第19話 さいごのとき

 はじまり

 

 その惑星には、神様がいた。

 

 神様は人間に問題を与えた。


「私達の大切なものを盗めたら、新たな神様にしてあげましょう」と。

 

 人として知らぬ者のいないその問題に、多くの人間が挑んでいった。

 

 だが、今まで誰一人、神様の場所に辿り着くことすらできなかった。

 

 やがて人々が諦め、問題を知っていても無視するようになった時代。

 

 一人の女の子が問題を解いてしまった。

 

 しかも、神が一人死んでしまった。

 

 人々も、神様も揺れた。割れた。驚いた。

 

 なぜか――その女の子が事実を一切明かさずに姿をくらませたから。

 

 追い求める者もいた。しかし全て儚く水の泡と消える。

 

 女の子が人に、世に、愛想を尽かしさよならしたから。

 

 これは、知った答えを見つけてみせた、女の子の物語。



 エレクトロを抹殺し、自分の在り方を守ったミコ=R=フローレセンスは、水門連絡でコンタクトから今の本拠地――俗世のどこかにある雨傘結界で守られた『家』へと帰って来た。水を介する技の都合上、どうしても水たまりか雨から出現する必要があるので家に入る前は必ず雨に当たってしまい、服も腹部も結構濡れる。それでもミコは焦らず構わず、濡れることを楽しむかのようにリズムよくステップを踏みながら『家』の中へと入って行く。玄関抜けて、ドア開けて、『家』に入ると出迎えてくれる女の子が一人――。

 

「お帰りなさい。先生」

「ただいま。ヒカリちゃん」

 雨も滴るいいミコを、屈託も邪気もない表情で迎えた『ヒカリ』と呼ばれた女の子。

 そう、この子こそミコ=R=フローレセンスが旅をやめた最大の理由かつ旅の目的たるキーパーソン、ヒカリ――なのだ。

 

 雨傘結界の『家』の中、ミコの帰りを待っていたヒカリはミコが帰ってくると留守番していた子犬のように駆け足で玄関先へと走り、ミコを出迎える。死を図っていた頃を救われ、この『家』で一緒に暮らし始めてからミコが彼女を置いて俗世に出張したのはこれが初めて。新鮮な経験に対する興奮と悲観的な思考がもたらす不安が交互に心を覆っており、かなりヒカリの心は消耗していたのだ。だから帰ってきたミコに早く接触しようと「急いだ」結果が先のお出迎えなのである。ミコには「急がなくていいのに」と窘められそうだが、今ヒカリにはミコしか“相手”がいないので縋る気持ちは標準装備だ。別に懐いているわけでもない。特段慕っているわけでもない。しかし「二人きり」という特殊かつ極限状態の中ではミコにしか想い感情をぶつけられない。それは見ればわかる事実。考えればわかる真実。ただそれだけ……ではないのだが、とりあえず出迎える理由現時点筆頭にはなるのである。

 そんなヒカリの気持ち面持ち鼻息吐息を感じ取ったのか、ミコの方も少し口元を緩めた微笑み顔で大きく嘆息すると、下ろした肩先腕を持ち上げ、雨が抜けきっていない濡れた手ではあったが、ヒカリの頭を優しく撫でたのだ。ヒカリはそれがとても心地いいので、思わず目を閉じ「んーんー」と可愛い嬌声を上げながらミコの手の下で頭をすりすり動かす。自分でも「ペットみたい」と思える光景であった。ぶっちゃけ手も洗ってない雨塗れのミコの手を頭に擦り付けるのは衛生上どうなのかとも思った。でもしかたない。それら諌言を退けてでも、やりたいことはやりたいのさ。残り時間は限られてる。だからできることやりたいことはやっておこうとヒカリは思う。こういう後悔混じりの衝動経験とかが、きっと“いい思い出”になるんだと、自分を騙くらかしてでも、今、こうしていたいのだと……。

 それが自分の“真実”なのだと。ヒカリ自身わかっている。

 だからこんな詞も出てくる。自然とあっさり、よどみなく。

「わたし御留守番中にお食事作っておいたんです。先生、一緒に食べましょう」

「わあ、嬉しい! じゃあ早くリビングにいかなきゃね。はい」

 はい――と言ってミコは頭に被っていた自分の半身影帽子を取ると、そのままヒカリに預けたのだ。ヒカリも自然と影帽子を受け取ると、ぱたぱたとスリッパの音を鳴らしてリビングに先行したのであった。ミコの本質自身にも等しい影帽子を預けられるほどの子。

 それがヒカリの自慢であり、同時にミコの思い入れ、その証明でもあった。

 

「ああ、料理が生きてる。わたし三度の飯よりヒカリちゃんの手料理が好きよ」

「嬉しい。先生が料理する三度の食事より先生好みになったってことですよね」

「そうよ。もはやヒカリちゃんの料理はわたしの肉体そのもの! 食体直結ね」

 なんとも他愛もないおしゃべりをしながら、ミコとヒカリはリビングのテーブルに並べられた料理を食べていた。ここで妙なのが座っている位置。二人なら普通向かい合い、互いの顔が見えるようにテーブルの両側面に座るものだが、ミコとヒカリは隣に並んでテーブルの片側に陣取り仲良く横に座るのである。なので会話も横向きサイド。前方に声を発するのではなく、ぽそりとその場で呟くオンリー。それだけそれでも十分十全。声も詞もしっかり届く――この距離感こそヒカリとミコの心の距離でもあった。近すぎるけど。

「帰れる場所があるっていいわ〜。俗世は相変わらずしょーもないんだから」

「先生を信じようって騙ったエセ信仰国家を叩き潰しに行っていたんですよね? どんな感じだったんですか?」

 ミコのぼやき。ヒカリの問い。テンポよく転がる話のキャッチボール。ミコは嫌な顔ひとつせず、食事の手を休めることなく答えた。

「情けないの一言ね。わたしに縋ろうだなんて安直安易な考えを持って“信じる力”を吸い上げられた顛末の市民さんたちは言うに及ばず、それを企画した零は騙し討ちで脱落、サンダーおじさんに至ってはエレクトロに取って代わられわたしが着くより先に死亡していたのよ? 救いようがなかったわ。もう醜い見にくい人の子ねって感じだったの」

「そうですかー。いつも通り、平常運転だったんですね」

「そうなのよ。ほんといつも通り、厄介事の絶えない俗世だったわ。まあ、俗世から『つまらない』を取っちゃったらおもしろくなくなっちゃうからそこは辛抱しどころですが」

「ですね。わたしもずーっとここにはいれませんしね。荒波嵐の俗世に戻らなくちゃいけないときがいつかはくるわけですから。知識を知りたいってやつです」

「ふふふっ」

「どうしました? 先生」

「いや、ヒカリちゃん変わったかなー、って。出会ったときはお家の庭のベンチに雨の中死のうと寝ていたときとは大違い。あの頃助けた直後のあなたは、『死んでパパとママの後を追いたい』って聞かなくって、その自殺願望を取り下げさせるのにえらく苦労した記憶があるわ」

「はにゃ……そりはー」

 ミコの話を聞いたヒカリは昔ミコと出会ったばかりの頃を思い出して恥ずかしくなり、箸を止めて赤くなった顔を俯ける。思い出すのも恥ずかしい、消してしまいたい1ページ。ミコに師事するようになって、“記憶の墓場”を作れるようになってからそこに埋葬していたけれど、墓場の提供者であるミコにその事実を掘り返されたら抵抗すること自体無駄。されるがままに記憶を蒸し返されて赤くなるのは無理かつ道理なのである。

 散々記憶を漁られて、ヒカリの頭の中で過去の記憶が甦りフラッシュバックする。ミコと出会う前のある日、両親がベッドの中で仲良く死んでいたのを見つけ、ひとりぼっちのおいてけぼりになった時、訳も分からず泣いていた自分。どうしていいのかわからずに、気付けば薬を飲んで雨の外、死のうとしていた自分。目覚めた時、生きている実感もほとんどない中、ただ助けてくれたミコのあったかさと鼓動を聞いて生きていることの尊さに気付いた自分。最初の会話の時、それでも両親の後を追いたいと本気でもないワガママを言ってはミコに生命のメカニズムを懇々丁寧に教えられ、死んでも再会はできないと知らされ、途方に暮れてしまった自分。完全にひとりぼっちになったんだと知って途方に暮れた時、「どうすればいいの?」とミコに尋ねていた、捨てられた子犬みたいだった自分。

 そしてその先その果てに、「一緒に行こ?」とミコが差し伸べてくれた手を取っていた自分――。

 

 全てを一通り思い出したヒカリは俯せていた顔を持ち上げ天井に向けて「ふ〜」と一息。

 

 手を引かれ立ち上がって以降のことも鮮明に思い出される。ミコは両親の遺体に丁寧な死化粧を施し、さらに自分の偽死体もでっち上げて家族三人分の棺を用意すると、雨の降る庭で穴を掘って棺みっつ、埋葬したのだ。埋めた土の天辺には、きちんと銘入りの墓石を置いて。

 死んだことになった自分。「ヒカリ」という名前を貰った自分。ミコの『秘術』と気象能力、幻の身体能力を目撃しては導かれ、この雨傘結界の中の隠れ家で、二人で暮らし始めて数日数週間……そして今――。

 

 生まれ変わったほどではないけど、確実に“変わった”自分はミコの“教え子”を拝してこうしてミコの隣にいる。

 

 ミコの宿命も聞いている。もう残せるものを“託せる”自分に会った以上、この俗世にいられる時間はほんの僅かだと。絶対に避けられない“消還”の運命が今現在進行形で確実に近付いていることを告げられた。

 最初にそのことを打ち明けられた時は泣いた。もう、これでもかってくらい泣いた。どうして自分の周りの人は自分を置いて先に逝ってしまうのかいなくなってしまうのかって喚き散らし、泣き散らかした。こんな辛い気持ちになるくらいなら、やっぱり一人で死んだ方がマシじゃないかと、暴言極まりないことも言った。

 そんな暴れていた自分をミコはただ見守っていてくれた。ずっと見守っていてくれた。自分が泣いても喚いても、嫌な顔ひとつ見せることなく、ただただ優しい顔を魅せてくれていた。ずっと……。

 泣き疲れた頃、ミコにその真意を問うてみた。時間も限られているはずなのに、そんな悠長に構えていていいのかと。するとミコは笑って答えた。

「そんなのわたしの都合じゃない。わたしのものを“託せる”人はわたしじゃなくて、あなたなのよ。ゆえに、一番優先しなくちゃいけないのはあなたのコンディションなのヒカリちゃん。あなたが泣いているのだったら思いっきり泣かせてあげる。こういうのは詞でも薬でもなく、時間を使わないと癒されない問題だもの。託すのなんか儀式じゃないんだし、一瞬よ。欲を言えば少し鍛える時間は欲しいけどね。でも大丈夫よ、わたしは鍛えるのも甘やかすのも得意だから。だから……ね? 今は思いっきり泣きなさい。涙は雨と一緒。止むまでは流して降らし続けないと。我慢するものじゃないわ」

 この“答え”を聞いた途端、自分は一層泣きじゃくった。悲しいからじゃない。ミコが自分のことを本当に想っているのを知り、感極まったからだ。ミコに飛びつき抱きついて、その胸を溢れる涙で濡らした。背中に腕を回して服を掴み、顔を埋めて縋って泣いた。

 とにかく泣いた。大いに泣いた。ずっと、ずーっと泣き続けた。お腹が空いても。腕が痺れても。涙の限り泣き続けた。

 そして長い時間が過ぎた後、ようやく自分は泣き止んだ。涙も声も枯れて果て、エネルギーも使い果たして、とうとう機能が停まったのだ。自分からは何もすることができなくなっていた。ひとつだけできたのは受け身の機能――抱きついているミコの鼓動と抱きしめ返してくれているミコの手の温かさを“感じる”ことだけ。それがとっても優しくて、温かくて嬉しくて、救われた気がしたのだ。錯覚かもしれないが、自分は確かに心が穏やかになった気がした。紛れもなく、安心していたのだ。

 そのときから自分はミコのことを『先生』と呼び、『ヒカリ』という名前も自称するようになった。変わる自分を受け入れられた、心境の変化が新しい名前を許容できたから。

 そこから自分の第二の人生、ヒカリの人生が始まった――。

 

 ヒカリは長い長い回顧録を読み切って、ようやく現実に意識を戻す。随分時間を浪費したかと思いきや、そんなことはなかった模様。雨時計を確認するとなんと1分も経っていない。これが走馬灯効果というものか――不可思議な現象を体験したヒカリは自分の頭をひねってみる。

 しかしすぐにヒカリは考えることをやめて颯爽テキパキ食事に戻る。耳がミコの咀嚼音を聞きつけたからだ。自分が食事中だったことを思い出したヒカリは少々慌てて食事を再開。よく噛む以上に噛んで食べるヒカリは必然的に食べるのに時間を食ってしまう。なので咀嚼のギアを上げてスピードアップを図るのだ。そんなヒカリにミコはいつもの一言を。

「急がなくていいのに」

 もはや様式美にも等しいミコの詞に、ヒカリは澄ました顔して返す。

「そう言ってほしいから、急いじゃうんです」とな。



「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした」

 食事を終え、手を合わせた後のヒカリとミコはそそくさこそこそ食器を片し、洗って仕舞って椅子にちょこん。ミコがレインとしての力で延々永遠に降らせている雨傘結界の雨を眺めつつ、雨音を聞きながら一息つける時間を迎えた。

 雨がふるふる。音はしとしと。肌はさらさら。舌はうまうま。

 食事の余韻を満喫しながら休息中の二人だったが、やがてそれにも飽きてしまい、本格的に二人の時間、すなわちヒカリを打って鍛える修行の時間に入ることにした。

 ミコはヒカリに向かい側に動くよう指示を出す。ヒカリも素直に従って、座っていたロッキングチェアから降りて持ち上げると、てくてくちょこちょことミコの正面に動いて椅子を置き、揺れるのも構わず飛び込み座る。そこにミコから投げ渡された膝掛け毛布がひらひらと宙を舞い、埃ひとつ出さずにヒカリの膝上に覆い被さる。ありがとうございます――ヒカリがミコの顔を見上げて礼状文句をしたため届けると、ミコも淡く微笑んで自分の膝に毛布をかけるのであった。これで準備は整った。

「さて――話をするのはいいけど、これは昨日までの続編でもあるのよね。一体どこまで話したやらやら?」

「んーと……先生の人生談でしたね。人生一周目『天雨乃原咲葉』時代の思い出と38thレインとの対決及び人生二周目、『39thレイン』として学都スコラテスで学んでいた頃の話や冬夏戦国時代での戦歴、そして嘘の神泉=ハートさまの歌声を聴いてアパートに向かい、出会ってセッションした後先生自身も消還の運命を知って気象一族を出奔、『ミコ=R=フローレセンス』を名乗ったとこまでは聞きました。つまり今日からは人生三周目の話を聞かせてください」

「そうなのなるほど、了解したわ。じゃあ、さっそくわたし、『ミコさん』の旅路人生とそこから学んだ心得集をお話ししましょう。では……」

 

 それからミコは語り始めた。今の自分、人生三周目『ミコ=R=フローレセンス』としての人生を。ヒカリに出会うまでずっと続けていた“旅物語”をつらつらと。

 

 戸籍改竄手続願を提出し、正式に改名した後気象一族の里を抜けたこと。

 旧知の郵便屋ソームと合流し、色巻紙九助の誕生日を謀略で祝ったこと。

 医療都市メディケアで置きた事件を解決し、子分と宿敵に出会ったこと。

 人を拒む野ざらしの森で、只一人の女性と動物達の優しさに触れたこと。

 夜の美術館を探検していたら、摩訶不思議な絵画に宝物を渡されたこと。

 幽霊屋敷を訪れて、幽霊たちと飲んで騒いで冥海へと送ってやったこと。

 前世の本を捜した骨董古書屋で、店主にお茶をもてなしてもらったこと。

 黒の日に闇夜の森で野営し、黒の視点でこの宇宙の輪郭を垣間見たこと。

 大自然のオーケストラを聴いて感動し、自分も歌を歌って参加したこと。

 春の日、桜島で心樹・オピィの元を尋ね話し、桜の樹を枝泥棒したこと。

 泥棒相手に「貧乏人なら毒を飲め」と毒薬(実は金運薬)を渡したこと。

 極上の水の味を求めて水の名所アルコ村を訪れ、その味に感動したこと。

 ある街で知り合った親娘に泊めてもらった日が丁度、縁の日だったこと。

 子分だったシャーロックとクララの結婚をお世話してやったときのこと。

 雪原に雪で「雪天橋」なる不思議な造形物を作って騒ぎを起こしたこと。

 気象一族の後輩だったスノウに追いつかれ、洞窟で一夜を過ごしたこと。

 摘まれている花がかわいそうに思え、摘んでいる子供たちを諭したこと。

 花を植えたくなったので、花一族本拠地ガデニアに向かったときのこと。

 開発過程で出たリバムークの種を作るべく、研究室に籠ったときのこと。

 神様の設計図を狙う若造たちが起こした事件を解決するため闘ったこと。

 そっちが解決したと想ったら、今度は神様たちと闘うハメになったこと。

 桜島へ出航した途端、海の心に助けを求められ、気象能力を使ったこと。

 二度目の春の日、桜島でオピィと再会し、桜の魔法を見せて貰ったこと。

 桜の魔法に導かれ、キティとアイズの兄妹に出会い花の種を託したこと。

 キティの名誉を賭けて、トランスフェイクの住民と三本勝負をしたこと。

 開花したリバムークの奇跡で自分の行き着く先を一足早く体験したこと。

 アパートでもない俗世本拠地で神様たちとカードゲームで勝負したこと。

 未来人犯罪者シク=ニーロとセフポリスの街で謀略戦を繰り広げたこと。

 ひょんなことから宇宙に拉致され、モエルとプルンを助けてあげたこと。

 メカニズモの機巧人形アリスと手合わせし、完成への布石を打ったこと。

 寿命の研究をしていた老発明家に寿命を買える金貨をクレてやったこと。

 動物たちの秘境を訪れ、とても美味な御馳走でもてなしてもらったこと。

 惑星の力が生み出した缶バッジを全て集め、光の魔法を見たときのこと。

 雨の降っていた日、ヒカリを見つけて保護し、この『家』に匿ったこと。

 自分を信仰対象にした不届き新教義を首謀者諸共完全破壊してきたこと。

 

 ――などなどほかにもつらつらぺらぺら。

 ミコは自分が旅してきた記録と思い出を全て話した。余すことなく赤裸々に。よくもまあそんなこんなに冒険探検含む旅をしてきたものだと話を聞いていたヒカリは圧倒された。もはや旅物語というよりは冒険奇譚の方が形容詞として合っているのではないかとも邪推してしまうが、ここはミコの主観こそ正解なのだろうとも思ったので、ヒカリは無粋なツッコミを口に出すことはなかった。

 ミコが滑らか柔らかに口にする詞を、聞こえるままにイメージするヒカリ。前述の通りバラエティに富んだ数々の旅物語は、聞いているヒカリの心をときめかせ、充実感をも感じさせてくれる。頭の中で鮮明に浮き上がるミコの活躍する姿は口伝であることを忘れさせてしまうほどの没入感があり、段々とヒカリは『現実』がどっちかわからなくなっていくほどだ。自分の想像力を褒めるべきか、ミコのストーリーテラーぶりを褒めるべきか、ヒカリは前者“そこそこ”後者“大いに”を選択し知識として常備準備する。臨機応変柔軟に頭を働かせることでヒカリは余裕をもってミコの話を聞いていた。

 そして全ての旅物語をミコが語り終わる――聞き取り感じるだけの時間が終わりを告げる。ここからはヒカリ自身もミコと話す“対話”の時間である。

「これでわたしの人生談はおしまい……ふぃにゃあ〜、長かったわねー。自分の人生まるまる話すっていうのは初めてだったから、喋りすぎた気がしないでもないわ。なーんか余計なことまで肉付けして話した気もするけど……」

「何を言うんですか先生、わたしは聞いていて楽しかったし、おもしろかったですよ」

「そう……? なんだか今度は恥ずらかしくなってきちゃった……いきゃんいきゃん! 次行こ、次!」

「はい」

「じゃあ早速……ここからは教育問答の時間よ。わたしの話した中でヒカリちゃんが気になったこと、なんでも質問して頂戴。そこから引き出したわたしの人生観をそこそこ参考にしてもらいましょう」

「わかりました先生。じゃあ早速最初の質問です。先生は先代、38thレインに嵌められて以来“人を信じる”ことが嫌いになりましたよね?」

「なったわね〜。信じる云々以前にあいつのことは今でも毛嫌いしてるわね」

「でも一方で39thレインだった二周目の人生では気象一族の端末仲間さんたちとわりあい仲良くやって冬夏戦国時代を闘い抜いたりもした……友達とも呼んでいた人たちですけど、それでも信じる、もしくは同義語で表すような関係ではなかったと?」

 ヒカリの第一問。それは“信じる”という概念を心底嫌うミコの対人関係を鋭く突いた問いかけだった。人生一周目、天雨乃原咲葉という名前だった頃、先代、38代目のレインに騙され嵌められたミコは、それ以来人を“信じる”ことができなくなったという。しかし一方で人生に周目、当代39代目レインとして活動していた頃のミコの話を聞くと、まあ仲間達への熱い気持ちが詞の端々から感じ取れるのである。それはやはり“信頼”、引いては気象一族の仲間たちを本心では“信じていた”のではないか――ヒカリはそう問いかけたのだ。

 

 その生き様は矛盾しているのではないか?――ヒカリの質問に対しミコは慌てた素振りも全く見せなかった。普通都合の悪そうなときは、人間動揺したり虚を衝かれてしどろもどろなったりするものだが、ミコにはその素振りが全くない。かといってすぐに返答をくれることもなかった。視線の先のミコは、ヒカリの方を向いているようでその実見ているわけではなさそうに見えた。なんかこう、回答のシミュレーションというか、イメージというか。現実のヒカリではなく、頭の中の景色を視ているような気がしたのだ。そんなに悩み考えるほど回答に困ることなのか、でもだったらなんであんなに悠然と受け止められるのか、ヒカリは師事してまだ時間が浅いこともあり、ミコのそういう在り方がホントよくわからないのだ。矛盾した生き様なのはなんでだろう――と、それこそ考えだすとこっちが困ってしまうくらいに。だからこその質問であった。

 ミコにとってはヤな質問だろうとは思う。でもヒカリは回答をはぐらかされるとは思っていなかった。師事して幾許も経っていない間柄だが、そこだけははっきりとわかっている。ミコは自分が投げたボールを落とすことは決してないと。ちゃんとボールをキャッチして、返事をしたため返してくれると。そればっかりは“信用”できた(ミコにとっては複雑だろうが)。どんなに痛く苦しい詞だろうと、ミコは教え子であるヒカリを無下にも無視もしないのだ。だからヒカリはとにかく待った。ミコが答えてくれるのを待った。

 そうしてヒカリが待機を始めると、ミコはそっと視線を外した。上の空みたいな目つきで膝掛け毛布の上に置いていた右手を持ち上げて、オーケストラの指揮者がタクトを振るように静かに指でなにやらなぞる。回答光景をシミュレーションしているというよりは、どう回答したものかと詞を選んでいるようにヒカリには見えた。丁寧に。慎重に。

 そしてさらに十数秒、ミコは上の空だった視線をヒカリの方へと戻した。空をなぞっていた右手も毛布の上に戻し、「お待たせ〜」とのんきな返事をしつつも、ヒカリの待っていた『答え』をとんとんと話しだしたのだ。

「まず答えから言っちゃうと、やっぱりわたしは“信じる”ことが苦手だし大嫌い。でもヒカリちゃんのいう通り、ウィンドやカーレントたち気象一族の仲間たちとの関係は一般用語的にいえば“信じる”ものではあったかもしれないわね」

「やっぱり……そうなりますよね」

「うん……でもねヒカリちゃん、それでもわたしはこの関係性を“信じる”なんて表現にはしたくないの。わたしはどれだけ仲の良い子相手でも、心のどこかで“疑っちゃっている”人間だからね」

「oh, I see. 確かに“信じる”って疑わずに『こうだ』って思い込むことですものね。100%を示す詞、だから疑ってしまう先生にとっては、ふさわしくない詞――」

「うん、そうなるわね。わたしはとにかく疑りっぽい。1%はないけれど、億に一くらいの割合ではなんでもかんでも疑っちゃう。それにね、可能性やら縋りたいものを“信じた”ところで、現実がそうだ、100%そうだってことになるわけでもないのよ。信じるものの大半は自分以外のものだからね……それこそ自分じゃどうしようもないわけだし。ましてや疑り深い自分の心の中なんて……もっとどうしようもないわ。自分がどんなに『100%だ』って言い聞かせたところで、もうそれは自分で自分を騙しているのと一緒。わたしはそんなことしたくなくなったから信じることをやめたんだと思う。実際、先代のレインに嵌められたとき、『こんなハズじゃない』って思い込んだ挙句裏切られたことを知り、すっごい気持ちが落ちたからね」

「だから“信じる”という詞は使わない――なるほど納得、得心です。でも先生、それなら“友達”レベルまでは“頼り”にしているウィンドさん達との関係はどう言い表しましょうか?」

「そうねぇ……“背中を預けられる”関係、かしらね。信じるってさ、“心を許す”ことだと思うの。それもほぼ無条件かつ無償って感じで。でもわたしはあの老いぼれ先代の経験や過ごしてきた環境からか心を許せる状況って、なかなかなくってね……だから、わたしは“信じる”なんて詞は使わない。無言で“背中を預け”られればそれで十分だと思っているから。ほら、背中って口よりも雄弁なときがあるでしょ?」

「ああ、確かにありますね!」

 ミコが辿々しくも辿り導き詞にした答えを聞き、ヒカリはポンと手を叩いて相槌を打つ。待ち望んだ回答は、ミコの“本当”を体現するミコの本音で相違ない。心を裸に裸足にして伝えてくれた“詞”を聞いたヒカリは、ミコ=R=フローレセンスという人を初めて本当に“理解した”。後継者にと策謀し一方的に強迫した挙句逆に殺された先代38代目レイン、学都スコラテスの学生時代からずっと一緒に行動しつつも真に心を許すことはとうとうできずにその関係で満足してしまったウィンドやカーレントを初めとした気象一族の仲間たち、闘いという極限状態の中、理解する余裕さえなかった対戦相手の数々と……ミコがこれまでの人生で出会い触れ合ってきた全ての人間・神様を追い越し追い抜きかっ飛ばし、ヒカリはミコの“隣”にその身を置いた。

 その一瞬、ヒカリは心が風か川で洗われるような体験をした。万事流転の理の中、流れに揉まれ流されて、前後不覚の姿勢から、一気に視界が膨張したのだ。一瞬の中のさらに一瞬、刹那の時間で見えたのは、星の誕生輝く草原、そこにいる師と傍らの自分、ヒカリの視界は急速に収束し、草原の中の自分と一体化した!

「っは! はっ、はっ、はぁ……」

 次の瞬間、ヒカリは元の『家』の中ロッキングチェアの上、毛布を被さっている自分の元に戻っていた。“一瞬”が終わり、現実に帰ってきたのだと即座に理解できたが、身体は異常なまでに高揚し熱くなっていた。五臓六腑筋に皮、脈打つ血管に至るまで、余すことなく滾っている。こんな感覚は生まれて初めて――というより自分が初めて宇宙で最初じゃなかろうかとさえ思えるほどだった。こんな体験、辞書にも教科書にも載っていなかったし。

 今の体験を“理解”するのに頭と思考が追いつかないヒカリであったが、その想いは壮絶に空回りすることになる。様子を伺っていたミコが、「大丈夫、ヒカリちゃん?」と声をかけてきたからだ。

「えっ、先生?」

 なんとも呆けた声を出してヒカリは『外界』のミコに詞を返す。それがきっかけとなり、自分の『内面』ばかり向いていた自意識が、再び『外』と繋がったのだ。すると勿体無いことに、あれだけのインパクトがあったさっきの経験がどんどん霞みだしたのである。ノイズが走る。画質が落ちる。そして熱くなっていた身体が熱を失うのが身にしみてわかった。

 慌てるヒカリ。理由は単純。折角獲得した『ミコの隣』という絶好のポジション、失いたくはないからだ。そりゃヒカリだって幻覚の話だということはわかっている。しかし本人の感覚からしてみれば錯覚も幻覚もない。感じたことは一様に、全て等しく経験だ。その幻覚経験の価値が高いと、ヒカリの本能が告げるのだ。なので本能的むしろ条件反射的にヒカリは手足をジタバタ、もがきあがいて抵抗を試みるが、まあ世の中とは無常なもの。願った結果と真逆の現実になるなんて日常茶飯事繰り返し。そう、ヒカリの無造作な努力は全て無駄な努力へと帰結したのだ。簡単に言えば、さっき経験したばかりなのに、思い出せなくなっちゃった――というオチである。合掌。

 しかし幼いヒカリにとっては相当堪える結果なのもまた事実、ヒカリはとうとう――。

「うみゅ……うええ〜ん」

 泣いてしまった。

 思いがけず手に入れることができた素晴らしき体験をリピートする術を、泡のごとく掴み損ね、失ってしまった悲しみが少女を泣かせた。最初は涙がぽろぽろと。そのあと涙の存在に気付いた心が時間差で震えて身体を泣かせる。それを見たミコは少々戸惑った様子で、優しい声をかけてきた。

「どうしたのヒカリちゃん。まさかわたしの話にプレゼンテロリストが毒を仕込んでいたとか……?」

「違いますしぇんしぇ〜。わたし、先生の隣から自分に蹴落とされちゃいました〜」

「え?」

「実は……先生の本音本心を聞いたとき、とってもしゅっごい幻覚体験をしたんです。ユートピアに先生の偶像があって、その隣にわたしがいるってゆう」

「ほほう?」

「でも我にかえったとたんその情報が頭と身体からアンインストールされちゃいまして、それで泣いているんです〜」

「なるほど。全てわかったわ。悪いのはわたしってことね」

「そう、悪いのは先生……ってえええ! 違います違います! わたし、先生が悪いなんてこれっぽっちも思ってません!」

 ミコが平然と答えたミスリードに迂闊にも乗っかってしまったヒカリは慌てて全霊、否定する。しかしヒカリは知っている。自分が師事する先生、ミコ=R=フローレセンスはこういう言葉尻を捉えたトリック遊びと悪乗りも大好物だということを。なのでこれは持久戦の泥沼になるのかとも覚悟したのだが、今日のミコは意外なことにすぐ引いた。

「そうよね、わたしがヒカリちゃんに嫌われるわけないしー……って、ごめんなさいねヒカリちゃん、嵌めるような真似しちゃって。これはもちろん、いつもの『ワザと』よ♪」

「やっぱり〜。にしても、なんでこのタイミングで罠を張るんですか先生? この修行問答中に?」

 自分の悪戯心を認めたりと意外性続行中のミコにヒカリはまず解放されて安堵しつつも柔く追及してみる。するとミコはさらに意外、意外の極みみたいなことを言ったのだ。

「だって、ヒカリちゃん泣いていたもの」と。

「え?」ヒカリは耳を疑った。悪戯の動機が自分への心配だったなんて、思いもしなかったから……。そんなヒカリを尻目に、ミコはさらに続ける。

「確かに、わたしを理解し“隣”に立てたっていうのは重要だし、ヒカリちゃんにとってアイデンティティの確立にも繋がるファクタだってこともわかるよ。それも大事だけど、わたしにとっては“今現実”にヒカリちゃんが置かれている状況を見定める方もとっても大切なの。だってわたしが手助けできるのは、夢の中じゃなくて現実のヒカリちゃんだけなんだからね。現実のヒカリちゃんが泣くのなら、その涙を乾かして気持ちを晴らして上げないといけない。そういうおせっかいよ」

「先生……」 

「頭と身体で忘れても、心がそこはかとなくでも憶えていればなんとでもなるわ。夢はある日突然続きを魅せることもあるからね。それに、そういう体験は『知識』みたいに憶えておけばいいというものではないと思うの。多分だけどそれは『条件』だとわたしは思ってる。一度でも体験したことで次のステージ段階へと進むきっかけになる。つまり『経験』の存在自体が重要であって、経験する回数ではないと思うの。リピート体験で骨に髄に染み込ませるようなことでもないと思うのよね。だってヒカリちゃん、もう染み込み済みに見えるわよ」

「あひゃ……確かに」

 ミコの柔らかな説明を聞き、ヒカリはとても温かい感覚を肌で感じた。ミコの思いやり、そして励ますための口八丁を聞かされて、色々と“失った”現実と向き合える気がしてきたのだ。軽い簡単な女といわれればそうだと肯定せざるを得ない変節ぶりだが、ヒカリは自分の単純さだけではないとも考えていた。ここまで安心して方針転換できるのは、師であるミコの喋りが上手いからに他ならないと、そう思えてならなかった。

 残念ながらヒカリの意見に賛同してくれる第三者はこの『家』にはいない。つまりヒカリが独断と偏見のみで決めつけなくてはいけないのだが、それでもヒカリは自分の解釈は間違ってないと決めつけた。何がそうさせるのか、そんなことには興味を持たない。語る相手がいないからだ。強いて言うならミコへの敬意なのだろう――ヒカリは再度決めつけて、ミコへの感謝をハッキリ伝える。

「ありがとうございます先生。先生の言う通りです。わたしは先生の“隣”に立てたんですからもう大丈夫ってことですよね!」

「そうよヒカリちゃん。あなたはわたしが選り好みして選んだ相手なんだもの。もっと自分を評価していいのよ」

「はい!」

 勢いのいいヒカリの返事。これでこの一件は落着となった。

 そして話の歯車は戻る。途切れる前の問答へと。

「さて、さっきのわたしとの問答はいったいどこまで話したやら……んー確か、『背中は口よりも雄弁』ってことを話したような気がするわね」

「はい、そうです。そこでわたしがトリップしたんです」

 ミコとヒカリの会話は問答のかなり前にまで戻る。ミコが今日初めて語ったミコとしての三周目の人生を語り終わった直後、「“信じる”でなければなんですか?」とヒカリが投げた問いに、「“背中を預ける”かな?」とミコが詞を選びつつ答えたところまで戻る。

 ミコは背中を『口より雄弁』だと言った。それは事実で真実だろう。なぜならヒカリはミコの背中から伝わるメッセージでミコに心を許したし、その後今日に至るまでの修行、特に推察視力の分野において、ヒカリはミコから『背中を観察しろ』との教えをこれでもかと摺り込まされていたからだ。ミコにとって背中は口よりも遥かに特別な場所。なのでそこを問答で取り上げる以上、そういう表現になるだろうとはヒカリにも予想できたし、事実そうなって安心した感さえある。そしてミコもそれがわかっているから安心して次の話題へと切り替える。重々承知というやつだ。

「ヒカリちゃんがくれた最初の質問では『背中を預けるくらいの信頼関係』ってところで落ち着いたけど、次に行くとしてヒカリちゃん、わたしの人生話……いや、もうそれ以外でもなんでもいいわ。わたしにぶつけたい疑問質問ありましたらなんでも承りますわよ」

「うーん、じゃあ早速ひとついいですか。先生は状況がどうなったら闘いに身を投じるんです?」

「ほう……闘争の心得ね。いいでしょう、教えるわ」

 ヒカリの問いにミコは一瞬、何か含んだような表情を魅せたがそれっきり。刹那の間逡巡したかのような間を取った後、観念したような表情に変えてあっさり白状すると宣言。そしてその詞通りに、すぐに答えを語り出した。

「わたしが戦闘を選ぶときは……まあ気分次第というのが一番適切なんだろうけど、一応ひとつの基準はあるわ。逆質問するわよヒカリちゃん、俗に戦争は外交の最終手段って言うわよね……なら、闘いは何の最終手段かしら?」

「外交に位置するものってことですよね……えーっと。あっ、わかった! コミュニケーションですね!」

「痛快軽快大正解♪ 良く辿ったわね、ヒカリちゃん」

「いやぁ……教え子としてここはわからないといけないかなって義務を感じてましたから。でもそっか、闘いはコミュニケーションの最終手段。もはや口で語ることもないから拳で語る、ということですね?」

「そうなるわね。ま、わたしの感覚だけどね。これ以上話すこともない相手、話したくもない相手、話を聞きたくもない相手には拳や実力行使の方が口よりはるかに雄弁でこちらの意図がはっきりと伝わるってことを、経験則で学んできたかな。まあ、そもそもの大前提としては、今の世の中は法律と道徳と常識がわりと整備されているからそこまでさせる奴っていうのは滅多にいないものだから。レアキャラって呼んでもいいと思う。でもね、ウイルスを絶滅させられないのと同じで、こういう輩もまた絶滅死滅だけはしないのよ。この俗世惑星のどこかに最低一人はこういう常識からしてズレていて自分の考えを人に押し付けようとする奴、生き残っているんだなあ……」

「ああ、わかります。いるんですよねそういう奴。どんな教育を受ければそうなるのか不思議でしょうがありませんよ。存在自体迷惑ってやつですよね」

「そう。世の中悪い奴っていうのは実はあんまりいないんだけど邪魔な奴はありふれるほどいるからね……でもヒカリちゃん、そういうのは思ってても口には出さない方がいいわ。連中はどんな言葉尻でも捉えてそのくせ放そうともしないしつこさの持ち主なんだから。口は災いの元ってことよ。でもまあこの『家』なら大丈夫か。うん、要はそういうこと。わたしが“消えた”らヒカリちゃんは少なからず一人で行動する機会があるだろうから……くれぐれも気をつけてね。特に一見さんには注意すること、いい?」

「はい、先生」

 ミコの忠告ヒカリの納得、二人のコミュニケーションが見事にひとつの修行・教育をなした瞬間だった。それに気付いた二人は、目を合わせて微笑み合う。

「じゃあ次の質問を。たぶんこれで最後の質問だと思います」

「そう? 遠慮なくどうぞ」

「はい。先生は普通の死と違う、影の秘術を完成させたことによる“消還”の運命を持ってますよね。それを知ったとき、どんな気持ちでした? 普通に冥海に魂を還して輪廻転生の望みがあるっていう生命のサイクルを外れて――怖くとか、ありませんでしたか?」

 ヒカリの最期の質問、それはミコが迎える特殊な終わり――“消還”の運命とミコの死生観について問うものであった。質問を聞いたミコは一瞬だけ虚を衝かれたように間をおいてから、含みのある表情を魅せてその後逡巡、前のように詞を選び吟味してから、ようやくやっと、語り出した。

「そうね……“消還”の宿命を自覚したのは神様たちの住むアパートに行って泉さんに会ったときね。泉さんは“歌心”を完成させて“消還”された。言わばわたしにとっては先輩だった泉さんの“消還”を直で見たことで、わたしも自分が“消還”されるって気付けたの。これはラッキーだったと思うわ。影の秘術を完成させていたのだからどの道“消還”で消える結末なんだけど、最期の状況がイメージできるっていうのは、普通の死にはない利点だと思うの」

「あーそりはー、そうかも、ですね……」

「でしょ? 不安はもちろん感じたわよ。世間一般の死に方もできず、魂も肉体も永遠に俗世を離れて『保管』される。輪廻転生の可能性が潰れたって事実は少なからず堪えるものだったし、怖かったと言ってもいいわね……でも、もう確定した結末は避けられないでしょ? それこそ普通の人にとって死が避けられないように。そう考えたのは泉さんが消えた直後、一番最初に現れた翠様がやってくるまでの間ね」

「相当短時間なんじゃないですか先生?」

「うーん、走馬灯効果だったと思う。あの時だけ時間の流れが遅くなっていたって感じで。でね、引き延ばされて与えられた翠様との対面までの時間わたしはさらに考えました。そしてこう思ったの、『人生道半ばで消えても“自分”のまま消えるのならわたしの道は続くのかも』って」

「道……ですか?」

 ミコが初めて使った“道”という単語。ヒカリは一回聞いただけではその意味を掴み取れずに、間の抜けた返事で疑問を表現することが精一杯だった。しかしミコはそんな返事も決して無下にせず丁寧に受け取って、優しい詞を返してくれる。

「うん、道。そのとき気付いて感じたことなんだけどね、生命って肉体とか魂とかが“残っている”限りは死んでも人生の先は続いているんじゃないのかなって、そう思うようになったんだ。死んだ後だからもちろん『人生』って詞は使えないけどね。でもさ、魂と冥海、輪廻転生のメカニズムがわかっていて、しかも死んだ魂はすぐに冥海へ帰るわけでもなく、俗世を数百年幽霊として徘徊することも考えてみて。それってもはや幽霊としての第二の人生とか、そういえるような気がしない?」

「なる……ほど」

 ミコの説明ヒカリの返事。説明はさらに続く。

「わたしは葬式とか供養って多分に遺族とかの俗世に残った関係者達の都合だと思う。特に火葬とかその最たるものよ。ゾンビになる可能性を潰して、肉体を燃やして灰にしちゃうんだから。遺言状もまるで意味を持たない。あれこそ死者に鞭打つってやつね。全く、魂の不滅は信じられなくても、肉体の不滅は努力次第で可能なのにね?」

「はあ……あの、先生? ちょっと話がズレてきてるような……」

「えっ? ああ……そうね。うん、遺族への文句はこのへんにしておいてっと、話を戻しましょう。で、死んでも魂とか肉体には次の“道”があるってわたしは思うの。でも、いつかはその道も消える。肉体の消滅はもとより魂も冥海の輪廻転生作用であらたな魂に生まれ変わる。そうなると完全に前世来世の概念よね。ところがよ、わたしが迎える“消還”には転生要素が一個もない! 永遠にわたしのまま消えるってことはそのまま永遠にわたしのままでいられる――こうも言い換えられるのよ!」

「おお! 確かにそうです! つまり先生は死ぬように消えはするけど未来永劫転生で別の生命体になることはないということですね」

「そゆこと! まだ消えてどうなるのかはわからないけどさ、ひょんなことで俗世に戻ってこれるかもしれないじゃん? 消えても保存、されるわけだし。それこそ死んだ人の幽霊と会うみたいに……ね?」

 ミコの楽観的な希望的観測にヒカリは首をブンブンと、荒々しく上下させて頷いた。確証もない、妄想に近いような勝手極まる希望だが、それでも可能性が0ではないという『事実』がミコの心を安らかにし、ヒカリの心を駆り立てる。ここでの別れが、この先迎える最初の離別が二人の最後ってわけでもない――そういう都合のいい認識、だけどそう思っていた方が人生楽しく生きられそうだと、二人ともわかっている。その気持ちの表現が先の行動そのものなのだ。

 二人の顔に笑みが零れる。

 二人の心に明かりが灯る。

 深刻神妙な話が、いつの間にか笑談に変わる。ミコはさらに語り続ける。

「みんながみんな幸せになれるわけじゃない。ましてや幸せに死ねる人なんてほんの一握りだけよ……。わたしは普通の死とは違う形の“終わり”を迎えるとは言え、最期を選ぶ自由を得たわ。これって相当なワガママが叶ったってことだと思うの。人間に限らず、心在りし生命はみんな欲張り。ずっと若いままでいたい。ずっと健康でいたい。欲を言えば思いっきり長生きしたいって、ね。でもそんなの普通の欲求。当たり前の心の働き。だからわたしはこれでよかったしこれが嬉しかったんだとも思う。わたしだって、死ぬことは怖いし、ちょっと不安だったしね。終わっても自分のままでいる――最期の日を憶えてられていそうってのも大きいわ。人間生まれた日は憶えているけど、死んだ日は憶えられないでしょ? 何せ死んじゃうんだから。生きてなきゃ憶えておくこともできないし。その点わたしは終わる日を憶えていられそうだからね……だからそんなに悲観してないの。確かにこの俗世を超越した場所に永久にサンプルとして閉じ込められる運命だけど、それに見合うメリットもあるのかな〜って、思ってるの。だから……ね? ヒカリちゃんも今からそんなに泣かないで。涙は別れるそのときまでとっておいて。ね?」

「あっ……」

 ミコに指摘されたヒカリはそのとき初めて気付く。自分が泣いていたことに。

 理由はわかりきったこと。寂しくて、悲しかったのだ。ミコと別れることが。

 でもそれだけじゃない。ヒカリは秘めたるもうひとつの理由を自覚していた。

 それは――喜び。歓喜と言ってもいい。本当に……歓び。

 ヒカリは嬉しかったのだ。ミコが嘘偽り無く喋ってくれたことが。恐怖も希望もあますことなく、全てをそのままありのまま伝えてくれたことが。裸の心を魅せてくれたことが。

 

 悲しい。寂しい。でも嬉しい。

 美しいから。温かいから。そしてなにより優しいから。

 

 ミコ=R=フローレセンスという“人間”に触れて、ヒカリはあらゆる感情を呼び起こされたのだ。それゆえの涙。その結果としての涙。悲しいも嬉しいも両方入っている。だから自分では止められなかった。ミコには「まだ早い」と言われても、もうこの涙は、今でしか流せないものだから……。

 ヒカリはますます涙を零す。ぽろぽろはらはらさめざめと。

 ミコはそれを見て困った顔。でもその顔の隅っこで微笑む。

 ミコもわかってくれている。それがさらにヒカリを泣かす。

 ……と、終わりも出口もないような永遠が続くかとも思われたが、その無限ループも終わる。泣いている当人であるヒカリが涙をついに尽かしたのだ。かつて泣いたときと同じ結末。でもかけた時間は随分短い。それだけ成長したのかもしれない。決して淡白になったとかではなく。慣れちゃったとかでもなく。

(でも、きっと先生は……)

 早く泣き止む理由。きっとそれがどんな理由でもミコは笑って受け止めてくれただろう――ヒカリはそう思った。そしてふたつの想いを抱く。敵わないなという尊崇の念と、でもいつかはわたしもそうなりたいという目標の念。頬を伝った涙の軌跡がまだ乾いてもいない中、ヒカリは淡く温かい笑顔のミコをじっと見つめる。

 その笑顔を、記憶のキャンパスに焼き付けておくために。

 いつか自分も、誰かをそんな笑顔で包んであげたいから。

 心に残るその笑顔を、ずっと見つめる見定める。今度は見つめ合うその時間が泣いている時間よりもずっと長くなっていた。だけど、飽きることはなく、二人はずっと、そのままで……。

 

 二人だけの空間。二人だけの時間。

 

 そうしてどれだけの時間が経っただろうか。とうとうミコとヒカリはその静止状態からお互い微笑み合ってから、息を吐いて動き出す。見つめ合う時間が、無言の問答時間が終わったのだ。長い時間が過ぎた気がする。夜を更かしてしまったかもしれないし、日を跨いだかもしれない。でも同時に、あっという間だったという気もヒカリは感じていた。この問答修行の時間も終わりである。口に出した問答の時間よりも口を噤んだ観察の時間の方が長かった気もする。でも十分だった。詞だけでなく表情、そして心を通して多くのものを学んだと、ヒカリは確かに感じていたのだ。

 だから次のような詞も、すんなりすらっと口にできた。

「問答修行はこれでおしまいですね、先生」

 そしたらミコもはんなりとこんな返事を返してくれる。

「そうね。もう教えることはないでしょうね。他に学ぶことがあれば、それはきっと、ヒカリちゃんの人生で経験や体験として修得していくものになるでしょうね」

「はい」

 ミコの詞にヒカリは真面目な、やる気に溢れた表情で頷いた。確実にミコの後継者に一歩進んで何歩も近付いたという達成感が、ヒカリの心を昂らせるのだ。

 ミコはここで影帽子のがま口チャックを開けて中から懐中時計を取り出した。なにやら時間を確認中。ヒカリは邪魔しないように口を両手で大袈裟に塞いでその様子を見守る。

 そしてミコは懐中時計を閉じて影帽子のがま口に放り込むと一言。

「寝ましょうか」と。それだけ。

「わかりました」ヒカリも返す。

 そうして二人は膝掛けを畳みロッキングチェアから立ち上がると、寝室へとゆっくり歩を進め部屋を後にした。

 そのとき部屋を出る際にミコがパチンと指を鳴らす。すると部屋の照明が一瞬にして消えるのであった。



 寝室。ミコとヒカリは畳の上に並べて敷いた布団の中に、寝間着に着替えてすぐ入った。しかしすぐに寝付いたわけではない。ガールズトークの花は夜に咲く。寝る前のすぐに忘れてしまう記憶状態で話す会話こそ、一番盛り上がる時間帯なのだ。

 ――と、思いきや。

 ミコとヒカリのガールズトークは、それほど盛り上がりはしなかった。どちらかと言うと正反対にクールダウン、安らかな眠りにつくために催眠術の呪文でも唱えているかのよう――という感じの比喩が、なんだかとってもしっくりくる。まあ最初に「おやすみなさい」とお互い言ってしまっては、花も咲かない火もつかないのが至極当然かもしれない。

 でも……。

「先生、起きてます?」

 寝付くまでの静寂にどうも馴染めず、ヒカリがミコに話しかける。

「はい。起きてますよ」

 ヒカリの呼びかけにミコも返答する。浮いて飛びそうな軽い声で。

 そのまま昇天……もとい消還しちゃいそうな気になりヒカリにスッと不安がよぎる。寝る前の静寂と真っ暗闇な夜の帳が小さな不安も増長させてしまう。いろいろと“なくなりそう”なこの時間は、心在る者にとっては最も怖い時間帯。だからトークなんかをするのだろう。ヒカリはよくよく納得する。

 だけど、ヒカリがそれ以上不安になることはなかった。二重の意味で。ミコの声が聞こえたことと、その“声”が教えてくれたことが、ヒカリの心を温かく包み込んだのだ。

「大丈夫よヒカリちゃん。今この場で消えたりするもんですか。“消還”されし者は、残せるものを託せる者に預けて初めて消えられるんだから。まだアレは渡さないから大丈夫。砂時計の砂はまだ落ちきってはいないわよ」

「せんせい……」

「その間にフィジカル面を鍛えてあげる。一人立ちのためには“強く”なることが大切よ。闘うためじゃない。あなたが最大限あなたらしく、“自分以外”に煩わされることなく自由にはばたけるように……ね?」

「はい……おやすみなさい。先生」

「おやすみ……」

 ここで二人は口を結んだ。そのまま意識は部屋から消えた。

 夜が手招く眠りと夢の世界へ。二人は一夜の旅に出たのだ。

 

 二人が眠りと夢から醒めた日。夜は明けて外は明るかった。雨傘結界による雨は絶え間なく降っていたが、光が部屋に射し込んでいた。ヒカリは静かにうっすらと瞼を開く。

「おはよう。起きた? ヒカリちゃん」

 目を開けた瞬間耳に届くミコの声。ヒカリがミコの方を振り向くと、ミコもこっちを向いていた。起きてはいたが、布団に包まったままで、顔だけこっちに向けていたのだ。

「おはようございます、先生」ヒカリも寝たままあさのご挨拶。するとミコはいつもの通り、淡く柔い笑みを魅せてくれる。それだけでヒカリはしつこい夢のしがらみから解放され、現実に帰ってこれるのだ。

「起きましょうか」「そうね」

 ふふふっと笑い合って、ヒカリとミコは布団を持ち上げ、腹筋を使って上体を起き上がらせる。しばらくぼーっとしてから下半身ももぞもぞ動かし、足で踏ん張って立ち上がる。それから布団の上で寝間着を脱ぎ、私服に着替える。

 ミコは白に七色をあてがった服を。

 ヒカリはミコが作って贈った服を。同じ白地に同じ七色、ただし黒や灰色も混ざっている、配色や配置、模様が違う可愛い服を。

 着替えた二人は手早くリビングに行き、仲良く料理した後、談笑しながら第一食を済ませる。外はかなり明るくなっていた。雨は降っているものの、実戦修行にはもってこいだったのでミコがヒカリに御提案。

「やろっか。戦闘修行」

「はい。やりましょう」

 ミコの誘いにヒカリは即答。すぐに色気のある返事。ガタッと椅子から立ち上がり、二人はレインコートも着ないで雨の滴る外に出た。



 雨傘結界の降らす雨はそんなに激しく強くはない。なのでミコもヒカリものんきなもの。天を仰いで顔に雨を滴らせるその様は、さながら蛙みたいである。

 そんな客観論を気にすることもなく、ヒカリはひとしきりはしゃいだ後、ミコが影帽子から家に出していた武具コレクションより持ち出した武器防具他etcなどを身に着け手に持ち、地面に置く。ヒカリが持ち出した武器の量はかなりの数にのぼり、足の踏み場も無いほどに、地面は武器で覆い尽くされている。そんな大量の武器の中、ヒカリが初期装備にセレクトしたのは銃と槍。ロングレンジを主眼に置いた武装である。

「じゃあ始めますか。まだ実力差があるから手加減はするけれど最初から実戦だからね、油断しないように」

「はい」

「あと、腕が上がっていったらギアはどんどん上げていくからね。『この程度』って思い込まないでよ、ヒカリちゃん」

「了解です」

「そしたら……はじめますか!」

 そう言うが早いか、ミコは説明を切り上げて影帽子のがま口チャックから黒い腕を出現させるとその手に背心刀・雨のシャドーコピーを持たせ、八方八手の刀をヒカリめがけて斬りつけだした。ヒカリはまずミコに向かって持っていたオートマチック拳銃の弾11発を全弾即座に発射する。そしてパッと手を離して使用済みの銃を重力任せに落とす一方、足元にあった盾を足先爪先で掬い上げてから空いた手で掴み、向かって右側に向かって全速速度で跳躍した。

 ヒカリが跳躍の最中にも横目でミコのことを確認すると、ミコは自分に向かってくる11発の銃弾を、がま口チャックから追加で取り出した長い長い黒い足で立つことで自分ごと持ち上げ宙に立って全弾避けてしまっていた。ミコが飛び上がると彼女が元いた場所は細く長い黒い足数本と隙間しかなくなってしまい、弾は擦ることもなく通り抜けてしまっていたのだ。しかしそれも想定内。ヒカリは気を取り直して自ら接近した右側の黒い手に飛び乗った。横薙ぎで向かってくる刃を盾で受け止め押しとどめると、素早くジャンプして刃の上に乗り、そのまま躊躇せずに動いて黒い腕の上を走り出す。ヒカリの狙いはここにあった。ミコに接続されている黒い腕を伝って、ミコとの間合いを詰める算段。

「ほう、やるわね。でも!」

 ミコはヒカリの作戦に感心したような素振りを示したが、手加減無用、すぐに反撃対策に打って出た。足場にされている黒い腕を自分の腕で引きちぎって影帽子から切り離し、空に投げる。ヒカリは足場を崩されたのですぐに飛び去ったのだがこれはミコにとって好機。まだ空を飛べないヒカリが空中に舞うことは、『いくらでも攻撃してください』と言っているようなものだからだ。ミコは遠慮なく展開していた残りの黒い腕を全てヒカリに向ける。まずヒカリの全周囲を包囲し、続け様にヒカリ目掛けて攻撃する。早くも絶体絶命の状況。ここでヒカリは最初の勝負に出た。持っていた盾を足に添えてそのままぐるんと半回転。上下に回転して下を向いてから盾を蹴って加速、下へ地面へと突っ込んだ。

「やっほーっ!」

 元気な掛け声を出してミコの攻撃速度より速く落ちだしたヒカリは、下から向かってくる黒い腕を蹴り飛ばしつつも放さなかった盾を当てることで強行突破、そのまま盾を踏み台土台マット代わりに上に乗って着地した。

「どーん!」

 ヒカリの叫びと正に同じ音が雨に濡れた柔土にもかかわらず轟く。ヒカリの着地の際の衝撃が衝撃波となり、地面に置いていた武器の大半を一瞬だけ、あくまで低い高さではあるのだが宙に浮かせた。ヒカリはその一瞬を逃さず袖の下に隠し持っていた超強度磁石付きのワイヤーを投げつける。すると宙に浮いていた大量の武器は強力な磁力に吸い寄せられてワイヤー先端に吸着、巨大なモーニングハンマーのような武器へと変貌したのだ。その間一秒にも満たず、ヒカリは即座にワイヤーを操作しハンマー部分をミコに投げつけた。

「ちいっ!」

 ここで初めてミコは舌打ちをした。でもそれは悔しいとかそういう意味ではなく、ヒカリが自分の計算を超えたことに対する嬉しさから出たものらしい。その証拠に、顔は笑っていたのだ。黒い足を引っ込めたミコは開いていた影帽子のがま口チャック両端から黒い羽根を出現させ、バサッと羽ばたき空へと逃げた。ワイヤーハンマーはその下を擦ってその勢いのまま飛び抜けた。ミコはその運動に疑問を抱いたが、考える暇もなく強烈な殺気を感じた。

「はっ! ヒカリちゃん?」

「えーいっ!」

 ミコが気配を感じた方角――死角となっていた方向にヒカリの姿があった。そう、ヒカリはワイヤーハンマーを投げ飛ばした瞬間踏ん張っていた足を宙に浮かし自身もジャンプすることで飛んでいくワイヤーハンマーに引っ張ってもらい、うまいことミコの死角へとこれまた隠し持っていた他のワイヤーと噴射装置を駆使しつつ潜っていたのだ。その成果が実りまさに零距離接近戦まで間合いを詰めたヒカリ、槍を短く持ってレンジを詰め、ミコに強烈な突きを喰らわす!

「とりゃ!」「なんの!」

 ヒカリの攻撃。当たることは当たったがそれもミコの手までで止まる。なぜならミコが黒い手でもなく自分の手で槍の切っ先をつまみ止めて魅せたからだ。

「くっ!」

「やるわね、ヒカリちゃん。第一段階はクリアでOK。次に行くわよ。ギアアップ!」

「うわわっ!」

 ミコはヒカリの腕が一定レベルを突破したことを認め、自らの実力“ギア”を上げた。すると対応がそれまでから一変、指で摘んでいたヒカリの槍をそのまま無造作かつ豪快に投げ飛ばした。突然の超反応にヒカリは対応が遅れ、槍もろとも投げ飛ばされそうになる。

 が。

「なんの、これしきーっ!」

 ヒカリはそれまで手から放さず愛用していた槍をあっさり捨ててバイバイさよならと別れを告げる。そしてまだまだ隠し持っていたワイヤーを射出装置で地面へと打ち込み、巻取装置で地面へと急降下、そのまま地面に着地する。ヒカリの撤退ぶりを見たミコは、またもや安心した素振りを見せつつ、すぐに追撃を仕掛けてきた。そんなに時間は経ってはいないが、空中で遊んでいた黒い腕とその武器一同を一斉に地上のヒカリへと向けて攻撃させてきたのである。

 ヒカリはすぐに迎撃に出る。先にワイヤーハンマーを作った際、磁力に吸着されなかった武器――地面にまだ残っていた武器群に走り、腰を落として手に取ると、矢継ぎ早に空中から向かってくる黒い腕目掛けて投げつけだしたのだ。

 道具と道具のぶつかり合い。雨に染み込んだ鈍い金属音が空中で立て続けに木霊する。ミコが繰り出した黒い腕、その手に握られていたシャドーコピー武器群はヒカリの投げつけた武器群に弾かれて、次々に黒い手を離れて空中に飛散する。シャドーコピーはミコが影の秘術で生み出したものだが、黒い道具と異なりその本質は黒い手、影帽子の能力である。能力の大元である黒い手との接続が絶たれてしまったので、元の影、実体のないモノへと還元されてその全てが消滅した。それでもミコは止めることなく、黒い手を握らせ拳を作り、拳の多重奏といわんばかりにラッシュをヒカリに喰らわせてくる。ヒカリはギリギリまで動かず十分にミコの拳を引きつけてから、またもや隠し持っていた煙玉を自身の真下に投げつけて煙幕を張る。煙の広がりはかなり大きく、結構な距離のある空中のミコさえも煙幕の中に捉えた。

「随分色々と隠し持っているわねヒカリちゃん。煙幕とはまた骨董好きな……気配も消してる、ならば!」

 ミコはこの煙幕が自分の感覚さえも封じる特殊な煙幕であることを確認すると、展開していた黒い羽根で風を起こして煙を吹き飛ばした。さらに念には念を入れ、感覚系の黒い道具である黒い眼をがま口チャックに出現させる。それと同時に、黒い羽根を除くそれ以外の黒い道具――黒い腕と黒い足をがま口チャックの中へとしまう。全周裂開の切り札を使っている時ならともかく、普通に開いているチャックの大きさでは、黒い眼を出してしまうと他のものはほとんど使えないからだ。特に数が売りみたいなところのある黒い腕と黒い足は一本でも展開していると、それだけで展開可能容量を喰ってしまう。同じ大喰らいである黒い眼とは、通常一緒には使えないのである。

 そんな理由でミコが黒い羽根以外をがま口チャックの中にしまい、新たに出した黒い眼でもって気配を消したヒカリの姿を探ろうと煙を飛ばして探索開始。したのだが……。

「地中?」

 その詞が示す通り、空中にいるミコが地上を探索したところ、見つけたのはヒカリが入れそうな地中へ掘られた穴がひとつ。ヒカリの姿はどこにも無かった。

「潜ったかー、でも黒い眼で探査すれば……ん? 反応あり? 真下?」

 ミコが一人言を呟いている最中、黒い眼の発した警告で真下を向くと地中から10発以上の弾丸が上空のミコに向かって飛び出してきた。探索開始から間を置かずに攻撃され、ミコも若干慌てて防御態勢に出る。いつもなら黒い腕を多数出すか黒い盾で防ぐとこだが、黒い道具は展開可能容量が足りないので、雨を使うことにした。レインとしての能力で雨傘結界の中降りしきる雨を集め、雨装活化・水星球を造り出す。雨を使った防護球体の中に入ったミコは向かい来る銃弾から己が身を難なく守りきった。だが!

 防護球体こと水星球は銃弾を防いだ途端弾かれた。銃弾が実は炸裂弾で、接触し防がれた刺激で爆発したのだ。それと同時に黒い眼が更なる警告をミコに知らせる。

「今度は上ですって? ……って、あれは!」

 ミコは上を見上げて仰天する。ミコの上、即ち上空にあったのはヒカリが濡れた地面に置いていた大量の武器だったからだ。

「……ふふっ♪」

 地中に潜伏中のヒカリはその様子を感じ取ってニヤリと笑う。そう、ヒカリは煙幕で自分とミコの周囲を隠した直後、地面に置いていたありったけの武器を記憶と予測でミコの遥か上空に投げ上げていたのだ。重力任せに自由落下、雨のように降り注ぎミコを襲うように計算して。雨装活化・水星球で防御されない隙を突くため、地中に隠れ援護射撃までした成果がここで現れた。

「ぜ、全周裂開!」

 ヒカリの狙いはズバリ的中。ミコは目と鼻の先まで迫った武器を前に、黒い羽根の空中機動で地面へと逃げて少しでも距離を稼ぎつつ、全周裂開のコードで黒い道具の展開可能容量をMAXにして黒い腕を62本全て展開。降り掛かってくる大量の武器を受け止めるなり弾くなりして防御行動に専念していた。それこそヒカリの待っていた瞬間。

「とりゃーっ!」「なに? きゃっ!」

 ミコは空中から突如引っ張られ地面へと投げ落とされた。引っ張られている原因は黒い腕の一本。それに不可視覚化してあった見えないワイヤーが引っ掛かっていたのだ。

 ワイヤーを引いているのは……そう、ヒカリである。

「きゃあっ!」

 ミコは着地の体勢を整える暇も無く背中から地面――水たまりに叩き付けられた。その上からは雨のように武器がまだ降り注ぐ。ミコは寝た体勢のまま黒い腕を使って向かってくる残りの武器を全て弾き尽くす。その最中にもヒカリが自分の方に落ちてきた武器を手に取ってミコ目掛けて投げつける。黒い腕だけでは手に負えないミコは黒い足も出して水平方向に迫ってくる武器を蹴り飛ばす。やがて全ての武器が弾かれ尽くされた。ヒカリもそれ以上の追撃はせずに、閑話休題、一時休憩と休んでいる。ミコもそれに応じるようにしばらく休んだ後、飛び起きて地に足を着ける。

 目と目を合わせ見つめ合う二人。沈黙の後ヒカリが不意に微笑み、ミコも笑顔で拍手をする。

「すごいわ、ヒカリちゃん。わたしのギアを上げさせただけでもすごいのに、実力のリミッターを一段階上げたわたしを地に伏せてみせるなんて。やはり実践修行は効果があるわね。今もあなたの実力がめきめき上がっているのをこの黒い眼が視ているわ」

「恐縮です。これも先生が手抜きの本気で闘ってくれているおかげですよ。わたしは闘いでその都度できることをやっているだけですけど、それでも選択肢と可能性が広がっているのを感じますね。ドキドキするので心臓には悪そうですが」

 ミコの評価にヒカリの感想。両者の想いが絡み重なり、ひとつの現実を生み出していく。

 ミコは両手を合わせて集中、例の呪文を呟きだした。


「母木から離れた葉っぱの心は虚っぽ

 那由他の空には証の欠片も得られず

 魅せる 誰も振向かず

 繋がる 誰も応じない

 星天に霞み輝く数多の涙

 無限の星々が観守る中で

 葉は花へと 魔法の変化

 夢幻の花が ひとつ咲き

 星の心歌が 宇宙に響く!

 Now! Florescence!」

 

 彼女が叫ぶ。雨が弾ける。そして彼女の背中には、見覚えのある羽衣が――。

 

「来ましたね。『幻の身体能力』、幻想レインコート……」

 ヒカリは羽衣を羽織ったミコの美しさに息を呑みつつも、頬を両手でパンとはたき、気合いを入れ直す。自惚れは許されない。いくらこの実践修行を通して闘いながら強くなっていると言ってもミコがレインコートを羽織り幻の身体能力を解放したら10秒……いや瞬殺でも遅すぎるだろう。それに加えて影帽子は全周裂開で最大活用。雨の能力も雨傘結界の箱庭の中絶好調に使えるのだ。あらゆる勝利へのファクタがミコに片寄っていると言っても過言ではないだろう。瞬殺どころか『わたしはもう死んでいる』と暗示をかけられている気分にヒカリは陥る。

 そしてヒカリの考えを裏付けるかのように、ミコは静かに構えをとった。腰を落とし若干前傾姿勢になって、右手を掌底、左手を拳打に構えて静止。さらにその周りに展開していた影帽子の黒い腕と黒い足も手は両腕に、足は両足に添わせる形で縮めて待機させている。ミコの闘いを見聞きしてきたヒカリはその構えがミコの必殺技である月砂鏡の準備だと理解する。一撃必殺の目論見で臨むミコを前に、持久戦は不可能だとヒカリは悟る。一発勝負が不可避なのだと。

 元々勝ち目は0のヒカリである。では何を目標に闘うのか? ヒカリはそれを『負けないこと』、『先生をギャフンといわせること』と設定した。勝つのは無理でもこれくらいならやり方次第でできそうだと……そう考えていたのだ。

(さて、どうやって一泡吹かせるか。考える時間は先生がくれてるからいいけど……)

 静物モデルのように技の構えをしたままミコは動かない。それはヒカリの準備完了を待っているのだとヒカリは理解していた。逆に言えばその時間を駆使して作戦思考に使えるわけである。待たせることは趣味ではないヒカリだが、ここは一発勝負なので唸り吃り考えた。

 沈黙数秒。黙考数分。随分とあれかこれかと命乞いシンキングタイムを経たヒカリはようやくとある『一手』を思い付き、それを試す勇気を作る。

 ヒカリもミコに倣って構えをとる。しかし何か技を出すという風ではない。むしろその逆、『何もしない』と主張するかのような『無の構え』をとったのだ。

「ほう……受ける気、なのね。いいでしょう、いくわよ!」

 ヒカリの覚悟を見て取ったミコは喋り終わると同時に消えてヒカリの零距離射程内に出現する。「諸行無常、月砂鏡!」と叫んで必殺の月砂鏡をヒカリへ喰らわせた――。

 

 だが!

 

 零距離から月砂鏡を喰らわせ、双方共に吹っ飛ぶはずが、実際に吹っ飛んだのはミコだけだった。技の反作用でヒカリから遠ざかるように離れるように飛ばされる。一方のヒカリはなぜか飛ばされずにその場に留まり立っている。月砂鏡がもたらすはずの『結果』とはかけ離れた『現実』に、ミコは頭が真っ白になりプチパニック状態となる。その動揺で対処も遅れ、本来なら華麗に受身着地をとるところを、背中から地面に落ちて引きずられるように仰け反ったのであった。美的採点0点のみすぼらしさであった。

「なんで? どうして!」

 仰向けに寝そべり顔に雨を受け、ミコはかなりの大声で叫ぶ。そのなりもかなりみっともない。もはや最強の俗物ミコ=R=フローレセンスではなく、どこにでもいそうな一人の女の子と化していた。

 そんなミコを見やるヒカリははやる鼓動をなだめるのに必死であった。対策が『成功』した高揚感とかそんなものじゃない。月砂鏡を喰らって頭の中が真っ白になっていたのだ。再起動しミコの疑問に答えられるようになるまでは、雨に当たって2分ほどの時間を要した。

 そして再起動が完了したヒカリは、まだ寝そべったままのミコに静かな声で話しかける。

「すみません先生、わたしの打った月砂鏡対策が思いの外成功したみたいです」

「成功? やっぱりこれヒカリちゃんの技なのね。どういうカラクリなの? わたし全然わかんない!」

 ヒカリの詞にミコは即座に反応する。ヒカリは一回髪の毛を掻いて、やはり申し訳なさそうな顔をして説明を始めた。

「わたしは技なんか使ってませんよ、先生。ただ、“みんなを味方にした”だけです」

「“みんなを味方に”……? まさか、それって!」

「そうです。“みんな”ってわたしと先生以外の全部です。このぬかるんだ大地、雨雲に覆われた空、降り注ぐ雨、充満する空気、そしてこの俗世惑星に宇宙に至るまで、あらゆる環境を意味します。それらの力を結集した結果わたしは月砂鏡で受けた衝撃を“みんな”で受けたことと等価にできたんです。先生の月砂鏡は強力です。でも宇宙を壊すほどではない。受けるわたしを一点に、だけど“環境含めみんな”で一緒に受けたから、わたしは飛ばされず先生だけがわたしと環境から遠ざかるように一気に飛ばされたってわけです」

 ヒカリが説明を終える。いまだ寝たままでヒカリの説明を聞いたミコはまだ起き上がらずそのまま寝ていた。ダメージなど最初から受けていないはずなのにだ。それどころかなんと彼女は寝そべったまま突然笑い出した。狂ったように笑い出したのだ。

「うふふふふっ、ははははは……あはははははっ! きゃはははははっ!」

 突然の高笑い。ヒカリは思わずびくついて、お伺いでも立てるかのように「せ、先生……?」と声をかけるがミコはそれにはまるで応じず、一人言で答えを魅せた。

「負けた負けた負けた負けた負けた! 見えた視えた見得た視得たみえた! どうだ見てたか創生源! 最強の俗物だったわたしを上回って魅せたこの子の姿を! くぅ〜たまんないわねー。これだから人生は素晴らしいのよーっ!」

 それは、凄まじいまでの喝采であり、歓声だった。大声で高笑いを上げて自身の満足をこれでもかと詞に表し歓喜する、一人の女の子の姿だった。ヒカリはミコが狂ったのかとちょっと不安に感じたが、すぐに「そんなことはないか」と考え直す。そもそもミコは普段から美的感覚や思考回路が狂っているところがあるし、元を正せばミコをこんなにしたのはヒカリである。今さら怖がって自責するのはおかしいと感じたのだ。自分は自分のやれる『最高』を尽くしただけ、それでミコが『最狂』に壊れ笑ってしまってもそれはミコの自己責任であるから。

 そう思ってヒカリは心の平穏を取り戻そうとしたのだが、そうは問屋、いやミコが卸さなかった。高笑いを続けていたミコが突如、「うぐっ!」と悲鳴を上げて笑えない風になったのである。「まさか……消還?」と悪い方向にコンマ40秒で考えが及んだヒカリは慌ててミコの元に駆け寄って「先生! 先生!」と叫ぶ。一度消還が始まったらヒカリには止める術はない。それでもできることならこの場は止まってくれと願うヒカリであった。しかし。

「うっそぴょーん。まだ消えねー」

「がああああっ! そんなこったろうと思いましたよ!」

 ちらりと舌を出して演技で騙していたことをミコがバラし、ヒカリは嘘だと気付いていなかったがノリとツッコミの勢いで思わず気付いていたというニュアンスの絶叫をかましてぬかるんだ地面に足を滑らせ、ミコの隣に倒れ込んでしまう。ちょうど頭の位置が並ぶ二人、どちらからともなく自然と目と目を合わせ、そして……。

「ふふ……んふふふふふっ」

「ははっ、あはははははっ」

 二人一緒に笑い出すのであった。

 

 笑い出して40分ほど経ち、散々笑ったヒカリとミコはようやく笑い止まってひと呼吸。上から降り掛かる雨を全身で受けながら、水と土に身を委ね同化しようと意識を溶かす。

 そんな修錬にも似た状況の中、ついにミコは降参した。

「負けたわ。ヒカリちゃんにしてやられた。この羽衣、いや花衣を着た状態、全力の月砂鏡を完璧に捌かれた。完敗よ。肉体は全然闘えるけど、心がダメね、戦意を完全に折られちゃった。まさかアルルカインを使って月砂鏡に至る必勝コンボが崩される日が来るとは……まあ、これではっきりしたわね。世代交代の前と後が」

「先生……まだわたしは先生を超えたわけでもなんでもないですよ?」

「ううん、超えなくたっていいの。ヒカリちゃんの強さがわたしのトレースであれなんて義務もルールもないんだから。幻の身体能力なら近いうちに開花するでしょう。そうすればアルルカインも遠からず修得できる。いいじゃない。それに、いい機会だったのよ。わたし今とっても気分がいい。周囲から俗世最強とか望まぬ評価を戴いていても今までそれを覆すことができなかった。でもこうして消還前にヒカリちゃんに負けたことで俗世最強の肩書きが外れた状態で消えられる。それがとっても心地いいの。ヒカリちゃんには少々申し訳ないけどね」

「それは……そうですね。俗世最強なんていらぬ肩書きをわたしに押し付けたってことになるんですから。先生が強いからいけないんですよ?」

「ごめんごめんねごめんなさい……ってね。ふふ。でもね、ヒカリちゃん、自分らしくあるためには周りからの干渉を受け付けない程度に“強く”あることは必須条件。どんな些細なわがままでもそれなりの強さは求めてくるからね」

「はい。先生」

 実戦修行を通してミコがヒカリにつらつらと教えを言って聞かせる。ヒカリも水を良く吸う綿のようにミコの教えをしんしんと聞き、心にとどめていく。雨に濡れているのも構わず、寝そべったまま、一風変わった光景は第三者から見てみれば、よくやるなあと感心する光景だっただろう。しかしそれがヒカリとミコにとって本当に心地いい、大切な時間であったのも事実、もとい確かな真実であった。

 

 そしてとうとうミコは、その詞を口にする。

「わたしが消えるのは7日後ね。それまではヒカリちゃんと最後の思い出作りまくるわ。もう修行も全部完了しちゃったからね。かしこ」

「わかりました。いっぱい思い出、作りましょう」

 

 ミコの寿命宣言にヒカリはまるで動揺せず、素直に受け入れ向き合った。それは二人の間に決して消えることのない“絆”ができた証明証左。ヒカリとミコは顔を見合ってどちらからともなく、微笑み合うのである。雨の中。濡れているのも構わずに――。



 それから7日間、ヒカリとミコはずっと一緒に過ごした。

 

 数えるほどしか残っていない食事にこだわり、二人で色々と料理してみたり。

 どうせ濡れるならお風呂の方がいいと、二人一緒にのんびりのぼせてみたり。

 夜はテンション上がるからと、同じ布団の中でくるまってトークしてみたり。

 もっと勝負したいからと、影帽子の中からゲームを取り出して遊んでみたり。

 歌心を満喫したいと自分たちで歌も曲も振り付けも作ってライブしてみたり。

 マトリョーシカ世界観を理解し探検するために、物語を読みふけってみたり。

 雨を感じるのは楽しいからって、一日中飽きもせずに雨景色を眺めてみたり――と。

 

 修行が終わってからの7日間、ヒカリとミコは思う存分好きに生きた。もう楽しみ尽くすというくらい、濃密な時間を共に過ごした。思いつくままの行き当たりばったりではあったが、ひとつとして忘れ得ないかけがえのない思い出の数々がそこにあった。

 

 そして、消還の日の午後2時35分――。

「来たわ」

「先生!」

「おいで、ヒカリちゃん」

 リビングのロッキングチェアにそれぞれ座っていた状態から、ミコが消還開始を感知し口に出して告げる。ヒカリもミコから淡い光のようなものが放出され、それと同時にミコ本体が薄くなっていくのを、周囲の景色に溶けるように消えていくのを認識した。ヒカリはミコの誘いに応じてミコの椅子へと移り、ミコに抱かれるようにミコの膝の上に座る。まだ膝の存在、そして温かさは知覚できていた。そんなヒカリをミコは後ろから優しく抱きしめた。ここにきてヒカリの頬を熱いものが伝う。涙だ。

「ありがとう。ヒカリちゃん」

「……うっ、う、うう〜。先生。しぇんしぇ〜」

「これが最後で最期のお話。ヒカリちゃん、本当にほんとうにありがとう。わたし、人生の最後にヒカリちゃんに出会えてよかった。嬉しかった。散々好き勝手やって他人を不幸にもしてきたわたしが、こんなにも幸せを感じながら終われるのは、ヒカリちゃんのおかげだって思ってるわ」

「幸せだなんて……もったいないです。わたしの方こそ救われて導かれて託されて、望外の歓び、幸せすぎるくらいです」

「ありがとう。でもねヒカリちゃん、今が幸せだからってこの先幸せを追求することを放棄しないで。幸せとは、過去(むかし)・現在(いま)・未来(あした)にいる自分を省みて・受け止めて・動かしていくことよ。そうすれば、自分のすぐそばに幸せがあることに気付く。いつだって自分は幸せなんだって、思えるの。わたしはここでお別れだけど、ヒカリちゃんのこれからの人生にはもっともーっと楽しいことが待っているわ。それはわたしが保証します。だからね、ヒカリちゃん――」

 そこまで喋って、ミコはいっそうぎゅっと力を込めてヒカリを抱きしめた。抱かれるままにミコの力と温かさを感じていたヒカリの耳元で、ミコは囁く。

 

「あなたはもうわたしの背中を追いかけなくていいの。これからはわたしがあなたの背中を、ずっと見守っているから……ね?」――と。

 

 そう言って、ミコは消えた。時刻は午後2時39分。

 完成させた影帽子と泉から預かっていた歌心を残して、いなくなった。消えたのだ。

 

 ヒカリはミコが座っていたロッキングチェアに腰から落ちる。ミコの膝の上に乗っかっていたから、彼女が消えたことで隙間ができ、重力で落下したのである。しかしその落ち方は毛布が被さるかのようにゆっくりで、柔く優しいものであった。

 それは、まるでミコが抱きかかえたヒカリを椅子に座らせているかのよう。本当にミコはヒカリを見守ってくれているようだった。当の本人であるヒカリは、感極まって涙を零す。しばしそのまま。

 

 そして――。

 

 ヒカリは椅子から立ち上がり、外の景色をじっと見やる。すると雨傘結界の中半永久的に降り続いていた雨が上がる。雲が晴れる。陽射しが射し込む。虹がかかる。

「綺麗――」

 ヒカリはそう呟いた。それと同時に自身の身体と心がふたつの現象意思と繋がったことも自覚する。今ヒカリは正真正銘、気象端末となったのだ。ミコの後を継ぎ、40thレインとして。そして1st――として。

「先生から戴いた名前、早速改名しないと……ごめんなさい、先生」

 意味深な一人言を呟いて、ヒカリは手をまわして影帽子を前に持ってくる。ミコから託された影帽子を大切に抱えるヒカリは、ひとつの決意を固めた。

 

 ひとりの女の子の、新たな人生の始まり。時刻は、午後2時40分――。

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