第8章 三重に偉大な議長、殺される
8 噂の真相
吹く風の冷たさがいよいよ心地好いものに変わろうという五の月上旬、炎の曜日。そう、〈解放と芸術の日〉。
待ちに待った大音楽祭の当日、それが今日だ。
初夏の太陽はグングンと高度を上げ、空の青を少しでも薄めてやろうと強烈な輝きを発していた。雲一つ見当たらない、絶好の音楽日和。まあ音楽に限らず大抵のことができそうな天気ではある。
例の海岸に足を運ぶと、小娘は寄せては返す波間のほうを向きながら、自ら発する笛の音に静かに躰を揺らしていた。そう、こいつの長所は、全身を使って文字通り音を楽しんでいる点だ。競争に勝つための特訓とは、そこが決定的に違う。
跫音を殺して近づき、後方の岩に寝そべる。竪琴は腹の上。
アルシャは物置で初対面を果たしたときの、風変わりな服に身を包んでいた。
やはりここ一番という場面では、着慣れた衣装が最もしっくりくるのだろう。物置で遭遇したあのときと唯一異なるのは、そのほっそりした首周りに
…………?
……なんだこの旋律?
聴いたことがない。初めて聴く曲だった。
どんなに古い記憶を探っても、この音調は何一つ当てはまらない。アルシャは俺の全く聴き憶えのない曲を吹いていた。音階の連なりが、今まで教えたどの曲とも違う。主音の採り方からして違うようだ。不思議な情趣を帯びた、独特の旋律。
自作の曲か?
だとしたら、こりゃあとんでもない逸材かもしれないぞ。
「アルシャ」
最後の小節が潮風に消えたところで声をかける。
ビクッと肩を震わせ、アルシャは驚きを交えた笑顔で振り返った。
「今の曲、自分で作ったのか?」
問いに対し、笛を掻き抱いたアルシャはこれ以上ない強さで首を横に振った。
「違うのか。じゃあ誰かに教わった曲なんだな」
数秒ほどの逡巡に続き、曖昧に頷く。ほかの楽師に教えてもらったのだろうか。
いや。こいつはもしかすると。
乱れた前髪が額に張りつき、眼許にまで垂れている。元々幼い顔立ちが、一際幼げに見えた。
「いい曲じゃないか。ありきたりな表現しかできんが、なんかこう心に染み渡るような、そんな調べだ」
眼にかかった髪をそっと撫で上げる。アルシャは眼を細めてじっと俯いた。
「? 何固まってんだ。緊張するのはまだ早いだろ」
せっかく髪を整えてやったのに、当のアルシャは紅潮した顔を下に向けたきりだ。
「なんだよおい……」
と、宮廷の方角から微かに聞こえる、重々しい物音。十の刻を告げる、時報の鐘の音だ。
「よし、早めに出掛けるか。遅れて入場できなくなると困るしな」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
海岸を離れ、アルシャと共に一路東の宮廷へ。
道中、俺はどの曲目を演奏するのか尋ねると、アルシャは歩きながら横笛を口に当て、初めの数小節を吹いて聴かせた。それは俺が横笛用に教えた中でも、一番最初に譜面を渡した曲だった。
「なんだ、〈正午の半魔神のための前奏曲〉でいくのか。さっき吹いてたあの曲にすりゃいいのに」
頑なに首を振る少女。
曲の尺に不都合でもあるのだろうか。確かにアルシャが採用した前奏曲は横笛曲の傑作ではあるのだが、何も俺が教えた楽曲に拘る必要はないってのに。
時が経つにつれ、少女の様子に変化が訪れる。思い詰めた表情。顔色も雪の如く白い。この表現は本来女性の美しさを示す詩的形容なのだが、この場合は病的な意味でしかない。明らかに緊張の度合いを増している少女に、思いつきの地口や軽口を連発してみたものの、なんら効果なし。
「姫君との勝負で気が昂ぶってんのか?」
「おいおい。音楽ってのは、もっと肩の力を抜いてやるもんだぞ」
そうこうしているうちに、壮麗なる宮廷の威容が徐々に近づいてきた。
俺が同行できるのは正門の前までだ。門番には面が割れているかもしれないので、その先には踏み込めない。
「俺が行けるのはここまでだ。この先は一人で行ってくれ」
心細げにこっちを見返す少女。
正門前の〈
そんな連中が好き勝手に音を出すものだから、広場一帯は雑多な音色の入り混じった、さながら民族音楽の
「大丈夫だって。ほら、招待状出してみ」
胸許から封書を取り出す少女。
「後は受付に行ってそれ渡すだけだから、な?」
この世の終わりといった表情で力なく頷き返す。大丈夫かおい。
無理矢理封書を手に握らせ、両腕を掴んで門のほうを向かせる。
「心配すんなって。俺も客席で観てるからさ」
薄布と後ろ髪で二重に隠れた項に向かい、そう囁きかける。
チラッとこちらを横目に見たアルシャは、意を決したように小さく頷いた。
「よし、いいか。姫君の言ったことなんか気にするな。自分の演奏に身を委ねて、音楽を心から楽しめよ」
笑顔が戻った。まだ少しぎこちないが。
「じゃあな!」
片手を挙げて来た道を引き返す。横笛を持った手を大きく振っていたアルシャも、じきに人混みに紛れて見えなくなった。
さて、この後は別の通用門から宮廷に引き返して、大音楽祭に先立つとある祭儀に出席しなくちゃいけないんだが、こいつがまた曲者なんだ。
暇で退屈で面白みがないのは眼に見えている。そんなもの苦痛以外の何者でもない。今年一年の豊作を願って農耕神に祈りを捧げる行事なんぞに、評議会の議長が出てなんになるってんだ。そういうのはもっと信心深い奴が参加すべきなんだよ。
というわけで、ふけることにした。
あそこには時機を見て戻ればいいや……いや、それも駄目か。議長として戻ることはできない。一度祭儀に顔を出しちまったら、抜け出すのは至難の業。そうなると、議長として引き続き大音楽祭に出席しなけりゃならない。
庭園に集う観客の中には、アライとしての俺を知る連中も多数いるだろう。そいつらの前で、議長たる俺の姿を見せるわけには絶対いかない。
まあ議長不在でも祭儀は進行するはず。そこまで権限はなかろうし、あったとしても一旦出ないと決めたらもう出ない。東方の剣術使いがそうであるように、議長にも二言はないのだ。
俺は音楽祭に参加できなかった悲劇の楽師アライとして最初から聴衆に紛れ、そこでアルシャの演奏を見守るとしよう。
繁華街がある北の街区へ、俺は足を進めた。
音楽祭が始まるまで、まだだいぶ時間がある。祝日に浮かれ騒ぐ街なかのほうが、見ていてよっぽど快いものだ。堅苦しいだけの祭儀なんざ真っ平ご免だね。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なあ、議長が殺されたってのは本当か?」
やっとの思いで掻き分けた人集りの中心で、そんなことを言い触らす壁塗りの男に俺は問いかけた。
「おうともよ。こりゃ一大事だぜ」
自分が殺された情報を自分で聞くというのもおかしな話だが、それを口にした当人は至って真面目な物言いである。
「誰に聞いたんだ?」
「表にいた兵士だ」
「兵士が? 本当に議長だと言っていたのか?」
「しつこいなああんたも……おっと、誰かと思えばアライじゃねえか。手ぶらなんて珍しい。いよいよ楽師業は廃業か?」
ともすると、現実の俺はあの密輸組織の根城でとっくに死んでいて、今ここにこうしているのは死後の霊としての俺なんじゃなかろうか。ほんの一瞬だが、そんなアホらしい妄念に囚われたりもした。霊だとさ、我ながら下らねえ。
繁華街をぶらついていた小一時間ばかりの間に、宮廷のほうではとんでもない事態が勃発していたらしかった。
「いいからその話を詳しく聞かせてくれ」
「いや、それがさ。門の修繕を頼まれてたんで約束の時間に行ってみたら、なんだか様子がおかしくてさ。門番どころかえらい数の兵隊が門の周りを駆けずり回ってて、やっと一人捕まえて訊いてみたら、外務大臣のジールセンが政変を企てたんだと」
ほほう、遂に尻尾を出しやがったか、あの野郎。
てことは、例の密輸組織も動いてるだろう。黒幕ジールセンに追随する私兵として。予想以上の立て直しの早さだ。あのときの襲撃だけじゃ、さしたる時間稼ぎにもならなかったか。
だがまあ、今日が新政権樹立の記念すべき日であることを考えれば、
「が、外務大臣がか?」
「そりゃ大変だ」
「まさか、八年前のあれがまた起こるんじゃ……」
「あ、あああの悪夢の四年がか!」
「〈暴風と暗黒の四年〉が、蘇るっていうの?」
「じょ、冗談じゃねえ」
「せっかく平和が戻ったってのに」
「そうだ、まだ四年しか経ってないんだぞ」
「もう二度とあんな目に遭いたくねえよ」
口々に言い合う民衆たち。王政崩壊の悪夢を思い出してか、額を押さえて気を失う女性までいた。
王家滅亡から八年、独裁制消滅から四年。なんだこの忌まわしい周期性は。四年置きに叛逆を企てる必然性でもあるのだろうか。偉大なる三にたった一つ加えただけで、凡てが危うい方向へ転がってしまう。
「でもってさ」男は話を続けて、「宮廷の中がどうなってんのか訊いたら、自分は一介の兵卒なんでよく判らんが、外務大臣と議長の不仲は有名だから、大臣が実権を握ったらまず議長の首を狙うだろう、もしかしたらもう殺されてるかも、みたいなことを言い出したのさ」
おいおい、それってまだ未確認情報じゃないか。
そんなんで勝手に〈殺された〉なんて断定しないでくれ。紛らわしい。周りが信じちまうっての。
「なら、まだ生きてるかもしれないだろ」
「だけんども、ライア議長は八英雄の中でも武芸はからっきしって聞いてるぜ」
「そうそう、大臣が本気出したらひとたまりもねえよ」
「公安大臣にも勝てないんじゃないか?」
「言えてら」
「しかも自分勝手で」
「その上いい加減ときた日にゃあなあ」
「なんだかんだ言って、負の三拍子は伊達じゃねえってわけよ」
こいつら……議長がこの場にいないと思って好き放題言い散らしやがって。税率上げるぞ。
「お前ら」堪らず口を挟む。「あんまり議長をバカにしないほうがいいんじゃないか?」
「アライ、お前さんが議長の肩を持つのは勝手だが、別にバカにしちゃいねえよ」
「んだ。常識的に考えて、議長より弱い議員なんかいねえっての」
「いや、だけどさ……会ったこともないくせに、よくそこまで断言できるな」
抵抗を試みるも、所詮多勢に無勢。
「これまでの評判聞けばそのぐらい判るわい。顔合わすまでもねえ」
「議長が勝てる要素探してたら、日が暮れちまうわ」
「おらぁ議長がやられてるほうに賭けてもいいね」
「俺も」
「俺も」
「あたいも」
続々と手が挙がる。なんか話がおかしな方向に進んでないか?
「全員じゃ駄目だ。逆に賭けるやつがいなきゃ話にならん」
「アライがいるよ」
「でもアライ独りじゃ、金足りなくなるって」
「竪琴でも質屋に出さすか。ありゃ結構な値がつくぜ」
「だな。もっと真っ当な弾き手に渡ったほうが、竪琴のほうだって幸せだろうさ」
「あのなあ……」
勝手に楽器を売るなよ。あと俺の首を賭博の対象にするな。
「今はそれどころじゃねえっての」男が脱線続きの会話を引き戻した。「でよ、こりゃ皆に報せなきゃってんで、慌てて引き返してきたわけ。宮廷の周辺はそりゃもう大騒ぎだよ」
俺が宮廷を抜け出していたのは、そう考えると不幸中の幸いだったといえる。これも神官団が下らない祭礼を提案してくれたおかげだ。なんたる皮肉! 俺は神官連中に心底感謝した。
……いや待て待て。余裕をかましてる場合じゃない。
もう祭礼も終わって、大音楽祭も始まろうという頃だろう。俺の関係者も大勢いるはずだ。ピートにフィオ、ほかの議員連中や秘書たち、マリミ姫を含む神官団の面々、そして何より演奏者の中には、
アルシャがいる。
「おい、おっさん。大音楽祭はどうなったんだ」
「ん? ああ、空中庭園でやるっていうあれか。いや知らん」
「うちの息子も行ってるはずだが、まだ戻ってきてないぞ」
「あたしこれから観に行こうと思ってたんだけど、中に入れるの?」
「そりゃ無理だろう。あの様子じゃなあ」
「どうするよ、俺たちゃ」
「どうするったって、どうしようもないぜ」
俺は……宮廷に行かねばならない。どうしても。一刻も早く。
だが、俺独りでのこのこ宮廷に現れたとして、一体なんになる?
ジールセン率いる武装集団に襲われ、むざむざ命を落とすだけじゃないか。壁塗りの男が言っていた伝え聞きが、結局は現実のものになるだけだ。
そうはさせるか。
俺は不安に身を寄せ合う民衆の輪から離れ、宮廷の裏手目がけて走り出した。着替えを済ませるのと、鉄仮面を持ち出すためだ。
こうなったら、〈疾風と伝説の紅翼解放軍〉の首領として乗り込むしかあるまい。真っ昼間から鉄仮面を被るのは、いつぞやの前例もあるしあまり縁起がよろしくないが、四の五の言ってる場合じゃない。
十一の刻を伝える鐘の音が、間近に鳴り響いた。本来なら、大音楽祭が始まるはずの時刻だ。
すると、脇に抱えていた竪琴の糸が一本、バチンと弾けるようにして切れた。
なんだよおい、縁起でもないな。信仰心は欠片も持ち合わせちゃいないが、こういう
蒼天に轟くその音響に追い立てられるように、俺はひた走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます