御伽話
――サラおねえちゃんみたいだね。
蝋燭の灯りにぼんやりと照らされる城の資料室の一角、
文字を学ぶことにもなるからと始めた読み聞かせだったが、子供達はそんな意図とは関係なくとても楽しんでくれる。子供達の偽りのないまっすぐな好意が心地よくて、彼らが喜ぶならといくら読んであげても遊んであげても全く苦にならない。
その日読んだのは清貧な女の子が王子に見初められて幸せに暮らすという、よくある御伽話だった。純粋なまなざしを注ぐ女の子の頭を撫で、ちらりとサラに視線を向けるが、彼女はこちらを一顧だにしないから気づくはずもない。
「ね?」と袖を引かれて、苦笑いで「そうなるといいね」としか答えられなかった。
子供達だけではない、街も街の人々も好きだった。あそこは、あの人たちは、ひとつの大きな家族のように助け合って、いつだってあたたかくて心地のいいひだまりのようだから。
あのあたたかい場所を思い出すと、少し肌寒い気がしてそっと腕を押さえる。
ここは地下迷宮の入り口のように寒くて暗い。
あの街中に生まれていたら、と考える。
そうしたらサラはこんな歪んだ形ではなく普通に付き合ってくれたのだろうか?
それとも、サラが全く気づいていないのが不思議なほどの熱視線を送っていた街の青年たちの一人に埋没しただけだろうか。
でももし街に生まれていれば、サラを守ることはできなかっただろう。
この身分は、枷であると同時に盾でもあった。
私はこの身分を利用しなければサラを守ることすらできないのだという無力感に苛まれ、だらしなく机にうつ伏せて積まれた本の背表紙に視線を走らせる。
この国の歴史、法律関連。それから、参考までに周辺諸国のものも。
あるだけ全部引っ張り出したし、取り寄せたものもある。斜め読みだが、およそ全部読み尽くしたはずだ。
《婚姻ハ、家長ノ赦シ無クバ之ニ
《貴賤及び男女ヲ問ワズ十五ニ満タナイ者、之ニ能ワズ》
《妻帯ハ一人トス。但シ、王ノ血族ニ限リ側妃ヲ三人マデ認メル》
婚姻に関する条文がいくつか、閃いては消える。
《王ハ臣ニソノ功ニヨリ領地ト人ヲ与エル》
《王ガ与エタ領ト人ヲ、王以外ガ犯スコト能ワズ》
《臣ハ自ラノ所有スル民ヲ把握スルタメ人民登録簿ヲ編成シ、常ニ維持管理ニ努メルモノトスル》
様々な条文が湧水のようにこぽこぽと泡を立てて湧き出ては消え落ちる。
《妻ノ子ヲ嫡子トシ、出生ノ順ニ長男、次男ト記録ス》
《臣ハ妻ノ他ニ妾ヲ一人、認メル》
《妾ノ子ハ庶子トス》
知識をかき集めてみても、解決法が見いだせずに無力感を痛感しただけだ。
民を妻に迎えるなんて御伽話を現実にできる条文は見つからない。
別れるのか、妾にするのか、あるいは出奔するか。
最初とまったく変わらない選択肢のそれぞれの可能性について幾度となく考察してみたものの、納得のいく結果にはなりそうもない。
それを打破するためにサラに爵位をと考えたが、たとえ来年競技会に優勝したところでサラがそれを受け取るとは思えない。
サラの笑顔が、脳裏に閃く。
少し前、一緒に散歩する時なんかによく見せてくれたはにかんだ表情が。
今は鬱屈とした空気を漂わせているし、必ず1歩距離を取っていて、とても笑顔など望めないから、それがひどく懐かしい。
手を伸ばしても、届かない。
1歩近づくと2歩下がる。
そんなふうに縮めようと思うほど距離が遠くなる気がした。
もう、限界なのだろう。
これ以上無理を通せば壊してしまう。
そんな気がする。
でも、手放す覚悟ができない。
もどかしさと歯痒さに傷つき、結末に怯えたまま――かりそめの恋人なんて
* * *
――あなたはいつか私ではない人を愛することに違いないのでしょう?
うつらうつらと船を漕いでいたら、今にも泣き出しそうで、でも必死に笑おうとしていたサラの姿が浮かんだ。
咎を負うべきは私ですと、身を呈して父から庇おうとした背中も。
私には何もないのに、なぜそんなにこだわるのかと泣いた顔も。
あなたはどこまで愚かなんですかと怒りに震える細い肩も。
息苦しくて、抱きしめたくて、手を伸ばそうとして――本でできた塔の中腹に腕を突っ込んで崩してしまう。
――生きていけなくなるくらい甘やかしておいて、途中で放り出すことほど残酷なことはありません。
崩れた本の塔が隣を巻き込んでドミノ状態で次から次にばさばさと音を立て本が崩れていくのをぼんやりと見つめている中で、あの時の哀愁漂う背中が浮かぶ。
――私たちのような平民は貴族に何の咎もない親を殺されても文句を言えないのですよ。
「……………あ」
苦渋に満ちた声を思い出した瞬間、ぱちんと泡が弾けるように唐突に目が醒めたような気がした。
そんな御伽話みたいな話は法律のどこにも書いていない。
ないけれど!
床に散乱した書籍の山の中身を必死に脳裏に蘇らせるが、今の閃きを確証するには足りず、手近なものから手当たり次第に猛然と読み漁る。
ページを繰る指が読み終わってもないのに先を急かし、もどかしく視線を走らせて目的の記述を見落としていないのかを探す。
「不文律……!」
なぜ今まで気づかなかったのかと唇を噛む。
方法がないのではない。
前例がないのだと。
法律は当然と思うようなことまで定められている一方で、定めるまでもないと書かれていないこともある。
例えば、殺人。
罷免する条項、罰する法はあっても、はっきりと人を殺してはならないと書いた条文はない。
法の上で民は貴族の所有物だ。
羊飼いの羊、あるいは牧羊犬のようなものだと。
それを正式に妻に迎えようと本気で考えた愚者は未だかつていなかったのだろうか。羊や犬は人間ではないが、民は人間だというのに。
「…………………ない」
いつのまにか窓の外から朝日が差し込んでいて、顔を上げたとたんに目を刺した。眩しくてしぱしぱする目を覆う。
認める法律もないが、それを禁じる条文も罰則もない。
ならば、必要なものは家長の赦しと覚悟だけのはずだ。
嘲笑は、今まで以上になるだろう。
それでも、このままこんな閉息した状況に留まっているより、諦めるより、壊してしまうよりもずっとマシだ。
(彼女を家族に迎えることができるのなら――)
父と彼女を説得するにはもう一度丁寧に調べてみなければならないと、震える指でゆっくりと本の表紙を持ち上げる。
差し込む朝日は柔らかくその手元を照らしてくれた。
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