acid -嘘と紫陽花といくつかの色-

アスクス

第1話

 梅雨の時期は、アパートに居る時間がしんどいことこの上ない。高い湿度ともった空気で息を吸うことでさえも何をするにもメンドくさくなる。

 いや、平凡で凡庸な僕は基本的になんでもメンドくさい。

 メンドくさいというか、やってもやらなくてもいいならば、やらなくて良いような気がしてならない。

 努力をして何か変化が起きてきた人生であるならばともかく、何か変化というものを感じたことがない。だとするならば、省エネで生きたいと思う。。

 十の力と一の力と零の力で、結果に大差がないならば、零の力で良いのではないだろうか。大差がないというか差なんて実質無いようにも思う。

 だから、悪あがきとか、最善の努力というもののイメージが上手く掴めない。

 そもそも『あがく』とか『努力』とかは、やってなんとかなる人のための言葉だ。

 こうしてウダウダとグダグダとしていていたところで、誰も朝食は作りもしないし、脳内のイメージで彼女を想いおこし、体を揺すって起こしてくれるなんていう期待をしたところで、それらの期待は全て無駄なだけで。

 やっとの思いでテレビをければ、どうでもいいキャスターが、おはよーございまーすとお辞儀をしている。

 それを見るなりテレビを消す。

 おはようですか?

 ああ、そうですか。そうでござんすか。

 よござんす。

 ――ああ。

 眠い。

 金曜日は仕事が無い。

 無いと言っても別に何も偉い待遇でもないし、それは非常勤という契約で一平凡の小市民としての意味でしかない。むしろ就職をしなかった者として、悲惨な意味合いかもしれない。

 なぜ就職しなかったのだろうかと思うときもあるけれど、その理由さえ思い出せない。むしろ理由さえ無かったと思う。

 神奈川の某市役所にて、週四日勤務での非常勤をしている。古いパソコン内のデータや、紙媒体でのデータを新しいパソコン用のデータに打ち起こす業務だ。

 一太郎、ワード、エクセルの三種類が主なフォーマットで、それらの新しいPCでのファイル形式で書き直さねばならないのだ。

 ところがご年配の方ばかりでそうした入力作業はおろか、ウィンドウズというOSの操作さえも難儀な人たちが多い状況で、それらをサポートするいう意味で僕の業務が存在する。

 そういうわけで、週の半分は周りのおじさん、おばさんのパソコンのヘルプ役という業務が多い。

 ヒラガナが打てず、キーを押しても英語になっちゃうとか、ファイルの保存の仕方が分からないとか。LANにつながらないとか、そんなんばかりだ。

 特に変わり栄えのしない日常は繰り返され、金土日と続く三連休も特に何をするでもなくいつも終える。

 昨年の三月に高校を卒業し、それ以来非常勤のお役所勤務。

 単調な日々。

 特に資格も免許も無い。

 非常勤といっても空いた時間で何かをしたかったわけでもなく、夢はミュージシャンやマンガ家でもなく、ただ、そうなるようになっていたとしか考えていない。

 気が付けば二〇歳。

 自分の人生には特に何も期待なんてしていない。

 ハルマゲドンでも起きれば良いのだ。

 僕が十二才の時は世界の滅亡がやってくるなどと、言っていたのに。――いつになったら滅亡してくれるんだ。

 滅亡も歓迎だ。惑星が地球に衝突するので、明日全員死にますとか言われても何も抵抗がない。

 なんていう妄想とウトウトとした時間を繰り返してニ、三時間。そうした無駄な時間の遣い方に心底嫌気がさしてようやく起きあがった。

 テーブルの上には昨晩に食べたコンビニの弁当が散乱していて、その匂いもまた部屋にこもる。

 ――ああ、この弁当を片付けることが、億劫だ。

 普段は自炊なのだ。

 添加物の節制で体の健康を、なんていうものではなく、節約で米を炊いているだけだ。

 それが昨晩に限って、コンビニの弁当を食べていたのはそれなりの理由があってそれは前日の残業のせいである。

 元より僕の仕事は、少々のドキュメント作り・PCのヘルプサポート・ネットワーク系の設定・調整程度で、残業などする必要がないほどの業務だ。

 ところが今週は訳が違った。

 忙しかった。

 なんだか、誰かが火曜から役所に来ていないとかで、無断欠勤だかでそのしわ寄せをくっていた。

 同じ課の、――難波なんばさんという女性が来て居ないという話だった。

 そんな訳で、難波さんの分の作業を、分散して行う形になる。

 夜九時に業務を終え、帰ってきた。

 そして。

 ――ああ。そうだ。忘れていた。

 このまま忘れてしまえば良かった。

 電話が。

 電話が鳴ったのだ。

 昨晩、家につき、弁当を|むさぼっていたところ、携帯電話が鳴ったのだ。

 知り合いからの電話であった。南方みなかたという親戚筋の古い知り合いの女性だ。南方橘音きつねの名前で着信表示がされていた。

 南方橘音は僕の同級生だ。

 遠い親戚関係でもある。

 茶で口の中で噛んでいた、弁当の付け合せのスパゲッティを緑茶で流し込むと、鬱陶しい感情を持ちつつ電話に出た。

 電話の声は橘音ではなく、橘音のお姉さん紅子べにこさんの方であった。

 電話の内容はなにやら、パソコンがトラブっているから、明日午後一時頃に見に来て欲しいという話だった。

 南方の姉妹が住むマンションは幼少のころからの付き合いもあり、度々呼ばれるのだ。

 仕事柄、パソコンに詳しい人という印象もあるのだと思う。

 実際はそんなに詳しくは無いのだけど。

 ――時計を見ると午後一時を十五分ほど、過ぎだしていた。

 弁当類をゴミ袋に突っ込み、、部屋着から着替え、食パンを一枚食べて、麦茶を飲むとようやく傘を持ち家を出た。

 梅雨の時期は、道を歩く作業も難儀で仕方が無い。

 べっとりとした空気のなか、傘を差して歩く。

 鼻腔の中に水分が溜まる感覚は好きではない。

 水を溜めた道路の上を歩くにも、ストレスがかかる。

 靴の中に水が侵食して来た時にはもう、その場で人生のリセットボタンを押したい衝動に駆られる。

 リセットはありませんか?

 ――電源しか無さそうです。

 セーブ機能はありませんか?

 ――ありません。

 何時代のゲーム機ですか?

 ――バカげたことを。

 歩く道々は家々の合間を縫って歩くだけなので、コンビニも店もない。

 ただの川崎の郊外。

 道の途中にある、先月潰れた会社の社員寮跡地を見れば、雑草が生え放題。じゃがいもか、ナスでもここにこっそり植えておけば、一夏ひとなつ食費が助かったかもしれないとか思った。

 雑草と草木。紫の花弁。赤い花弁。捨てられた空き缶。濡れた週刊誌。

 無かったことにされた土地の無かったことにされた物。

 僕もいっそ無かったことにしくれないだろうか。

 南方のマンションまでは、歩いて十分程度。

 午後一時に呼ばれたもののもうすでに二時。遅刻は確定している。

 まぁ。遅れたところで誰も死ぬ訳でもないし、どうでもいい姉妹のどうでもいい用件だ。

 ここで踵を返してもいいぐらいだ。

 南方のマンションは一階は店舗になっており、二階、三階が住宅用の三階建ての構造だ。ただ、特殊な形状のマンションで階段が外に無い。一度中に入り、階段で上がっていく。三階建ての家として考えた方が良い。

 今は南方の三姉妹だけでここで生活している。

 南方の父は、資産家であったが、早くに亡くなった。母・祖母・祖父などは揃って北海道で余生を送っている。

 相続した遺産で、このマンションを立て三人で生活している。長女紅子さんの勤務が横浜であるのと、若い次女、三女にしても都市部に近い場所の方が良いのであろうと思う。

 一階の店舗は貸し店舗などではなく、次女橘音のお店というに近い。二階三階は三姉妹の部屋になっている。

 店舗は――雑貨屋というのが適切だと思う。癒しをテーマにアロマキャンドルとか、ヒーリングのグッズなどが売られている。

 こういうものを売ってどんだけ月に儲かるのだろうかと思うが、まず第一に親の資産で私物マンションを建てる段階で、向こう五十年以上とか、それぐらいの単位で何も売れずとも食っていけるのだろうと思う。

 羨ましい。

 また、癒しに付随した、サービスを橘音がおこなっている。橘音の――特殊な力を使ったサービスだ。

 店そのものは普段も、――今日も店番は三女のサチエさんが行っていた。

「あ、堀田さん。こんにちは」

「こんにちは、紅子べにこさんに呼ばれてきました」

 サチエさんは三姉妹の中で|常識を備えた人だ。

 今年、横浜の大学に入学したばかり、四年前の高校時代からこの橘音の作った店でバイトとして立っている。

 サチエさんは橘音さんの一つ下。つまり僕の一個下の学年だ。七つ年上の紅子さんは神奈川の監察医として働いている。

 サチエさんは、髪を後ろでまとめた姿で、接客用のエプロンをかけていた。赤のセルフレームのメガネをかけている。視力が悪いのだ。口調はハキハキした娘である。変わった姉二人を抱えているしっかりものだ。

 三人の中の唯一の秩序だ。

 ――と、僕は思う。

「お姉ちゃん呼びますね」

 籠もった声が店内に響いた。

「あれ? 鼻声?」

「あぁ。はい、なんか風邪っぽくて。天候ずっとおかしいじゃないですか」

「早く店閉めちゃって休んだ方が良いよ」

「そうですねぇ」

 サチエさんが内線電話で、僕が来た旨を上に伝えていると、なんだかメンドクサイ感情が沸いてきて、いっそここで帰ってしまおうかと思った。

 ――帰れば良かったのだ。

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