望みは
珍しいことにヒース様から直々に執務室にも花を飾ってほしいという要望があったと伝言を受けて執務室を訪れる。
人が慌ただしく出入りする都合なのか開け放たれていた扉を一応叩いて中を見渡すと、ヒース様がひとり静かに机に向かっていた。
「失礼します」と声をかけると、「頼む」と顔を上げないままで短い返事が返ってくる。シオンは以前から社交会に出かける予定だと話していたから不在を知っていたけれど、それでも執事や他の事務官がいるものかと思っていた。
シオンの誕生日の夜のことが思い起こされ居心地悪さを感じながらも、持ち込んだ花瓶と花達を抱えてどこで作業してどこに飾るべきなのか見回すと、ヒース様は軽く顎を上げた。
「そこの机を使うといい」
視線だけで差し示されたのはヒース様から見て右斜め向かいにある机だった。素直に足を運ぶと、片づけられてはいるが端に積まれた書類の束の筆跡に見覚えがあった。
これがシオンの仕事机なのだろうかと思うと心臓が強く波打つ。
「あれは自分の物を他人に触れられるのを酷く嫌うが、君なら最後に花一輪でも置いて帰れば文句も言うまい」
相当勉強したような気がするけれど、書類の内容は私の学力ではまだわからない言葉だらけだし、使い込まれた机も硝子筆や羽筆や墨壺も宝物みたいに優美だ。
筆記具をひとつずつ丁寧に脇に移動させて場所を確保したうえで汚さないよう作業用の布を敷き、その上に花瓶と花一式を乗せた。
わずかに緊張しつつもメインとするダリアを一輪手に取り、葉の付き方や花の向きを確認する。
「……君は、花だけでなく人もうまく育てる」
作業をはじめるとほどなく、書類に視線を落としたままのヒース様が独り言かと思うほど静かな声を出す。
「私は人が1年足らずでこれほど成長する様をはじめて見た」
それは賞賛だけではなくて呆れと失笑も含んでいるように聞こえたが。
「いえ、そんなことは――」
慌てて振り返り前に進み出ようとすると、彼は手をあげてそれを制する。
「これは仕事をしながらの雑談だ。手を止めることはない」
どうやら正式な謁見の席ではないから本音を話せということのようだ。おそらくそれとなく人払いをしてこの場を用意したのだろうと思うと、ヒース様らしい気遣いだとかすかに笑みがこぼれる。
ペンを走らせる音が少しだけ緩やかになった。
「あのバカ息子は随分迷惑をかけただろう?」
花瓶の深さに合わせて水中で茎を切り余分な葉を取り除きながら、そっと笑いを押し殺した。
そもそもヒース様がこれまでこの関係を黙認してくれたり、市中視察の名目をつけて街に出していたのは、それが彼にとっていい経験になるからだろうと思っていたが、やはりそうだったのかと確信が生まれる。
「いいえ、私はなにも。すべてはシオン様ご自身が努力した結果です」
「……そうか」
ヒース様は静かに苦笑いをこぼして一応は頷いた。
「しかし君には感謝している。それを伝えておきたかった」
ペンが走る音が止まり、今度は溜息が聞こえた。
「……あれは上のふたりと違ってどうしようもないバカ息子だ。甘ったれで短気で、考えが浅くて」
「――そうですね」
ヒース様はシオンを極力名前で呼ぼうとしない節があるが、容赦ない言葉でもどこかほほえましく聞こえるのはやはり親だと思う。つい同意してしまうと、ヒース様が眉根を寄せる空気が伝わってくるから、なおのことだ。
一度作業の手を休め、水仕事で荒れた手をさすった。
「私はその日を生きるのに精一杯なのに、シオン様は私のために家を捨てるとまでおっしゃいますから」
ヒースが心底呆れて吐いた嘆息を聞きながら、細身の硝子製の一輪挿しにダリアを差し、バランスをみてカスミソウを挿していく。
「最初は身分を捨てて野に下るなんて、その生活を知らないから言えるのだと思いましたが……そうでもなかったようです」
確かにあの人は驚くほど成長したと思う。
いつからかはわからないが子供っぽいと思うことはほとんどなくなった。みんなに坊ちゃんと呼ばれるのは相変わらずだけど、子供っぽいからではなくて親しみやすいからだ。
それでも――それほど民に愛されながら、家を捨てる覚悟はあるだとか、傭兵になるなどと言ってしまうから、怖い。
花瓶を回して全体のバランスを確認し、満足できる出来映えに気を取り直す。
「シオン様はあなたからちゃんと、強い意志と遂行する力と、みんなに愛される才能を受け継いでいます」
机の前に立ち、一輪挿しを机の端に据えると実直な領主を見つめる。
「私には宝石もドレスも似合いませんが、あの人は良い指導者になれます。私のためにあの才能を捨ててしまうなんて惜しいことをさせるわけにはいきません。いずれ私のことなど見限って、ふさわしいお相手を見つけて、街のために尽力いただきたいと考えています。その、覚悟なら……――」
ヒース様の前だからか冷静に言うことができたと思ったのに、そこで唐突に胸の痛みに襲われて喉が詰まった。
ヒース様の目論見はもう十分のはず。いつ別れなさいと命じられても不思議ではない。
この呼び出しの趣旨は、きっとそういうことだ。
胸の痛みを堪えようと胸の前で組む手が震えて、目頭が熱い。
覚悟を決めているつもりでも揺らいでしまう弱さを自ら叱咤して、目元を覆って口元を引き結ぶ。
ことり、とペンを置く音がした。
それからヒース様は無言のままで立ち上がり、机を回って私の横に立つ。
「感謝していると言っただろう。あのどうしようもないバカ息子がようやくまともな仕事をこなすようになってきたのだ」
涙を堪えたままで見上げてしまうと、彼はぎこちない笑みを返す。
不器用な人だと思う。
領主としては辣腕なのに、シオンのこととなると途端に不器用な人だと。
「……だが、君は自分のことをもっと大事にしなさい。君は、なにを望む?」
でも、だからこそ、そのぎこちない優しさが胸を暖めてくれる。あの人の親だとしみじみ思う。
そう思うと、笑顔をつくることができた。
「シオン様は日々、それはもう――一生分でもあまりあるほど大事にしてくださっていますから」
太陽の光のように絶え間なく、惜しみなく――時に穏やかに優しく、時に激しく注がれる想いで、この世に二つとない宝物のように大事にしてくれる。
それは過分な幸福だと思う。
酷いことを言ってみても、素気ない態度をとっても、それは変わらない。
それは幸福なのか不幸なのか、わからないけれど。
だが、ヒース様は気遣わしげな視線を向け続けている。
「毎日一生分の幸福が訪れているようです。だから、なにも望むものなどありません」
それは強がりではなく心からこぼれた言葉だった。
これ以上に望むものなどない。
これ以上の望みなど、考えつかない。
一緒にいると笑みがこぼれそうになる。でも「また明日」と手を振った後、ひとりで部屋にいる時に訪れる喪失感は、身を切られるようだ。
だったらもう――……。
「……そうか」
わずかな沈黙の後ヒース様は深く溜息をついてからダリアに手を伸ばし、ほんの少し目を細めた。
「仕事や他のことは気にせずともよい。君の望みが叶うよう配慮しよう」
「……ありがとうございます」
言われるまで仕事のことなど失念していた自分に失笑が漏れる。
「忙しいのに手間を取らせて悪かった」
「いえ、機会があればまたご用命ください」
ヒース様はそうしようと穏やかに笑った。
それから後、時々だけれども本当に執務室にも花をご用命いただけるようになった。
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