決別3



 医者を、と思った。


 それから、避難しなければ、とも。


 けれど、そのどちらの行動もできなかった。

 ほんの少し触れただけで崩れ落ちていく髪が脳裏に焼き付いて離れなかった。


 脆い――あまりに、脆い。

 医者の手配や避難に耐えられるとは思えない。



 ……無力だった。

 なにもできることがなかった。


 一縷の望みである呼吸が少しずつ小さくなっていくのを、ただもどかしく聞くことしかできない。

 理性はたとえ王宮仕えの医者でも無力感に苛まれるだけだと告げていたが、そんなものは自分への言い訳にしか思えなかった。



 神よ、どうか。

 どうか――。



 できることといえば、神に希うことのみ。



――ただの一度もお前の名を呼ぶことも、助けを乞うこともしなかった。炎に包まれてなお、一度たりとも。



 不意に父の言葉が脳裏に蘇り、焼けつくような痛みに襲われ、縋るようにサラを抱きしめた。


「……サラ……私は……呼んで欲しかった――」


 いつも全部ひとりで抱え込んで。

 一緒に背負うと、一緒に生きようと、何度言っても、サラはわかってくれない。

 こうして取り残されて泣くだけなら、一緒に焼かれたほうがどれほどマシだと思っているかを、ひとつもわかってくれない。



「……どうかもう一度、私の名を呼んで……」



 声が聞きたかった。

 あの雨垂れのように静かに落ち着いた声。

 サラがシオンと呼んでくれる。それだけのことでどれだけ私が満ち足りるのかを、ちゃんとわかってほしい。


「シオンと――」


 堪えることができずに落ちた涙が、ぽつりとサラの頬を打った。


「……サラ……」


 ぽつり、ぽつりと。





















「…………シ……ォ………?」



 自分の嗚咽に混じった、ごくかすかな呼吸に混じったその掠れた声に、弾かれるようにサラを見た。

 焦点の合わない目が、うっすらと開かれて若草色の瞳が覗いていた。



「サラ――……?」



 喜びに心が震えてもう一度涙がこぼれそうで、視界が歪んだ。


 細く開かれた目が、ごくわずかに震える唇が――笑みを作った。

 こんな状態でも君はまだ笑おうとするのかと思った瞬間、サラの表情が歪んだ。


 痙攣するようにひきつる喉が、かすかに空気をふるわせる。


「……ご………め……んな…………さ…」


 眦(なまじり)にうっすらと滲む光。

 泣くことも、できないのだ。

 涙になるほどの水がもう残っていない。


 苦しそうに歪むだけの表情を見るに耐えられなくて、肩を抱き寄せ、耳元に顔を埋める。


「サラ、大丈夫だ。そばにいる。たとえ天国だろうと地獄だろうと君を追いかけていく」


 力なくごくかすかに笑顔が浮かぶ気配がした。

 天国や地獄には来ないで、と言いたげに。


「うん。だから――もう少し、頑張ってくれ」


 乾いた唇が、かすかに震えた。

 声は、出ない。風のように音もなく、空気をわずかに振るわせるだけ。


《シオン、ありがとう。私、幸せだった――》


 ゆっくりと唇がそんな言葉を形作った後――全身から急速に力が抜けていくのが、腕に伝わった。


 若草色の目が虚ろになり、瞼が降りていく。

 その表情は穏やかで、幸せそうですらあった。



「………サラ………ッ!だめだ、しっかりしてくれ!!」



 その魂が天に昇らないよう留めるために体を抱きしめ、名前を呼ぶことしかできなかった。


 懸命に意識をつなぎ止めてくれるけれど、それはきっと消える前の蝋燭の火が一瞬明るくなるような刹那の光に過ぎなかった。




――私ね。時々、幸せすぎて怖くなるの。


 この場所で。

 やっぱりこの腕の中で。

 サラは夕焼けを見つめてそう呟いた。


――幸福と不幸は死ぬときにはちょうど同じくらいだって言うから。今に酷いことが起きるんじゃないかって。


 絶対に幸せが勝ち越すようにすると言ったらサラは笑った。

 サラはもう十分すぎるくらい苦労してきた。

 もうこれ以上苦労しなくていい。

 虐げられ、苦労することに慣れすぎている。

 それが、悲しかった。


――私、与えられてばかりで、あなたにあげられるものが何もない。なにも返せない。なのに、なんであなたはそんなに私に拘るの?


 そう言って泣いたことがあった。


 私が、何を与えたというのだろう。

 手元に置きたいと、自分勝手な願望のために野に咲いていた健気な花を手折り、命を削らせただけじゃないのか。


 全身全霊をかけて守ろうとしてくれたサラに、こんな残酷な運命を強いただけじゃないのか!




――神様がきっと、奇跡を起こしてくれる。




「……………たす…け……て………」


 成す術べなく、呻くように祈った。


「助けてくれ!」


 空に向け、声を張り上げた。


「神は、あなたの竜を助けたサラを、このまま見殺しにするのか!!」



 絶叫の余韻が消えた空は、黒い煙で覆われているだけだった。



「神でも悪魔でもなんだっていい! なんだってする! 何を差し出しても、構わないから!!」












「だから……っ、だからどうかサラを……っ」









…………ぴたん。



 祈っていたその時、なにか、生暖かいものが腕に落ちた。




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