第四章 8 〝ぼこい〟の〝ちきゅう岬〟

 山中のコタンを離れてから、ちょうど一〇日になる。


 細い渓谷を朝陽川アサヒカワとは反対の側へ抜け、途中の川に仕掛けられたショウザン先生の漁獲装置を見学したりしながら足走アバシリの開拓村に出た。

 そこからこんどは漁船に乗せてもらい、海岸ぞいにぐるりと東側へ回りこんで櫛路クシロの港にたどり着いた。


「〝地球岬〟ちゅうところがあるんじゃ!」

 風邪ぎみで漁師相手の飯屋で寝かせてもらっていたおいらは、飛びこんできたリョウマの大声で起こされた。

 リョウマは、日ノ本ヒノモトの内地へ渡る船を探すために波止場へ出かけていたのだ。


「地球岬だって?」

「ああ、そうなんじゃ。しかも、その岬がある場所の名前がまたふるっとる。なんと、〝母恋〟というんだそうじゃ!」

「ぼこい?」

 おいらが起き上がると、横でエサのイオウをかじっていたボコイが、名前を呼ばれたと思ったらしく耳を立ててリョウマのほうをふり返った。

「なんという奇縁じゃ。これは見に行かんわけにはいくまいが。な、ボコイ!」

 リョウマはボコイを抱き上げ、頭の上にさし上げた。


 というわけで、地球岬というところをめざすことになってしまった。

 櫛路から近くの漁村まで乗せてきてくれた漁師がいうには、〝チキウ〟という発音はアイン語の『チ・ケップ』という言葉がなまったものだという。

 やっぱり〝地球〟とは何の関係もなかったのだ。


 チ・ケップというのは「断崖」の意味らしく、岬がある小さな半島にさしかかると、たしかに一〇〇メートルくらいも高さのある断崖が海面からそそり立っていた。

 おいらは、イグランドからフランセに向かう船の上から見えたドーバルの断崖をなつかしく思い出した。

 ドーバルの断崖は、ナポリオン軍などフランセの侵略を何度も水際で阻んできたといわれる有名な場所だが、地球岬にわざわざやって来る者はおいらたち以外になく、冬を間近にひかえた岬はうらさみしくて、寒ざむしいだけの光景だった。


「コタンは、もう雪に閉ざされとるかなあ」

 冷たい海風でボサボサの髪をさらに乱しながら、リョウマがいった。

「そうだな。きっと雪の中じゃろう」

 岬の後方をふり返ると、遠い山並みのある高さから上の部分がすっかり白くなっていた。

 コタンはそのさらにむこう、北海堂ホッカイドウでいちばん高い山々に囲まれた谷間にあるのだ。


 鍾乳洞とキューポラのある広場からもどった夜、佐九間サクマ邸にだけ設置された石炭ストーブをはさんで、ショウザン先生とリョウマが話し合った。


「大砲や銃をくれるとは、どういう意味です?」

「文字どおりの意味だ。わしがなぜ最強の銃砲を作ろうとしたか。もちろん自分の技術を究めたいという思いは当然ある。だが、具体的に役立てる目的もなしに、そんなことに夢中になるほど専門バカではない」

「わかっちょります」

 リョウマはまじめに理解を示した。


「村の衛生と無駄な労働力の軽減のために水道を作ったように、わしがここでしてきたことはすべて、アインの者たちの役に立ちたいからこそだった。しかし、彼らは、自分たちが置かれている状況が、ほんとうにはわかっていない。日ノ本人が入りこんできて開拓を始め、狩猟に適さなくなれば黙ってそこを立ち去るだけだ。そうやってどんどん生きる場所を失っていっているのだ。さらなる土地を貪欲に必要とする開拓者たちは、いつかアインの活動の場をすべて奪ってしまうことだろう」

 ショウザン先生は唇をかんで深刻な顔でいった。


「わしも同じ例をラメリカの地で見ました。先住民であるエンディアンは、まさにそうやって追い立てられ、滅亡の危機に瀕しとるのです」

 リョウマがいうと、ショウザン先生は「やはり」というようにうなずいた。


「政府はアインの保護法を制定しようとしとるが、あれは自分たちの統治下に置くための方便にすぎん。移動の自由を奪い、税を取り立て、兵役を課そうとする。それがやつらのねらいだ。アインのためになることなど、何ひとつない」

「そうか。先生は、『桃源郷、シャングリラ、ユートピアだ』とおっしゃった。それは、日ノ本という国家に支配されぬ世界という意味だったのですな」

「もちろん、この狭いコタンひとつが理想郷であればいいというのではない。森羅万象に神を見て、動植物と共生し、大自然に溶けこむようにして生きるアインには、広大な大地が必要なのだ。日ノ本人には無人の原野、未開発の荒れ地にしか見えなくても、アインにとってはそれがそっくり愛すべき大地なのだよ」


 こんどはリョウマがうなずく番だった。

「恥ずかしながら、わしもまさに日ノ本人の見方しかしちょりませんでした。無限の可能性を秘めた、手つかずの原野じゃと」

「そうだろうな。それが入植する日ノ本人の思いだ。だから、北海堂全土がアインのものだと強硬に主張するつもりはない。この計画を考えはじめたころは、何分の一かを確保できればと思っていた。しかし、開拓者の増加は予想以上だったし、開発の広がりも速かった。アインの土地を明確にするための計画だったはずが、いつのまにか背水の防衛策へと変わってしまった。よその土地のアインも、支配や同化をこばめば、このコタンを頼って来るしかなくなるだろう。追って来る者、そして迫り来る敵からここを守らねばならん。そのうち、ここはアインの最後の砦になるかもしれぬのだ」


「そのための武装であり、秘密の通路や見張り塔といった要塞化だったわけですね」

「いや、官軍に追いつめられた諸藩や幕府軍のように、討ち死に覚悟の籠城などというおろかなことをするつもりは、最初からない。あくまでもここはアインの拠点として、心のよりどころになればいい、とな。そして、他のコタンというコタンに団結を呼びかけ、共に権利を主張し、防衛に立ち上がらせるつもりだった。しかし……」

「しかし?」

 リョウマはピクリと眉を上げて問い返した。


「わしは、アインの人々を誤解していた。ヒグマに単身立ち向かい、オオカミに囲まれてもひるまぬ勇敢さは、サムライにもなんらひけをとらぬと思っていたが、あれは、いわば神との対話――揺るぎない敬意をいだく相手と対峙するからこそ持てる勇気なのだと、ようやくわかったのだ。彼らは、けっして戦いを好み、殺し合いをものともせぬような蛮勇のやからではなかった」

「彼らに闘争を呼びかけても無駄じゃということですか」

「そういうことだ。アインは心の底から平和主義者なのだ。弱いから逃げまわったのではなく、争いをさけることしか考えなかったからにすぎん」


「すると、わしに武器を――というのはどういうことです? 無用なら、鍾乳洞に封印して使わなければいいだけのことじゃと思うが」

「おまえが必要としなければ、そうしてくれてよい。たしかに、アインの者たちはけっして銃を取ろうとはせんかもしれないが、それなら滅びてもかまわないということにはならない。だれかが守らねばならん」

「代わりにわしに戦えと……」

「いや、そうではない。おまえが呼び返されたことからしても、どうやら日ノ本の先行きが怪しい。こんな地の果てにいても感じられる。戦いが起こるとすれば、世の中を大きく動かす戦争になる。おまえがもし、ふたたび戦いに立ち上がらなければならなくなったときに、手にしているその銃は、この象山がアインのために丹精したものだということを忘れないでいてくれればいいのだ。それはきっと、おまえのためにも、アインのためにも役立ってくれることだろう」


 結局、その話し合いに決着はつかなかった。

 リョウマがこれから日ノ本で何をやろうとしているのか、本人でさえさっぱり見当がつかない状況ではそれが当然だった。


 翌朝もおいらは寝過ごしてしまった。

 考えてみれば、その日に何が起こるかを気にせずに眼覚めることができる境遇になったのは、生まれて初めてのことだった。


 厨房のほうから野菜が煮える甘い香りが漂っていて、調理をする音がコトコト聞こえてくるが、ここからではミサトさんの姿は見えない。

 閉めきられていた板戸にわずかにすきまができていて、朝の光が一筋射しこんでいる。

 そこに眼をあてて外をのぞくと、テラスの縁に腰かけたリョウマとショウザン先生の背中が見えた。


「……武器のことはとりあえず承知しておいてくれればよい。必要なときが来たら、知らせてくれればいつでも使えるようにしておこう」

 ショウザン先生の言葉に、リョウマは黙ってこくんとうなずいた。

「頼みたいことが、もうひとつある。……美里のことだ」

 その名前を聞いたとき、なぜかおいらの心臓がドキンと強く打った。


「わしと美里がここにたどり着いたとき、あの子はまだ一二歳だった。それ以来、外の世界にいっさい触れておらん。戸籍調査に来た役人や、年に一、二回来る物売りくらいしか日ノ本人を見たことがない。それも、わしらがここにいることを知られないために、物陰からこっそりのぞいて見ていただけだ。おまえたちが現れてから、あの子が前とはぜんぜんちがう表情を見せるようになった。まるで眼が覚めたように生き生きしとる。あれは、どうやらおまえに惚れたようだ」

「べこのかあをいわんでください。わしは先生に美里どのの子守りをさせられとったんですぞ。二〇近くも歳が離れとる」

 リョウマの声は、おいらやミサトさんに聞こえないようにと低められているせいか、笑い飛ばしているというより、自嘲するような響きに聞こえた。


「それがどうした。あの子の母親が嫁に来たのは、わしが四〇を過ぎてからだぞ。歳の差なんぞ問題ではない。それより、あの子がこのままコタンにとどまっていたらどうなると思う。イグランド語や日ノ本語をアインの子どもたちに教え、世界の地理や歴史について語りながら、本人はその言葉を使うこともなければ、その土地を眼にすることもないことになってしまう。親として、そんなに悲しいことはない」

 リョウマが何か短く答えたようだったが、その言葉は聞き取れなかった。

「いや、おまえは娘御に世界を体験させてきた。自分が見たいと思ったもの、自分が見るべきだと考えたものをそっくり見せてきたのだ。わしは美里を閉じこめて、自分の道楽につき合わさせただけだ。このうえ、わしの最期まで看取らせてしまうのではたまらぬ。頼む、龍馬。美里を連れていってやってくれ……」


 その日の午後、リョウマは授業を終えたミサトさんに声をかけ、いっしょに谷川のほうに歩いていった。

 おいらは、アインの子どもたちの日ノ本語の復習につき合って、それに気づかないふりをして後ろ姿を見送った。

 そのまま二人がもどって来ないという想像と、二人が輝くような笑みを浮かべながらもどって来るという想像の間で、おいらの心は激しく揺れ動いた。

 いったいどうなることがおいらが心から喜べることなのか、ぜんぜん見当がつかなかったのだけれども――。


 コタンを後にしたのはその翌日の早朝だった。

 オオカミから救ってくれた体格のいい男が、足走のコタンまでの道案内だった。

 ミサトさんは、ショウザン先生と並んで子どもたちの後ろに立ち、晴れ晴れとした笑顔で手を振って見送ってくれた。


「なあ、リョウマ」

 地球岬の突端に立ったとき、おいらはリョウマの背中にむかって呼びかけた。

「何じゃ?」

「朝陽川にむかって歩きだしたばかりのころ、おいらがどこに行くんだと聞いたら、リョウマは『女の人に会いに行く』といったよな」

「そうじゃったかな」

「ああ、そうじゃ。あれはどういう意味だったんだ?」

「いったとおりさ。北海堂のアインの村に佐九間美里という女性が住んでいるはずだ。彼女を連れ帰ってきてほしい――ベルリエンに届いた手紙にそう書いてあったんじゃ」


 おいらは驚いた。

「ショウザン先生に会うためじゃなかったのか?」

「美里どのの母上は、わしのもう一人の師匠であるカツ海舟カイシュウというお人の妹なんじゃ。海舟先生はわしに、日ノ本に帰り、何人かの人物を訪れて語り合え、といってきた。そこに書きそえてあった追加の頼みというのが『姪の美里を連れ帰ってくれ』ということじゃった。あの象山ショウザン先生のことじゃ、くわしい消息なんぞ知らせてなかったにちがいない」


 ショウザン先生の道連れにされたままのミサトさんは、妙齢の女性に成長していた。

 カイシュウ先生とすれば、妹の娘がいつまでも世間と隔絶した山奥のコタンなんかに引きこもって暮らしているのが気がかりだったのだろう。


「じゃあ、ほんとの用事はそれだったんじゃな」

「まあ、象山先生もあのお歳じゃからな。健在かどうかもわからん。ましてや、あんなことをして暮らしちょるとは、まるで想像もつかんかったなあ」

 リョウマは、ショウザン先生がコタンでやっていた途方もないことの数々を思い出したのか、カラカラと愉快そうに笑った。

「手紙のことをコタンを離れる前の日に美里どのに話した。じゃが、あんな偏屈ジジイの世話をしていて何が楽しいのかわからんが、コタンに残るといい張った。海舟先生の頼みをかなえることはできんかったわけじゃが……」


 だけど、おいらには、ミサトさんの気持ちがわかる気がする。

 ショウザン先生の身のまわりの世話のこともあるが、その先生とコタンを結びつけていたのがミサトさんの存在だった。

 コタンの将来を考えれば、外の世界に向き合う態度を教えているミサトさんのほうが、ショウザン先生よりむしろ大切な人になってしまっているのだと思う。

 コタンのアインたちを見捨てるわけにいかないことは、ミサトさん自身がいちばんよく知っていたのだ。


 ミサトさんは、リョウマと別れることのつらさをおもてに出すことは、けっしてなかった。

 同じような境遇にある自分があんなに気丈にふるまえるものかどうか――でも、幼すぎてそんな難しいことはわからないとは思わない。

 出会いと別れはいっぱい経験してきたが、いつも『リョウマがいるからいい』といい聞かせてきた。

 いつかそれではすまなくなるだろうという予感が、ミサトさんとの別れにはあった。


 アイン語を教えてもらう約束を、おいらはけっして忘れない。

 それがあるかぎり、すくなくともおいらはミサトさんとまた会えるはずだと信じていられる。

 そして、ミサトさんのことをリョウマがどう思っているのかは、実はおいらがいちばん気になることだったが、おいらの母親のおリョウさんのことに触れるのをあれほど避けていたリョウマが、正直に答えてくれるとは思えなかった。


「おいらたち、これからどうするんじゃ?」

「もちろん、日ノ本の内地へ渡る。最終的な目的地は海舟先生のいる東亰トウキョウじゃが、日ノ本は長っぽそい国じゃ。その前にまだ会わんといけん人物たちがいる。そうやっていくうちに、日ノ本の今の姿がもっと見えてこようし、自分の役割もわかってくるじゃろう」


 なるほど、そういうことだ。


 ミサトさんを連れ帰ることはできなかったが、思わぬことでリョウマには驚くべき最新兵器が託された。

 札保呂サッポロではヒジカタと出会ったし、クローク先生とも知り合うことになった。

 こうして細い道筋をたどるようにして日ノ本での旅がはじまった。

 リョウマは例のごとく好き勝手に、足の向くまま気の向くまま、風来坊のように歩いていくのだろう。

 おいらはそれにつき合っていくしかない。


〝母恋〟という場所の〝地球岬〟を訪れたのは、北海堂に別れをつげるためのあいさつのようなものだった。

 いきなり日ノ本という国が眼の前に立ちはだかるわけではない。

 すこしずつ見えてくるものの姿があり、そこに近づいていくことでまた新しい風景が広がっていくのだ。


「そろそろ行こうか」

 そういって、リョウマはむっくりと立ち上がった。

 ボコイがおいらの肩から飛び降り、もと来た道を先に立って走りだした。


 ボコイも、はやくつぎの風景が見たいのかもしれなかった。

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