蒼い湖底

領家るる

。o *

 気泡が舞い上がり、水面みなもに波紋を生んだ。水底から見上げる水面の裏側は、光が揺蕩い美しく、響き切った余波が溶け込み静寂しじまを迎えるにつれ、涙ぐんだ瞳の様な不思議な煌めきを映していた。

 落ち着き始めた水面が大きな水音を立てて産み落としたのは、精霊の様な真っ白な男だった。長躯を沈めて舞い降り、湖面の土を巻上げながら、私の前に膝を付くと、柳眉を下げた柔らかな微笑み浮かべた。私の黒い髪が彼の柔らかな髪に絡んでしまいそうなほど距離が近い。男の指が私の頬を包み、さらに鼻先が近づいてくる。もしかしてキスをされるのかと思ったけれど、彼の唇は届かなかった。



「寒流月を帯びて澄めること鏡の如し」



 水の底にいるというのに、彼の声は透き通るようによく響いた。この言葉は聞いた事がある……、これは、確か……。



「この言葉の意を解いて」

 そう残し、真っ白な男の手は離れて行った。


(寒流……月を、帯びる……)


 私は水面を見上げた。真っ白な男が飛び込んできたことで、水面は再び揺れている。寒流月を帯びて……、ならば飛散したあの煌めきは、月の光なのかしら? そう予想を付けると、少しずつ輪郭を取り戻す煌めきは、丸に近いように見えた。けれど不確かで、揺らいでいて、判別が付けられない。きっと未だ、あの水面は泣いている。


(私はなぜ…… 水底に沈んでいるの……?)


疑問が浮かび上がる。

沈殿していた湖底の泥に、小石を投じて濁すように、得体の知れない不安感に駆られていた。



(私は……)





蒼子あおこ着いたよ。綺麗な豊麗山でしょ? ここからひたすら真っ直ぐ登れば例の湖に着くからね。本当に綺麗だから楽しみにしてな!」

 肌寒さを覚える九月の終わりに、私と千尋ちひろは東京から二時間ばかり車を走らせ、とある山の中腹の駐車場に到着した。此処までが車が登れる限界だそうで、その先は徒歩で向かうらしい。車から降りてリュックを背負う千尋を追うように、私も助手席の扉を開けた。

「楽しみにするのはいいけど、本当に私も行っていいの?」

 私はショルダーバッグを担ぎ直しながら、再三繰り返した質問を投げた。何度も問うくらいに心配でならないのに、千尋の返事は毎回同じ。

「良いって言ってるじゃん。バレなければ大丈夫だから」

 千尋は悪戯を隠す子供のように無邪気に笑う。危なっかしくて、私はついお節介を言ってしまう。

「そうやって楽観的に笑うけど、本当にばれたらどうするのよ! 会社の敷地に無関係な人間を連れ込んだりしたら、普通はクビになるわよ?」

「大丈夫だよ、なんとかなるから!」

 千尋は満面の笑みで親指を突き出した。

 幼馴染の千尋は今年で二十六歳になる筈なのに幼さが抜けない。人懐こい犬みたいな男で、へらへら笑って好き勝手やらかすくせに頭は良く、大学院で水質資源の修士課程を終えると、大手飲料会社の研究員に就職した。夢を断たれ、契約社員を齧りながら絵を嗜んでいるだけの私とは正反対だ。幼馴染の誼でこうして連れ出してくれるけれど、正直眩しい。眩しくて鬱陶しくて、いつも邪険にしていた。邪険に扱う割に、いつも付いて行ったのは、日向にいるみたいで暖かかったからだと思う。

「そんな疑わしい目で見るなよ、確かにバレたら色んな所から怒られるけど、蒼子にはどうしても見せたいんだよ。蒼子の水彩で描いて欲しいなぁって思ってたんだ。綺麗に描いて絵画展とかに出しなよ」

 私はどんな目で千尋を見ていたんだろう。数日前に切りすぎてしまった前髪を指で引っ張っても、目つきの悪さは隠せなかった。自分の不器用を悔やむ羽目になるとは思わなかった。今はちょっと、もっと、変な顔をしてる気がする。せめてもの抵抗で俯いた。

「勝手に決めないでよ、もう自分の絵は何処にも出さないって決めたの」

「そうなの?」

 千尋は瞼をきょとりと丸めた。けれどすぐに口端を持ち上げて笑う。

「でも、きっと、あの湖を描きたくなるよ」

「自信があるのね」

「もちろん」

 千尋は相変わらずの屈託ない笑顔を見せ、山道へ足先を向けた。途中にあるキャンプ場までは造られた山道があるらしいが、その後は草木を分けて進むことになるらしい。高校生の時に買った運動靴で事足りるのか不安だった。昨日まで雨に降られて、土は雨を吸っている。青い空を映す水溜りを飛び越え、千尋は意気揚々と歩き出した。

「蒼子にだけ、世界で一番綺麗な水を見せてあげるよ」

 そう言いながら肩越しに振り返った千尋の笑顔は、口端を持ち上げ挑発的で、生意気で気に入らなかったけれど、すごくドキっとして、ひどく印象的だった。なのに、千尋自体がどんな顔だったか、思い出せないでいる。その後すぐに、顔を反らしてしまったからかしら……? 

 違う。車の中に居る時も、屈託なく笑いかけてくれた顔も、真っ黒くもやが掛かって解らない。覚えているのに、その絵が浮かばない。一体どうしてこんなことになってしまったの?

 

 コポリと気泡が耳を撫で、回想から目覚める。水の感触を思い出した。そういえば、この水底は何なのだろう。千尋が連れてってくれた、湖の底? 顎を引いて正面を向くと、螺旋らせんの様に美しく差した斜光が湖の青を染めていた。手前はエメラルドのようで、沖に向かうに連れて真っ青な闇が広がっている。千尋が私に見せたかった、世界で一番綺麗な水の中が此処なのか。 

ねぇ千尋、此処が貴方のいう湖なら、綺麗では無さそうよ。

 私はため息を付いた。すると気泡がポコリと音を鳴らして舞い上がっていった。


「水ってね、この世で一番美しいと思うんだよ」

 車内で完結したと思っていた千尋の水トークが再燃していた。一時間弱、山を登っているのに、よく喋れるものだと思う。私は既に疲れていた。

「色に当て嵌めても、水色って綺麗だものね。私は色の中で青系が一番好きだし、何を塗るにも青しか使わないし。海の青とか綺麗……。そういう意味じゃなくて?」

「色に例えるのは蒼子らしいね。水の性質を紐解いても綺麗だよ? 水が持つ『洗う力』が凄いんだ」

「化学の話されても解らないわ、私、美大生だし」

「じゃぁ美大生にも解るように目線を合わせて水の話をしよう。師、宮本武蔵曰く、有名な格言があるでしょ?」

「寒流月を帯びて澄めること鏡の如し」

「さすがだね」

 些か大げさに褒められて、小ばかにされた気分だ。

「ほら、文学の世界でも、心を洗いましょうって話をしてる人はいるじゃん。昔はね、止まった水に心を映して自己啓発をしたんだよ。水の力を借りて精進する、美しい話だねぇ」

 煩いなぁと、悪態付いた瞬間、小枝に頭を撫でられた。

「誇大妄想しすぎよ。心が水洗い出来るなら、既に世界は平和だわ」

「でも、いい話じゃない?自分の心を洗って他人の心を映す。他人の事を考えるってそういう事なんじゃないかな。まぁ、精神論は芸術家の領分だろうけど」

 そこまで聞くと、千尋の魂胆が解った。

「それって、もしかして……」

「見えたよ」

 会話を遮るには絶妙なタイミングで足を止めると、千尋が大きな枝を持ち上げて視界を開けた。緑葉の笠の向こうに広がっていたのは一面の青で、水平線を反転した鏡の様にあの豊麗山を映している。穏やかな水流が光の筋になって……、

 あれは陽光? 瞬いては消える光の玉は蛍みたいな軌跡を描いて神秘的だった。

「ここはね、県を跨いだ三つの山脈から流れて出来た湖なんだよ。水質検査をしても、綺麗過ぎて異常値を出すし、澄みすぎて魚も蛍も住めない。生きているのはあの光だけ。ある科学者は三途の川の一部と言い、別の科学者はノアの水溜りと言った。パンドラの箱の教訓を得て、国が隠した湖なんだよ」

 空色だった青が、あの光を飲み込むと違う青になる。幾重にも重なる水面の青は、全部違う色。水はこんなに綺麗なの? 

 水面の青に見入ってしまい、言葉が出なかった。心の底からこの青が欲しいと思った。だってこんな青色知らない。私が作れなかった、濁らない青。

「俺さ、蒼子が作る『青色』が、凄く好きなんだ」

 いつの間にか歩み寄っていた千尋に気づいて、振り返った。

「ねぇ蒼子、水って不思議なんだよ。山を降りたらまた話してあげる」

 それは、この湖の秘密を教えてくれるってこと? なんて、食いつき過ぎかしら?

「本当? さっきの続きで洗剤の話をしないわよね?」

「違うよ、真面目に言うよ。」

 心の底から感動していた自分が恥ずかしくて、茶化してしまったのがいけなかったのか、見上げていた千尋の顔がとても真剣な色を帯びていて、言葉が出なかった。一縷いちるの戸惑いを隠せずにいると、千尋は少しだけ優しく笑った。

「俺、仕事と蒼子には真剣だよ。」

 息を飲んだ途端に心臓が煩くなって、耳が熱くて、土を踏む音とか、聞こえなくて、俯きつつあった顔を持ち上げると、首が痛くなるほど千尋との距離が近かった。

「告白されたと思った? 」

 図星を差されてさらに赤くなったことに気づいた。千尋は「違う」と取り繕う私の所作を含み笑った後、「今はしないよ」と告げた。その一瞬、思わず落胆しかけたけれど、まだ緊張も続いて、心の拠り所がない。

「……今度、改めて伝えに行くから」

 今度、ということは今ではないから、返事を考えなくてもいい。そう思うと安堵した。「でも、」と千尋が端を発して、私の肩は跳ね上がる。

「今日はずっと、蒼子のことプロポーズしてる気分」

 もう、もう! 信じられない。付き合ってもいないのにどういう了見か解らなくて、硬直したまま目が離せない。顔が近づいてくる。唇が触れるのかと思って、どうしたらいいか解らなくて、強く瞼を瞑ってしまった。すると千尋はくすりと笑い、私の頬を摘まんで離した。

「今はしないってば」

「っ……!」

 迂闊にも期待してしまった分だけ腹が立って、人の心を引っ掻き回したあの顔を思い切り引っ張ってやりたくて、手を伸ばした。こんな人生諦めた女の何処が良いの? 癇癪を起した子供みたいに彼に向かった。捕まえたら教えてくれる気がして、けど捕まらなくて、捕まえても恥ずかしくてまた離して、でも知りたいからまた手を伸ばした、その時には……



 そうだ、結局、千尋は捕まえられなかった。

どうして? 

 それは、泥濘ぬかるみに、足を取られて、




そして、





そして……





 思い出した。

 私は飛び込んだ。

 山の斜面を転げ落ちて行く千尋を追って、

 たくさんの木の枝や、泥が追い掛けてきて、



 私と千尋は巻き込まれてしまったんだ。





コポリと気泡が耳を撫で、水の感触を思い出す。水の中なのに、小粒の雫が舞い上がっていった。私は泣いていた。

「千尋……」

 足を踏み外した千尋に手を伸ばす一瞬を想い出した。草木が生い茂っていて気付かなかったけれど、急斜面で石が所々に置いてあって、凄く高い処から転がり落ちてしまった。死んでしまったかと思うと、しっくりくる。千尋もきっと、助かってはいない。


 どうしてこんなことになってしまったの? 転がる瞬間、もっと話した気がする。希望が生まれた気がするのに。

「でも、生き返ったところで……千尋はいないのかしら」

 絵を描いても見向きもされなくて、生きる為に使い捨ての仕事をして、そんな毎日に戻るなら、生きていようと死んでいようと変わらない気がする。だけど、

「死んでいいから、最後に千尋に逢いたい……」

 彼の言っていた、『今度』言う筈だった言葉を聞いてから逝きたい。それくらいなら、許して欲しい。




「何、言ってるの?」



 ざぶんと、何かが飛び込む音がした。顔を上げると、あの白い男が沈んできて私の胸倉を掴み寄せる。思わず声を上げる程に、さっきとは違いとても怖い形相で、私を見下ろしていた。

「素直じゃないね」

 低い声が鼓膜に届く。あまりに怖くてこの男を凝視しているうちに、あることに気づいた。私の目を覗きこんでくる真っ青な瞳も、瞼の輪郭も、真っ白だから気づかなかったけど、見たことがある。

「生きて居たかったくせに」

 引き寄せられた分、勢いをつけて湖底の壁に叩き付けられた。生まれた波紋と共に、また一つ気泡が舞い上がった。

 



「蒼子、生命の始まりには水が必要で、人は水が無ければ生きていけなくて、俺たちの文明も水が無ければ成立しない。死んだら三途の川を渡って魂が生まれ変わるっていうでしょ? 水が循環するように、俺たちの命も水と共に巡るんだ。あの湖は、命の中継地点なんだって」

 来た道を戻る途中で、千尋は宣言通り湖の秘密を教えてくれた。三途の川の中洲の様なものだと思えば良くて、あの光は浄化された魂の一部らしい。

「俺も水に還るのかなぁ。来世はいろんなものを洗浄する役目を負って生まれたいな」

そしたら地球を綺麗に出来るのにね、と千尋は笑った。環境資源に従事している彼らしい言葉だから、冗談だとは思わなかった。

「相変わらず物体ばかり洗うの? 私の心も洗ってくれたらいいのに」

 先ほどの先人の言葉を借りた。思わせぶりな事ばかり言ったくせに、死んだ後の話をするから、少しだけ拗ねていたのかもしれない。

「人は自分で自分の心を洗うんだよ。昨日より今日を良くする力を皆持ってる。あれはそういう意味でしょ」

「……私は自分で洗えない人間だったわ。千尋がここに連れてきてくれなかったら、また絵を描こうって、思うことはなかったし」

 千尋は歩みを止めて振り返った。私の言葉が意外だったのか、暫くお互い沈黙した後、照れくさそうに笑い合う。

「本当?」

「でも、あんなに綺麗な色は、何年掛かっても出せないから……、だから期待しないで、描いたって誰にも見せないし」

 あの青は人の魂が洗われた色だ。一体どこまで清らかな心を持てば描けるのだろう。まして、こんなに弱気でどうしようもない私が。先ほどまで胸に満ちていた感動を覚えている。あの色が描ければ、私はきっと、変われると思う。けれど、踏み出そうとすれば思い出す。汚い色と言われた、卒業試験の一枚絵。美大卒業と共に私は絵を捨てた。


「蒼子の色は綺麗だよ。あの湖面みたいに、人の心に残る青色が描けるよ」


 私の絵を褒めてくれたのは、いつも貴方だった。


「だからもう一回頑張ろうよ、俺が君を支えるから。一番綺麗な水を2人で届けようよ」




 ねぇ千尋、

 日向にいる貴方が手を取ってくれれば、私も日向を歩けるかしら。




 茜色の陽射しが千尋の輪郭を映す。綺麗な曲線を描いた瞼、眉に乗る柔らかい髪、柳眉を下げて笑う困った時の癖。そうか、貴方は……、湖の中で真っ白になった貴方は、もう……。

 私は千尋の頬に触れようとした。不安定な足場だというのに屈もうとした千尋の体は、瞬く間に落ちて行った。


 コポリと浮かび上がる気泡を、千尋の白い手が掴んだ。

「蒼子、世の理はね、俺たちが思っていた通りだったんだよ。人は、死んだら水に還る。空に還って雨になり、土に還って川を産む。生命の源が水である通り、水と共に輪廻する。俺たちが知らなかった事実は、水には一つだけ、力を与えられているってことだ」

「水に与えられている……ちから……?」

「命を育むことが出来る。それが水の真の力なんだって」

 それは、遠い先祖が海の底で命を宿したように……? 数多の水分が、人の一部となって生を担うように……? 水素が文明を進化させるように……? それぞれの役割に応じた、尊い力があるということ……? なら、今の貴方には、

「俺に与えられたちからは、蒼子の為に使うよ」




 寒流月を帯びて澄めること鏡の如し


 自分の心を磨きましょう。心の淀みを流しましょう。まっさらな鏡の様に美しく澄んだなら、その心に俺の心を映してくれ。俺が思うこと、君に望むこと、今の君なら解るはず。




「一緒に死ぬなんて言うなよ」

 千尋は悲しそうに柳眉を垂らし微笑んだ。二人で額を合わせると、少しだけ鼻先が触れる。水温の低さの中でも感じる、貴方の体温。白くなって、水の一部となっても、千尋の暖かさは変わらないのね。


「千尋、千尋、……」


 温もりが欲しい。もっと欲しい。暖かい。ここは寒いわ……。

貴方は私を救う為に戻ってきてくれたの? 貴方は此処にいるのにどうして一緒に戻れないの? 2人で生きていくという選択は、どうしてできないの? 


 さっきから気泡が舞い上がる。こぽりこぽりと幾重も音を立て、水面に浮かんでいった。さっきまで確かに沈んでいた筈の私の体も浮力を思い出し、浮かび上がった。まだ、離れたくなくて千尋の真っ白な身体にしがみ付くと、千尋は湖底を蹴り上げ、私の浮力を借りながらゆったりと舞い上がった。強く抱き合う。私の黒髪が舞い、千尋が其れを撫でてくれた。千尋の首筋に顔を埋め、水中だというのに息を吸い込むと、水の匂いの中に確かな彼の残滓を見つける。死んでも、水に還っても、これは千尋だ、……大好きだった、千尋なんだ。


 水面に向かった気泡が、息継ぎをするように顔を出して破裂する。その儚さを人は泡沫と呼んだ。水面を見上げると、大きな月が映っている。あの煌めきはやはり月だった。斜光の眩しさに取り込まれそうになると、千尋は私を離そうとした。それが嫌で、手を伸ばして、腕、手首…… かろうじて手のひらを、最後に捕まえた。

「泣きすぎだよ、蒼子」

 千尋、困っているの? 柳眉を下げて笑うの、貴方の癖だったわね。私はそんなにひどい顔をしている? さっきから舞い上がる気泡は、私の涙だったの? それでもいい、それでいいから、未だ…… だって、こんなのあまりにも悲しい。離れたくない……、離れたくないよ、それに、私はまだ、貴方に何も伝えてない。愛してるとも、言えてないのに、



「……君が泣いたら、俺が隠してあげるよ。雨が降ったら、思い出して。だから、行っておいで」


 背中が、足が、少しずつ湖から浮かび出る。少しずつ、貴方から離される。遠くなるはずなのに、ふわりと浮かび上がる千尋の顔が近づいてきて、私はその意味を察していよいよ叫び出した。ただがむしゃらに叫んだ唇を千尋にふさがれて、そのまま押し出されるようにして水面に吐き出される。そんな一瞬の瀬戸際で、唇の余韻もすべて水飛沫となり消えた。



「――――――――っ、はぁ……!」

 湖面から飛び出した途端、忘れていた呼吸を強いられ、肺と腹が破裂するかと思う程に息を吸った。仰け反る程に酸素を取り込み、ゆっくりと吐き出しながら体はシーツに落ちて行く。そこから深い呼吸を繰り返し、鼓動が走り出す音を聞いた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。靄がかった視界が焦点を探し、徐々にピントが合わさってくる。同時に聴力も戻り、近づいてくる足音に気づいた。ガラリと戸が開く音につられて視線を配ると、そこには母が立っていた。


「蒼子! よかった、目が覚めたのね!」

 駆け寄る母に抱き締められ、皺くちゃの瞼に涙を見つけた。

「……お母さん……私、生きているの?」

「そうよ、生きてるの。貴方だけでも助かって本当に良かったわ……」

 貴方だけでも、その言葉ですぐに理解した。いや、知っていた。知っていたけれど、水面から顔を出せば夢だったんじゃないかと思えたかもしれない。泡沫の夢、水底で見た、夢であれば良かったのに。夢だったのは、あっちの方。

「蒼子、先生を呼ぶわね。何か欲しいものはない?」

 そうか、此処は病室なのね。此処は病室で、医師の先生がいて、私だけが助かったんだ。知っていたわ、知っていたけど、……現実にしないで。

「……水が欲しいわ」

「水ね? 下の自販機で買ってくるね。喉が渇くのは良いことだそうよ? 看護婦さんが言っていたわ、身体が生きたい証拠なんですって」

 一安心をしたように健やかに笑った母の顔を見て、指先が震え始めた。その言葉に無性に腹が立って、悲しくて、頭も目頭も熱くなって、こんなのどんな感情なんだか、自分でも解らなくって……、解らないから、ただ泣くしか、なかったのかもしれない。


「……じゃぁ、いっぱい、水を! 持ってきて! 溺れるくらい、持ってきてよ! ちゃんと生きてくから、浸るくらい濡らして!」




 病室の窓を、雨粒が叩いた。

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