お嬢様の言う通り!

 『お願いだから助けて!』

  桃色の文字は独特の丸みを帯びており、間違いなくモモの筆跡であった。


 凌士【ルビ:りょうじ】はモモの残した便箋を握りしめ、居間を飛び出した。ポップでファンシーな便箋の最後には小さな文字で『お庭』と書かれており、モモの独特の丸い筆跡を震わせている。凌士はその便箋を見るや、直感的に「主の危機」だと悟ったのであった。

「お嬢! 何処におるんですか! お嬢―――― !」

 地響きするほど廊下を軋ませて走り、納戸を勢いよく開け放ちながら、姿見えぬ主を呼んだ。巨熊の咆哮の様な野太い声が響いたが、夜の静寂に吸われていく。池に波紋を生むほどの大声も、鹿威しのトン、という一拍により打ち切られ、静けさを取り戻した。モモから返事はない。

「お嬢……、庭の何処におわすんですか、かくれんぼなんてする時間じゃあらしませんで……」

 凌士は泣く子も黙る強面をこれでもかと歪め、庭先を見渡した。時刻は十九時、太陽も寝付いた時刻だというのに、小学4年生のモモの姿は見当たらない。凌士は沓脱石【ルビ:くつぬぎいし】に並んでいたサンダルを履き、柔らかな土を踏むと、垣根に頭を突っ込むほどに隈なく探し始めた。一九〇もある巨体は宛ら弁慶のようで、紐で括った白髪交じり髪が枝葉に引っ掛かる。無精髭を生やした不惑の男は一心不乱に庭中を探した。庭先に設けた小さな電灯では照らし切れないのかと思い、隈なく庭を練り歩いたが、小さな姿は何処にも見つけられなかった。

「お嬢……」

 便箋を握る手に力が籠る。

「お嬢……、まさか、誘拐でもされちまったんじゃ……」

 不安が悪い予感を呼び起こす。こうなると自分を思い詰めても来る頃合いで、凌士は唇を噛みながら手元の便箋を睨み付けた。いよいよ警察に知らせなければならないのかもしれない。

 モモは凌士の恩人だ。元々ヤクザ者で何処にも行き場がなく、ゴミの様に転がっている所を拾ってくれた。モモは大企業のお嬢様で、孫にとんと甘い祖父の伝手で運転手の職を貰い、忙しい両親に変わってモモの食事管理と送り迎えをすることを条件に衣食住を手に入れた。前職とは天と地ほどの差がある仕事だが、真っ当な世界に居場所を作れた恩は大きい。何より、モモと過ごす毎日は、野心で汚れた過去の自分を浄化するような尊いものになっていた。そんな恩人たるモモを、危険な目に遭わせるなど許されない。何より、自分が許せない。

気持ちばかりが逸るその時だった。ガサリ、と僅かな物音が聞こえたのである。方角は家の真裏だ。確か、庭の手入れ用具を入れておく物置小屋がある。凌士はもしやと思い、全力で庭を駆け、物置小屋の前までやってきた。目を凝らしてみると閉められている筈の納戸の鍵が開いている。凌士はまさかと思い、納戸を開けた。

「きゃ……!」

「お嬢!」

 納戸を開けた途端、モモの小さな背中を見つけることが出来た。モモはふわふわのワンピースを着ており、長い髪を背中に下ろしている。その姿は昼飯後に部屋に籠った時のままだった。おしゃれでおませなモモが、服が汚れる物置きに好き好んでやってくるとは考えにくい。何か、のっぴきならない理由があるに違いなかった。

「お嬢……!ご無事でしたか、心配致しました! どうなされましたかこんな所にお隠れになって」

 凌士は体を屈めて膝を付き、モモと目線を合わせようとした。納戸一枚分はあろうという凌士の巨体は、それだけで月明りを遮断する。暗がりの中でモモの大きな瞼が震えていた。

「う、う、う~~~~~! 凌士! モモを助けなさい!」

 モモは大粒の涙を溜め、凌士の胸板に飛び込んだ。凌士は厚い胸板に引っ付いて泣くモモの身体を抱き留め、背を擦る。

「助けてだなんて書置きされちゃぁ、驚いちまいましたよ? ですがこの凌士、お嬢には御恩がございます。なんなりとお申し付け下さい」

 モモの背を抱く凌士の腕に力が籠る。小さな身体は腕の中で小刻みに震えていた。凌士の様な強面を拾ってくる気概を持つモモが、こんなに何を恐れるのだろうか。こんな姿は見たことがない。凌士は強大な敵がいるのだと確信し、腹を決めた。

モモは背中をあやしてもらううちに落ち着きを取り戻し、安堵の一息を吐くと、凌士から体を離した。跪いた凌士としっかり起立したモモは、ようやく目線の高さが釣り合う。

「……ア、アクマが来るの! 悪魔よ!」

「――――――悪魔、ですか?」

 凌士はモモの言葉を復唱した。てんで検討が付かないし、意表を突かれてしまった。悪魔、と言われる程の恐ろしいものが何であるか解らないが、とりあえずモモの怯え様が尋常ではないことだけは解る。凌士は呆気に取られた表情を引き締め、気を取り直した。

「お嬢、その悪魔ってのは、いつ来やがるんで? この凌士がお嬢の盾となり、追い払ってみせやしょう!」

「ほ、本当? 凌士は強いの?」

 モモは涙をためた瞼を大きく見開き、期待を込めて問う。凌士は大きく頷いて応えた。

「お任せ下さい。凌士はいつでもお嬢の味方にございます」

「じゃ、じゃぁ! 凌士はモモを守りなさいっ! 絶対よ! 命令なんだからね!」

「承知しました」

 モモは高飛車なお姫様だ。小学4年にしておすましを覚え、担任の松川をしこたま困らせるほどの小生意気な女の子である。殊更、凌士に対しては生意気さに磨きが掛かっており、何を言うにも上から目線が定着していた。恩義があるので当然と言えば然り。縦社会で生きてきた凌士も当たり前のように受け入れているが、この年代で覚えるべき年配への謙虚さはない。

「それで、その悪魔ってのは具体的に一体なんでしょう?」

 凌士は先ほどから自分の疑問が一つも解決できていない。複数回問うて、ようやくモモの重い口が開いた。

「……悪魔は、恐ろしい人よ。モモを陥れようとしてるの! モモが嫌だって言っているのに、わざわざ家まで追いかけてきて、モモを苛めに来るのよ! もうすぐ、来るわ! 家に来るの! もしかしたらもう、玄関先に来てるかもしれない!」

「なんだって?」

「お、鬼よ! あれは平成の鬼! 悪魔で鬼で、よ、妖怪! モモ怖い!」

 凌士は再び震えはじめるモモの両手を握り、詳細を聞きたがった。しかしモモは凌士の武骨な手を上下に揺すって騒ぐばかりで、具体的な話は何一つ出てこず、怖い怖いと訴え続けた。やがて凌士の方が詳細を聞くのを止めた。


こんなに怖がる顔を見たいわけじゃない。モモには笑っていて欲しい。願わくば幸せな人生を歩めるようにと願うばかりなのだ。

誰かの為に働くことの尊さを教えてくれたのはモモだから。だからこそ、モモを怖がらせる存在を許すことは出来ない。それが自分でも他人でも。『悪魔』がどんな残忍な人間か解らないが、全力で払い退けるまでのこと。一度捨てた命なら、二度死ぬ時は今しかない。


 その時だった。玄関のインターホンが鳴った。

凌士とモモは即座に振り返った。モモは「ひ!」と引き攣った声を漏らして凌士の胸板に再び抱き付く。頼り甲斐のある大きな身体にしがみ付いて震えるモモの背中をさすってやると、凌士はいよいよ立ち上がった。

「お嬢、自分の傍から離れちゃァなりませんぜ」

 凌士はモモの手を引いたまま物置小屋を出て、庭を周って玄関に向かうことにした。

 玄関先には黒い影が見えた。背を丸めた人影は扉が開くのを待っている。凌士は鬼の様な形相でその『悪魔』の背後から近づいていき、声をかけようとした。しかし、『悪魔』の横顔を見るや、凌士は驚いて立ち止まってしまった。

「……あれ、モモさん。こんばんは、お庭からお出迎えしてくれたんですねぇ」

「……ひ! 悪魔!」

 モモは背筋をピンと伸ばして悪魔に―――――担任の松川に向き合った。松川はモモの担任で、白髪が目立った優男風の教師だ。とある事件をきっかけに、モモにとって唯一無二の天敵になったのである。松川は抱えていた茶封筒を持ち上げて見せ、柔らかく微笑んだ。

「モモさん、先ほどお電話で伝えた通り、この前のテストの答案、持ってきましたよ。一生懸命探したら、掃除用具入れの中にしまってありました。見付かって良かったですねぇ」

「そ、それはしまったんじゃなくて、モモが自分で隠したの! 持ってこなくて良いって、言ったじゃない! 悪魔! 鬼! 凌士! 松川先生を追い払うのよ!」

 モモは顔面蒼白ながら松川に食って掛かり、再度凌士に命じた。しかし凌士からは返事がない。モモは頭何個分も上についている凌士の顔を見上げると、訝しいものでも見るような視線とかち合う。

「な、なにようその目は! さっき、モモを守ってくれるって言ったじゃない! 投げるの! ポイよ! 追い払うの!」

 モモが闇雲に松川を指さして命令をする。凌士は先ほどまでの熱量は何処へやら、水を打った様に黙り込み、半目になるほど細めた瞼でモモを見下ろしていた。そしてしばしの間、思考に耽った後、松川の傍まで歩いていき、茶封筒を受け取った。深々と御礼を返した後、その足でモモの父がいる部屋まで足早に向かったのである。


 お嬢 俺には勉強のいろはなんてなぁ、解らねぇんですが。不肖ながらこれが、お嬢の為だと思うんです。


「ちょ! 駄目よ! それは! そのテストはパパに見せたら駄目なの――― !」

 モモは大慌てで凌士を追いかけていく。置いてけぼりをくらった松川は仲睦まじい二人の姿を眺めながら、のんびり笑っていた。



(全3807文字)

寄稿:「歩みを寄せて」おっさん×少女アンソロジーより(2016年10月発行)



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