決意の旅立ち




 その姿が点になり、そして消えてしまっても、まるで石化でもしたかのように伸ばした手を降ろすことができなかった。

 この手を下ろせば、追い縋るのをやめてしまえば――それは、別れを認めてしまったのと同義に思えて。




 ふわりと、風が頬を撫でた。

 熱気と煤と異臭をはらんだ風ではなく、ユリの香りを含んだ風だった。

 ゆっくりと振り返れば――その多くは踏みにじられていたけれど――ユリが一輪、咲いていた。


 煤けた街を見守るように高潔な佇まいで咲き誇るユリの花が。


 居たたまれずに視線を空へと戻すけれど、視界にあるのは煤と竜の血に濡れた自分の手だけ。

 腕の中にわずかに残されたサラのぬくもりはとうに消えている。




(……助けなかった?)




 ゆっくりと、自問する。


 そう、助けなかった。

 本当に何を犠牲にしてもいいというなら、どれだけ嫌がろうとも、力ずくであの牢から連れ出すことだってできた。たとえそれをサラに一生恨まれても、リュイナールの人々を犠牲にしても。

 選ぶことができずに、迷いを捨てきれずに、結局サラを見捨てたようなものだった。




 死ぬまで傍にいると誓った。

 なのに、結局飛び去っていく姿をただことしか――



 ふ、と。

 頭の中に風が吹き抜けたような感覚がした。



――シオン、泣かないで。



 あの幼い竜の発した優しい声は、サラのものだ。



――あなたが幸せでありますように。



 あの竜の願いは、サラの願いだ。


(サラは……生き続けている……)


 人であることを捨て、竜になったとしても。



 固まってしまった左手の中に、小さな異物があることにようやく思い当たる。

 手を開けばそこには鋭く光を弾く銀の指輪があった。

 ユリの紋章と誓いが刻まれた指輪が。



――誓うよ。神と、誰より君に。

 どんなに時が経っても、どんなに姿が変わったとしても、変わらずに生涯君だけを愛すると。


 この指輪を贈った時の宣誓が脳裏をよぎれば、もはや迷うことなどなかった。



「サラ……私は、諦めない」


 聞こえないであろうことはわかっていても、あの幼い竜が消えた空へと呼びかける。

 これまで下ろすことができなかった右手をきつく握りしめ、ゆっくりと下ろし、そして乾きはじめた血にまみれているその手を、口元へと運ぶ。


「神のものだから、なんだっていうんだ。神だろうが、竜だろうが、関係ない」


 竜の血を喉の奥へと押し込んで、叫ぶ。


「君を必ず、取り戻す!!」



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