エピローグ
「ああもう、信じられない……」
帰りの馬車に押し込まれるようにして転がり込むと、肩で息をしながらぐったりと呻いた。
会場を後にしようとした私達は感極まった観衆に握手を求められたり胴上げされたりともみくちゃにされながら逃げるようにようやく馬車に乗り込んだのだった。
「シオンはともかく、なんで私まで英雄扱いなのかしら……」
「あははは。民を正式な妻にすると誓った愚者が今度は民の人権を認めるよう法改正を求めたとなれば、そりゃあ妻の影響だと思われるだろうな」
シオンはさらりと笑い、カーテンをちらりとめくって馬車の外を眺めた。熱狂した人々に囲まれて、馬車はしばらく動けそうにない。
「でも、ここまで大騒ぎになるとはな」
「なるに決まってるでしょう!」
シオンがまったく悪びれた様子がないから涙目で睨み、左手をぎゅっと握る。
「国の礎を、根本からひっくり返したようなものよ?」
競技会の観客ならば8対2くらいの比率だが、全人口に対する王侯貴族の比率はほんの数パーセント。
その圧倒的大多数が、歓喜をもってシオンに応じた。審議がどんなものかわからないが、それは無視するにはあまりにも大きな流れだろう。
――君は花や愛玩動物ではない。私も君も、同じ人間だろう?
同じ人であっても、貴族と民は違うとずっと思っていた。
婚約してもそれは変わらなかった。
けれどまさか、心境の問題とかではなく、それを現実にしようだなんて。
しかも私個人ではなく、民衆の全体の権利を、貴族と同等にまで引き上げるだなんて。
しかも、それほどの改革を無血でやってのけるなんて。
(……ほんっとに、信じられない……)
もしあの法案が通れば、シオンはこの国の民衆にとって建国の英雄以上の存在になるだろう。そんな人の妻になるのかと思うと怒る気も削がれるほどの眩暈がして、頭を抱えずにはいられなかった。
シオンは苦労をともにしてほしいと言ったし、私はそれを了承した。したけれど、こんな気苦労は想定していなかったから、呻かずにはいられない。
「君には苦労ばかりさせて、悪いと思ってるよ」
申し訳なさそうに頬を撫でられて、顔を上げる。
「だけどこれくらいしないと君はその指輪をちゃんと心から受け取り、私の手をとってくれなさそうだから」
そういってシオンが手を差し出したので、どきりとした。
シオンは――気づいていたのだろうか。
私がこの指輪が慣例を無視した飾りであってもいいと思っていたのを。
それを、信頼してくれないと怒るでも拗ねるでもなく、ひらすら待ってくれたのだろうか。
……それは、驚きを通り越して呆れるほどの胆力だけれど。
「これからしばらく、この国は揺れるだろう」
シオンは静かに告げた。
「でも、必ず守るよ。君も、君が守りたいものも」
力強い宣言は、裏を返せばそれだけの覚悟が要るということだ。
それを思えば自然と指輪を握りしめる手に力が入る。
今まで民衆を虐げてきた貴族が改心して受け入れられるのならいいが、おそらくそう簡単にはいかないだろう。貴族の側も、民衆の側も。
下手をすれば民衆は蜂起するし、どれほどの要人が失脚するかわからないが、その席を開けたままにもできない。
それでも――それでも、人口の大半を占める民衆の喜びを思えば、文句など言えるわけがなかった。
「だからこの手を取って、ともに歩んでほしい」
辛抱強く伸ばされ続けた手に、苦笑いでそっと左手を重ねた。
伝わるぬくもりがくすぐったくて、苦笑いが心からの笑みに変わっていく。
それはずっと届くわけがないと思っていた手だ。
越えられない壁があると思っていたけれど、シオンは空を飛ぶ鳥のようにひらりとそれを越え、そして誰でも通れるくらいに破壊しても伸ばされた手。
「シオンは何するかわからないから、ちゃんと手を繋いでおくことにするわ」
「君も人のこと言えないと思うけど」
シオンは祈りでも捧げるみたいにきゅっと両手で私の手を包んで、額をつけた。
私はそこに右手も重ねた。
そうするとまるでその4枚の手の中に、心臓があるみたいに思えた。
中心にあるのは、銀色に輝くユリの紋章が刻まれた指輪。
その銀のユリに意識を傾けて、そっと誓いを込める。
シオンが与えてくれたこの誇りとその尊厳を胸に刻み、それを守るために生きよう。
* * *
後日――難航を極めた審議の末に、およそ競技会優勝者の要望の通りに法の改正が決まった。
直後、王弟及び十数名の貴族が失踪するという事件が起こる。亡命したとも闇討ちに遭ったとも囁かれる中で、正当な王が再び表舞台に姿を現すようになる。
その姿が亡霊のようですらあっても、奇異な
《第一部 誓いの指輪》 ― 完 ―
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