った正木のプログラムが、とんでもない舟だった。
乗りこめないのである。
〝プログラム〟と聞いて、川路は何の疑問もなく、八年前の〝桜〟に使われたものと同系統だと思いこんでいた。
だが、いざ現物を見てみれば、それはまったく予想外の代物だった。どう考えてみても、このプログラムでは使い物にならない。何らかの〝加工〟を施さなければならない。
このとき、なぜ正木が急に自分のプログラムを使えなどと言い出してきたのか、川路は理解した。〝公平にするため〟と正木は言ったが、とんでもない、正木は若林を有利にするためだけにあのプログラムを提供したのだ。若林のほうは間違いなく、あのプログラムの加工の仕方を知っている。
思えば、正木に今度のことを知られた時点で、川路の敗北は決まっていた。誰が正木に知らせたのか、夕夜と正木に会うまでわからなかったのだが、会ってわかった。
夕夜だ。
おそらく、正木は今でも頻繁に夕夜と会っているのだろう。夕夜は同僚――一部の噂では〝恋人〟――の作ったロボットなのだから、正木が親しくしていてもおかしくはない。
しかし、それにしては妙に親しすぎるような気もするのだ。まるで何もかも知りつくした間柄のように。なまじ顔も似ているから、本当の兄弟のようにも見える。
とにかく、棄権するか否か。それが問題だった。
正木のプログラムを使えなかった以上、川路の負けは決定的である。たとえ優勝したとしても、正木は認めないだろう。
だが、若林は参加しさえすれば、十中八九優勝する。憎い相手とはいえ、その実力は認めざるを得ない。他とはまるでレベルが違うのだ。
しょせん無謀な勝負だったのだと川路は思った。これなら勝てると思ったのが間違いだった。あの新しいロボットは、今度の学会で発表することにしよう。そのほうがずっと有意義だ。若林はスリー・アールのコンテストで天狗になっていればいい。
川路はようやく決心した。そして、スリー・アールに棄権を伝えるべく、卓上の携帯電話に手を伸ばしかけた。
「あちらが、優勝しなければいいのではありませんか?」
突然、〝彰〟がそう口を出してきた。
相変わらず平坦な声。川路は思わず苛立った。
「何が言いたい?」
「参加しなければ、優勝はできません」
不自然なほど揺るがない目で、彰は川路を見つめ返した。艶やかな黒髪と、涼しげな顔立ち。確かに整ってはいるが、表情はない。彼を見るたび、川路は忍者を連想する。
「若林教授が参加しなければ、先生の目的は達せられるのではないのですか?」
川路は細い目をはっと見開いた。言われてみればそのとおりだった。自分のことで頭がいっぱいで、そのことに気づけなかった。
「だが、まず若林は棄権しないだろう。あれはやると言ったことは必ずやる男だ」
「棄権、でなくともいいのです」
冷然と彰は言った。
「参加、できなければいいのです」
「彰……?」
無意識に、川路は彰から退いていた。見慣れたはずの無表情が、何かとても得体の知れないもののように感じられる。
「おまえ……まさか……」
「方法は、いくつかあります」
川路の動揺をよそに、彰は冷静に言葉を継いだ。
「しかし、それにはまず、私は外に出なければなりません。先生、私の外出を許可してください」
「――外に出て、何をするつもりだ?」
彰は少し間を置いた。
「若林教授宅に火をつけるのが、最も適当かと思われます」
「彰ッ!」
絶叫して、川路は椅子から立ち上がった。普通の人間だったら驚くのだろうが、彰はまったく身動ぎもしなかった。
「適当ではありませんか?」
自分よりも背の低い川路に、彰は小首をかしげるようにして訊ねる。
「当たり前だッ! それじゃ犯罪だろうがッ!」
怒りのあまり、川路の色白の顔は、すっかり赤くなっていた。
「〝犯罪〟?」
彰はいよいよ首を傾けた。どうやら、彼の電脳の中にその語彙はなかったようだ。その様子がさらに川路を苛つかせる。
「そうだ! 〝放火〟というやつだ! まったく、こんなこともわからないのか!? だからおまえは出来損ないだと言うんだ! 夕夜だったら間違ってもそんなことは言わないぞ!」
だが、それは川路の買いかぶりというもので、夕夜も彰と同じ立場になれば、同じようなことを言っていただろう。ただし、夕夜の場合はあくまでも冗談としてだが。
川路に頭ごなしに怒鳴られても、彰はまったく表情を変えなかった。二年前に起動させてから、彼はずっとこうである。いや、こういうふうにしか、川路は作れなかった。
「とにかく、おまえは余計なことはいっさいするな! 外出も今までどおりいっさい許さん! 破ったら即、スクラップだ! わかったな!」
ゆでダコのようになってわめきちらす川路を、彰はじっと見つめていたが、
「はい。わかりました」
と答えた。
「じゃあ、向こうに行ってろ。おまえがいると落ち着かない」
癇性に川路は言い捨てると、再び椅子に腰かけて、今度こそスリー・アールに電話をかけた。
「はい。向こうに行っています」
彰は従順にそう答えて、リビングを出ていった。
それから数日後。コンテスト当日の朝。
川路は恐るべき事態に直面する。
家の中のどこにも彰はおらず、そして、川路が新しく作ったロボットも姿を消していた――
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