9-4 〈悠久と水晶の歌い手〉
「もはや地上に存在しないと思われた〈悠久と水晶の歌い手〉の唄が聴けるとは。わざわざ足を運んだ甲斐があったのう」
いつの間にか大賢人が隣に立っていた。背が低いので、陽光を映す禿頭は肩口のかなり下にある。
「じいさん、あんたどうやってあいつの傷を治したんだ?」
「気になるのか?」
疑問形で返すか。大賢人の名折れだ。
「まあね」
「お主は、不可思議な神通力や神のご威光の類には興味がないのだろ?」
「まあね。でも、懐疑論者ではあるけれども否定論者まではいってないんで」
「信じたくなければ信じずともよい。強制はせんでの」じいさんは飄々と言った。「〈医療と休息の神〉のご加護とは関係なく、勝手に治った。自然治癒での。そう思えばよい。その考えは、この眼の前の出来事となんら矛盾せぬ」
「じいさん、あんたやっぱり大賢人だな」
「そろそろ黙るとするかの。音楽を聴くに会話は不要。邪魔なだけでの」
彼女は歌い続けた。
古くから伝わる島の言葉。代々受け継がれた調べ。そしてそれを歌いこなすだけの才能。
その凡てが揃ったとき。
……聴く者の眼に、先刻のアルシャと同じ、涙が、
溢れ、
頬を伝って、
零れ落ちた。
尽きぬ涙が、唄の間中、
溢れて、
頬を流れ、
伝い落ちた。
ガラガラと目障りな音が反響し、幅広の剣が床に転がる。しかし、軍部相ゴルバンがそれを拾い上げることはなかった。流れ出る涙に、ゴルバンの両腕は何も持てぬほど震えていた。
その歌声に、涙せぬ者はいなかった。庭園内のどこにも。いや、正確には二人だけいた。歌い手たるアルシャ本人と、もう一人は俺の隣に。
「さすが大賢人。誰一人我慢できずにいる涙を、一滴も零すことがないとはね。情に動かされぬ、確乎たる理性ってやつですかい」
「何を言うておるのだ」じいさんの声は、年齢の故とは思えない震え方をしていた。「泣きたくとも泣けぬのだ。儂には涙腺がないからの。もし己が眼を治すことができたらば、今頃
「…………」
「こんな素晴らしい唄を聴いて、泣かぬ者などおるまいよ。もしいたとしたら、それは人の情を解さぬ悪鬼魔群の類」
二人ではなかった。アルシャとじいさん以外にも、一人だけ泣いていない人物がいた。じいさんの隣に。
個人的には、それが悪鬼でも魔群でもないと固く信じている。信じてはいるが。
「うーむ……」
もしかして、じいさん同様涙腺が涸れちまったのかな? いや、さっきは尻を打っただけで涙が出たぞ。つまり身体的異状じゃない。
とすると。
……認めたくはないが、俺の音楽感覚が、狂ってるだけなのか?
これも運気とかいうやつのせいなのだろうか。前にじいさんが見たという両耳の気脈なるものを、今回ばかりは呪わずにいられなかった。
いつしか唄は終わっていた。
涕泣。感泣。号泣。慟哭。
ありとあらゆる泣き方の類型が、庭園一帯を支配していた。感動の波は当分やみそうになかった。
「何故だ、何故止まらぬ!」前屈みに倒れ、愕然としつつゴルバンは呻いた。「言葉の意味も判らぬ唄に、何故我輩は泣いているのだ。何故涙が、止まらぬのだ……!」
エトリアに眼をやる。泣き崩れていた。その口からは、父上、父上という語句が洩れ聞こえるのみ。そこに平生の気丈な姿はなかったけれども、それを部下たちに見られる心配もまたなかった。私兵たちもエトリア並に、あるいはそれ以上に、一様に涙に暮れていたからだ。
兎の如く真っ赤に泣き腫らした眼が、すっかり庭園内の人々の常態になっていた。
そんな中、俺は戸口近くに見慣れた集団を認める。
ようやくここに着いたか。
解放軍の同志たちだった。
言うまでもなく、全員わんわん泣き喚いていた。あの沈着なるベヒオットですら遠目に見て判るほど肩を震わせていた。もう弔い合戦などどうでもいいという感じだった。
怒りも恨みも涙にして洗い流す。芸術の浄化作用の極致を見る思いだ。改めて歌い手の唄の凄まじさを実感した。
優男に肩を借りたドルクも、何度も涙を拭いている。腹部のケガに応急処置を施してもらった上、仮面公としての信頼もすっかり得たらしい。小脇に抱えた鉄仮面は単なるお荷物に成り下がっていた。サヴェイヨン辺りなら俺との声質の違いに気づいたかもしれないが、そういった点も含めて、第二秘書は全く以て強運の持ち主としか言いようがなかった。
アルシャがやって来た。
「アラ……じゃなかった、議長」
「その呼び方はやめろ」
「ご、ごめんなさい」アルシャは上目遣いにこっちを見て、「アライ……どうだった?」
「何が?」
「わたしの唄」
「んー、まあまあかな」
俺は顎を掻きつつ嘘を吐いた。けれどもアルシャは嬉しそうだった。
再度エトリアとゴルバンに眼を向け、俺は手にした剣を高々と掲げた。
「さ、続きといこうじゃないか。なあ、ゴルバン?」
返事はない。
「おい、さっきまでの気勢はどうした」
それでも返事がないので、俺は一方的に捲し立てた。
「そろそろ決着を着けようじゃないか。待たせて悪かったな、ゴルバン。こら、何ボーッとしてやがる、早く剣を取れ」
「剣など……剣など、取れるわけがなかろう」床に両膝を突いたまま、軍部相は尚も震える声で言った。「今の唄を聴いて、一つだけ判ったことがある。こんな戦いは、なんの意味もないということだ。そうだろう、エトリア」
エトリアに変化はない。時間にして三分の五倍は泣き続けている。あと何倍泣き続けるのだろう。
「お主の父君は、こんなにも人の心を動かす素晴らしい唄を、滅ぼそうとしたんだ。お主が考えたこの武力政変は、きっとお主の父君と同じ方向へ突き進むだろう。我らは、同じ過ちを繰り返してはいけない」
化粧崩れも気にせず彼女は顔を上げ……また泣き出した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺は賭けに勝ったのを確信した。そう言い切ってしまってもいいだろう。
アルシャの喉の傷。素性。
大賢人の到着。
そして歌声の復活。
ゴルバンとの一騎打ちはもちろん想定外だったが、人々の心を魅了するという〈歌い手〉の可能性に俺は凡てを賭けた。
無謀な賭けだったか? 番兵たちに気取られずに狭い門を潜り抜けるような。
いや、そんなことはない。
ロッコムからの情報。大賢人の招待。アルシャを治すためのお膳立ては、予め調えていた。未曾有の断崖絶壁を登り切るべく、足場は地道に組んでいたのだ。
と、遠方の
大仰な羽ばたき。陽射しに照り輝く朱の翼。
天駆ける真紅の英雄、ディーゴのお出ましだ。
「お、おい、あのオウム……」
「うちらの旗と、同じ鳥じゃねえか!」
公安相は驚きに身を竦め、暫時呆然としていたが、やがて、
「あなた、ディーゴね、ディーゴなのね……生きてたのね」
「そういうこった、エトリア……いや、正しくはリアートと呼ぶべきか」
彼女はこれ以上ないという驚嘆の表情を浮かべ、重みに傾ぐ上体もそのままに俺を見据えた。
「どうして、わたしの名を」
「未だに呼ぶんだぜ、そいつ」
それに、名前の並べ替えなら俺にも身に憶えがある。議長から詩人へ。リアートからのエトリアと違って発音の変化が一切ない、もっとずっと単純なやつだ。
「リアート!」絶妙の頃合いでディーゴは啼き出した。「リアート! リアート!」
「……ディーゴ、あなた」
ディーゴの首筋を撫でやり、想い出に浸るように面を伏せる公安相。
その姿に二筋の影が落ちる。文部相ピートと労働相フィオ。
「そのオウム、いやさディーゴは」ピートが口を切った。「護民卿の部屋にいたんだ。四年前、俺たちがこの宮殿に乗り込んできたときにな。で、ほかの兵士に始末されそうなところをライア議長に助けられたのさ。俺たちは帝国の殺戮部隊じゃない、罪もない生き物を殺すのは絶対に許さん、ってな」
俺、そんな気障な台詞言ったか? 全然憶えてないが。まあピートが言ってるんだから事実だろう。かっこいいなあ俺。
「一旦は野生に返そうとしたんですが」フィオが続ける。「その種属は野生での生存率が極端に低いということで、議長が身柄を引き取ったんです。残念ながら、今はもう飼育にもそんなに熱心じゃないみたいで、壊れかけの籠にそのまま棲まわせていたみたいですがね。おかげでこうしてあなたの許に出向いてくれたわけですから、世の中何がどう作用するか判らないものですね」
「ディーゴ……」
「リアート! リアート!」
俺は和みかけた場に一喝をくれるべく、靴の裏で殊更大きく床を蹴り立てた。
踵に鈍痛が走る。いててて、力入れすぎた。
「そうはいっても、国家転覆罪は重罪中の重罪。公安相、この罪は死神の鎖鎌より重いぞ。覚悟はできてんだろうな?」
「ええ、もちろん」
毅然として顔を上げるエトリア。
「議長」
「ライア議長」
何か言いたげなフィオとピートから顔を背け、俺は別の議員を捜した。
「法務大臣!」
大声で法務相ロクサムを呼ばわる。
ここだ、と一歩前に進み出る赤目のロクサム。寡黙で知られたこの男も遂に口を開いたか。なんとも感慨深いものだ。
「公安大臣エトリア及び軍部大臣ゴルバン並びに外務大臣ジールセンの所行は、本来なら評議会で扱うべき重大な国家転覆罪である。だが、この三人は評議会議員でもあるから残る五人で裁決を取ることになる。そこで法務局の長官たるお前の意見を聞きたい。俺たち評議員はどうすべきだ?」
黙考する法務相。しかし、その時間は思ったより短かった。
「
質疑応答に点数などつけるべきではないが、もしロクサムの答えを採点するなら、俺は満点にするだろう。模範解答だ。
「では、文部大臣、労働大臣、財務大臣に問う。今の法務相の提案に、異論はあるか?」
「異議なし」
「右に同じく」
「ま、仕方ありまへんな。ここは法務大臣の顔を立てておきまっか」
ギャンカルの言い種に少しイラッとしたが、ともあれ賛成は賛成だ。
俺は大理石の舞台を大股で進み、最高神の木偶人形に並び立った。そこから大観衆を見下ろしてみる。
広場側に大きく突き出した方形の舞台が、さながら宙に浮いているように見えるため、〈空中庭園〉と命名されたのだろう。高さという点では明らかに誇大広告だが、空中であることに違いはない。随所より聞こえる嗚咽が、この興奮冷めやらぬ広大な空間にアルシャの肉声が行き渡ったことの、何よりの証だった。
「よーしお前ら、よーく聞け!」
群衆に向け、俺は声を限りに叫んだ。
嗚咽の大きさは変わらなかったが、舞台に眼を向ける人々の数は
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