第二章 2 冬の前触れ

 その日は朝から空気が妙に生暖かく、力仕事をしていると汗が顔から吹き出した。

 そして、風が強くなってきたと思ったら、海の上をたちまち黒雲がおおいつくした。

 大粒の雨が落ちてくるまでには、ほんのわずかな猶予しかなかった。


「たまにはちゃんと身体を洗えってことかなァ」

 リョウマが、空いっぱいに押し寄せる雲の大群をうらめしそうに見上げながらいった。

「のんきなこといってないで、さっさと手伝えよ!」


 おいらは、軒先に吊るした豆と鯨肉の干物が濡れないように、急いで取りこんだ。

 リョウマは、ちぎれそうなほど激しくはためいている洗濯物のほうへ駆けていった。


「中に入れ。これはあやうい」


 もどって来たリョウマは、顔つきを一変させていた。

 洗濯物は何枚か風にさらわれてしまったが、文句をいっている場合ではなかった。

 ボコイがシャツを一枚くわえて最後に飛びこんできた。

 リョウマは急いで戸をたて、中からシンバリ棒で押さえた。


 ゴゴゴゴゴウッ――


 カミナリかと聞きちがえるような轟音があたりに満ち、つぎの瞬間、地面ごと小屋がグラリと揺れるような感覚に襲われた。


 第二波、第三波が来て、やっとそれが突風だとわかった。

 その猛烈さは、海の上で遭遇したどのシケよりもひどいくらいだった。

 船は揺れにさえなれてしまえば、重量もあるからむしろ安心して身をまかせていられた。

 だが、地上ではそうはいかない。

 波の何倍もある強風の塊が、もろにぶつかってくる感じだった。


 すがるものといえば、このちっぽけでかなりガタのきている小屋しかない。

 こんな風や雨にさらされながら何年も持ちこたえてきたはずだが、これがついにその最後の瞬間だってこともありうる。

 風がうなりを上げるたびに、心臓が縮みあがった。


 おいらとリョウマは、いちばん造りがしっかりしている暖炉のそばに自然に身を寄せた。

 おいらはボコイを抱きしめ、リョウマは無意識のうちに日ノ本刀を引き寄せていた。


「台風はこんな北までは届かない。もしかすると、これは冬の前触れかもしれん」

 リョウマは、だれかが乱暴に体当たりをくり返しているようにたわむ入口の戸をにらみつけ、歯を強くかみしめながらいった。


「もうか? ついきのうまで夏だと思ってたのに」

「北国の夏はあっという間に過ぎ去る。しかもここはホッキュウのすぐ南じゃ。北窮は巨大な氷でできた島だというし、永久凍土と呼ばれるツンドル地帯には木も草も生えず、かろうじてコケが凍った大地にしがみついてるくらいらしい。そんなところを吹き渡ってきた風がちょっとした気まぐれを起こせば、たちまちこんなことになる」


(このまま冬になんかなったら……)

 おいらは恐ろしくなって、その言葉を口にできずにのみこんだ。


 嵐は小止みなく吹きすさんだ。

 あちこちのすき間から吹きこむ風が逆巻いて、ロウソクは火をつけるだけ無駄だった。

 暗闇に閉ざされた中でかろうじて光をともしてくれるのは、絶やさないようにたきつづけている暖炉の揺れる火だけだ。

 いつ日が暮れたのかもわからないまま、一瞬も気が抜けない状態が何時間も何時間もつづいた。


 ウウウ、グ、ググゥゥゥアウッ――


 まるで何か猛獣がうなるような音を聞いて、おいらはギョッとして飛び起きた。


「グワアアアッ」

 リョウマが両腕を宙に突き上げ、吠えているのだった。


 さすが図太いリョウマでも、この絶体絶命の危機を前にしてついに気がふれたにちがいないと、おいらはてっきりそう思った。


「リョウマ、おい、どうした? しっかりしろ。だいじょうぶか!」

「う……ううむ。なんだ、おまえか」

 リョウマはぼんやりした声で答えた。

「な、『なんだ』はないだろ。こんなときにリョウマまでおかしくなっちまったら、おいらどうすりゃいいんだ!」

「何をほたえとる。……ウムム、そういえば腹がへったな。イモでも焼いて食うか」

 リョウマはむっくりと起き上がって眼をこすった。


 なんと、あの叫びは大あくびだったらしい。

 この大嵐の中、平然と眠っていたのだ。

 身に迫った危険がちゃんとわかっていないのか、それとも恐ろしいほどのんきなのか。


 リョウマは暖炉の前にしゃがみこんでいそいそと灰の中にイモを埋め、いかにも待ち遠しそうにニヤリと笑った。

 はたしてこの男を頼りにしていいものかどうか、そのほうがむしろ不安になる。


 熱いイモを腹に入れると、いかに空腹だったかがわかった。

 身体の中からあったまって、だんだん眠気がさしてきた。

 リョウマはもうまたいびきをかきだしている。

 おいらは眠っちゃいけないと思いながらも、まぶたがたれてくるのをどうしようもなかった。


 恐怖の中で気を失うように眠り、ガタンと何かがぶつかる物音や、小屋の骨組みがきしむいやな音がするたびに、またふっとわれに返る。

 そんなことのくり返しだった。


 何度めかに眼が覚めたとき、ゾクッとする寒さを感じた。

 身体がすっかり冷えきっている。

 横の暖炉の火が消えていた。

 そのむこうに寝ていたリョウマの姿はなく、抱いていたはずのボコイもいない。

 あいつの体温のおかげで、ずいぶん暖かかったのだが……。


 だが、閉め切った暗闇のはずなのに、なぜそんなことがわかるのだろう?


 ようやく気がついた。

 小屋の中がほんのりと明るんでいるのだ。

 天井にぽっかりと穴が空き、上空の雲の動きが見えている。

 屋根をふさいでおいた帆布が、重しの岩ごと吹き飛ばされたらしい。

 ときおりそこから雨まじりの突風が吹きこんでくる。


 すると、穴の端にひょっこりボコイの顔が現れた。

 と思うと、ボコイがいきなり転げ落ちてきた。

 おいらはあわてて立ち上がり、それを受け止めようとした。


 だが、ボコイは空中で何かにぶら下がって止まってしまった。


「おい、ヒモは届いたか?」

 小屋の外でリョウマが怒鳴る声が聞こえた。

「さっさと引っぱれ。……いいか、いくぞ!」


 つづいて、屋根の上にどさっと何かが落ちる音がした。


 やっとどういうことかわかった。

 おいらはボコイがくわえている麻ヒモの端を急いで引いた。

 じょじょに麻袋が見えはじめ、なんとか穴にスッポリはまりこんだ。


「イモの袋に干し草をつめこんだんだ。これでしばらくはもつじゃろう。ボコイが手伝ってくれたおかげじゃ。おんしはほんにかしこいのう」

 リョウマはボコイを抱き上げ、子どもをあやすようにゆすり上げた。


 おいらは消えた暖炉をたきつけ、新しいまきをくべながらいった。

「いったいいつまでこんな風がつづくんじゃろう」

「さあな。天のことは、地べたをはいずり回るしかないわしらにはとんと見当もつかん。まあ、しばらくの辛抱じゃ。風がやんだら、もう一度屋根を修理せんといかんなあ」


 迎えの船はいつ来るんじゃ――

 それはいつも喉もとまで昇ってくるさし迫った問いだったが、ついにおいらの口から出てくることはなかった。


 船が来てくれなければ、そのうち本格的な冬になってしまう。

 はたして寒さに耐えられるかどうかわからないし、食料をどうやって確保するかも心配だった。


 だが、迎えが来れば来たで、もうその瞬間から日ノ本ヒノモト人に取り囲まれる日々が始まる。

 いくら不便と不安だらけの孤島の生活でも、これがリョウマとおいらの二人きりの、だれにもじゃまされない生活であることはまちがいない。

 それが終わることになるのだ。


 どっちに転ぶことになるとしても、先行きへの悩みはおいらの小さな胸の中にしこりのようにわだかまっていた。


 考えてみれば、長い旅はずっとリョウマと二人だけで過ごしてきた時間だったともいえる。

 出会う人間のほとんどは初対面で、話す言葉は異国語ばかり。

 リョウマはおいらをかたときも離せなかったし、まともに会話できる相手はおいら一人きりだった。


 ところが、日ノ本に降り立ってしまったら、昔の仲間とか、親しい知り合いだとかがすぐに現れてくるだろう。

 あるいは、リョウマを〝殺した〟やつらとも顔を合わせることになるかもしれない。

 そういう人間関係や過去のいきさつに、リョウマはどんどんからみ取られていくのだ。


 そのときおいらは、いったいどうなるんだろう……。

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