第14話 時間遡旅行 しくじった女

 はじまり

 

 その世界には、神様がいた。

 

 神様は人間に問題を与えた。


「私達の大切なものを盗めたら、新たな神様にしてあげましょう」と。

 

 人として知らぬ者のいないその問題に、多くの人間が挑んでいった。

 

 だが、今まで誰一人、神様の場所に辿り着くことすらできなかった。

 

 やがて人々が諦め、問題を知っていても無視するようになった時代。

 

 一人の女の子が問題を解いてしまった。

 

 しかも、神が一人死んでしまった。

 

 人々も、神様も揺れた。割れた。驚いた。

 

 なぜか――その女の子が事実を一切明かさずに姿をくらませたから。

 

 出会った人々は納得し、未来の人間も時を遡ってきた。

 

 記録に残らない女の子との、お遊び迷惑を図ったから。

 

 これは、それを知りつつ旅をする一人の女の子の物語。



 絶対安全都市=治安の都と呼ばれる街セフポリスの中枢セーフティ・ガード。

 その中にある大衆料亭「衆会堂」セーフティ・ガード支店の中、隅の方のテーブルに、ミコとナミコは座っていた。既に朝取り組んだエリサとアイナに関する事件は解決済み。クルサード警視達がミコの情報を元に問い詰めたところ全員から後ろめたいことを炙り出すことに成功。ミコは解決者権限をもってこの事件を終わらせ、間髪容れずに入ってきた人質こと大目付長官のレスキューコールに爆弾処理班は二日続けての出動とごくろうさまな展開を経て、無事人質に取られていた大目付長官一家は救出されたのであった。事件のショックは相当なものだったようで、昨日あれだけ勇ましい啖呵を切った大目付長官はすっかり弱腰。腑抜け腰抜けとなった大目付長官、「もうゴメンだ! わたしはシク=ニーロの事件には関わらないぞ!」と警察官にあるまじき発言をしたらしい。もっとも冗談の通じるセーフティ・ガードの警察官達大半は「神経衰弱ね」と楽観的な評価で片付けたという話である。なかなかどうして図太い組織だと、ナミコは心底感心した。

 それにミナモト家が引き起こした問題を解決できたというのもおいしい。事実を喝破されたミナモト兄弟は逮捕されることこそなかったが、身元請負人として引き取りにきた迎えの者に衆人環視の前で殴られたらしい。その場に居た警察官達がここで噂しているが、どうやらイアンとオーウェンはミナモト家の座敷牢行きになったという話である。まさに因果応報、正しいエロティシズムを知ろうともしなかった道楽者兄弟にふさわしい末路。さらにハルヴァリ夫人とストランド夫人も逮捕ということでほとんどミコの思惑通りにこの事件は終わったのだ。

 そして今は休息中。昼飯時にはちょっと早いが、ミコの希望でお昼ごはんを食べている訳である。ミコが注文したのはセフポリスの郷土料理。主に魚介類の刺身がメイン、そしてごはんとお吸い物のついたいわゆる定食というものを注文。ナミコは肉や野菜を焼いたものをパンで挟んだ料理を注文。機械的に機動力を活かす食事をこなす。なぜそこまで機動性を重視するかというと、「急がない」ミコの代わりに「急ぐ」役割を担うのがミコの助手たる者の役目だと今更になって気付いたからである。ミコは悠々自適のスタンスの元、極めて的確に対処するためほとんど問題は起こらないが、本当にのんびり屋さんなのでいつも周囲は不安に駆られる。そんなミコの隣に急げるナミコが居れば、いざという時も安心できるだろう――欠けた部分を補填するような、ジグゾーパズルを嵌め込むような、それはしっくりくる関係の構築なのだ。その心構えを忘れぬためにもナミコは早弁するのである。自分でいうのもどうかと思うが、健気なものだと思ったものだ。

 そして食べ終わるとナミコは未だ食事中であるミコに対して話を振る“自由時間”を得る。実はこれ目当てで早弁していたと言っても過言ではない。ホットなお茶をごくごく飲んでのどを潤すと、ミコの方を向き、ナミコの方から話しかける。

「ごちそうさまでした。それにしてもミコさん、こんな終わり方で良かったんですか?」

「ん?」ミコはお吸い物を飲んでいた手を止め器を戻すと、箸をカチカチ鳴らしてからこう答えた。

「ナミコちゃんが気にかけているのは、大方事件の終わり方がにっくきシク=ニーロの策謀と大差ないことを指しているんでしょうけど、わたしは別に拘らないわ。困った問題を解決できる手段が綺麗なやり方正しい方法だけとは限らないってのがわたしの考えでね。その点はシャーロックとクララちゃんの時に目の当たりにしているでしょ?」

「そういえば……騙してましたっけ。そうでしたそうでした、ミコさんは必要なら手段は問わないタイプの方でしたね。でも今回の事件ではそうして欲しくなかったっていうのがわたしの本音です。だってあのシク=ニーロと同じに見えてしまいますから」

 ナミコの諦観からくる愚痴。しかしミコは間を置かずにショックなことを口にする。

「しょうがないわ。わたしとあいつは似ているんだもの。多分基盤の半分は同じなんでしょうし」

「ええええっ!」ナミコは周囲への迷惑を顧みることなく大声を張り上げたが、ミコは動じず焦らず冷まさずの三拍子。置いていた器を持ち上げお吸い物を飲み干し、次いで残っていた刺身をおかずに残りのごはんをかき込むと、時間をかけてもぐもぐ咀嚼。その間はナミコにとっては生殺しにされてるも等しい時間。急かしたいけど相手がミコである以上それができない待つしかない。ナミコはどこも掻かれていないのにむず痒さを感じていた。

 そしてようやくミコが全てを食べ終わり箸を置くと、ナミコは貯め込んでいた気持ちを吐き出す。詞に乗せて無我夢中に。

「ありえません! ミコさんとあのシク=ニーロが同じだなんて! だってミコさん嫌ってたじゃないですか。シク=ニーロのこと大嫌いって、公言してたじゃないですか!」

「似た者同士の同族嫌悪ってやつよナミコちゃん。あいつとわたしは半分――思考回路が良く似てる。同じって言ったのはその部分よ。でもそこだけ聞いて動いたらダメよ。なんせ人間は半分じゃなくて全体で動いているんだから。つまり全体になるべき残り半分――行動指針が違ってるってこと。思うこと考えることは同じでも、やることなすことは違うから人にとっては真逆にも見えましょう。でも当人が同族嫌悪って言ったらそうなの。あいつならともかくわたしが言っているんだから間違いないわ」

 ミコの熱弁を受けてナミコは固まってしまった。身体も、手も指も、瞳孔もだ。

「い……いいんですか。半分でもあのシク=ニーロと似ているそっくり同じだって認めちゃっても――」

「心配事はそこかい!」今度はミコが意表を突かれ、机に立てた腕を滑らせズッコケ頭を垂れる。ナミコの堅物ぶりに少々頭を抱えていたミコは、やがて「若いっていいわね〜」と自分のことを棚に上げた詞を発してナミコを諭すように話しかけてきた。

「ナミコちゃんはまだ人生一周目の20代だからしょうがないけど、大人になるってね、ある種の汚さとか穢れとかいうものを受け入れなくとも利用したりとか、とにかくその存在を認めてあげなきゃいけなくなるのよ。わたしは人生三周目、汚れ仕事に暗殺、国殺しだってやった身よ? 経歴だけを見返してみたら、善人よりかは悪人の烙印を押されるでしょうね。そんなわたしが必要悪のシク=ニーロと全然違う? それこそありえないわ。シク=ニーロは未来の俗世の必要悪。悪の極みを会得した最高悪。ナミコちゃんだって、卑しい感情やちょっとしたことで怒ったりとかあるでしょう。そういう感情みんなが持っている。だからシク=ニーロと似てないとか100%違うなんて考えはわたしにはないし、この俗世にもないのよさ。この事実を認められるかどうかは今後の重要な大人課題だよ」

「ミコさん……」

「だから半分なら同じと認めるし、ゆえに同族、同族嫌悪なのよ。ま、もう半分の行動指針がほぼ正反対だからわたしはあいつをより一層嫌っているんだし、同じ轍は踏まないわ」

 そこまで話して、ミコは「どう?」って笑顔を魅せる。夕暮れの太陽に溶けそうな、素敵な笑顔を――。

 そこまで魅せられてナミコも食い付いた話題から歯を解き外す。話題はシク=ニーロと対決状態にある現状への質問・確認へと変わったのだ。

「昨日は整様、今日は極様が濡れ衣を着せられて……昨日、今日と待ったなしに起こされる事件達。一連の事件、一体いつまで続くんでしょう?」

「そう長くは続かないわよ。あの俗物じみた神様達だってそこまでマヌケじゃないしね。特に今朝の事件で極に冤罪をかけたのは通り名が“暗殺の神”だっていうことを利用した半ばやけの当てずっぽう。それに……このセフポリス自体の治安も隙がないくらい善い方なんだし。事件を起こせたとしても、あとひとつかふたつだと思う。やるならとっととしてほしいわ。事件の調査をしている時はいっつも電話しなくちゃいけないんだから」

「電話? ああ、会議中でも説明中でも手放さなかったあの未来電話ですね。一体どことお話を?」

「もくひー。今はナイショにしておくわ。でもこの電話での交渉でもってわたしはシク=ニーロを追い詰めるための工作活動に従事しているのだと考えてくれれば、問題ないわ。このことはまだ他の連中にはナイショよ?」

「はい」ナミコは頷いた。それはもう忠犬のように。そして次の質問へと続く。

「昨日も今日も、ミコさんにかかれば簡単に解決される事件を次々に二連続で起こす――何が目的なんでしょう?」

「きっと、“急がない”わたしを慌て急がせたいんでしょうよ」

 両手十指を合わせて口の前に当ててなにやら含んだ口調で答えるミコの姿に、ナミコはどうしようもなく惹かれていく。謎を秘め謎を解くその姿は、全てにおいて魅力的で、ナミコをミコに惚れさせるのだった。

 そんな感じに会話も終わり、ナミコがうっとりしている時間だけがすぎていた時――。

 チリリン、チリリン……。

 携帯電話の着信音が鳴った。この鳴り方は未来電話の方ではない。未来電話の着信音はピンポーン。ゆえにこの音を鳴らすのはミコがこの時代この俗世で買った携帯電話の方なのだ。がま口チャックを横一文字に開き、ミコはやはり自分の携帯電話を黒い手に掴ませて取り出した。そして何事もないような穏やかな顔して電話に出るのだ。

「はいもしもし。あらクルサード、どうしたの……って、え?」

 ミコの目が耳元に当てている携帯電話へと泳いだ。目付きも鋭利なものになり、空気が一瞬で張りつめる。鈍感でも分かる環境の変化をナミコは敏感に察知し、口を結んで黙り見守る。

「……ええ。ええ、わかったわ」

 そう言って携帯電話の通話を切ったミコは携帯電話を差し出していた黒い手をがま口チャックの中に戻し、チャックを閉め、今の通話で得た情報をナミコに語り出した。

「とうとう本物の死体が出たそうよ。バウンド地区ウィルター川のほとりで身元不明の男性の遺体が見つかったって。クルサードと神様連中はもうパトカーに乗って向かっているみたい。わたしたちにもパトカー用意してあるって。行きましょ、ナミコちゃん」

「はい!」

 予想通りの悪いニュースに立ち向かうナミコの確固たる返事。二人は立ち上がり、机にお代を置いて料亭を後にし、セーフティ・ガードを出にかかる。

 外に出ると出迎えのパトカーがタクシーのようにドアを開けて鎮座している。ミコとナミコは入口の階段を駆け下りると手際よくそのパトカーに乗り込む。運転手はクルサード警視から指示されていたようで、実に無駄なくドアを閉めるとパトカーを死体発見現場へと発進させた。死体発見現場――その詞の響きに、ナミコはどこか違和感を感じた。

 違和感はそれだけではない、三度目となるこの事件そのものにどこか違うものを感じるナミコ。訊かずは一生の恥なので、思い切ってミコに教えてもらうことにした。ミコは淡く微笑んで、得意気に自身の人差し指をくるくるさせながら教えてくれた。

「今までの事件とパターン、そして状況が違うのよ。何しろ今回初めて死亡済みの死体が出てきたからね。今までは死にかけと偽装だったのに、今回は本物の死体を使ってきた。余程切羽詰まった事情があるんだと思うわ。基本シク=ニーロは自分の手を汚さないしね」

「ということは、今の俗世の殺し屋を?」

「多分ね。こっちの時代にくる前に、あいつは過去を調べて“犯罪時刻表”を作った。そしてそのダイヤグラム通りに動く几帳面さんだからね。そこに個人的事情の入る余地はない――つまり余程この時期重要なことがあったんでしょうね。殺人という手段を用いるまでに。そして人質を取らずとも動かなければいけないまでに」

「あ……そっか、人質からの時間指定通話も今回はありませんでしたね」

「そう。いよいよもってあいつのタイムリミットが迫ってきたのかもね」

「タイムリミット……ですか?」

「もう時間遡行ができるのかも」

 軽い口調でミコは言うがナミコが受けた衝撃は相当なものがあった。そのまま時間遡旅行されたら負かすも捕まえるもあったもんじゃないからである。

 思わずミコにタブーの詞、「急がなくていいんですか」と声に出しそうになる直前、ミコはパトカーを一旦止めさせた。外に出たいのだと言う。運転手がパトカーを路肩に止めるとミコはドアを開けて柵を飛び越える。ナミコも助手として付き従う。ミコが向かったのは、なぜか売店で、そこで貴重銅貨1枚で朝読んだのとは違う今日の新聞、そしてホットのドリンクを買うと、踵を返してパトカーへと戻った。そのあっさりした動作、あっけない行動にナミコは頭が「?」だらけになるが、助手なのでそれ以上は詮索せず、ミコと一緒にパトカーに戻った。再びパトカーが事件現場に向かう中、ミコはドリンクを啜りながら買ってきた新聞に目を通し、セフポリスの状況、利害、問題について情報を吸収していたのであった。

 完全に一人の世界――ナミコが口を挟める余地などないし、そもそも土足で踏み込む勇気がなかった。ただ遠目遠巻き遠くから、ミコの姿を見ているだけ。

 パトカーの中では、ずっとそんな感じ。ミコは途中あるページを釘付けになって読んでおり、とてもナミコが口を挟める雰囲気ではなかった。そして時間が幾星霜と過ぎた後、ミコが新聞を読み終わり折り畳んだと同時に、運転手の警官が「到着しました」と告げてくる。全く無駄のない展開に、ナミコは心底痺れ震えた。心の底から湧き上がる、少しでも近くにいたい感情が爆発噴火し、ミコの後を追うのであった。



 セフポリスバウンド地区を流れるウィルター川にかかる橋の下の死角、クルサード警視と神様達はそこに居た。ミコとナミコはパトカーの密集する橋の横を通り抜け、階段をテンポよく下りて河原へと降り立つと橋の影にいる皆の元へと石畳の中歩を進める。すると気配でも感じ取ったのか神様連中にクルサード警視がこっちを向いて静かに頷く。それは「ここが現場だ」という暗黙のサイン。ナミコがミコの前に進み出て、先陣切って集団に切り込んでいくと、仮にも神様連中が横に退き、ナミコとミコに道を譲る。神様達と鑑識警官達の壁を抜けると、ごろんと横たわった成人男性の死体を調べるクルサード警視と極の姿がナミコとミコの視界に入った。

 ミコは足を止めると無言で両手に持っていた読みかけの新聞と飲みかけのホットドリンクをナミコに手渡し手を自由にする。そうしてどうして遂にミコが、ナミコより一歩前へ出てクルサード警視と極に声をかけた。

「連絡にあった死体ってこの子? パッと見た感じは寝ている浮浪者と大差ないわね。濡れてもいないし。溺死ってわけでもないのか……それで極に鑑識を?」

「ああ。なんてったって“暗殺の神”の通り名を持つ方だからな。本人も冤罪の恨み晴らさでおくべきかって乗り気だったのでね。ウチの鑑識よりも腕は上だろう」

「でしょうね――で、どうなの鑑識さん。目立った外傷はないようだけど」

 クルサード警視の答えに素で応じたミコは、こともあろうに神様である極を『鑑識さん』呼ばわりし死因を尋ねる。ナミコは場が険悪になるのではと危惧したが、暗殺の神こと極=セキュリティホール、結構冗談が通じる方らしい。ミコの嫌味じみた冗談に気を悪くした様子は特に見せず、それどころか結構ノリノリで鑑識さんを演じている疑惑が、ミコとの受け応えで感じ取れた。

「そうだな……露出している肌にはどこも怪しいところはない。口から血を吐いているだけで死に直結するような外傷は確認できなかった。だが……」

「だが?」

 ミコが影帽子のがま口チャックから黒い手を2本、それぞれ自前の携帯電話と未来電話を持たせ自分の携帯電話を弄くりだしながら繋ぐと、極は死体の左胸に手を当てて答えた。

「心臓部をスキャンしたところ体内に細い金属針が何本も刺さっている。よくよく見てみると解るんだが、左胸の服にも幾つも布を破った針の跡がある。間違いないだろう。死因はこの金属針による心臓破壊。おそらくは毒物付きだ」

「なるほど。そういうこと――」携帯電話でなにやらぽちぽち検索していたミコが携帯電話の操作をやめて元々持っていた黒い手にそれを戻すと、驚愕の詞を口にした――。

「殺人でなければ変死・事故・寿命で片付けられたかもしれないけど……決め撃ちね。ビル=エグジストはお飾りだわ」

「――は?」

 硬直する一同。誰もがミコの詞に固まり、呆け、そして詞の意味を疑った。

 だが脳が詞を解釈するに従って、皆信じ難いといった体で慌てだす。特に治安草案が聖典扱いのセーフティ・ガードに属するクルサード警視と警官達の狼狽えぶりは尋常を越えていた。ミコが次を喋るのを急いで遮り、口を挟む。

「ちょっ、ちょっと待てミコ。エグジスト卿がお飾りってどういうことだ!」

 難詰にも近い口調で問い質すクルサード警視。するとミコは黒い手2本を横に出したままナミコに近く寄るように手招きする。自身も戸惑っているナミコが傍へ駆け寄るとミコはナミコが持っていた新聞を奪い取り、バサバサバサッと紙面を捲ってあるところをこれ見よがしに魅せつける。そのページを見せられたクルサード警視の顔が強張る。なぜならそのページにまるまる一面費やされ書かれている記事は、「歴史的法案可決! 治安草案ゴーストライター説にトドメ! エグジスト卿の名誉永久保護法案が議会で可決!」と題した特集ページだったからだ。そう、絶対安全都市セフポリスの歴史に唯一存在し消えることのなかった黒い噂――それはセフポリスの偉人ビル=エグジストが遺したといわれる街の聖典治安草案が、実は別の誰かによって書かれていたのではないかという疑惑。今までその疑惑は決して消えることなかったが、疑惑を立証するだけの証拠が出ることもなく、とうとうセフポリスの法律でビル=エグジストの名誉とこの問題への不可侵が決定されようとしていた。

 それをこのタイミングで否定して、彼はお飾り、ゴーストライター説で決まりとミコは言ったのだ。しかもさっきので終わりではなく、続きを、次を言い放つ。

「ありとあらゆる新聞で特集が組まれてるじゃない。セフポリス設立以来常に付きまとっていた治安草案ゴーストライター説やカルト研究者たちにとうとう終わりのときが来たって」

「それとこの殺人がどう結びつく? 今回は君の頭の中が黒く見えるぞ」

「しっかりと役目を果たさないからでしょ! この死体を見ればね――」

「落ち着いてください、ミコさん!」

 言い争いの様を見かねたナミコはホットドリンクを手に持ったまま、ミコに飛びつき器用に腕組みでミコを自分側――落ち着いて居る人間側に引き寄せた。それは目論見通り一定ではあるが効果があったようで、ミコはナミコの顔を目を丸くして覗き込む。虚を衝かれた風のミコの無防備な顔をナミコは初めて見たが、お互い感傷に浸るつもりはなかった。ミコはナミコに「ゴメン、急いじゃったわね」とミコらしくもない台詞とともにナミコに支えられ立ち上がる。目を閉じ、「ふぃ〜」と深呼吸するミコ。ナミコが腕組みを解いた後、自分の手黒い手全4本を大きく伸ばしてリラックスすると、ミコは再び語り出した。

「まずはこの殺しの犯人からいきましょうか。暗殺道具に毒針を使う殺し屋をわたしは知ってる。本名不明通称“タワー”。一本でも十分殺せるのに過剰に針を刺して臓器を物理的にも破壊するのはあいつの殺しの特徴よ。依頼人は勿論シク=ニーロ」

「確かか?」

「間違いないわ。なぜなら殺すだけじゃなく、身の回りのものまで奪われているからよ。わたしみたいに殺しもする連中の情報ではタワーは快楽殺人癖持ちの殺し屋。基本的に殺しさえできればいいってだけで身ぐるみ剥がすなんてことはしない。でも今回は依頼したシク=ニーロが金を積んででも頼んだからやったんでしょ。だから死体さんをその場で特定できるようなものをタワーは持ち去って行ったってわけ。つまりヒントはほとんどない」

「そんな……」

「では本題、この死体さんからわかることは何か。わたしがあの結論に至ったきっかけはどんな職業かって切り口。まず服装。スーツ姿だけど背広は剥がされシャツ姿。背広に職場を特定する要素があったから持って行かれたとも考えられるけど脱がせられなかったズボンを見ると色が茶褐色系の上等なスーツであったことがわかる。標準化された制服でないのなら肉体労働の類ではないわ。つまりデスクワークでしょうね」

「なるほど」

「両手の指先。爪と肉の間および指の腹にインクが染み付いている。文明レベルが都市レベルのセフポリスで染み込むまでインクを使うとなると万年筆で文書の全てを書いても追いつかない。死体さんはインクが主流の文明レベルに関する仕事をしていたってこと」

「偶々じゃないのか? 万年筆がカートリッジ式でインクを不手際ながら交換した時に殺されたとか」

「いいや、それはないわ。アームカバーをしているからね」

「アームカバー? なんでわかるの、ミコおねーちゃん?」

「両手首にゴムで締め付けた跡がある。腕時計もせずにスーツの両腕を汚れから守る必要があったからアームカバーを日常的に使っていた。これはゴム跡前後の血管の太さと色の違いで気付けるところ。死体さんは白衣は着ないけどそれなりに手先を使い、インクやら汚れやらから袖を保護する必要がある職だったってこと。そして――」

「そして?」

「死んだとき瞼が閉じたから犯人のタワーも見逃したんでしょうけど瞼の下には――」

 ミコは今一度ナミコから離れて極も退けて直接死体に触り両目の瞼を開け、がま口チャックから出した3本目の黒い手の先についている二本の指でちょんと触れる。皆に振り返って掌と指を上へ向けて見せると、ナミコがそこに透き通ったレンズを確認する。

「それは……コンタクトレンズ?」

「そう。しかもこれは紫外線と赤外線をカットするタイプ。まだ若く眼球に異常も見られないのにそこを気にするのは職場での知識が一般生活にも及んだから。照明に気を使うところとなると、紫外線と赤外線が天敵の博物館か美術館。携帯電話で調べてみたら治安草案の原本を保管展示しているアップステア地区クリスタル・ミュージアムの学芸員ヘンリー=オーが本日無断欠勤ならびに昨日家にも帰っていないらしいわ。五日後にはセフポリスのお偉いさんたちがミュージアム内に集まって治安草案原本の前で法律施行のセレモニーを開催する。ではなぜ五日も前に殺し屋に依頼してまで死体さんを殺す必要があったのか。推察、死体さんは既に治安草案がビル=エグジスト作の遺産でないこと可決された法律が間違っていることに気付いたから殺された。つまり、治安草案はゴーストライターの著作物ってこと!」

 

「名推理だわ」

「褒めすぎよ」

「拍手するか」

「遠慮するわ」

 

 らしくもない、長丁場のしゃべくり名推理を魅せてくれたミコに対して警官神様問わず聞いていた全員から拍手喝采雨あられ。レインの名も持つミコにお似合いの賛辞が絶えることなく発生中。ナミコも最初こそ賛同したが、あまりに長く続くので段々興が醒めてきた。それどころが鬱陶しくさえ感じてくる。第三者でこう感じるなら、第一人者当人のミコの気持ちは如何なるや――ナミコはミコより早く、延々と拍手を続ける機械のような連中に「喝!」と怒鳴って黙らせ、今後の方針を話し合う司会の役目を買って出た。

「……ったく、仮にもセーフティ・ガードのエリート警官と神様が拍手バカになってどうします! ミコさんの推理に異を唱える人なんて、この中にいるわけないんですから、穴を埋めにかかりますよ」

「穴? ナミコちゃん、それなんのこと?」

「察し悪いよ湊くん。ヘンリーくんが殺された理由。即ち、彼が知ってしまった秘密――治安草案ゴーストライター説を証明する証拠を探すってことだよ。わたしはミコちゃんと……有能助手のナミコちゃんに付くから。哉ちゃん祝ちゃんも勿論同伴です」

「あっ! 魚ズルい!」「謀ったナアアアッ!」

 ナミコの示したこれからの方向性に純朴な湊が躊躇うことなく疑問を挟んだが、神様一ミコと上手くやっていけるであろう魚が素早く反応しナミコの詞を補足説明する。ちゃっかり自分はミコに付き添うと先手まで取って。

 だが、この行動はミコの意思を聞かずに行った、言わばナミコの“独断”である。助手とはいえ勝手をしたのも事実。はたしてミコが許してくれるかどうか――後悔先に立たずだが、今ナミコが一番気にしていることでもあった。カッコつけておきながら指は震えだし、肌は痙攣しだす。ミコが黙っているだけなのに、神経を擦り減らされる感覚まで催す。

 そこまでナミコを待たせて、ようやくミコは唇を震わせ声を発した。まさに一日千秋である。

「そうね……ナミコちゃんの言う通り、死体さん――ヘンリーが何を知ってしまったのかは極めて重要。これを探るのが次にやることなすことすべきこと。さて……」

 ここでミコは自分自身の右手人差し指と中指の2本を立てて項目化した仕事を説明し始めた。

「確認すべきことはふたつ。ひとつは治安草案原本を確認してできれば忠実な資料を確保すること。もうひとつは死体さんことヘンリー=オーの身辺調査。きっと真実へのヒントが遺っているはずよ。というわけで、わたしはナミコちゃん連れてヘンリー家行くから。他に連れて行くのは魚さん始め5人が限度。他の人たちは治安草案の方、重要任務、頼みます。原本のコピー、おまかせするから撮ってきてね……さて、こっちの面子は」

「ミコさんとわたし、あと5人ですね。既に魚様が哉様祝様を連れてくと仰ってますから……」

 ナミコが頭数を数えだしたその瞬間、まだ決まっていない神様達がミコに背を向けて円陣を組み、「いっしょはだーれだ? ジャン、ケン、ポン!」と残り2枠を巡ってじゃんけんで争いだしたのである。流石神様、みっともない。

 ともあれ57人勝負の大激闘を勝ち抜き、優勝と準優勝を勝ち取ったのは――。

 

 道の神、翔=スリースピード。

 栄光の神、華=フィニッシャ。

 

 この2名であった。敗者たる神々は地べたに手を着き、目を下に向けて己の運のなさを嘆いている者然り。運がなかったとあっけらかんと済ませる者然り。元々ミコとは別行動――治安草案原本を見たかったしと、本音か嘘かそれとも心変わりか、そんな言い訳暗示をする者居たりと、多様な反応を見せていた。

 その項垂れた神様達に勝者の詞が掛けられる。口を開いたのは華だった。

「心配霧散と消えるが宜し。まだまだな私達には通神術という神の御業があるではないか。情報交換多分にしましょう、神様の前では人間なんて丸裸も同然ってね!」

「テンション高けーな華。優勝したからか? でもまあ言ってることは判りにくいが間違ってない。通神術を使って大いに情報共有しようぜ。きっとそれは、ミコの奴が期待してることでもあるんだからよ」

 言い出したが詞が難解で理解されない華より、後追いでも主旨をまとめた翔の詞の方が項垂れていた神様連中の心に響いたようで、翔が喋り終わると同時に、負けた別行動組は立ち上がり、気合いを入れて崩れた精神を組み直す。「そうよ。物理距離なんて関係ない。心の距離こそ大切ね」というある女神様の発破が、皆に伝染し行動本能を刺激し始めていた。

 そんな様子を最初から別格のミコ、魚、哉、祝は生冷たい視線でじーっと傍観。やがて頃合いを見計らって、ミコがナミコと華、翔に「ほら行くわよ。自適の時間だし」と出発の時間が来たことを促してくる。ナミコは助手の務めから奮起し、右手左手に華と翔を引っ張ってミコの元へ合流した。ミコはクルサード警視達に死体さんの処理とタクシー代わりにパトカーを引き続き借りる旨を伝え、快く了承されると、新しく発足したチームを率いてその場を去った。

 何も遠慮することなく。

 何ひとつ残すことなく。

 

 チームを厳選したとは言っても、ミコのチームは7名もいる。タクシーが6人乗りできると言ってもそもそもひとつは運転手枠なので乗れるのは5名、分割別離は必須だった。勿論ナミコはミコの隣。ミコと別れるのは、神様だと最初から決まっている。また一騒動あるかとナミコは感じたが、その心配は無用に終わる。有無を言わさずミコに付いていくと表明した魚、哉、祝の3名が別のパトカーでいいと先の先を制し発言したからだ。

 と、いうわけでミコとナミコが乗ったパトカーにはじゃんけん大会の勝者2名、華と翔が座ることに、タクシーよろしく後部座席をボックス席に変えた大型パトカーに乗り込んだ。進行方向最後部座席にミコとナミコ、反対方向前方座席に翔と華が腰を下ろし、魚達師弟チームのパトカーの後を追い、出発した。先じゃないのはミコが「急いでない」からだ。

 その動き出した車の中で、ミコは自身の携帯電話を持たせた黒い手を影帽子の口の中にしまっていたが、未来電話を持たせていた黒い手だけはチャック開けっ放しのリスクも無視して出しっ放し。ぶらぶらと上下させ手持ち無沙汰に遊んでいる様はまるでシク=ニーロからの着信を待っているかのようにさえ見えた。無理もない。シク=ニーロからの電話は番号非表示でかかってくるので、こちらからかけることはできないのだ。

 そんな暇そうにしているミコがボソッと口を開いたのだ。

「パターンが違うってことは、あいつの環境も今までと違うってことだわ。やっぱ時間遡行の準備が整ったのかも。もしくは……」

「もしくは? なんです、ミコさん」

「気まぐれが発動したかしらってトコロ。同族嫌悪の認識ではわたしに似てシク=ニーロは気まぐれで自分勝手で移り気な性格してるのよ。このタイプの人間は極めて気移りしやすいから、もう関心も持ってないかもしれない。投げっぱされたらお手上げよねー」

「そんな弱気薄弱心情でどう闘うのよミコ。あなた、敵をあいつをシク=ニーロを、悪さできない身体にするんじゃなかったの?」

「華様、そんなこだわりはデメリットしか呼ばないわ。必要なのは環境に応じて柔軟に対応できる姿勢よ。凝り固まっていたら、絶対付け狙われるからね。大体極論で言うなら、わたし、自分の推理も信じちゃいないわ」

「は? 本当かよ」

 会話劇の中でまたも飛び出したミコの常識外概念。翔が合いの手を入れると、ミコは「やれやれ」とぼやき、一旦下を向いて溜息ついてから顔を戻し話しだす。

「自分で推察した推理でもね。わたしはこれっぽっちも信じてない。信じることより大切なことがこの世にはよっつあるわ。受け止められるか。許せるか。好きになれるかそして飽きられるか――このよっつが完全に揃わない限りは、わたしの前で信じるなんて言わないで。気安い詞にも敵意が湧くわ」

 最後の詞を過激な表現で締めくくったミコの話を聞いて、パトカーの体感温度がゾッと下がった気がした。ナミコも表面上は冷静を心掛けているけど、心臓は鼓動を早め、必要もないのに血流を、思考を急かす。その結果が導きだす真実はひとつ、ミコもまた簡単にシク=ニーロと同類になってしまうかもしれないという危機感であった。実際ミコはレインになる前から殺しを体験している身分である。いつ転んでもおかしくない。

 では止める方法はあるのか?――ある。助手のナミコをはじめとした味方がいればミコが殺すと言っても前述のタワーを相手にするような正当殺人しかしないだろう。ナミコには短い助手生活ながらその点だけは理解していた。ミコはシク=ニーロの行いを遊びと喩えたことも憶えている。ナミコはミコが人を道具のように利用し殺すことはないと思っていた。それこそ「信じていた」という詞を使いたかったが、思い込みは危険だとも理解していた。気象一族と他勢力とが起こした数々の闘いや国殺しのスコアゲームなどはナミコが生まれていた時に実際にあったこと。そしてミコはレインとしてその最前線にいた人物である。その血肉には闘いや暴れたがる本能本心が混じっていると言っても過言ではなかろう。そんなミコを慕い、あまつでさえ付き従う理由。それはミコが併せ持った善性とそれを補助するという先にも述べた助手としての使命感。理由なんてそれだけで十分だろう。

 だからナミコはミコの顔色を眺める。ほんの少しだけミコの方を向いて、ミコの顔を視界に入れる。そうすることで下がった体感温度が火照るように熱く暖かくなってくるのだ。

 するとその視線に気付いたミコが「なにかしら」と柔く淡い表情をこちらに向けてくる。この儚さにも似た柔さ淡さにナミコは心揺り動かされ、どうしようもなく惹かれてしまう。でもそれを口に出すことは決してせず、ただ「助手ですから」と特許状文句を謳うのであった。



 セフポリスオン地区の屋敷街にあるオー家の古びた屋敷にタクシー代わりのパトカー(護送車)が到着し、ミコ達を目的地へと「護送」した。一番ドアに近かった翔がドアを開けていの一番に降り立ち、次いで華、ナミコ、そして「急いでない」ミコの順にヘンリー=オー調査チームのメンバーが車から降りる。後ろでは分割別離の後追い組だった魚、哉、祝がやはりパトカーから降りて、こっちに合流した。これでヘンリーのことを調査するメンバーが全員調査対象地に集結したことになる。

「そろったわね。じゃ、行きましょうか」

 ミコは未来電話を持たせ耳に寄せていた影帽子から伸びる黒い手を遠ざけると、自身の手でドアのブザーを押し、中にいる人間とのコンタクトを図る。本来なら自分の役目じゃないだろうかとナミコは一瞬後ろめたい気持ちになったが、ミコの所作が洗練されているから対抗しようがないとすぐに受け止めた。悠々自適に活動するミコ=R=フローレセンスは、何者にも止められないし、束縛されることもない。ナミコがミコを観察して得た情報だ。

『はい。お話はクルサード警視から聞いております。少々お待ち下さい――』

 ブザーと一緒に備え付けられたスピーカーからミコの呼出しに応じた中の人間の声が聞こえる。声は男のものだった。兄弟? それとも使用人だろうか。ナミコは屋敷を見上げてまだ見ぬ中の人物へ思いを馳せる。

 だが、出てきたのはジャック=スミスと名乗る、死体さんことヘンリーとは体型からして全く似てない人物だった。使用人という風にも見えなかった。ジャックの身なりがとてもラフだったからである。怪しい人物がしおらしくこちらの要求に応じている様ははっきり言って不気味であった。気付くとナミコは無意識の内にミコの背中に隠れる形となった。

 それに気付いたのだろう。ミコはナミコに小声で「大丈夫よ」と囁いた後、ジャックと改めて会話する。

「あなたがヘンリーのシヴィル・パートナーだったジャック=スミスね。街の噂じゃ相当仲睦まじかったって聞いたんだけど……あまり泣いたようには見えないわね」

「信じられないだけですよ。愛しのヘンリーが死んだなんて。昨日の朝、いつも通りに出勤していたヘンリーが、帰らないと思ったら今日になって死体になって放置されていただなんて……ああ、可哀相なヘンリー!」

 ジャックは顔に手を当てて号泣し始めた。ヘンリーへの溢れる思いがそうさせるのだろう。同時にこの会話を通して、ナミコも抱いていた疑問に答えを見つけてちょっと引く。

 ミコがジャックとの会話に出したシヴィル・パートナーという詞とジャックが「愛しのヘンリー」とヘンリーのことを表現した事実が欲しい情報全てをくれた。

(なるほど。ヘンリーとジャックは同性愛同性婚の関係だったってことですか。そりゃ道徳倫理も都レベルのセフポリスですから同性愛にも理解はありそうですけど……初めて見ました、本物のゲイ)

 ナミコが自ら導きだした結論に納得して目を閉じる。本当ならそのままもう少し熟考し、自分の頭脳に酔っていたかったのだが、ミコが泣いているジャックを気づかいつつ中へ入る許可を鮮やかに頂戴したことで盲目気取りも時間切れ。ナミコは目を開け、自分の手を離れミコが前へ奥へ屋敷へと、ジャックの案内で進み始めているのを目撃。その一瞬、置いてかれるヴィジョンをまるでノイズのように垣間見たナミコ、「まってくださ〜い」とミコに呼びかけながら、ぽてぽてっと後に従いついていくのだった。

 

 ミコが真っ先に見たいと言って進んだのは、ヘンリー専用の書斎だった。ジャック曰く、ヘンリーを始めオー家は代々学者や研究者を排出している家系だという。

 その説明に恥じず、ヘンリーの書斎は書籍とノートで溢れかえっていた。机の上にはこの頃使っていたであろうノートとペンがしまうべき場所に戻されることもなく、無造作に机の上に並べられていた。壁四面は全て本棚。古書から新書に至るまで、所狭しとこれまたなんの秩序もなく並べられていた。それもしかたのないことなのかもしれない。なんせ本棚に入り切らない本が、平然とゴミ箱の横や窓枠に積み上げられているほどこの部屋の本は「量」が多過ぎ、ありすぎたのだ。

 その光景にナミコは暫し詞を失い呆然としてしまう。付いてきた神様連中もその光景と部屋に充満する独特の匂いに眉を顰め、鼻を摘む。だがミコだけは、自身の両目ともうひとつ、黒い腕を出しているために開きっぱなしだった影帽子のがま口チャックからひとつだけの黒い眼を覗かせて周囲をスキャンするようにあまねく平等に見回していた。

 で、そんなミコの様子を観察する神様が3名、言わずもがな、魚、哉、祝の師弟トリオである。手掛かりを探さずにミコだけを見ているその姿を見て、ナミコはようやく自分の意思で動けるようになった。多分理由は同類になりたくなかったとか、そんな感じであろう。

 と、全周囲を見渡していたミコの黒い眼が一点で止まり、ミコ自身の身体もそっちを向く。皆もつられてそっちを向く。ミコはそんな周囲などお構い無しに、四方に構えられた本棚のひとつ、高めの棚を見据えて一冊の本をまた新しい黒い手をがま口チャックから伸ばして手に取った。「なんだなんだ?」とナミコは釣られてミコの横、助手の位置に進み出て脇からミコの様子とミコが手に取った本を覗き込む。

「それは……言語学の本ですか? ミコさん」

「ええ、そうみたいよナミコちゃん。どうやらヘンリー君の趣味は言語学のようで」

 ミコはそう推論を口にするとジャックの方に顔を向ける。水を向けられたジャックはそれを否定することもなく「そうです」と肯定した。

「ヘンリーの家……オー家は代々言語学の大家でね、ここにある本もオー家が集めた資料本が大半なんです。なんでもオー家の祖の代に家訓として子孫末裔に至るまで言語学に触れておくようにとの予言を古代高名な占い師から戴いたとかで。ヘンリーもその例に漏れず子供の頃から――そういえば5歳で七つの世界の共有言語全てを扱えるって自慢していました」

「ひゅ〜神童ね。そして勉強熱心ときたら言いがかりもつけられないわね。でもなんでセフポリスなのかしら? そこまで言語学できるなら学都スコラテスを始めとして引く手数多だったでしょうに。どうしてセフポリスの五流博物館の学芸員で収まっちゃうかなあ――ひょっとしてジャックさん、あなたが引き止めたの?」

 ミコの推察回路が鋭く指摘する真っ当な疑問。その質問に対し、ジャックは若干おののいた様子を見せながらも答える。

「とんでもない! ワタシはどこでも付いていく。ヘンリーがここから離れなかったんです。ワタシが昔聞いた話ですが……オー家はセフポリスの番人を自負していたとのことです。相当昔の当主が言語学の家訓に付け加えたそうで。曰く、『オー家の存在はセフポリスに縛り付けられた故、この街を出ることは許されぬ』だそうで」

「なんだそりゃ? 意味がわかんないぜ」

 翔が真っ当過ぎてつまらないリアクションをすると、横に居た華が顎に指を当て考える仕草を取りながらミコの後を継ぐように口を開く。

「へえそうなるほど事情は把握……ジャック、オー家の家系図とかないかしら? その御先祖様について調べたいのだけど」

「え? ああ、家系図なら財産を隠している部屋にあります。でもいきなりどうして?」

 華の突然の要求にジャックはおろおろした様子を隠さずミコの方を見る。でもミコはそんなジャックには応じず目もくれない。代わりに喋ったのは哉と祝、そして魚だった。

「ここに留まる理由を家訓に残した御先祖様について知りたいのさ。ねー祝」

「そうだね哉ちゃん。ヘンリーさんをここに縛った人物を突き止めなきゃね」

「と、いう訳です。わたしたちはここにいますから、大至急でお願いします」

 息も長さもピッタリあった。魚達師弟の三段活用。それに押される格好となったジャックは「わ、わかりました」と居たたまれぬ様子で書斎を飛び出していった。「これで良かった正解讃歌。そうでしょう、ミコ」とジャックのいなくなった書斎で華がミコに詞を投げると、ようやくミコは、「そうね」と呟く。「急いでないのに」とも呟いたが。

 しかし魚の詞がしっかり刺さっていたようで、ドタバタと廊下を音を立てて走りながらジャックはオー家の家系図を持ってきた。しかしミコはこの時、ナミコに持たせていたホットドリンクを取り戻し飲み干している最中のことだった。当然ミコはこう言ったのだ。「飲み終わるまで待っててね」と。さすがの神様魚様も、これには笑って従うしかなかった。その様子が本当に楽しそうだったので、ナミコは魚がわざとジャックを急がせたことに気付いた。ミコに軽く窘められたくて一芝居打ったのだろうと理解した。ま、ミコ相手にそんなことできる度胸は素直に称賛に値する、だけど本気で呆れてしまうので、なにも言わずにただ黙っていた。

 そうしてミコはホットドリンクを飲み終わると、容器を書斎のゴミ箱へ投げ入れて、空いた自分自身の手で家系図を手に取る。歴史ある家系図に対するミコの扱い方はとても丁重で、紙を広げる指先一本に至るまで、物への尊敬の念がこもっていた。ナミコは胸がキュンとなる。どうしてミコはこうもいいタイミングでいいとこ魅せてくれるのだろうかと。見守るというより夢中になってナミコはミコの情報収集の様子を記憶に録画していた。

「……チャーリー、アルバート、ダニエル、ドナルド、ジェームズ、アナトール、ボビー、ゼブラか――なるほどね。わかったわ。ありがとうジャック。これは丁重にお返しいたしますね。先立っての無礼失礼、お許し下さいまし」

 ミコは今までの超然当然とした態度を一変させ、本気で自分が尊敬するに値する存在にするようにジャックに対して調査協力の御礼を告げた。くるめ直した家系図を自分の右手に、脱いだ影帽子を反対の左手に持ち抱え、恭しく頭を下げる。勿論実際には傾ける程度の角度であるが、それでも“頭を下げる”という表現以外に、今この状況を修飾する文章は存在しなかった。ミコの神様より圧倒的な神々しさ恭しさに、神様さえもが息を飲んだ。そう、そこにいる誰もがその一瞬、ミコに心を奪われたのだ。

 やがて儚き夢とばかりにミコは頭を上げて元通りの旅人に戻る。その所作を見ていたナミコ達ギャラリーはまるでミコの動きに連動するようにすぅ〜っと夢から醒めるのだった。

「愛する人を失った悲しみ、少しですけどわたしにもお分け下さい。仇は必ず、取ってみせます。無念は必ず、晴らしてみせます。ではこれで、さようなら」

 今生の別れになるであろう相手に最後の挨拶を一方的に告げたミコは影帽子を被り直し、元の“旅人”に戻って颯爽と歩を進め、遠慮もせずに部屋を、屋敷を出た。醒めても余韻に浸っていたナミコと付き添いの神様連中はミコが部屋を出ようとする時点で我に帰り後に続いた。おいてかないでと言わんばかりに。

 やっとこさナミコ達がミコに追いついたのはもう屋敷を抜ける頃。どこが急がぬミコさんですかとナミコは追いついた安堵から一転、突っ込みたい衝動に駆られたがなんとか声帯辺りで我慢することに成功した。屋敷を出た外でミコは立ち止まっていた。黒い手に持たせた未来電話になにやら熱心に語りかけていた。相当距離がある上に読唇術も使えないナミコにはその会話の内容がなんだったのかはわからないが、必要なこと全部+時々無駄なこともするミコのことである。きっと対シク=ニーロの手続きだろうとアタリをつけて納得しとく。今大事なのはシク=ニーロよりも、治安草案のゴーストライター説を証明することにあるのだから……。ナミコが頭を整理すると、ちょうどそのときミコはこっちに振り向いて、いつものように淡く微笑むと自分自身の手でナミコ達を手招きするのであった。拒む理由も意味もない。ナミコ達はミコに呼ばれるままに屋敷を出て、ミコに合流した。集団行動の方程式に従って、計算された解の通りに。

 そうして全員が屋敷の外、でも門の内側敷地内に集合すると、ミコは次の行動方針を、ほぼ決めつけとは言え相談してくれた。

「さて……ここで知りたいことは終わったし、クリスタル・ミュージアムに行ってもいいけどそんなことしたら別働隊の面目丸つぶれよね。そこで個室貸し切りで休めるカフェに行こうと思うんだけど、どうかしら?」

 こういう場合、ミコが提案を改訂したり変えたりすることはまずないと、ナミコは知っていた。いわばこれは既定路線で前もって説明しているだけの話。

 だが……同時に考えに考え抜いた案であることを同行者達に前もって分かってもらうための話でもあることを、ナミコは知っている。

 実際この話の中で、ミコはクリスタル・ミュージアムに治安草案の原本を調査しに行った神様達別働隊のことに触れている。本当に無神経な人物なら『自分の目で確かめる』とか言って、後からずけずけと合流し、先に調べていた者達のプライドを傷つけるのが関の山だろう。だがミコはちゃんとこの点を考慮し、気づかった上で行き先を決め提案している。そこがミコの凄いところ、尊敬に値するところである。なぜならナミコ同様話を振られた魚を筆頭とする「付いてきた」神様達はその提案を熟考し、「悪くない」と結論付けたのだ。

「ふむ……悪くはない提案だな。博物館組からの報告を、貸切の個室で優雅に怠惰しながら受けようって腹なんだろ? いいじゃないか、俺は乗った」

 神様チーム唯一の男神、翔がそれなりにミコの提案を審査した上で、真っ先に同意を表明する。これが一番かと思いきや、女神様達は後に続かず携帯電話をぽちくりカタカタ操作中。翔が、「話聞いてないのかよ!」と怒鳴ると、哉が「え〜だってあたしたち、最初から最後までミコっちに付いて行くって決めてる派だからさ。ミコっちの提案には隷属するほど従うのよ。コレ、女としての処世術だよ」などと、先の先を言ってますよ発言。翔は思わず悔しがるが、すぐに諦め「全く……男ってのは苦労するぜ」とこの面子の中で唯一の男であることを嘆くかのような詞で嘆いた。気持ちは分かるのでナミコは翔の詞に頷いた。一切同情はしなかったけど。

 やがて携帯電話を操作していた魚が「みっけ♪」と呟き、「ミコちゃん、これ見て」とミコに携帯電話の画面を向ける。ミコが応じて魚の携帯電話の画面に眼を向けると、魚はミコの提案に合致するカフェの情報をこれ見よがしに見せつけた。ミコが「へえ〜」と興味深そうに眺めると、魚は鼻息フンッとひと呼吸してから、自分が選んだお店を売り込みにかかった。

「このお店なんかどう? 『Little Paradise』って言うんですって。十畳間個室があるの。おやつのメニューも充実してるしなにより携帯電話の電子クーポンで割引可! アンティル地区だからセーフティ・ガードにもクリスタル・ミュージアムにもアクセス快適。もうここしかないわよ、ミコちゃん」

 ミコに最も効果的――正論と利益の複式四段構えで決断を迫る魚様の迫力は、ミコに劣るも並べるものが(少し)あった。さすがは神様陣営の実力者と、ナミコは魚に対する評価を上方修正する。そしてナミコが思った通り、魚の戦術はミコに効果覿面だったようだ。ミコが観念したように両肩竦めて脱力し、魚の話に乗っかったのだ。

「魚さんがそこまでいうならわたしが口を出す余地はないわね〜。Little Paradise? そこにしましょう。じゃ、パトパトタクシー乗りましょう。運転手役の警察官さんたちにクルサードへの伝言ついでに頼んでね。ほら、行くよーナミコちゃん」

「あっ……ミコさん」

 ナミコはミコの呼びかけに中途半端にしか応じられない。無理もない。ミコが黒い手でない自身の手で、ナミコの手を引っ張ったからだ。こんなフレンドリーな態度を魅せてくれるなんて――ナミコは感激で一瞬固まってしまった。だから中途半端だったのだ。

 それでも手を繋いで共に動くというのはとても魅力的で、拒む理由など微塵もない。なのでナミコはミコに引っ張られるまま門を抜けてパトカーに乗り込んだ。その後に続けて行きと同じように華と翔が同じパトカーに、魚、哉、祝は後ろのパトカーに無駄なく乗り込む。そしてパトカーに備え付けの通信機を借りて、ミコと魚はクルサード警視に今後の計画を話し了承を貰う。その掛け合いは、非常にあっけらかんとしたものだった。

 そしてブルルとエンジン始動。すっかりタクシー用途のパトカーはオー家の屋敷を立ち去ったのだった。

 

 所は変わり辿り着いて、アンティル地区の喫茶店『Little Paradise』。

 時が経って巡り巡って、ミコとナミコと神様チームはその中の個室にいた。靴脱ぎ、畳敷きの密閉された個室の中に、オーダーしたお茶、コーヒー、果てはジュースを受け取り、それぞれがまずは一息、一服付いていた。

 ミコは休憩中も未来電話を黒い手に掴ませて傍に置き、反対側には自分の携帯電話を黒い手に持たせて待機させていたが、表立った行動は起こさなかった。逆に行動していたのは神様連中。上を見上げて通神術で別働隊とコンタクトを図る華。携帯電話でオー家の情報を整理する翔。そして注文したパフェを食する魚、哉、祝と、“手”を動かさないミコとは完全に正反対のポジションに住んでいる神様チームの姿に、ナミコは神様の俗っぽさをしみじみと感じていたのだった。

 そんな一時の安息から10分5分が経った後、華が「相互接続繋がったわ」と通神術による回線が確立されたことを告げる。するとその報告を受けた魚が間髪容れず、魔法のように自らの手の上にポンと本と羽根ペンのセットを出現させ手に取る。それを見ていた弟子格の哉と祝は「あー、フィールとアールだ〜」と子供のようにキャッキャとはしゃぐ。ナミコは意味がわからず呆然としてしまったが、そこにミコが顔を近づけて耳元で、「魚さんの神器なの」と説明してくれた。これが神器というものか――ナミコは生まれて初めて見る神の道具に少し心がときめいた。見ると魚はその神器の内のひとつ、本……たしかフィールといった本をパララと捲ってあるページを見開くと、本ごと個室の机の上に置いて、見開きのページを公開した。そこには――。

 別働隊の立体光子映像が、見事に映し出されていたのだ。

「はい、準備ができました。通神術のチャンネルをフィールに組み込んでみたの。向こうが分かるのはわたしたちの声だけだけど、こっちはミコちゃんがいるからね、ミコちゃんには状況を俯瞰してもらった方がよいだろうと判断したんだ〜。さて……CQCQ、聞こえてるね? そっちさんもお返事なさーい」

 緊張感をほどくというより緊張感の欠片もない魚の声が、手持ちの本に向かって浴びせられる。えらくシュールな光景だが、やっていることは立派な通信。ちゃんと魚の声は向こうに届いていたようで、立体光子の絵の神様……確か紫という名の女神様が『はいはーい』と元気良く応答した。

『聞こえてるよー魚。そして黙ってないでよミコちゃん。ワタシの声、聞こえてるんでしょー?』

 やたら砕けた口調で話しかけてくる紫。回りの神様連中も『そーだそーだ』と囃し立てるからタチが悪い。正直なナミコは微量の嫌悪感を覚えたが、心の広いミコは全然平気の超越者。紫の問いかけに「聞こえてるわよ。ゆかりんがわたしを呼ぶ声も、周りが悪乗りしている声も全部しっかりハッキリね」と見事に釘を刺す技量。惚れ惚れするほど頼もしい。

 紫と残りの神様達、ミコの発言を聞いてドキッと一瞬硬直するが、『やっちゃったもんは仕方ねーや』と早くも図々しさ全開で開き直った上勝手に本題に入った。どうやら主導権というものはこっちあっちの移動性らしい。

 ともあれ手早い情報提供はこちらとしても望むところだったので、急いでないミコをして「自適適時の頃合いね」と言わしめる。その詞に本の向こうの別働隊神様チームは方を震わせ笑いながら、クリスタル・ミュージアムに展示されている数あるコレクションの中の一点、治安草案原本に近寄り魚の本に映像を出してから代表して紫が調べたことを語り出した。

『此れが治安草案の原本だよ。今から1700年前にビル=エグジストが書き上げた安全確立論の名論文と言われてるんだって。でもねー、此の論文ミスが目立つ』

「ミス? 失敗? つまりは汚点? 紫、何が失敗だって言うのさ」

 情報の神の通り名を持つ紫が渋りながら話す治安草案のミスとは? 気になった華が早速颯爽と問いかけたら、紫は目を細め呆れるようにして報告した。

『此の治安草案、第二言語で書かれてるんだけどさ、ビル=エグジストの苗字の表記が「exist」じゃなくて「existo」って第七言語表記になってんのよ。先祖代々第二言語圏で読み書きしている一族なのにだよ? 読みはどうだっていけどさ、自分の名前を書き間違えたまま提出するって変じゃない? 他にも第七言語だけじゃない意味不明の単語挿入とかさぁ、訛りやうっかりで片付けるには許されないほど誤植があるんだ』

「誤植?」

 ここでミコが沈黙を破って詞を発した。ミコの詞は惑星より重く、皆が黙って注目する。

「ヘンリーは言語学に長けていた、そして原本に存在する誤植……そこに意味があるのかもしれないわね。ゆかりん、その“間違い宣言”の誤植ってどれくらいあったの?」

 ミコの出した注文。名指しで指名された紫はすぐに応えた。自分達を別場所の茶屋から絵本で俯瞰している魚と連携して治安草案の原文を見てコピーし絵本の“生きてるかのような映像オブジェクト”として出力させる。ミコは自分自身の右手を絵本の方に翳し、絵本から飛び出してきた『治安草案原本のステレオグラフ』を自分に引寄せ右手掌から吸収した。こんな情報収集のやり方があるのかと、ナミコはぽかんと驚くばかりだ。

 情報を受け取ったミコは、魚の絵本越しに遠く離れた紫に対して正直な気持ち――ありがとうの詞を贈る。

「ありがとうゆかりん。まだ結論は出てないけど、必要な情報は揃ったはず。まだ人質電話が来てない以上、享楽亭には戻れないわね。セーフティ・ガードで落ち合いましょう」

『了解なのだー。んじゃ、通神切るね。バララ〜イ♪』

 意味の分からない返事をして紫は通神術を切ってさよなら。こちらにいる魚も同じタイミングで絵本を閉じ、羽根ペン共々消してしまう。華麗に動く魚に見とれそうなものだが、今この個室にいる全員は、ミコの思案顔の方を見ていた。理由は魅せられたから。ただそれだけ。

「……誤植といっても別言語ではちゃんと意味をなすように書かれている。唯一の例外は『=』があることだけか。ふーむ、もうすぐわかりそうだよー」

「ほ、本当ですか? ミコさん!」

 着実に答えに近付いていると表明したミコにナミコが阿吽の呼吸で反応を見せると、ミコは柔く淡く微笑んで応じてくれた。

「ええ。真相と証拠は間近よナミコちゃん。だから今は――」

「今は?」

「伏せなさい!」

 突然発せられたミコの大声。瞬間、個室の中にいた全員が伏せる。一般人で反応が遅れたナミコはミコの自身の手で押さえつけられ伏せさせられる。

 その直後、個室の外から大量の金属針が引き戸を貫いて部屋の中に撃ち込まれてくる。

 千本万本雨あられ。実際にはそんなに数はないが、ミコに抱えられて目も瞑って伏せているナミコにとって、耳から入ってくるその破壊音は、それだけの数撃ち込まれたと錯覚させるに十分だったのだ。

 やがて音が止んだ。攻撃が終わったのだ。静まり返った部屋の中、息を潜めて伏せているナミコは、高まる鼓動を抑えつつ、ここでようやく薄目を開けて、部屋の様子を覗いてみた。

 ひどい惨状だった。障子はボロボロに破け、畳には剣山のように針が突き刺さり床を危険地帯に変えている。あまりのことにナミコは声も出ない。

 とそのとき、個室の引き戸が開いた。大柄でも小柄でもない、中肉猫背のスーツ男。

 ナミコはその容姿と針を見て直感で理解した。こいつこそ殺し屋、タワーなんだと。

 しかし中に入ったタワーは入った途端、絶叫する。

「いない……? バカな! 全員中にいた筈だ! 一体どこへ消えた!」

 足で床に刺さった自分の針を蹴り飛ばし、足場をつくりながら前後左右を見回すタワー。

 そこにそーっと忍び寄るのは、ミコが影帽子から新たに出した、黒い腕ふたつ。ミコの「それはね……」というタワーへの呼びかけとともに黒い腕はタワーに向かって襲い掛かった! タワー自身もミコ達の居場所に気付くが、こればっかりはミコの方が早い。

 ミコがけしかけた2本の黒い腕はタワーの首を掴み、締め上げたのだ。宙に浮き足をジタバタさせるタワーは上を見上げてようやく理解した。そんなタワーにミコは嫌味たっぷりに種明かしをする。

「そう、わたしたち全員上下逆転天井に張り付いて伏せていたんだな〜これが。ようやく会えたわねタワー。この先たっぷり尋問拷問してあげるから」

 そう宣言したミコは、天井にいた。

 そう、ミコは「伏せろ!」と言ったが、それは外から襲撃してくるタワーをミスリードする逆転の意味を持つ詞。タワーが金属針を獲物にしていることは極の検死結果からわかっていたので、重力に従って下に刺さる床ではなく、床の上、上の床? つまり天井に張り付いて天井に上下逆転、伏せていたわけである。そんな体技の心得のないナミコは、ミコ自身の手によって抱えられていた――これが真相・種明かしである。

 普通でも普通でなくても殺し屋でも、「伏せろ!」と聞いて上を見る者はまずいない。その死角、盲点をミコは突いた。そしてタワーはドツボに嵌った訳である。

 タワーを捕らえたミコは顔を天井から首を捻って床に向けると、自分の口で思いっきり息を吸い込み床に向かって吹き付けた。大型プロペラの発するものに匹敵する風が激しく、しかし優しく床や壁にぶつかるとあら不思議、タワーが投げつけた毒付きと思しき金属針がすべて風化して消えたのだ。一瞬で風景を吹き替える技量に、ナミコも神様達も、もう感心に呆れる気持ちが混ざってしまう。ほんとなんでもできてしまうから、この人。

「風化の吐息……ウィンドちゃんでもないのに、やるねミコちゃん」

「魚さん、これはあくまで消化。ウィンドの“風殺”とは別物です」

 技に対する軽妙なやりとりをきっかけに、天井に「伏せていた」ミコ達は綺麗になった床へと落ち、着地する。ナミコはミコに抱きかかえられる形で。そしてタワーはずっと空中で首を絞められた形でだ。ヘンリーを殺した殺し屋は、口から泡を吹いて苦しそうにしている。もう抵抗すらしていない。

 その兆候を見切ったミコは「こいつ頼むわね」とタワーの身柄を神様達に向かって放り投げる。これに反応したのは服に箱を幾つも着けている哉。服から小箱を取り出すと、向かって飛んでくるタワーに向かって投げつける。するとその箱、色を失い透明になると同時に六つの平面にばらけて展開し、タワーの周りを取り囲みまた元の小箱に戻った。

 そう、小箱の中に小人となったタワーを収納したのだ。もはや人形にも等しい無害な存在と化したタワーを哉は箱ごと呼び戻す。再び服に装着された箱はさながら箱庭の監獄。抵抗などできようもないその姿を見ていると、ナミコは危機感を感じてしまうのだった。

「さて……タワーは倒したけどこいつが壊した個室は弁償しなきゃいけないわね。わたし会計行って小切手で弁償代も払ってくるから。みんなはここで待ってて。手持ち無沙汰もあれだからしばらく暇を持て余してるといいわ」

 そう言うとミコはナミコにも「すぐ戻るから」と告げて一人で、タワーを掴むのに利用していた黒い腕2本に小切手と万年筆を持たせて、引き戸を開けて靴を履き、会計へと消えて行った。だが待つこと100も数えずに、ミコはすんなり戻ってきた。ナミコが心配そうな表情で質問の意味を込め首を傾げると、ミコは自身の指でマルを作って応えた。どうやら損害賠償の件も含め、支払いは無事終わったらしい。ならここにいる理由はない。今度はミコだけといわず、全員揃ってぞろぞろと個室を出て、会計を通り過ぎて、玄関も抜けて外に出た。『Little Paradise』に着いた時点でそれまでタクシー代わりに使っていたパトカー2台とはお別れだったので(クルサード警視が帰還命令を出していたので)、ミコが先程会計&賠償のついでに頼んでいたボックス型のタクシー2台が丁度よくミコ達の前にやってきていた。パトカーで来た時と変わらず、2台目にはミコ、ナミコ、華、翔が。前の1台目には魚、哉(タワー捕獲中)、祝の師弟トリオが乗り込み、行き先は当然セーフティ・ガード。

 パトカーとは当然違った乗り心地をゆりかごに、ミコ達一行は閑かにお茶屋を後にした――。



 巡り巡っても元の場所に戻ってしまい、実は一歩も進んでないなんてことがよくある。

 それが当てはまるかは定かでないが、ミコに従うナミコ達はもう何度目かのセーフティ・ガードへと「帰って」来ていた。もう自宅並みに勝手知ったる出入口を抜け、別働隊やクルサード警視との集合場所である1101号室へと向かった。あまりに同じ場所を行き来しているのでナミコはこの数日が繰り返しの夢ではないかと疑ったほどだ。それくらい狭い。セフポリスという現場の広さに対して自分達の活動領域は狭過ぎる――そう感じていたのだ。

 そんな雑念に囚われている間に身体はさっさと移動完了。懐かしの1101号室に到着し中へ入ると、中にはクリスタル・ミュージアムで調査をしてきた神様連中の別働隊とクルサード警視が重すぎず軽すぎず、絶妙な空気感を維持して待っていてくれた。ナミコはその出迎えぶりを見て、ただ者じゃねえと感心した。

 で、出会い頭から早速、別働隊の神様共がミコに「寂しかったよ〜」とみっともなく泣き付き縋り付いてくる。唯一の助手であるナミコにしてみれば面白くない光景だが、相手が神様であることと、ミコが適当にあしらっているのが痛快だったので今回は見逃した。神様を見逃すなんでお前何様だよと突っ込まれそうだが、そのときナミコはこう言うのだ、「ミコさんの助手様だよ」と。

 そんな神様達の神望を一手に集めるミコは早速用件を切り出した。「別働隊、調査ごくろうさまでした。必要なデータは全部揃ったわ。後はデータから結論を――」

 

 ピンポーン。

 

 場の空気を凍えさせる音が鳴った。音源はミコが黒い手に握らせている未来電話。

 今ミコの未来電話にかけてくる奴など全俗世全歴史を探しても一人しかいない。

 シク=ニーロ。もしくは彼女が取った人質だ。

 ミコは心底嫌気が差した顔でしょうがなく未来電話を耳元に寄せて、通話機能をONにする。

「はい、もしもし?」

 気怠そうにミコが答えると、電話口からは冬の白い吐息のような擦れ声が聞きにくい詞を発する。

『情報を、集めきったようじゃないか……ミ、ミコ=アール。こ、今回はマンネリを避ける為に、しゅ……趣向をパターンXにか、変えてみたよ。この……バカな妊婦と既に生んだ1歳の赤子に爆弾を括り着けて人質とさせてもらったよ』

「妊婦に赤子? あんたそこまで卑劣だったの! 何がパターンXよ!」

 シク=ニーロの代弁をさせられている人質を飛び越す音量でミコはシク=ニーロを非難する。それでも間に人を立ててミコの詞を聞いてると思しきシク=ニーロは決して自分の声を聞かせず、間に立てた人質の妊婦に自分の詞を喋らせる。

『卑劣? それはボクにとっては褒め詞だよ。なんせボクは悪として、必要とされて作られた存在なんだからね。さあ与太話はここまでだよミコ=アール。キミはどうやら結論を出したらしいじゃないか。あとは証明だけなんだってね。もうすぐ時間だ、夜になる。だからキミが最も嫌がること――カウントダウンで急がせてやろうじゃないか。数え終わるまでに君の推理に証拠を付与し給えよ。じゃあいくよ……ご、5――』

「5? 5ってまさか残り5秒ってことか」

「それまでに証拠を挙げろっていうのかよ」

「何考えてやがんだ! あのファナティック」

 事態を把握した神様連中は一斉に慌てだす。魚が絵本から保存してあった治安草案原本の映像オブジェクトを取り出してミコに迫る。

「ミコちゃん! もう猶予も涙の出る暇もないわ! 一刻も早く証拠を見つけないと!」

 人質の身を案じる真っ当な神様の詞。しかしミコは出てきた映像オブジェクトを見ることしかせず、意識はむしろ自分の脳内に向けていたようだった。

『4――』

 そうこうしている間にカウントがひとつ減った。1101号室にいる者ほぼ全てに緊張感が走る。するとここでミコは自分の携帯電話を持たせていた黒い手を近くに寄せ、なにやらポチポチ操作し始めた。魚の出したステレオグラフなど眼中にないと言わんばかりに。

『さ、3――』

 さらにカウントは残り3秒にまで縮まった。カウントダウンを言わされている妊婦の声は見てなくてもわかる涙溢れた震え声だった。この差し迫った状況に遂に我慢できなくなったナミコは、ミコに向かってその名前を怒鳴りつけた。するとミコは自身の携帯電話の操作することを止め、素早く退けてシク=ニーロと繋がっている未来電話の方を口元に寄せた。

『にぃ――』

 人質の妊婦が残り2秒を言わされた遂にそのとき――ミコが動いた。未来電話に向かって「ニュース見てないの? 今入った速報。世間知らずも大概にしときなさいよ」と告げた。

 それだけだった。が、効果は覿面だった。人質にされた妊婦の泣き声カウントダウンはピタリと停まり、遂には『わたしたちの爆弾を解除したって、警察に助けを求めていいって。ダウンステア地区ホビー産婦人科の駐車場に止まっている車。おねがい、早く来て。さっきからお腹の子が……産まれそうなの!』

「クルサード」ミコはその仕事をクルサード警視に名前を呼ぶだけで救助チームの派遣を要請し、クルサード警視も見事な上官命令で部下達に指示と使命を飛ばす。そして直ちに救助チームは編成され、ダウンステア地区のポイントに急行した。これで人質の問題は解決されるだろう。

 だがナミコと神様連中はシク=ニーロが人質を解放した理由が理解できていなかった。余りに展開が早過ぎるから10秒以上出遅れた。そこまでしてようやく気付いたのだ、ミコの詞にあった「ニュース」という詞こそが答なんだと。

 1101号室に残っていた警察であるクルサード警視が携帯電話の機能で放送受信機の電源を入れる。番組はしょうもないバラエティだったが、上に『ニュース速報』の文字が点滅していた。その文字が消え、代わりに表示されたニュースの内容は――。

 

『治安草案の本当のライター、ビル=エグジストではなくアナトール=オーと判明』

『これに伴い、施行予定だったビル=エグジストの名誉法は無期限凍結処置が決定』

 

 という、ミコの推論を結論とし真実とする、これ以上ない結果だった。ナミコと神様達、そしてクルサード警視は勝利にはしゃいで喜ぶが、ナミコだけすぐに落ち着きを取り戻し、ミコにこう具申したのだ。

「ミコさんお見事です! そろそろ種明かしをしてもらっても……いいですか?」

 ナミコの要請にミコは嫌がる素振りも魅せず魚が絵本から出していた治安草案の映像オブジェクトに指を向け、なにやら信号を発したようだった。ミコがその行動をとった途端、魚のステレオグラフの文章の中から、“誤植”の文字が蛍光色に光り輝く。なるほど遠操信号かとナミコが理解したとほぼ同時に、ミコは証拠の委細を語り出す。

「オー家は言語学の大家、もし彼等が治安草案に関わりがあるのなら、誤植には当然意味があって然るべき。この誤植はパズルのピース、抽出して整理すれば隠した文章が現れるのよ」

「隠した……文章――」ナミコがミコの詞を噛みしめるように復唱すると、ミコは遠操信号を使って蛍光色に光らせた文字を魚の出したステレオグラフから分離させ、その周りを周回させ始めた。単にアナグラムを組み立てるだけじゃミコの趣味に合わないのだろう――ナミコはミコのお祭り好きな性格を鑑みて判断する。そのときミコがこっちを見てふっと笑ったのが印象的だった。

 ミコは誤植の文字群をただ回しているだけなのかと思いきや、そうではなかった。回っている文字は周回するごとにひとつずつ、活字が流れ並びはめ込まれるように停まっていたのである。それが続き、単語を、そして文章を整理配置して出現させたのだ。

 その文章は第二言語で、こう書かれていた――。

 

『To tell the truth, this draft written by Anatole=O』

「本当のことを言うと、この草案はアナトール=オーの書いたものだ」――と。

 

 ナミコと神様達、そしてクルサード警視はその文章に魅入ってしまう。ミコの手際の良さじゃない。明かされた事実の重みなんかじゃない。謎を解き、そしてシク=ニーロが張っていたであろうセンサーネットの情報網をかいくぐってセフポリスを一転してみせたミコの技量の象徴たる文章だから魅入ったのだ。

しかし、そんな幸せも長続きはしない。クルサード警視に救助完了の連絡が届いてナミコ達が我に返った時――。

 

 ピンポーン。

 

 またしてもミコの黒い手が持つ未来電話に例の着信音が鳴る。ミコは妊婦さんからかかっていた方の通話を切ると、新しく受信した番号非通知の電話に出る。もうミコだけじゃない、ナミコも神様連中もクルサード警視も発信源が誰だかわかっていた。

 そう、シク=ニーロだと。

「はいはいもすもすミコちゃんだよー。あんた元気なの? シク=ニーロ」

 ミコが面倒臭さと腹立たしさ満点の詞で舌戦の火蓋を切る。スピーカーホンにしているので相手の声はナミコ達にもまる聞こえの親切仕様、そこを分かっているかのように、シク=ニーロはこの電話を聞いている“全員”に対して返事を返してくる。それは、突拍子もなく、後味を心底悪くするだけの用件であった。

『おめでとうミコ=アール。キミの笑える努力のおかげで歴史はちゃんと正された。この時代はボクのいた時代のウォッチレコード通りの結果となった。やっぱりボクはいて善かったんだ。ボクが事件を起こさなきゃ、歴史は正しいものにはならなかったってことさ!』

 まるで自分の手柄のように、シク=ニーロは誇らしげに語る。ナミコは垂らした両手で拳を作って握り締め、シク=ニーロへの反感と敵意、そして憎悪を深めていく。

 それは決してナミコだけに限った話じゃない。一緒に聴衆やっていたクルサード警視もそして神様達も、同様に身体に怒りを貯め込んでいる様子だった。

 が、電話口のシク=ニーロはそんなこと全く気にしてないようで、さらにとんでもないことを喋る。

『もうボクが過去へ跳ぶ為のチャージも完了したし……最後に一目会いたいなあ。ミコ=アール、そしてナミコだったっけ? 待っててあげるからビフォーレ地区のワンサイデッド公園まで来てよ。他の連中はチェイサージャミング解除してあげるから映写室でもトイレにでも籠ってボク達のお別れシーン見てるといいさ。キミ達なんかいてもいなくても全く影響無いんだからさ』

「この野郎!」シク=ニーロの傍若無人な物言いに良識派の務と熱血野郎の熱が同時に叫び吠える。それは神様達……いやミコ以外のその場にいた者全員の代弁であり総意。「お前は俺達を怒らせた」という、憎悪に満ちた敵対宣言。本当ならすぐにでも敵の指定したワンサイデッド公園に向かいそして始末してやりたいところだったが、それが自分達の本分を逸脱している行為であることも神様達は理解していた。シク=ニーロを倒すのは“電話”を持っている女、ミコ=R=フローレセンスの役目であることを、彼等彼女等神様達は頭と身体で理解していた。なのでミコに全てを託し、観客席へ引っ込む準備。そして下駄を預けられたミコは、片手間の自分の手でナミコの手を握り、同時に黒い腕を出していた影帽子のがま口チャックから新たに腕を2本、黒い切符を持ちかつ2本の手で捥るために用意する。

 そして電話口のシク=ニーロに向かって「行くわよ。これから。お終いね」と告げて電話を切ると、ナミコと手を繋いだまま新たに出した黒い手で黒い切符を点線に沿って千切った。途端にミコとナミコの身体は周囲の風景に溶け込んでいく。程なく間もなく、二人の姿は、景色に消えた――。



 ミコと手を繋いだナミコは一切消えた実感のない転移術の初体験に呆然とする暇もなく、あの女――シク=ニーロが指定した通り、ビフォーレ地区ワンサイデッド公園に到着しそのシク=ニーロと対面していた。海浜公園であるワンサイデッド公園の狭い砂浜、シク=ニーロは波打ち際の海の上に立っていた。

 楽し気に舞い、そして踊る。それだけなら誰が彼女を悪と見て取れるだろうか。だがナミコは知っている。この男にも見える年端もいかない女が治安の都セフポリスで昨日今日と凶悪犯罪を立て続けに起こしていることを。昨日から知っている。昨日映像とは言え全く同じ姿形服の本人と旅館で御対面しているからだ。相変わらず子供っぽい印象……無邪気で悪意をデコレーションしている類だとナミコは二見で理解した。

 それにしても腹立たしい。最後に一目会いたいと呼びつけたから来たのに踊るのに夢中で全然こっちを見ようともしないシク=ニーロの態度がナミコを心底苛立たせる。気配を感じているはずなのに。「こっち見ろよ」と怒鳴りたくなる。

 だがそれは未遂で終わった。ナミコより早くミコが文字通り水をさしたからだ。影帽子から水の入った小瓶を黒い手に持たせてがま口チャックから取り出すと、そのまま流れる動作でコルクの蓋を指一本で弾き飛ばし中の水をシク=ニーロに向かってぶちまけたのだ。

 およそミコらしくない行動に、ナミコは人形のようにギクシャクカクシャク固まってしまった。そしてナミコが読めなかったミコの行動は、シク=ニーロにとっても読めなかった模様。シク=ニーロはミコが投げつけた水を髪、頬、首筋に浴びて止まってしまった。当然という詞が成り立たなそうなシク=ニーロでも、水をかけられたら踊るのを止めるらしい。濡れた箇所を気にしながら、ようやくミコとナミコの方を向いた。

「やあ。結構な挨拶だね。楽しく踊っている乙女に向かって水をかけるなんて、観客にあるまじき行為だよ?」

「おあいにく様。わたしもナミコちゃんもあんたの踊りが見たくて来たんじゃないのよ。あんたを二度と悪さできないようにする――その目的のために来たの」

「ボクから? 悪さを? ……っふふ、あっはっはっはっは!」

 ミコの大義名分をシク=ニーロは腹を抱えて笑う。その笑い方がまた癇に障る笑い方で、ナミコは文句のひとつでも行ってやろうかと一歩踏み出したが、ミコの手によって阻まれた。ミコはシク=ニーロの方を向いたままナミコに警告する。「軽々しく動かないの。ここではあなたものんびり聞くだけにして。どうせあいつは人の話が聞けないんだから」とのこと。思い当たる節もあるので、ナミコは出過ぎた真似を止め、ミコの隣に張り付いた。

 すると案の定ミコが予想した通り、シク=ニーロは海の上でステップを踏みながら喋り始めた。

 自身の生い立ちを。そして自身の成り立ちを――。

「ボクの生まれた時代は世界が『管理・調整世界』と呼ばれていた。その名の通りある方が惑星の全てを管理し調整する苦も楽もない世界。全生物が必要十分な最低限の幸せを与えられる世界なのさ。でもね、それを成し遂げ維持するのは並大抵の苦労じゃない。特に心を持った人間は、すぐに簡単に悪に転げてはバグとなり癌となり周りに迷惑をかけるんだ。ただあの方――偉大なる“システム”は悪に利用価値がないとは判断しなかった。上手く利用すれば善の方より簡単に秩序を構築できることを知ってた。だから――」

「作られたんでしょ? 必要悪のあんたがさ」

 少々喋りに感傷が入ってきていた隙をミコは見逃さない。言わずともわかる事実を、シク=ニーロより先に口にする。先を越されたシク=ニーロは露骨に不快感を顔に出すが、なぜかすぐに面の皮を戻して、やっぱり変わらぬ慇懃無礼で子供っぽい喋りを再開した。

「その通りだよミコ=アール。ボクは“システム”に作られた。人から産まれたわけじゃない。ボクの遺伝子自体管理コンピュータと母体ロボットが材料元素を配合結合させて作ったんだ。そしてそのまま母体ロボットの機械子宮の中で育ち生を受けた。親も持たず愛も受けず、ただ心に求められる『悪』を仕込まれて。未来だろ? ボクは人造人間ですらない。人工人間……いや人間製品とでもいうべきだろうね。人が作ったわけじゃないから。母体ロボットの中で人間年齢に換算して5歳まで育った。まる五年間たっぷりとボクに求められる『悪』の心構えと知識手段を仕込まれたのさ。母体ロボットから出た瞬間から、“システム”の為悪を為せるようにね。そして迎えた誕生日、ボクは産まれてすぐに服を着て、早速仕事に取りかかった。悪を統べる黒幕になるべく、暗躍と教唆を繰り返し続けたさ。“システム”からの手助けもあったからね。2年後にはボクはこの惑星社会悪の頂点になってたよ。ホント、情報化社会は便利だったよ。顔も知られずにトップになれるんだから。それからは“システム”と協議して『最大多数の最大幸福』をスローガンにちょこちょこ悪を為してきた。殺人、口減らし、種の絶滅もやったなあ。この手の采配ひとつでバカ達を操り殺させて、生命が消えて死にゆく様は、愉快でたまらなかったよ……」

 うっとりと、恍惚状態にも似た顔を見せるシク=ニーロにミコは吐き捨てるように呟いた。

「人を殺しておいて、そんな詞しか言えないの」と囁く。するとシク=ニーロは珍しく、すぐに怒鳴り返してきた。

「生きることが罪なんだよ! 何様だキミ達は。毎日栄養も生成できない生物種の癖に。キミ達は毎日栄養失調で死ぬリスクがある。それを回避するために食事を摂っているんだろう? 言わばキミ達もボクも毎日の食事で食する物の命を奪い取って生き存えているにすぎないんだ。それが殺生というものだろう――こんな簡単なことをボク如きに指摘されるなんて、やっぱりキミも詰らん! 結局ボクを断罪できなかったしね!」

「な……ミコさんがあなたに劣るって言うんですか!」

 シク=ニーロの無礼千万な物言いにナミコは反射的に口を出していた。そこにあったのは後味の悪さと敬愛するミコを侮辱されたことへの怒り。言った勢いそのままにさらに当たり散らしてやろうかとナミコは思ったが、怒鳴った時に僅かに前進していたため接触していたミコの腕の感触がナミコに理性を取り戻させたからだ。ミコはなにも言っていない。さっきナミコを制止しようと前に出し進路を塞いだ手を腕を、そのまま上げているだけである。

 しかしそれでもナミコには、二度目の制止に感じられたのだ。勘違いだと言われればそうかもしれないが、現実は違う。ナミコの代わりに口を開いたのはやっぱりミコだったからだ。場の空気を重くすることも軽くすることも自由自在なミコ=R=フローレセンス。その弁舌でもって、シク=ニーロの口をさらに滑らせたのだった。

「確かに――わたしたちは殺生という殺しと生命の素の奪い合いで生を繋いでいるわ。でもね、その生命の奪い合いが輪廻の輪となり螺旋となり、時を時代を創っていくのよ。それに何? 『生きることが罪』? ひょっとしてそんな理由で自分の悪を正当化しようとか考えてたの? もしそうなら……がっかりね」

「御愁傷様だねミコ=アール。偉大なる“システム”に作られたボクはそんな風に自分の悪を自覚して自責するような神経は持っていないさ。余計な心配、御苦労様」

「あっそ。なら見誤らなくて済みそうね。で? 未来の俗世で必要とされて作られまでしたあんたが、なんの因果で過去に昔にこの時代に、時間遡旅行してくるのかしらね」

 嫌味と悪態の応酬。夕焼けの海原におよそ似合わない他人を緊迫させるやりとりにナミコは身体が冷えるのを感じた。冷や汗じゃない、空気が場が冷えているのだ。もうすぐ夏が来るというのに。ミコの詞を最後に静まり返った空間が、それに拍車をかけていた。

 やがて海の上に立つシク=ニーロが夕日の照らす自分の影の長さを一瞥した後、珍しく頭を掻いてから話しだした。

「ボクは完璧過ぎてね。偉大なる“システム”の求めたスペックを満たして作られたのは先にも言った通りだけど、ボクが活動を開始してから有能だったのは言った通りだけど、あまりにボクは有能過ぎてね、悪の秩序体系はボクがいなくても成り立つ程に確立されてしまったのさ。そしたら“システム”に『よく働いてくれました。もうあなたの役目は終わったのです』って御詞と共に生まれて初めての、そして永遠の自由を戴いたんだよ。初めての自由に接した時、ボクがまずやったのは歴史を振り返ることだった。ウォッチレコード『リーン・ウェーダ』の記録を確認するとこの世界に神様が件の問題を出していたこと、しかし今アパートに神様は残っていないことを知った。興味が湧いてね、鍵を開けて扉を渡ってアパートに行ったよ。ほんとに誰もいなかった。だから好き放題できた。神様達の不死の証たる設計図、ボクも自前の設計図を作ったよ。それがこの『不可能解決の設計図』なのさ」

 シク=ニーロはここで5つの小さな光る星を自分の身体から取り出し、適当に自分の身体を周回させた後身体の中に仕舞った。シク=ニーロの話はまだ続く。

「設計図も完成させてアパートを去り、帰ったら、待っていたのは退屈な日常だったよ。代わり映えもせずに、同じことを同じ時間に繰り返す毎日さ。そんなときふと思い立ったんだ。ボクより前に只一人、神様の問題を解いてみせた女がいたことを。そう、キミだよ。ミコ=R=フローレセンス」

 シク=ニーロはミコを指差して得意気な顔をする。ナミコは反感ぷんぷくだったが、得意満面のシク=ニーロはその調子を維持して続けた。

「“システム”に作られた最高傑作であるボクに先んじる奴がいたなんてこと、考えたこともなかったからこの時初めて知ったのさ。『リーン・ウェーダ』で確認するとキミのことは書いてあったがどんな最後だったかが判らなかった。記録が唐突に消えていた。頭がムズムズしだしたのはこの頃だよ。そしてボクはそうなると解決しなきゃ気が済まない質なんだ。毎晩何日も考えた。そして閃いた。そうか、ボクが時間遡行して存在を消してやれば解決だって」

「――は?」

 シク=ニーロの説明を聞いて、ナミコは思考が停止した。きっとセーフティ・ガードで聞いている神様連中も同じだろう。

 存在を消す? そんなくだらない理由で、この女は自分の居場所を捨てたというのか――。

 もうどうしようもないやるせない気持ちとそんな判断を実行に移したシク=ニーロ自身への静かな怒りがある行動に集約される。ナミコはシク=ニーロに対して全否定の暴言を吐き出したのだ。

「あなたバカですか! いえ、頭悪いですね。ミコさんの未来がない、だから自分が消すしかない? ふざけないで! わたしはミコさんの行く末なんて知りませんしそもそも手を出せる者じゃないと諦めてます。シク=ニーロ、如何にあなたが“システム”とやらの最高傑作でミコさんの次に神様の領域に辿り着いた逸材だとしても! ミコさんと比べたら10倍以上の実力差がありますよ。ハッキリ言って来るだけ無駄です。そんな暴力行使、ミコさんの助手としていいえそもそも人として、認めるわけにはいきません!」

 叫び終わったナミコは必死に呼吸を整えながら、シク=ニーロを睨みつけた。しかし当てつけられたシク=ニーロはナミコの詞など全く意に介さず、真顔でとんでもないことを言い放った。

「暴力を振るうことの何が悪いのさ? 暴力行使は愛情表現だよ。自分と同じ苦痛を味わってほしい、自分と一緒に苦しんでほしい――当然相手にするのは可愛い子か好きな人か大切な家族だって相場が決まってる。だってそうだろ? 最も身近な家族、そして心底愛する人に自分のことを判ってほしいと思うのは。自分がこれだけ苦しんでいるんだって理解を求めるのは至極当然の話じゃないか! 悲鳴は心地好く、痛みは恍惚の快楽物質なのさ!」

 シク=ニーロの暴力論を聴いたナミコは目を点にしたまま動けなかった。動けないのは目だけじゃない。手足も内蔵も、呼吸さえも押さえつけられ停められてしまったかのように固まってしまったのだ。シク=ニーロがあまりに異なる価値観の存在だったから――機械に作られたと言っても人なら話は通じると思った浅はかさをナミコは呪った。

(こいつには、心はあっても善の部分がない。基盤が違う。通じない。意思の疎通が不可能なのね……)

 自分のしてきたこと喋ったこと全てを否定されたような感覚にナミコは襲われた。その瞬間、停まっていた呼吸は戻った。息が戻ると同時に足が竦み、立っていられず墜ちそうになったのだが。

 そうはならなかった。ミコが、自身の身体と肩と腕を使って、倒れるナミコを肩で支え持ち上げてくれたからだ。ナミコはすぐにミコの顔を見た。案の定、ミコはいつもの柔い笑顔ではなかった。が、この場ではそれ以上に最適な、精悍とした真っ直ぐな目をして、シク=ニーロを見据えていた。その横顔を見れただけで、ナミコは心が温かくなるのを感じる。

 ナミコの腕を肩に回し、抱える格好になったミコは、シク=ニーロに対して静かに口答えを始めた。

「不器用な愛情表現ね。苦しかったら恥も外聞もなく泣いてる姿を衆目にさらせばいいものを。器用じゃないのか、弱虫なのか……その論理、認めても受け入れるわけにはいかないわ!」

「……ミコ=アール」

 ミコの強き拒否宣言に、シク=ニーロはよりにもよって可哀相なものを見るかのような目でミコとナミコを一瞥した。しかしそれも一瞬のこと。ミコが堰を切ったように、しゃべくり倒し始めたのだ。

「最後が近付いてきてる……率直に訊くわ。悪って何?」

「心あらば尊いか? 愛されていれば護るのか? 頂点種なら偉いのかって話だよ。ボクや“システム”は人間という種をそこまで重要視していないのさ。心在る種がなんであろうと、所詮この世の中は善か悪かだ。ボクは世の中の半分ってことさ」

「過去に跳んで後悔はない?」

「ないね。ボクの栄光は過去から未来普遍的に残る記録、ウォッチレコード『リーン・ウェーダ』にきちんと記録されているんだ。そしてボクの為すことやることは悪だからね、善行よりも皆の記憶によく残る。それだけしてもらえれば十分じゃないか!」

 シク=ニーロは両手を広げて自慢げに、雄弁に語る。しかしここで聞いてたミコは、相手を嘲るように口元で笑い、自分の論理で言い返し始め、そして終わりを告げたのだ。

「記録に意味なんてないわ。参考にしかならないから。そして記憶にも意味はない。思い出す用途しかないからね。これがあんたの本質真実。見えざるものにしとけばよかった必要悪をよりにもよって一人の人間として誕生させられたがために背負った欠陥。ざまあみやがれこのお子様が。嫌な気分にさせたところで時間切れ。もうあんたの悪舌聞く必要もなくなって心がホッとしてますよ。さっさと過去に跳びやがれってね。ふふふ……おほほほほ」

「ぬ……ミコ=アール、ぐっ――」

 シク=ニーロは最後まで喋ることができなかった。身体がきな粉のように細かい粒子となり、そしてこの時代から消え始めたからだ。そう、時間遡旅行が始まったのだ。

 時間遡旅行の始まりのせいなのか、喋れなくなったシク=ニーロを見て、ナミコはある事実に気付き、支えてくれるミコの方を向き耳打ちする。

「いいんですかミコさん。時間遡旅行が始まったってことは、悪さができないようにすることが不可能に――」

「ならないわよ。ちゃんと手は打ち済んでいる。このままでいいの。行かせてやりましょ。そこがあいつの墓場だから」

 ナミコの訴えをミコは元の優しい、柔く淡い笑顔と明確な回答で遮った。ナミコはその様に魅せられて、息と一緒に詞を呑んだ。そこまで言ったミコを信用……ではなく、ただ受け入れられたから。ミコはシク=ニーロの方に向き直り、最後のメッセージを告げる。

「予言してあげる。あんたは過去に跳んだ直後わたしの存在を消すこともできずに死ぬ。ワーワーギャーギャー泣き喚いてね。それじゃ、死への片道切符旅行を楽しむといいわ。じゃあね〜」

 ミコのメッセージにシク=ニーロは納得いかなかったようで動かぬ身体を無理矢理動かそうとした嫌いがあったが、それも手遅れ。

 シク=ニーロの姿は消えた。

 跡形残さず。ただ悪さの痕跡だけ残して――。



 ザザァ……。

 波と砂が海の音を奏でる中、ワンサイデッド公園の砂浜にミコとナミコが肩組して海と夕日を眺めている。その顔は二人揃って穏やかだ。シク=ニーロという脅威がいなくなったことへの安堵だと、ナミコには沸き立つ感情の源泉が理解できた。

 すると無性にミコと肩を組み合っている姿なのが恥ずかしくなってきた。嫌ではないけど見られたくない、そんな気持ちが湧いて出る。

「ミ、ミコさん。もう大丈夫です」

 慌てて断りを入れながら、ナミコはミコからそっと離れた。紐を解くように。

 でもそのときナミコは感じた。まだ来てもいないはずの別離の悲しみを心に。

 ミコはそれを拒むことなく、ナミコの好きに自由にさせ、自分は相変わらず出しっ放しにしている黒い手を寄せて未来電話でどこぞと会話。其の様子を見ていたナミコは悲しみと同時にある疑問が頭に浮かんだ。助手として今、訊いておきたい――ナミコは臆することなくミコに話しかけた。

「あのーミコさん。ひとつ、訊いてもいいですか?」

「ん? なあに? わたし気分いいから答えちゃう」

「そりゃどうもです。あの最後の事件なんですけど、人質妊婦さんのカウントダウンが始まってもミコさんまるで動じてなかったじゃないですか。それでもってニュース見ろって。つまりあの時点でもうヘンリーさんが殺された秘密には気付いていたってことですか?」

「うん、そうだよ。お茶してたときに神様たちの別働隊から情報受け取ったあの瞬間、ピンと閃き気付いちゃったのよね。で、マスコミと街政治部門へのコンタクトはお茶屋で小切手渡しに行った際に政治部門のお姉さんを指名して。小切手の裏に用件書いてね。そして街中にニュース流してもらったわけよ」

「情報部門のお姉さん? 会計のお姉さんじゃないんですか?」

「あそこは特別なお茶屋なのよ。セフポリスの秘密情報基地のひとつなの。従業員は全員、元産業スパイの経歴を持つ諜報員たちなのよ。で、わたしが指名したのがさっきも言った政治系にパイプを持つお姉さんでしたと。こういうこと」

「なるほど〜」ナミコはこれ以上ないくらい素直に頷き、ミコの説明に納得した。すると。

 

 ピンポンパンポーン

 

 今までとは違う未来電話の着信音が鳴った。ミコはその音を聞くと、未来電話を初めて自分の手で持って、黒い手ではない自らの手で操作した。なにやら電文を読んでいるようだが、明らかに嬉しい内容なのがナミコにもまるわかりであった。なんせミコの顔がこれ以上なく緩く溶けるような笑い顔になっていたからだ。ふやけた……否、腑抜けた……やっぱ否、ふにゃけた顔を見せたミコに、ナミコは期待すると同じくらい心配でしょうがなくなってしまった。だって今のミコ、隙だらけですから。

 これはいかんと思ったナミコは、早々にミコを正気に戻すべく、声をかけることにした。「ミコさん、正気に戻ってくださーい」と。それだけでミコはすぐ浮かれた気分を心に秘めて、真面目なミコに戻るのである。いったいどれだけ正直なのかと思わずにいられないナミコであった。

(本当にミコさんって人は、危なっかしいわ――)

 そう心で思いつつも、だからこその助手・自分であるともナミコは理解し受け止めていた。なので助手としての立場から遠慮なく、ミコに物申すのだ。

「嬉しい知らせ。未来電話。ミコさん、とうとう根回しが実を結んだのですね」

 ミコが事件中も移動時も未来電話で知らない言語でどこぞと通信をとっていたのをナミコは横から見守っていた。その際ミコが言った「根回し」という単語を、シク=ニーロを倒すための工作活動と判断し、その行く末をナミコも待ち望んでいたのである。ずっとずっと。

 そして結果は大正解。ミコは満足嬉しげ幸せそうなはにかんだ笑顔をナミコに向けて、Vサインを贈ったのだ。

「その通りだよナミコちゃん。わたしがシク=ニーロのバカを制裁するために打った手が結果となって実を結ぶときがきたわ――と、いうわけで早速電話をかけましょう」

 と、ここでミコは未来電話を操作し、誰か宛ての電話番号を押す。ナミコは誰宛てなのか気になったので訊いてみた。「どちらへ?」と。するとミコはビックリするような返事を返してきたのである。

「誰ってそりゃあ、シク=ニーロの奴に決まってますがな」

(――え? だって、シク=ニーロの番号はずっと非通知で判らないようにされていたはず……って、まさかミコさん、シク=ニーロの電話番号も見抜いたの?)

 ナミコがミコの傑出ぶりに寄った仮説に驚いていると、トゥルルルル、ほんとに電話が通じたのである。驚くナミコを余所に横に、ミコは人知れず呟いた。

「これが最後最高の謀略よ。よく見とくといいわナミコちゃん。かつて国も殺した女がどう未来人を殺すのか」

 物騒な台詞を臆面もなく言い放って、ミコはコールに夢中になる。

 そしてとうとう未来電話は過去に跳んだあの女に、繋がったのだ。

 同時にそれは、ミコの恐ろしい一面を見るということでもあった。



 ミコが生まれてない時代――正確にはミコの両親がまだ独身であった時代に、シク=ニーロは現れた。時間遡行をして、未来から過去へ跳んできた。

 一瞥する。古びた家屋と絶滅した花――過去だ。

 聞き取る。昔の生き物の生命の鼓動――過去だ。

 感じ取る。古の息吹と若き風の感触――過去だ。

「アハハ、どうやら時間遡行は成功だね。何が『死ぬ』だよミコ=アール。そもそも設計図持ちのボクを殺すなんて不可能なのにさ。さあて、いよいよキミの御先祖様を抹消してやろ――」

「やろうかね――」そう言うつもりだったのだが、言えなかった。出せなかった。どういうわけか身体が痛む。全身あまねく痙攣する。内蔵が異常を訴えている。

「なに? なんなのさ……うっ!」

 身体の異常を感じた直後、シク=ニーロは確かに感じた。心臓が破ける感覚を。

 激痛に手で胸を掴むが暖簾に腕押し。正直な身体は前のめりに倒れ込む。ミコの両親の住む田舎町の、誰も見向きもしない老朽化した街を見下ろせる丘の上の公園で、シク=ニーロは地面に倒れた。

 口からは大量の血反吐を吐き。

 胸からは未来電話を落として。

 するとそのタイミングで落とした未来電話に着信が入った。シク=ニーロは目を点にして驚く。この未来電話は購入してからずっと番号非通知で使い続けた上、番号の追跡捜査に対しては、設計図の秘技も駆使したジャミングを徹底的に施していたからである。早い話、この未来電話でこちらから電話をかけることがあっても、「電話をかけられる」ことは一度もなかったのだ。

 そして画面に表示された相手の番号を見てまた驚く。なぜなら、その番号は――ミコ=R=フローレセンスが持っているものだったからだ。

「……ち、着信操作、ON」息をするのも苦しいシク=ニーロは倒れた体勢のまま、音声操作で回線を繋ぐ。苦しみと痛みは増す一方だったが、予想を超えて動いているこの女からの着信、出ないわけにはいかなかったからだ。

「やあミコ=アール。いったい何の用かな。非通知の電話番号を逆探するのは、犯罪だよ全く……」

 できるだけいつもの調子を装いつつ、シク=ニーロは電話に出た。しかし電話の向こう側、今や未来にいるミコはいきなり大笑いしだして饒舌に語らいだしたのだ。

『にゃふ……にゃふふふふ。どうやら“罰”が当たったようね。苦しい状態なのに見栄はっちゃって。ごくろうさまねシク=ニーロ。ま、わたしの“根回し”がうまくいったってことだからなによりな結果なわけですが。どうよ必要悪、未知なる力で死にかけている気分は?』

 衝撃の発言内容にシク=ニーロは目を点にして驚く。痛む身体に鞭打って詰問する。

「どういうことだよミコ=アール。設計図持ちで不死身のボクにどうやってこんな重傷を……ゲホ! ゲホッ!」

 喋りの途中でまた激痛から血を吐いてしまうシク=ニーロ。そんな彼女を相手にミコはとんでもない台詞を続け様に吐いてくる。

『痛そうだね〜代わってあげようかー? それとも泣いてあげようかー? 今ならティッシュも2割引よ』

「ふっ、巫山戯るなぁ! これくらいのことで、設計図持ちのボクは死なな――」

『死ぬわよ。だってわたしがあなたに死罪の罰を与えてと頼んだ未来は、設計図効果を無効化して殺せる手段を持っている。そしてそれを使ってくれたんだから』

「――未来?」

 未来人のシク=ニーロにとってミコに言われる憶えのない詞が聞こえたことは不可解極まりないことだった。痛みも思考も、一瞬停まる。詞を失い、我に返れない状態。

 するとそんなシク=ニーロの状況を見透かしているのかのように、電話先のミコは驚愕ものの“種明かし”を披露した。

『あんたの電番は水族館で初めて対面したとき、あんたが背中を見せたときに把握した。わたしの推察視力はね、背中を見ればその人物の全てが見透かせるのよ。秘密にしていることほどよくわかる。なぜなら背中は顔と違って嘘をつかない正直者だからね。そう、背中こそ最大の死角、そこに気付けなかった時点で、あんたは負けに傾いたのよ』

「背中、だと……そんなもんでボクの番号を盗むだなんて。バカにしてるのか、ヴヴッ」

『たかだか生まれて十数歳のお子様に言われたくはないわね。こちとら人生三周目、人生観だけじゃなく経験値も違うのよ。そう、その目を先に向けていれば……背中を過去に預けていればあんたもそこに辿り着けたのに、あんたは真逆のことをした。未来に背を向け、未来から目を逸らした。つまらないとでも思ったの? あんたが生きた時代の先の俗世は設計図持ちすら時を越えて殺せる力を持った、ワクワクウキウキの遠望郷だったのにねー』

「『管理・調整世界』のさらに未来、だと……ヴッ。そうか、ミコ=アール、オマエが“根回し”していたのはその時代だったのか!」

『そゆこと♪ 今をつまらないと断じ、この先もそうだろと安直に予測したあんたが目を背けた未来はわたしたちの時代ともあんたの生まれた時代とも違う、予想を超えた新俗世になっているみたいよ。なんせ「設計図破り」と「時間警察」が存在するんだからねー』

「その時間警察に根回しして、ボクを死刑に……させた、わけか」

『そう。あんたは余罪には事欠かないからね。でもね、時間警察にはあんたがこの時代で起こした一連の事件だけで裁いてもらったわ。それでも死刑――きゃあ〜素敵!』

 ボクが死ぬのがそんなに嬉しいのか――シク=ニーロは内心痛みとともにぐつぐつと煮えたぎるものを感じながら、同時に判明した事実に関して確認を取る。

「……つまりなんだ、ボクを悪さできないようにするってのはアレか? 最初から自分で手を下すつもりはなくって、証拠を送って然るべき機関に、余所者に裁かせるつもりだったのか……よ。ケホッ!」

 シク=ニーロは自身にとって辛い予測を血と一緒に口から出した。それは最も認めたくない現実。必要悪の最高傑作と名打たれたシク=ニーロにとって、最大の屈辱。

 されど現実は残酷。いや、ミコ=R=フローレセンスは残酷だった。一切の情を挟むどころか、今までで一番楽しそうな声で明朗快活ハキハキと予測を事実と認めたのだ。

『せいか〜い♪ 正直わたしの相手にあんたは役者不足なのよ。構ってほしかったのなら準備に最低でもあと14年はつぎ込むべきだったわね、あわてんぼうさん。それにわかってると思うけど、わたしはあんたが嫌いだから。必要以上に絡みたくないの。それだけ。大人しく自分の存在を認めてくれる時代にいればよかったものを。あんたは徒に動いちゃった。無茶な冒険の結果は結局いつもと同じ。“悪いことしたら罰が当たる”って格言そのまんま。どんなに認められていてもたとえ必要とされていても善性をもたないあんたは如何なる時代も貫通する「真っ当に生きていたい人間の総意」には負けるしかなかったのよ。ま、もっと簡潔に言えばあんたはしくじった、だから死ぬ。それだけなんだな〜ほんとにさ。ま、冥海には時間軸は存在しないから、今度は真っ当な人間に生まれることを願うのね。じゃあね、死にゆくおバカさん……あれ、まだ買った通話時間残ってるわね。切るのももったいないし……じゃあ笑って埋めますか。ふふふふふ、にゃっふぁっふぁっふぁっ――』

 ミコは散々笑いに笑って未来電話の通話が切れるまでシク=ニーロの破滅を心底喜んでいるかのような声で笑い続けた。そしてミコが買ったであろう通話時間が期限を迎え、通話は二人が何をするまででもなく、実にあっさりプツッと切れた。

 斃れたシク=ニーロに残されたのは、初めて感じる負けたことに対する屈辱と、回避できない死への恐怖。電話が切れてからと言うもの、もはや動く気力さえ失われていた。

「なんだよ……なんだよこれ。なんで、ボクが? しくじった? う、う、嘘だ嘘だそんなことある訳ない。ボクは誰よりも必要とされて、常にその期待に応えてきたんだぞ。もし仮にしくじったとしてもやり直せるのが人生だろ? う……やだ、やだ、いやだ死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない! まだやりたいことたくさんあるのに、こんなところで終わりたくない。死にたくない……死にたくないよぉ。ヴッ!」

 そこまで一人言を呟いたシク=ニーロはここで今までで一番の量を喀血した。逆流した血を吐くだけでも相当の痛み。シク=ニーロは思わず仰け反り、俯せから仰向けへと姿勢を変える。皮肉にも、空も血を連想させる真っ赤な夕焼け色だった。その色が目に入ってきた途端、急激に身体が動かなくなっていくのをシク=ニーロは感じた。末梢の指先が動かず、感覚そのものが消えている。そして全身余すことなくその感覚はシク=ニーロの身体を覆いつくしていった。残るのは首だけ。それでもシク=ニーロは生きることを諦められなかった。しかし――。

(嫌だ! 死にたくない。助けて、誰か、助けて……)

 既に時遅し。末期の詞を音にして発することもできずに、シク=ニーロは死亡した。享年16歳の生涯だった。

 その肢体は吐き散らかした血で真っ赤に染まり、血は倒れ寝転がった地面にさえ染み渡る。

 そんな赤だらけの肢体の中で唯一、赤に染まっていない部位があった。そこは――。

 

 目。

 

 泣いていたのだ、シク=ニーロは。透明で純度の高い涙、それだけが血にも闇にも染まることなく、一筋の線を描く雫として、目から溢れ目尻から零れていたのだった――。



 ザアッ……

 波が途切れることなく引いては寄せる海浜公園、ワンサイデッド公園の砂浜で、ナミコはとんでもないものを見たという顔しかできなかった。無理もない、事実がそうだったのだから。

(未来人のさらに未来に電話して死刑として裁かせるなんて……ミコさん、なんて悪辣なやり方を)

 正直シク=ニーロより悪っぽい――その感想だけは思っても口にはしない、空気の読めるナミコだったが、空気が読めない奴もいた。そう、現場にはいなくても通神術で一部始終を見ていた趣味の良い(注:嫌味)連中、神様達である。

 シク=ニーロが死んだのをいいことに、思いっきりおおっぴらに、通神術から思話通信に切り替えてミコとナミコに話しかけてきたのである。

『うほっ! 本当にシク=ニーロを抹殺したのかよミコ! やっほぅ、凄えぜ。善くもまあ“未来の更に未来”なんてアイディア、思いついたもんだぜ、なあ?』

『興奮して口調変わっているわよ熱。でも本当、ミコの作戦は天地逆転ものの閃きでしたよ。未来電話を十全に使い切ったミコの大勝利でしょうね!』

『Yeah!』熱から解説を引き継ぎ、上手いことまとめた焰の締めに神様連中は一斉に湧き上がり、歓声を上げる。別にシク=ニーロは神様連中を相手にしていたわけではないのだが、それでも狙われた者達なりに恨みがあったようで、その恨みを晴らしてくれたミコのことを称え、あまつでさえその手腕を持ち上げる賛美歌を即興で歌いだす始末。その見事なコンビネーションを見せつけられたナミコは、仲いいな〜の感想に終始し、シュールなものを見る目で遠くを見る。60名のはしゃぎぶりを一方的に聞かされると、さすがに煩くてしょうがないからだ。

 むしろ一般人のナミコは、ミコの取った方法がシク=ニーロと同等、或いはそれ以上の悪辣さ、悪知恵だったことに少なからず衝撃を受けていた。そして今さっき切れた最後の会話でミコが放ったとんでもない詞の数々は、ナミコのミコに対する印象を今までのものからガラリと変える程の衝撃があった。感情面で避けそうな……ともすれば嫌いになってしまいそうなことをやられてしまった気分。極めて複雑な気持ちだったのだ。

 そしてそんなナミコの心情の機微を察したかのように、ミコが詞を投げてくる。

「嫌いになっちゃった?」と。

 突然の核心突く発言にナミコは心の準備が追いつかず、「ええ、その……」とお茶を濁すことしかできない。するとミコはなぜか「安心した」と呟いて、「それでいいのよ」と意外な詞を繋げてきたのだ。

「え? いいんで……すか?」ナミコは瞬息の反応で詞を返す。自分でもびっくりのスピードだったが、ミコは悠々自適に聞いている。そしていつものように、柔く淡い、ちょっぴり悲しそうな、困ったような笑顔をナミコに向けてきて話しだした。

「わたしは今回シク=ニーロを斃すのに自分の中の悪い部分をほぼ全面的に起用したわ。以前にも話したと思うけど、わたしとあいつの“同類”の部分をね。それはわたしの中の悪そのもの、それ使って魅せて嫌われるんならむしろ本望よ。それもまた、ひとつの結果だもの」

「なんで……なんでいいんですか! 嫌われてもいいって。そんな顔して言えるんですか!」

 ナミコは堪えきれずに想いの丈を吐き出した。好意を抱いているミコだから、嫌いになんて、とてもなれない人だから――そんなこと言ってほしくなかったのだ。

 でも、人生三周目のミコは無情にも先の台詞を補強する。それはとてもナミコでは届かない、人生三周目=人生の最果てまで行った一人の女性が話せる詞――。

「わたしにとってはねナミコちゃん、好きも嫌いも愛も恋も、旅路で遭遇するひとときの出来事でしかないの。わたしの人生一周目が終わったとき、既にわたしは好かれることも嫌われることも経験していた。そのときの体験は今も心に輝き、そして傷として残っている。それから何度も同じことを経験してきたわ。その度に喜んだり怒ったり哀しんだりしてきたけど……こと怒りと悲しみに関しては“あのとき”に敵うものはないんだな〜。それを端的に表す詞があの『現状マシ』って台詞。だから嫌われる悲しみには正直慣れっこどうとでもなれなの。だってそれは、そう思ってくれる『わたし以外の誰か』の大切な権利だと思うから。ね?」

「ミコさん……」ナミコは至近距離でミコの解説を聞いていた。物理的距離はこんなにも近いのに、心の距離が遠く感じた。ミコの心は遠く遠く、恒星の先まで行ってもなお追いつけないような、遠く最果ての向こう側――とてもじゃないけど近づけない、そんな場所にあるのだろうと痛感させられた。この事件を通して、自分は『助手』としてミコの一番近くにいた。事実、ミコの方から歩み寄ってくれた――近付いてきてくれたこともあったと思う。それは確信をもって言えること。

 でも今はもう違う。ミコの心は遠ざかり、心のありようも再び『旅人』のものに戻ってしまったのだろう。もうミコはセフポリスに留まり売られた喧嘩を買い、事件を解決していた解決者じゃない(探偵とは呼ばない。ミコは『探偵』呼ばわりを嫌うから)。俗世を行ったりどこかへ来たり、そんな一人の『旅人』なのだ。敵を斃したのだから、当然の心変化だろう。

 そして、『旅人』に戻ったということは、当然『終わり』が来るということ。神様達の馬鹿騒ぎを思話通信で聞く中、ナミコは心の整理をつける必要を感じていた。

 そしてすぐに“そのとき”は来た。ミコが黒い手にずっと持たせていたシク=ニーロ、そして『遥かな未来』と通信していた未来電話、そしてナミコが持っていた、元シャーロックに渡していた携帯電話をがま口チャックから新たに取り出した黒い腕で奪い取ると、ふたつの黒い手をぎゅ〜っと圧縮握り締め、ふたつの電話をスクラップにしたのだった。ミコはそれだけにとどまらず、お茶屋でも魅せた消化の力を使ってふたつの“元”電話を完全に原子レベルにまで分解し、風にのせて空へと流し、重力任せに砂に混ぜる。作業が終わるとミコはやはりナミコが予想した通りの詞を告げたのだった。

「お助けも事件ももはや過去、わたしの仕事はここまでね。そろそろ旅に戻らせてもらうわよ、ナミコちゃんに神様さん達」

『なにいぃぃぃぃ!』馬鹿騒ぎから続けてバカみたいに叫ぶ。ある意味予定調和な展開にナミコはちょっとホッとした。すぅ〜っと一回深呼吸をすると、ナミコは前もって整理していた最後の質問を投げかけた。

「ミコさん、最後に『助手』として、質問してもよろしいですか?」

「いいよ。もう会うこともないだろうから、いくらでも答えるわよ」

 もう会うこともないだろうから――つまりミコとしては金輪際ナミコに会う気はさらさらないとこれ以上なく直接的に言われて、ナミコは多少面食らったが、すぐに気を持ち直して、早速第一の質問を告げた。

「どうしてシク=ニーロが時間遡行した時代がわかったんです? 見てましたけど、ミコさん未来との通信時に未来に教えてましたよね? シク=ニーロの時間座標」

「ああ、それね。いいわ、答えましょう。ナミコちゃんも神様さん達も見ていたと思うけど、わたし、あの子に水ぶちまけたでしょ。実はアレ、雨水なの」

「雨水……ああ、なるほど。雨識感覚ですか、時も越える感覚とは。驚きです」

「ナミコちゃん顔と詞が一致してないようだけど、まあいいわ。他にもある?」

「はい。なんでわたしがシャーロックから拝借した携帯電話、壊したんです?」

「もうあなたたちを事件に巻き込みたくないって思っちゃったから。それだけ」

「お心遣い感謝します。では最後に、シク=ニーロの電話番号が知りたいです」

「それはひみつー。内緒ですよー。わたしが推察したこの事件一番の謎だから」

 ナミコとミコの息のあったやりとりは、聞いて答えて最後は答えて貰えないといった体で終わった。最後の質問にミコが答えてくれなかったが、それも会話の締めにはいいだろうとナミコは思った。重荷がとれて気が楽になったような感覚――安心できるとはこういうことかと、若く未熟な身体と心に染み渡らせる。

 ナミコが助手としての肩書きを剥ぎ取られている感触を心地好く受け入れている中、ミコは遠くセーフティ・ガードから話しかけてくる神様連中にも別れの挨拶と指示を飛ばした。

「クルサードから頼まれて……あなたたちにも頼まれて、助っ人をやってきたけど、事件も解決したしもういいでしょ。あなたたちに頼まれたことはちゃんと解決しましたからね。その代わりと言ってはなんだけど……すっから忘れていると思うんだけど、憶えてる? 哉ちゃんの箱の中に、死体さんことヘンリーを殺した殺し屋タワーを拘束しているって。わたしはもう行っちゃうからさ、ジャックとの約束、あなたたちが果たしてよ。警察に突き出すもよし神様が直接いたぶるもよし、とにかくジャックと約束したのよ。『無念は晴らす、仇は取るって』――これ、付き合ってくれたあなたたちに権利譲るわ。殺そうが後悔させようが自由。わたしの名前も好きに使っちゃってー」

『うおおおおおおい! マジか、本気か、それとも正気か! 我々に実力行使の機会を与えてくれるとは! ヒャッホゥ!』

『ああ、そう言えばコノ箱の中に入れておいたんだったっけ。ミコっちに言われて今思い出したよ〜。コイツは正直役不足だけど、ソレなりに楽しませてはくれそうだね。ソノ依頼、承ったよ。いいよね、みんな!』

『応!』『賛成!』『乗ったわ』思話通信が混線する、もといあまりに話し手が多いので混線状態みたいにうるさい。その最中だった。ミコが回線を切る、「通信拒否」の詞を口にしたのは。

『えっ? あっ! ズル、ちょっまっ……』

 神様達が有無を言う前に思話通信はプツッと切れた。頭の中に土足で上がり込んできた声の大軍が綺麗さっぱり消えたので、ナミコは頭がスッキリした。

 しかしそんな感傷に浸る間もなかった。ミコが影帽子のがま口チャックからバス停の標識らしき大きな物体を黒い腕に抱えてその場に置かせた。すると間もなくしたらばびっくり、空から人より大きな霊鳥が飛来し、ミコの両肩を両足で掴み、空中に持ち上げたのだ。

 ナミコは唖然とした表情のまま、ミコを見上げることしかできない。やっとこさこしらえ放った詞は「な、なんですかこれ……?」という一人言にも似たつぶやきだった。

 出した標識を黒い手に掴ませ再び上空の影帽子の中にしまおうとしていたミコがその台詞を聞いて、回収作業を一時中断。標識を前に突き出し自身の手では自分を掴ませている霊鳥を指差し、最後の解説を初めてくれた。

「この子は霊鳥オルバート。普段は野生で暮らしているけど、たまにアルバイトで貸切空飛ぶタクシーの仕事請け負ってくれるのよ。この標識を出すことでね」

 ポッカーン。

 ナミコはぐうの音も出なかった。ただ無言でミコがもう「用済み」と判断した標識をがま口チャックの中にしまうのを見ているしかなった。多分そのまま去られたらアウトだったと。自分でも思っていた。

 だが、そうはならなかった。標識をしまい終えたミコは取り出していた黒い腕も全てしまってがま口チャックを閉じると、ナミコにお役立ち・別れの詞を語り出したのだ。

「ナミコちゃん、最後に人生三周目のお姉さんからアドバイス。シク=ニーロはこの世は善か悪かとかぬかしていたけどそれは勘違い。この俗世はうまくやるかしくじるかなのよ。善でも悪でもうまくやれば先に次に繋いでいけるけど、しくじったらどの立場でもドボンと破滅するしかない。あの子はそこがわかっていなかった。与えられた才能に埋もれて気付かなかったと言うべきなんだろうけど、悪に拘りすぎて、終わったと勘違いし、未来に背を向けた――ほんと、失敗した人間の見本みたいな奴だったわね」

「そんな……確かにこの世は勝ち組負け組に別れますけど、それが真理なんですか? しくじっちゃったらもうダメなんですか?」

 会話能力を取り戻したナミコは霊鳥に掴まれ空を佇んでいるミコを見上げ問う。するとミコは「ノンノンノン」と可愛らしく自身の人差し指を振って大事なことをもうひとつ、教えてくれた。

「一回しくじってもあきらめなければ次がある。次でうまくいけばリカバリできる。これが俗世の捕捉ルールよ。所詮成功なんて時の運と潮時次第。そのときまであきらめない根性と強い意思が大切ってこと。シク=ニーロのバカはしくじりにしくじりを延々と重ねたから破滅しただけ。あそこまで墜ちる奴はそうはいないから安心なさいなナミコちゃん。あなたはそうそうしくじったりはしない。むしろ失敗を気にするならば、シャーロックとクララちゃん夫婦だって伝えといて」

「ミコ……さん」

「助手にしたのは後ろめたかったけど、あなたといっしょで嬉しかったわ。人生三周目、ミコ=R=フローレセンスとして心からお礼を言わせてもらうわね。ありがとう」

 ありがとう――たった五音のその詞を聞いただけで、ナミコは目が熱くなるのを堪えきれず、思わずミコから目を逸らし、涙を堪えようとした。

 そんな刹那の間だった。ナミコの目からこぼれる涙を拭うように一陣の風が吹いた、それが何を意味するものか、ナミコは即座に理解した。

 

 ミコが、旅立つのだと――。

 

 ナミコは泣き顔を取り繕うこともせず風上に顔を向ける。霊鳥は高く舞い上がり、その姿は既に面ではなく点になろうとしていた。だけど、ナミコは確かに見た。

 

 こっちを見ていたミコの、ほんの少しの寂しさと強く正直な意思を魅せる、あの柔く淡い笑顔を――。

 

 そうしてミコ=R=フローレセンスは、セフポリスから消えた。

 まるで泡沫胡蝶の夢、幻だったかのように。

 ただ、笑顔で魅せた“思い出”だけ残して。



 その後……。

 事件解決から二週間が過ぎた。ナミコはアット地区の病院でシャーロックとクララ夫婦を泊まり込みで看病していた。ミコの音楽療法による見立てでは一週間だったのが延びに延びて二週間目となってしまったが、今日ようやく報われた。二人が狂活字獄の悪夢から目を覚ましたのだ。悪夢の昏睡状態から目覚めた二人が早速夫婦漫才を繰り広げたのでナミコは底冷えする声でツッコミ、二人を再び恐怖のどん底へ落とす。なにせ事件をミコが解決したことも含め、この二週間の間にも神様連中がタワーを狂活字獄他多様な手段で拷問した挙句警察に引き渡す。人質になった妊婦さんが救出直後に生んだ女の子の赤ちゃんに「ミコ」と名付ける。ミナモト家ハルヴァリ家ストランド家が落ちぶれ始めた。大目付長官がセーフティ・ガード長官の座をクビになった。そしてなによりミコに狂活字獄を治してもらった女の子が一連の事件を同人誌にした。などと、語らねばならないことが山ほどあるのだ。とりあえずベッドから二人を引きずり出し、周りに迷惑をかけない屋外ベンチに連れ出して、事の仔細を1から20まで、包み隠さず語ってやった。そしたらやっぱり案の定、特にシャーロックはミコのことを聞いて悲鳴を上げた。特に携帯電話を壊されたことが余程ショックだったようで、ミコの名を叫ぶと灰になって崩れそうなと喩えたくなるほど脆くなってしまった。が、心配したクララのキス一発で治る様を見たナミコは、「愛っていいね」と「現金なもんだ」のふたつの感想を持った。最後に「携帯電話が必要なら自分で買いなさいシャーロック」と前置きして、二人に対し最重要案件を告知しにかかる。

「わたし、ひとりでポスティオにもどるわ。二週間もあなたたちの看病して疲れが溜まっているの。新婚旅行だから二人はもう暫くイチャイチャすればいいわ。わたし抜きでね。御邪魔虫のわたしはポスティオまでの帰路一人旅と洒落込みますよ。それに、そろそろ研究も再開しないと、だしね」

 二人からの反論はなかった。一週間のはずが二週間もかかったという後ろめたさに「研究」という大義名分まで持ち出されると、逆らえないのだ。元々ナミコを同行させたのは、時間の使い方が二人より上手なナミコに仕切らせることで有意義な新婚旅行をと――腹に一物あってのこと、後ろめたさがないといえば嘘になるからだろう。素直さだけは、評価できる二人だから。

 そして、その日の内にナミコはポスティオ方面へ向かう旅客船に乗り込んだ。シャーロックとクララの見送りを背中で受けて、狭いベッド付きシングルBクラスの手配した個室に荷物を置き、寝転がる。上は天井だが、ナミコにはその上の空が透けて見える気がした。どことなく感じるのだ。海の匂い。風の息吹。そして、雨の歌声――。

 ナミコは窓の外に目を向ける。感じた通り、雨は降っていた。静かに。儚く。

 ぱらぱらと窓に、船に打ち付けられる雨を見て、ナミコは呟く。あの名前を。

「ミコさん……」

 空を飛んでセフポリスを離れたミコがどこへ向かったのか、ナミコには想像もつかない。でもミコならきっと大丈夫、しくじったりはしないだろうと、ナミコは心の奥底で思う。

(きっと……きっと大丈夫。だってミコさんはわたしが仕えた人だから――)

 目を閉じ詞を心で念じ、うっすらと消える意識に身体を委ね、ナミコは眠りについた。

 それは、とても大切な思い出を心から大切にする者だけに訪れる、暖かな感謝だった。

 ナミコはそれを感じ、この上ない充足感に満たされつつ、死んだように眠るのだった。

 

 深く大きくただ広い、心空という名の楽園へと、その魂は向かうのであった――。

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