決別4




「――……?」


 ゆっくりと顔を上げると、目を閉じているサラの頬や腕に、シオンの腕に頭に、降り始めの雨のようにぽつりぽつりと降り注いでくるのは――生暖かく、赤い液体。


(………血?)


 本能的にそうと判じた瞬間、ぞっとして腕が強張った。


「……サラ……」


 それとほぼ同時に降ってきたのは、声。

 明らかに人とは違う、洞窟の中のように反響した不思議な響きの声。

 それが、溢れんばかりの慈悲と親愛を含んでサラの名を呼ぶ。

 けれどその間にもぽつりぽつりと血は降り注ぐ。



 ゆるゆると、その声と血の源を探して顔を上げる。



 曲がった十字架を宿り木代わりにしていたのは、一匹の竜だった。

 純白の鱗に、無数の傷を刻まれた竜。

 顔も首も翼も胴にも尾にも、あらゆる場所に無数の小さな刀傷が刻まれ、所々に折れた矢が刺さっている。呼吸の度にふいごのように大きく動く左横腹に一カ所、子供の身長ほどもありそうな大怪我を負っていて、そこから脈動に合わせてじわりと滲んでは落ちてくるのが、先ほどから降り注ぐ血の正体だ。

 白竜はそれらの傷はまったく気にかける様子なく、ゆらりと長い首を伸ばしてくりっとした大きな眼で心配そうにサラの様子を伺っていた。


「サラ……助けにきたよ」


 竜の声は厳かであるほどの不可思議な響きだけれど、あどけないといっていいほど幼さを残す口調が不釣り合いだ。

 その声は穏やかで悲しげだったけれど、、ちらりとシオンを一瞥した巨大な爬虫類の目が冷ややかに細められると、背筋が凍り付きそうなほどの怖気が走る。


(……普通……これを、子供と哀れむか……?)


 十字架の上に重さを感じさせずにふんわりと宿る竜は、確かに噂に聞く竜よりこぶりの感はある。だがそれでも一般家庭の家よりも大きい。蝙蝠のように骨張った骨格とそれらの間に血管の浮いた皮膚の膜を張る翼を広げ、首を空高くもたげる姿は神々しいほどの威圧感を持っている。

 そして――サラ以外のすべてに対して、空気を震わせるほどの怒りを漲らせている。

 恐怖から本能的に全身の毛が逆立ち、ふるえ出しそうになる。それらを押さえ込み、サラを抱く手に力を込める。


(本当にどこまで人が良いんだか……!)


 とても子供だなんて哀れんだり慈しんだりする対象にはなり得ないその姿にサラを片手に抱きなおし、そっと剣を柄に手を添える。


 けれど。


 華奢な手が剣の柄を握る腕にそっと触れてその動きを留めた。

 一瞬、それが誰の手か理解できなかった。


「……ソウジュ……なの?」


 はっきりと、滑らかに。

 いつもの雨音のような声が腕の中から発せられた。

 驚き見れば、狼狽が色濃い表情ながら、その目は焦点が白い竜にはっきりと結ばれていた。ついさっきまで話すことも見聞きすることも朧気に死の淵をさまよっていたはずなのに。


(なぜ――?)


 その疑問の答えは赤く腫れ上がっていた腕にあった。

 赤と白とピンクが斑になった痛々しいその腕に、視線が釘付けになる。


 鮮やかな赤は竜の血。そのまわりに白い肌。さらにそれを取り巻くのがかさぶたをはがしたようなピンク色の肌。あとは、赤黒く腫れた火傷の跡だが――みるみるうちに、それがピンクに、白に、と移り変わっていく。


(――……これが……竜の、血の力……?)


 眉唾物と思っていた。不治の病をも治す妙薬になるという、不老不死の薬になるという竜の血――その奇跡の力。


――きっと、神様が奇跡を――


 そう言って笑ったサラの姿が脳裏をよぎって胸を突かれ、シオンは呻いた。


 助けてくれと願った。

 この竜はサラを助けると言った。


 この絶望の縁で助かるかもしれないという一縷の望みが示され、ぱたぱたと涙を落とした。

――けれども。


「サラ、僕の血を飲むんだ。その火傷、脆弱な人間のままでは修復が追いつかない。完全な竜とならなければ死んでしまうよ」


 瞬間、サラの体が強ばり、ふるえる白い手が助けを乞うようにシオンの肩を掴んだ。


(竜に……なる……?)


 助けを求めたサラを再び抱き直し剣を握る手に力を込めながら、シオンは反芻する。


 不老不死の妙薬――なるほど、百倍の寿命とこの治癒力。

 確かに不老不死の妙薬だ。

 けれど、その代償に人であることを捨てろというのか。


 御伽話のように甘くはない。


 火竜なら南の山脈にも住まうと聞く。

 稀に竜による被害も報告され、騎士団が討伐に出ることもあるのに、竜の血で不老になった人間の実話は聞いたことがないのは、そういうことなのか……。


「……怪物めぇぇええっ!!」


 場違いな思考を遮ったのは、一人の騎士の叫び声だった。

 煤と血にまみれた騎士が憤怒の雄叫びを上げながら剣を振りかざし、竜へと切りかかろうと駆けていた。

 竜はすっと目をすがめ、静かに業火の吐息を吐く。たったそれだけで、騎士は物言わぬ炭に姿を変えた。


「…………っ!」


 その光景に、思わず息を詰めた。


「………ひ……どい……」


 腕の中から、ぽつりとサラの呻き声がこぼれた。

 サラにつられるように見れば、炭の塊の向こうにあるのは、廃墟だった。

 ほんの1時間ほど前まではいつも通りだったのに、サラが生まれ育ってきた街が、これからシオンとともに暮らしていくはずだった場所が、あちこちで煙を上げ、火が燻ぶり、炭と人間の遺体と、うめき声で溢れてかえっていた。


「――街、が……。……酷い……。なんで………」


 サラは、信じられないという目をして竜を見上げた。

 けれど疑惑は、竜と目が合った瞬間にリュイナールを地獄絵図へと変えられる者が他にいるはずがないという確信に変わる。


「ソウジュ、なぜこんなひどいこと……!!」

「――サラ!!」


 サラは弾ける怒りで竜を詰りそうになり、シオンは咄嗟に強く抱きしめて諫めた。一瞬で炭に変わった騎士の姿が目に焼き付いて、まなうらにちらつく。


「あの竜は、君を助けにきたと言った」

「……………たす……け、に………?」


 サラは叱責に目をくるくるさせているだけの竜と、困惑の濃いシオンとをゆっくりと見比べる。


「君がもし、こんな凄惨な死を迎えるのなら、」


 竜は怯えと困惑の混じるサラの様子にかまうことなく、何事もなかったかのように淡々と言葉を続けた。


「それが人間という生き物であるならば――そんな残酷で愚かな生き物など、僕はこの命を捨ててでも地上から根絶させる」


 氷のような冷やかな言葉は、全身を刺すようだった。

 傷だらけではあるが、おそらくこの竜は本当に死ぬまですべての人間を憎み、殺し続ける。その被害は想像するだに恐ろしく、強く抱き寄せたサラが息を呑む音が耳元で聞こえた。

 シオンの肩を掴むサラの手に、縋るように力が籠もる。だがゆっくりと、その手から力が抜けて、離れていく。

 サラは頬をべっとりと濡らしている竜の血をてのひらで拭い、ほんの一呼吸それを見つめてから、竜を見上げた。


「……いいわ。それであなたの怒りがおさまるのなら」


 その表情には、いつもの静かなほほえみが浮かんでいた。



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