認可


 夜は更けて他の誰もが休んでいるというのに、父はひとりで執務室の椅子に腰掛け、静かに書類に目を通していた。仕事をしていない父は見た覚えがないと言って差し支えないほど、いつも仕事ばかりしている人だと思う。


「父上、折り入って話があります。お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「なんだ」


 その返事は重量があるかのごとくずしりとした重く、書類の束から視線を上げた父に見据えられる視線に籠もる威圧感に、反射的に怯みそうになる自分を叱咤して襟を正して父の前に立つ。

 畏怖から畏敬に変わってきてはいるものの、相変わらず父は苦手だった。深く息を吸いこみ、背筋を伸ばす。


「まず最初に、礼を。最近、縁談が来ないと思っていたら父上が断っていると聞きました」


 一般的には婚姻は親が相手を決める。だが、父は兄上達の望む相手を許可した。政略的なことはまったく気にとめず、互いの好意があればよいと。

 私にも以前は先方から縁談が持ちかけられれば意向を聞かれることはあったが、しかしサラとの交際を許可して以来、一度も縁談が持ち上がったことがない。それは父が内々に断ってくれているのだと――中にはかなりの良縁もあったらしいが丁重に断りを入れたと――伝え聞いた。


「おまえのためではない」


 再び書類に視線を落とした父がバッサリと言い捨て、笑みがこぼれるのを止められず深々と頭を下げた。


「ならばなおさら、ありがとうございます」


 父の眉が苦々しくひそめられるが、なにも言わなかった。

 私のためではないというなら、あの健気な一市民のために他ならないのだろうから。

 それがサラのためというなら、これも許されるだろうかと、淡い期待が生まれて、意を決して頭を上げた。


「父上にお願いがあります」


 無言で視線が上げられ、目が合う。


「これに許可の署名サインをいただきたいのです」


 一歩踏みだし、用意していた一通の書類を差し出す。

 その脇で、一輪挿しに生けられたダリアが揺れた。以前は執務に関係ないものを一切机に置かない人だったのにと頭の片隅で思う。

 父は無言で書類を受け取っておもむろに目を通し――そして、ぴくりと眉が跳ねさせた。


 それは、指輪の発注書だ。

 イグナスの家紋を彫り込んだ銀の指輪。

 指輪に限らず家紋を入れたものを作るときは必ず当主の許可が必要だが、慣例として家紋を入れた指輪は正妻にしか贈ることを許されない。つまりこの指輪の発注を許可するということは、指輪を贈る相手との正式な婚姻をも許可することになる。


「サラを妻に迎えることを――父上まで嘲笑や侮蔑にさらす親不孝を、許してください」


 私を見る目は鷲のように鋭く、父はその発注書を机の上に置いただけだった。

 ひたひたと満ちていく静けさが完全に部屋を覆っても、沈黙は続く。父の作り出すこの重い沈黙が、手をあげられるよりも恫喝されるよりも苦手だった。

 いつもだったらこれだけで諦めて手を引く。

 だが、今は――今だけは、引けない。

 絶対に。

 もし法に背くなら、父は即刻突き返すはず。なにも言わないのなら間違っていないはずだと、自分を鼓舞してひたすら沈黙に耐えて返事を待つ。


「……あの子が、これを受け取ると思うのか?」


 やがて、父は苦々しく呟いた。


「受け取ってくれるまで説得するつもりです」

「話にならんな」


 父は発注書を破り捨てようとし、一歩足を踏み出して声をあげ、それを制す。


「自惚れと笑われることを承知で言わせてもらえるなら、サラが心を許そうとしないのは、私がいつか別の女性を妻を迎えると思っているからだ。だから――」

「自惚れだ」

「サラは家族のために身を投げ打つことを惜しまない。保身よりも仕事を減らされることを恐れていたのに、身を呈して私を庇い、父上に逆らうことを選んだ。――それは、私を、家族と同等に大事に思ってくれるからにほかならない!」


 静かな一喝に逆らって訴える。

 資料室で本を読み返しながら、思ったのだ。

 サラは単に矜持きょうじから妾の立場を拒否したのではなくて、耐えがたいほどの嫉妬に胸を焦がすことを忌避したんじゃないかと。

 強情で、頑固で、意地っ張りで、全然本音を見せようとしないけれど。

 気のせいかもしれない自惚れかもしれないと自分に言い聞かせて目を背けてきたけれど。

 今まで何度も垣間見えた想いの欠片。

 それを信じようと、決めた。


「……だから彼女を、この手で守らせてください」



 サラは、怯えているだけだ。

 あれほど気が強くても逆らえないほどに刻み込まれている貴族への恐怖心。踏みにじられることに、耐えることに、諦めることに、慣れすぎている。

 もっと自由に生きてくれたら、一緒に生きてくれたら――。


「だから自惚れていると言うのだ」


 父の声はぴしゃりと鞭を打つように鋭かった。


「森で自由に生きていた野生動物が怪我をしていたからといって保護のつもりで街に連れてきて飼い慣らすことが、彼らにとって幸せとは限らない」


 サラも似たようなことを口にした。彼女が保護した動物達は傷が癒えればいずれ森に帰す。彼女はそのつもりで最低限の手当や世話をするだけだ。

 だが、途中で放り出すことは残酷だとも言った。


「あの子は華やかな装いにも宝石にも頓着がない。花を愛で育てるほうが性に合っているのだろう」

「それは……」

「お前はずっと我々の社会を厭わしく思っていただろう。自らが煩わしいと思う場所へ、お前の自己満足であの子を引きずり込むつもりか」


 ぐ、と喉が鳴らすことしかできずに拳を握る。


「傷つくのは、お前だけでは済まん」


 父は再び発注書を机の上に置き、両腕を組んでまっすぐに私を見据えた。


「でも、サラは」


 まっすぐに、その父の目を見つめ返す。


「家族を何より大事にし、家族のためにどんな苦境にも立ち向かう芯の強さがあります」


 父の手がぴくりと揺れたような気がしたのは、気のせいだろうか。


「だからこそ彼女を妻に迎え、苦しくても辛くても一緒に生きていくことが幸せだと思ってもらえるように努力します」


 自己満足には、違いない。

 だけど。

 それでも、そばにいてほしい。


「――サラをイグナス家の新しい家族として迎える許可をください」


 改めて頭を下げ、返事を待った。

 けれど返事はなく、重い沈黙が流れた。


 長く重い沈黙が、どれほど続いたのかはわからない。

 1時間か2時間かというほどにも感じられたが、実際は5分ほどだったかもしれない。


 その永遠に思えるほどの沈黙を破ったのは、溜息だった。

 それから、さらさらとペンを走らせる音がした。それが許可なのか不許可なのかは、見てみるまでわからないから緊張を解くことはまだできないが。


「……シオン」

「はい」


 名を呼ばれ顔を上げたものの、それは呼びかけではなく、言葉の響きを確認しているように思えた。


「その名は、お前の母がつけた。天国にいても片時も忘れることなく、お前を見守っていると言ってな」


 なんで今唐突に名の由来の話になったのかとぽかんとしていると、父が不意に手を伸ばしてきた。条件反射で首を竦める。が。


「シオン。お前は、なによりも家族を大事にしなさい」


 けれど意外にも、ぽんと頭の上に大きな掌が乗せられて、まるで幼い子供にするみたいに、髪を乱暴にくしゃくしゃとかきまぜられた。

 父の意図するところはさっぱりわからなかったが――なぜだろう。はじめて名前を呼んでもらったような気がした。

 乗せられる父の手のごつごつした感触、重み、ぬくもり。そういうものを感じるのははじめてで、そわそわと落ち着かない気持ちになった。


「……それがこの街の人々のためになるだろう」


 自分に言い聞かせるように呟く父がいつになく弱気に思われた瞬間だった。今度は唐突に鼻先に発注書が突きつけられた。


「あの子にもお前と同じ覚悟があるなら、私が新しい娘を歓迎すると言っていたと伝えればよい」


 突き返された書類を夢見心地で受け取りながら、今言われた言葉を頭の中で繰り返した。


「…………本当に、いいんですか…………?」


 末尾に許可する旨の一筆と署名が添えられているのをいまだ信じられない思いで見つめ、念を押す。認めてもらえなければ家を出るという切り札を出す覚悟をしていたのにあっさりと許可が降りたせいで肩透かしにあい、ただただ戸惑うばかりだ。


「おまえが元のバカ息子に戻ってもらっては困る」


 書類に視線を戻した父はいつもと同じく厳しい言葉を放ったのだけれど、どこかあたたかさを感じて、これまたどう反応したらいいのか途方に暮れる。

 ダリアの花が、それを笑うようにふわふわと揺れていた。


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