終焉


 街の小高い丘にある広場のベンチに腰掛け、夕暮れの街並みを眺めるのが好きだった。

 領主の城の青い屋根が空を指す勇壮な姿、少し視線を移すと、四角い石積みの民家が立ち並んでいる。それらがオレンジ色から群青に染まっていくと、泣きたくなるような切なさで胸が溢れてしまうけれど、それでもこの場所が好きだった。



「今日、何の日か覚えてる?」


 一歩離れた隣で目を細めて夕焼け空を見上げていたシオンに問いを投げられて、感傷から意識を引き戻す。

 ちらりと視線を投げた先にあるシオンの横顔は笑みを浮かべていたけれど、声は決意を秘めていた。


「世間的にはイグナス家の坊ちゃんが街娘に手をつけた日からちょうど1年の記念日ですね」


 間を置かずに即答できるが、意地の悪い答え方にシオンは笑顔を翳らせた。


「サラ、君はいつまでこんな恋人の形を取り繕い続けるつもりなんだろう?」


 苛立ち、もしくは焦燥だろうか。いつもは手を繋ぐことすら自重しているほど紳士なのに、獲物を捕まえた鷹のように私の両肩を掴まれ、びくりと身が竦む。強い視線に射抜かれて、縫い止められたように動けない。いつもは優しい瞳が鋭い光を帯びているのが怖くて、視線が泳ぐ。


「………あなたが望む限り、でしょうね」


 顔をみなくとも、私の答えにさらに苛立ちを募らせていくのを肌で感じた。

 もう潮時なのだと思うと足下から凍り付きそうな、凍えそうな気分がする。


「私はこの一年君に頼ってもらえるように、君を支えていけるように努力してきた。けれど、君はいつまでも私を頼りにしようとしない。私はそんなに信用できず、頼りにならないだろうか?」


 苛立ちが悲しみに染まっていくのが切なくて顔を上げると、シオンはおいていきぼりにされた子供みたいな不安げな顔をしていた。


「いいえ、あなたはとても優しいし信頼できる人よ。みんながとても頼りに――」


 彼の痛みを和らげたくて子供にするようにそっと頬に触れる。シオンはその私の手を掴んで、一度強く目を瞑った。

 けれど次の瞬間には射るような視線で見上げてきた。


「私は、皆ではなく君がどう思うかを聞いているんだ」


 逃げ道を封じられ、一瞬言葉に詰まる。

 いつもなら何も言わずに、静かに笑って開けておいてくれる逃げ道を。


 だからもう、本当にこれで終わりなのだと、悟った。


「………………」


 口を開けば言ってはいけない本音があふれそうで怖くて、目をそらして遠い夕焼けを見つめる。

 そうやって、もう別れるべきだと思いながら、ヒース様にも宣言しながら、結局言い出せずにこうしてただ夕日を見つめるだけ日々がどのくらい続いたのだろうと思うと、自分の弱さが腹立たしかった。


「……もちろん信頼してるわ。こんなにも必死に守り続けてくれたのに信じてないわけが――」

「ではなんでいつまでも頼ってくれない?」


 逃げ口上を鋭い問いで遮られ、息が詰まる。

 沈黙の中でゆるゆると視線を落とし、唇をきつく引き結ぶ。

 いっそ逃げ出してしまいたい衝動に駆られるが、強い力で肩と手を握られたままではそれも叶わない。


「答えてくれるまで、この手を離さない」


 再度短い沈黙が流れ、夕焼けが群青へと変わっていく。

 しかし彼はひたむきに見つめ続ける。


「君が別れを望むなら受け入れよう。だけどそれならそんな冷たい態度ではなく君の言葉で言ってくれないと、諦めきれない」


(――別れ、る……)


 彼の口からその言葉が出るのは初めてだった。

 涙とともに胸の奥からせり上がってくる想いが勝手に暴れる。

 早くこんな煮えきらない態度に呆れて、別れると言ってくれたらと思っていたのに。なのに実際にその単語を聞いたら、心が切り裂かれるような激しい痛みに襲われる。


 涙と動揺を必死に押さえ込み、心に蓋をしようとする、が。


「答えてくれ。君は一年前、私を家族同様に守ろうとしてくれた。それは単に恩義だけで親愛など一切なかった?」


 強い語気に強引にこじ開けられ、咄嗟に首を横に振ってしまった。


 違う。

 ダメだ。

 頷くべきだった。


「君には、私は必要ない?」


 再度、激しく首を振ってしまった。

 頷かなければという思考を無視して、本能的な何かが圧倒的な力で首を横に振らせた。


 強く握られた手に込められた力が、語気が、緩む。


「――じゃあ、どうしていつまでも頼ってくれないんだ?」


 あたりはすでに薄闇に包まれていた。

 夜風が冷たい。

 寒い。

 その中で、シオンの手の温度が、声が、じんわりと暖かい。


「………こわい、から」


 堪え切れず、掠れた言葉がこぼれ落ちた。

 この手が離れていくという恐怖を、どうしても、胸の奥に押さえ込むことができなかった。


 ふるえた声に、シオンの鋭さがみるみると崩れ去り、気遣わしげな視線が戻ってくる。その優しい目に見つめられると、どうしても弱くなってしまう。

 恐れていたとおり、ひとこと口を開いたら、あとは堰を切ったように本音がこぼれて止まらなくなる。


「あなたはとてもひたむきで優しいから――私を、甘やかそうとするから……」


 言葉と一緒に、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


「あなたに頼ることに、甘えることに慣れてしまったら、あなたがいなくなった時に、生きていけなくなりそうで、怖くて……」


 彼を見続けることができずに、俯き両手で顔を覆う。

 だって今こんなにも、彼を失うことが恐ろしい。


「そもそも君が別れることを前提にしてるから話がややこしくなるんだよ」


 呆れ声に、必死に首を振る。


「あなたは、イグナス家を継ぐ者のひとりとして、誰か身分のある女性と結婚し、この街を守っていかなければならない……」


――嫌だ。わがままを言ってしまいそう。

 ずっと傍においていてほしいと……私だけを愛して欲しいとできもしないことを言って、困らせてしまう。


 泣きじゃくることしかできない私の肩を、シオンが抱き寄せる。


「私は君をひとりになどしない、絶対に」


 耳元に囁かれる甘い言葉に、駄々をこねる子供のように激しく首を振る。


 この胸の痛みは偽りだ。どんなに痛くて苦しくても、これで死ぬことなんてない。だから、拒絶しなければ。

 そう思うのに、腕のぬくもりはどんなに拒絶しようとしても伝わってくる。

 穏やかだけれど決意のこもった声が、愚かしいほどの優しさで包み込まれることが恐ろしく心地よくて――怖い。

 怖い。

 聞きたくない。


「君が了承してくれるなら、君を妻に――もちろん妾ではなく、正式な妻として――迎えるつもりだ」


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