健気な花4



「いや」


 私が首を振ると、サラは苦い笑みを深めた。


「花屋はもともと、父が開業しました。――今のようにお城に出入りするような立派な花屋ではなくて、街の人々のための小さな花屋ですけれど」

「もともと?」


 サラは家業の手伝いをしていると聞いた。だがその自嘲するような笑顔には肯定は含まれていない。


「今でも書類上は父が経営していることになっていますが、実際には半年ほど前からほとんどすべてを私が引き受けています。父は重い心臓の病を患い、今や家から出ることもかなわず、母はその看病に当たっていますから」


 努めて明るく言おうとしているのが、かえって痛々しかった。

 彼女は確か、私よりひとつ年下で17だったはずだ。

 わずか、17歳。

 その年齢でひとりで家業を切り盛りして一家の生活や命運を背負いこむなど、男でも泣き言をこぼすだろうに。女の子では、その苦労は男の比ではないだろうに。あの細い双肩に背負ったその苦労を、彼女は今まで一度も感じさせたことはない。

 最初に彼女が花屋だと自己紹介した時、暢気に無数の花に囲まれる姿を脳裏に描いて似合うと思ったのだ。それがいつか彼女が「花屋って意外と力仕事なんです」と言ったとおり、水を張った重い木桶を持ち運んだり、台車を引いたりする力仕事も多いのだと彼女を眺める日々で知った。そんな力仕事でも愚痴のひとつもこぼさず額に滲む汗を拭きながら働く姿は生き生きとしていて、何度見とれたことだろう。


「仕事自体は苦にならないんです。父の心臓が弱いのは昔からでしたから、小さい頃から父を手伝ってきたので要領もわかっていますし。街のみんなも手伝ってくれますし……私、花もこの仕事も大好きですから」


 眩しい、と思った。

 その不遇も、理不尽な要求を突きつけられる境遇も、なにもかもを抱え込んで、それでも笑うことができる芯の強さと他人の愚かさを赦す優しさが。

 けれど不意に視線は床に落ち、笑みに翳りが差す。


「でも、朝市の収入だけでは生活費だけで精一杯で……薬や診察の費用が賄えなくて……父の容体は悪くなる一方で――」


 床を見つめる彼女のかすかな声が底なしの沼に沈んでいきそうに思えた。

 その姿に、ただ無心に救いたいと願った。


「でも」


 と、サラが顔を上げた。

 無意識に手を伸ばそうとしていたことに気づいて拳を握った。


「でも、3ヶ月前。朝市を視察にきたヒース様がこの城に飾る花の管理を任せてくださったのです」


 まっすぐに私を見上げてきたサラは、これまで見てきた中で最高の笑みを浮かべていた。それはキラキラと輝くようで、彼女がどれほど深く父に感謝しているのかが伝わってくる。

 返しきれない恩がある――その意味をようやく理解して、胸に鈍い痛みが走った。


 サラを城で見かけるようになる少し前、病気の父を支える一家に支援を求める内容の嘆願や要望が寄せられていたのを、鮮明に覚えている。

 通常、要望や嘆願は個人的な内容のものを除いて概要を領主に報告する。その仕分けととりまとめは他の文官と一緒に私もやっている仕事で――あれは稚拙な筆跡で綴られた連名の嘆願書だった。最初は、規則通りに報告しない判断をした。けれどその連名の嘆願書は何度も何度も届いた。稚拙な筆跡に重ねてところどころ文字が滲んだあの嘆願書の数々は強い印象を残し――そして父はそれに目を通し、街に視察に降りた。


 あれはサラのことだったのだと、今頃繋がり歯噛みする。

 もっと早くに人々の声に興味を持っていれば、彼女を一日でも早く救えただろうか。父の代理で視察に出れば、その感謝を自分が得ることもできただろうかという不埒な考えが心の隅に浮かんで、そっと頭を振った。


「……殿下は以前私が朝市で店番をしている時にも、雇うという話を持ちかけてきたことがありました」


 急に王弟に話題が移り、背筋が冷えた。


「それで父が救えるのなら店を畳んで奉公に出ようかと一度は心を決めたんです」


 彼女は再び視線を床に落としていた。先ほどの恐怖が蘇ったのか、膝の上で強く握られた手は白く、声はかすかにふるえる。見ているだけでも辛いほどに、カタカタと足が震えて、何度か浅い呼吸を繰り返している。

 許されるなら震えるその細い体をもう一度抱き寄せて慰めでも励ましでも声をかけてやりたいけれど――きっとそれは彼女を怯えさせるだけだと自分に言い聞かせて思い留まる。


「……ご心配いただかなくとも大丈夫ですよ。覚悟を決めた矢先にヒース様が仕事を任せてくださってその必要がなくなりましたから」


 私はよほど酷い顔でもしていたのだろう。間に合わせの笑みを作った彼女はそう付け加えた。けれどそれは逆に焚きつけになり、大丈夫ではないだろう!と叫びそうになる。

 ついさっき王弟に迫られて、今までだって運が良かっただけで何度も危機に晒されてきて、いったいどこが大丈夫だと言うのか。

 けれど、痛々しいほどの作り笑いを怒鳴りつけられるはずもなくて、ただ強く拳を握って耐えるしかない。


「だから、いいんです。あれくらいのこと、平気ですから」


 彼女は口元をきつく引き結んだままで笑顔を作ろうとし続ける。


 あれくらい、と言うのか。

 あれほど青ざめた顔で耐え忍ぶことをあれくらいとか、虚ろな目で身を差し出すことを平気だと笑って言うのか!


「ならばなおさら、父上が許すものか! 君の両親だって……!」


 堪えきれずに声が荒くなる。だがサラは動じずにただ苦笑を浮かべるだけだった。


「ヒース様はきっと渋い顔をなさるでしょう。でも、殿下は怖い御方ですから。街のため――ひいては私の家族のためには、私などの矜持や貞節などより大事なものなど山ほどあるでしょう。――…それに」


 サラの表情は言葉を継ぐごとにさらに暗くかげっていく。


「それに、シオン様もご存じでしょう。私たちのような平民は貴族に何の咎もない親を殺されても文句を言えないのですよ」


 呻くような苦渋に歪む声が、ずしりと空気を重くのしかかる。


「それは一応……理解しているつもりだ。だけど――」


 言葉にならないのがもどかしくて、呻いた。

 確かに法によるなら、民は貴族の所有物だ。牛飼いの牛、農夫の畑で育てた作物や花のようなもので、愛しむのも殺すのも一存で決められる。

 けれども、その条文をうまく理解できないのだ。


「だけど君は、花や愛玩動物ではない。私も君も、同じ人間だろう? なのに、なんで――」


 亡き母の代わりに育ててくれたのは乳母で、暖かい食事をともにしたのも兄の代わりに遊んでくれたのも乳兄弟で。厳しいばかりの父の代わりに教え諭してくれた家庭教師も、身の回りの世話をしてくれた侍女達も料理人達も、皆が私と同じなのに。

 なのになんで、皆がそんな理不尽な差を受け入れるのかがわからない。


「人だけれど同じではなく、貴族と民だからでしょう?」


 呆れといたわりとがない交ぜの笑顔に、いっそう息苦しくなる。

 彼女が貴族の家に生まれていれば、同じことが起こっても状況は全然違うはずだ。生まれだけでなぜこんな埋めようのない運命の差ができるのか。

 そんなことを言うと大抵子供っぽいと苦笑いするか、奇異の目で見られるか。誰も共感してなどくれないけれど――。


「私はあなたのその希少で尊い優しさを、とても嬉しく、好ましく思います」


 空耳かと疑うほどごくかすかな言葉に、はっとして彼女を見た。サラは両手を胸の前で重ねて少しはにかみ、意志の強いまっすぐな視線を返す。


「けれどご理解いただきたいのです。私は両親を見捨ててこの街を出ることはできないのです」


 まるで聞き分けのない子供を優しく諭す母親のような声音だったが、しかし断固とした強い拒否だった。


「うん、それはわかった」


 その点においては、受け入れざるをえないのだろう。

 家族のためにどんな苦境にも耐えるというその覚悟と強さは、羨ましくすらあって――守りたい、と強く願った。


「私のことを気遣ってくださるのならば、あなたはヒース様の後を継いでこの街を、街に住む私たちを守ってください」

「………うん」


 元より父の後を継がなければならない身の上なのだから一も二もなく頷くべきなのだろうが、サラが距離を置こうとしているから返事が重くなる。



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