第8話 ふかふかのパンでみたしましょう
はじまり
その世界には、神様がいた。
神様は人間に問題を与えた。
「私達の大切なものを盗めたら、新たな神様にしてあげましょう」と。
人として知らぬ者のいないその問題に、多くの人間が挑んでいった。
だが、今まで誰一人、神様の場所に辿り着くことすらできなかった。
やがて人々が諦め、問題を知っていても無視するようになった時代。
一人の女の子が問題を解いてしまった。
しかも、神が一人死んでしまった。
人々も、神様も揺れた。割れた。驚いた。
なぜか――その女の子が事実を一切明かさずに姿をくらませたから。
出会った人々は納得し、神様は宣戦布告し去って行く。
多くを盗んだ女の子から、神様らしく取り返すために。
これは、それを知りつつ旅をする一人の女の子の物語。
わたしはキティ、キティ=ノイマン。
トランスフェイクの町一番の資産家であるノイマン家の一人娘。
とはいっても一人っ子じゃない。大事で愛しい兄様がいる。
ノイマン家は、父様に母様、そしてわたしと兄様の四人家族で成り立っていた。
その家族の中心にいたのは母様だった。母様は太陽のような人だった。花を愛して家の外の丘に花畑を作って、咲いた花で幼いわたしと兄様に花の冠を作ってくれたりして遊んでくれた。お見合いとはいえ父様が惚れきっているのも納得。それくらい母様は魅力的な女性だった。
でも……母様は死んだ。病の兆候も刺された傷もなく、ベッドの中で眠るように死んでいて、一度も目を開けてくれなかった。町医者は言った。「寿命ですな」と。
突然の別れ、10歳にも届かないわたしや兄様は当然のように涙を流し悲しんだが、それ以上に凄かったのが父様の嘆き方だった。生涯唯一愛し抜くと決めた妻が死ぬはずないとかなんとか言って母様の現実を受け入れていなかった。起きてくれ、俺をひとりにしないでくれと医者の制止を撥ね除けて、母の死体に縋る父様の姿は、見ていられないほどの無様さと怖さでわたしたちを部屋から遠ざけた。愛情の振り子とでもいうのか、それが狂気と偏愛で傾くと人間とはあんな一面を見せるのかと、わたしと兄様はおののいた。
医者はすごすご去って行った。それを見送ったあと、わたしは玄関口にへたり込んで泣いた。兄様の慰めを受ける中、わたしたちに声をかけてきた一団がいた。女性だらけで、楽器やら絵筆やら持っていた、通りすがりの芸術家たち。名を伝承楽団といった。
彼女たちは兄様から事情を聞くと医者でもわからなかった死因を答えてみせた。あっちの方を見てごらんと言って指差した先には花畑の丘があった。が、花はすべて枯れていた。伝承楽団が言うところによると、花と母様は運命を共にした……らしい。つまり、花畑の花々が植物特有の病気で全滅したとき、花を愛でていた母様にもその余波が及び、死なせたのだと。普通じゃありえないこと、だけどないわけじゃないケースとその人たちは結論付けると、わたしと兄様に自分達を父様のところ――母様のところに連れて行くよう頼んできた。事の仔細を説明したい、そして出来るなら死体を腐らないように処置したいと、その人たちはそう告げたのだ。母様の死体が腐って見るも耐えない姿になるのはわたしも兄様もイヤだったから、言われるままに彼女たちを家の中に入れた。
そこからがすごかった。母様の死体に縋り付く父様になにやら耳元で囁くと大の大人を軽くつまみ上げて遠ざけて、母様の死体になんらかの術みたいな「処置」を施した。よしできた、見てごらん、美し過ぎるお母さんを――とその人たちは告げて一歩引く。すかさず父様が這い寄り、わたしと兄様も近付いた。そして驚いた――。
芸術品のような色褪せることのない、神々しさに通じる美しさを「与えられた」母様の身体は、朽ちかけた部分も、不快な腐臭も消え失せて、本当に生きているかのように、本物の人形なんじゃないかと疑わせるように、その安らかな死に顔をわたしたち家族に魅せていた……。
その精巧すぎる出来は、あんなに現実逃避していた父様に母様の死を納得させるほどだった。まるで憑き物が落ちたかのように父様は反転し母様の死を認め、「母さんを天国へ送ってやろう。棺を母さんの大好きだった花でいっぱいに埋め尽くして一緒に……」と物腰の落ち着いた穏やかな顔でわたしと兄様に告げた。ようやくまともに戻った父様の提案、子供が逆らうわけにもいかないので、わたしと兄様は大人しく頷いた。父様は母様を死化粧してくれた伝承楽団の面々に礼を言い、「報酬」を渡して花を探しはじめた。わたしたち家族自慢の丘に咲く花畑は母様とともに死んでいるから、母様の死を彩る最高の花が必要になった――父様がパソコンで調べ出すと、この味酒の月、花の都ガデニアで開かれる祭のコンベンションで新種の花、リバムークが競りに出されるらしい。動画で見たその可憐な七変化をする不思議な花に、父様だけじゃなく、わたしも兄様も惚れ込んだ。父様は「これだ! これしかない!」と父様は声を張り上げ立ち上がり、母様に口添えた。「この花を必ず君に送るよ、ベアト……」――ところが。
ネットワークも駆使した全世界規模での競りの結果、父様はリバムークの種を落札することができなかった。それもこれも第一落札者のミス・ブラックナチュラルが町すら買える大金をはたいて種の大半をかっさらったから、父様にはリバムークの種が届かなかった。
その受け入れ難い現実が、とうとう父様を狂わせた。父様は母様の死骸が眠る部屋に閉じこもり、「ごめん、ゴメンよベアト……」と泣き詫びるばかりでわたしと兄様を放ったらかしにした。目もくれない。育児放棄というものだった。
それはわたしと兄様にとってはとんでもない危機だった。わたしと兄様は料理が全くできなかった。そう、ノイマン家では家事は11歳になるまで親だけがするものというルールがあったからだ。兄様もわたしも11歳はおろか10歳にも届かない。料理ができないのは当然の成り行きだった。しかも蓄え自体も少なかった。母様に死化粧を施した伝承楽団の面々に父様が渡した「報酬」とは、当分の食料だったから。
料理のできないわたしたち兄妹、少ない食料、家事のできる父様は育児放棄――言われるまでもなく絶体絶命だ。ここで兄様が立ち上がった。町に行って食料を買ってこようとしたのだ。わたしも行くと言ったのだけど、兄様は「ひとりで大丈夫だよ」と自信満々に出かけて行った。そして能天気に帰ってきた。なにせ食料は全くその手にはなく、代わりに花の種袋が握られていた。「どうしたの」とわたしが訊くと、兄様は町の路上で出会った親切なおじさんにまずパンを食べさせてもらった後、そのおじさんに言われたらしい。「要はクェンティン氏に花を渡して正気に戻せば問題は解決されるよ」とそのおじさんが持っていた花の種を買わされたのだとのこと。わたしは直感した、これは町一番の資産を持つノイマン家を狙った詐欺だと。
「そんなの持って行ったら父様は怒っちゃう。兄様、やめたほうがいいわ」わたしなりの忠告だったが、兄様は兄様で頑固というか、思い込みが激しいところがある。「大丈夫だよ、町の人を信じなきゃ」と軽い根拠で意気揚々と母様の部屋にいる父様のところに行き、散々殴られぼろぼろにされて帰ってきた。手を出されたことなど一度もないわたしたち兄妹が初めて目にした虐待だった。それでもわたしにとっては予想の範疇ではあった。町で売られている十把一絡げの花の種が、父様の高すぎる要求に応えられるわけがなかったのだ。初めての折檻を受けた兄様の姿は見るに耐えなかったが、肝心の兄様自身はまるで懲りていなかった。「別の花を探さないと」――暴力を振るわれたのに平然としてそんな詞を宣う兄様は健気で、一途で、何者にも変え難い愛しい兄様だったけど、思考が完全に狂っている。さすが父様の息子と思ったものだ。わたしもその父様の娘なのだが。
正気を失い、狂気とか浅間の幻想に走る父様。
そんな父様を元に戻そうとする、愚直な兄様。
そんな家族を冷めた視線で観察する、わたし。
三者三様の家族模様。もうまとまることはなく、各々が勝手に家の中で詞も交わさずに動かなくなる――そりゃそうだ。おなかが空いては動けない。
わたしは(家族に関しては)もうダメだと決めつけていたので早い段階から自分の部屋に引きこもり、余計な体力を使わないようベッドで横になっていた。病人ではないけど、同じようなものだろう。そしてとうとう空腹のあまり、寝返りも打てない状態にまで追い込まれた。安静にしているはずなのに、息が荒い。私の部屋に備え付けのテラスの外、庭でのうのうと佇んでいる小鳥の群れが憎く感じた。これで終わりか。母様のところに行ってしまうのかと、死への恐怖も通り越した諦めの境地に達したわたしは、ただベッドに横たわりながらテラスが見せる庭を見ていた。そしたら……とんでもないことが起こった。
突如として小鳥の群れの頭上から大量の桜の花びらが落ちてきたのだ。飛び逃げることもできず、花びらに埋もれる小鳥たち。その後もどんどん桜の花びらは落ちてきて、終いには桜の木一本分くらいの花びらの山がわたしの部屋の、テラスの向こうの庭に出来上がっていた。
が、一番びっくりしたのはそこじゃない。その桜の花びらの山の中から人間ひとりが飛び出してきたのだ。見てみると妙齢の女性……いや、年頃の少女にも見える年齢の伺えない身体の少女、虹をあてがっているのだろう、白を基調に虹の七色をあてがった色鮮やかな服を着ている一方で、何よりも異様なのがその頭に被っている真っ黒で、魔女っぽくて、チャックのついた黒い帽子。それこそがその女性のトレードマークだった。
女性は花びらの山から顔を出して息を吸うと、中をもぞもぞ漁り、埋もれた小鳥たちを引っぱり上げていた。自由になった小鳥たちはなぜか逃げることをせず、その女性の肩や黒い帽子のつばに停まったりと、なぜか女性から離れなかった。懐いている?――ということなのだろうか。そんな小鳥たちとじゃれついていたその女性とずっとその一部始終を見ていたわたしの目が合った。時計の針が動かない、一瞬の出来事。でもその女性はなにやら勝手に察した様子で小鳥たちを空へと帰すと奇妙なアクションを起こした。被っていた黒い帽子のチャックを開けたのだが、その途端、その女性を取り囲んで埋めていた桜の花びらがまるで口に飲み込まれる水のようにチャックを開いたことで開いた「口」に吸い込まれていったのだ。そして桜の花びらはひとつも残さず黒い帽子の中へと消えた。
「よっころしょっと……」その女性はそう呟くと腰を持ち上げ起き上がり、改めてその整った美貌と異様さをわたしに見せつけると、こっちに向かってきた。途中のテラス? いとも簡単に開けられた。そうして女性はわたしの部屋の中に入ってきて、横たわって顔も動かせないわたしの直ぐそばにまでやってくると、シーツに隠してあった手を探し出しぎゅっと握ってこう言ったのだ。
「可哀想に。おなかが空いて動けないのね。勝手だけど台所借りるわね。いまお姉さんがふかふかのパンを焼いてきてあげるから。お腹いっぱいになるパンを」
それがわたし、キティ=ノイマンと頼りになるちょっと変な旅人さん、ミコ=R=フローレセンス姉様との出会いだった……。
キティに前述の詞を告げると女性はさっさと部屋の中のドアを開けて、ノイマン家の中に消えた。キティは広いノイマン家屋敷の台所をちゃんとあの女性が見つけられるのかが疑問だったが、一時間ほどしてくるとなにやら芳しい匂いが開けっ放しのドアから嗅ぎ取れた。そしてしばらく経った後、その女性はカゴにパンを山積みにして、キティのところに帰ってきたのだ。香ばしい匂いに、焼き加減も見事なそのパンたちを目の当たりにして、空腹で動けなかったキティの身体がベッドから起き上がった。食べるために。食べたいと思ったから。女性がすぐ傍の机にカゴをおいてキティの起き上がり動作を補佐してくれたこともあり、キティの身体はベッドに座るかたちに落ち着く。そこから一瞬、間を置かずに女性はカゴの中からキティの口に合いそうな大きさのパンを選ぶとキティに渡す――のではなく、「はい、口開けて。あーん♪」と食べさせてあげる旨を表明したのだ。さすがに8歳にもなって「あーん」は恥ずかしかったが、家族の誰も見てないことと、空腹で起き上がるのにも苦労したことを鑑みたキティは甘んじてその提案を受け入れた。
「あーん」小さい口をめいいっぱい大きく開けて待つキティに、女性はパンをひとつまみ千切るとそっと、静かにパンを摘んでいた指ごとキティの口の中に入れた。キティの唇と女性の指が触れ合い、キティの舌がパンと一緒に女性の指を舐める。一見すると食べているのは女性の指?――と勘違いしてしまいそうな艶かしさ。でもそれはパンを食べるために避けては通れなかった通過儀礼に過ぎない。キティの舌がパンの千切られた断面から露になった柔らかい中身と舌が触れ、焼きたてふわふわの食感をキティに伝えると、キティはいよいよ顎を閉めて歯で押し込まれたパンを咀嚼し始めようとする。それを察知した女性はキティの口に突っ込んでいた指をこれまた静かに引き出した。キティの涎で塗りたくられた女性の指が見えたことで、キティは遠慮なく口の中に入れられたパンを噛んで、舐めて、咀嚼した。指についたキティの涎を舐めながら見守る女性の目の前で、ごっくん、一切れ食べきったキティの目から熱いものが零れてきた。おいしい。食べたい。うれしい。 食べた瞬間感じたいろんな気持ちがそれこそパンのように練り込まれて、涙として目からぽろぽろ溢れ出す。なにもつけてないシンプルなパンだったけど、本当の空腹時に食べるとこんなにもおいしいのかと初めて知ったキティは泣かずにはいられなかった。それは決してパンのおいしさ、パンを食べられたことだけじゃない。パンを作って食べさせてくれた目の前の女性の優しさがとても嬉しかったこともあるんだと、8歳のキティにもわかっていた。改めて目の前の女性を見る。精緻な顔立ちに落ちてきたときの桜の花びらと同じ、桜色の髪――。
「おいしい……あの、お名前……」
「おいしい? じゃあたくさん食べて頂戴! ジャムもあるわよ。ほら!」
キティは無意識にパンへの食欲と女性の名前を知りたい欲からくる詞をごちゃまぜにして口に出していた。ベ、別に一挙両得を狙ったとかそんなわけじゃないのだけれど詞にしてしまった時点でキティは恥ずかしさのあまり真っ赤に赤面してしまった。
でも目の前の女性はキティのそんなところも抱きしめるように受け止めて、満開の笑顔で喜び、次のパンを手に取った。名前を聞くのは失敗か――キティがそう思いかけたとき、不意に疑問が頭をよぎる。ジャムもあるよと女性は言ったが、机の上にはジャムがなかったのだ。
「あのう、ジャムあるよって、言ってましたよね……?」
「ん? ああジャムね。あるわよ、この中にとびっきりおいしいやつが!」
そう言って女性が指差すならぬパンで指し示したのは、部屋の中なのに被っている真っ黒な帽子のブリムとクラウンの境目についていたチャックだった。いきなりそのチャック、手も使ってないのに自動で開いたかと思いきや、中から黒い腕が一本上へと飛び出してきたのだ。あまりのことにびっくりするキティだが、よくよく観察してみるとその黒い腕、先っぽの黒い手の部分にジャム瓶が握られていたのである。黒い手は登場こそセンセーショナルだったが、その後はジャム瓶をそっと置くなどまるで裏方のように静かに動き、役目を終えて開かれたチャックの口の中へと戻っていった。なるほどジャムはあった。でもこの人何者? 疑問が解決されたと思いきや、キティの頭には新たな疑問が浮かんでしまう。
と、ここで当事者たる女性が説明してくれた。そして名乗ってもくれたのだ。
「驚かせちゃってごめんね。この帽子、影の秘術で自分の影を糸にして作った影帽子なの。だから黒いのよ。で、あんな便利道具もしまっているわけ。わたしの名前はミコ=R=フローレセンスよ。よろしくね。で、可愛いめんこいお嬢さん、あなたのお名前はなんていうの?」
「あ……」
キティはそう指摘されて初めて自分も名乗っていなかったことに気付く。町の名家であるノイマン家の令嬢としてなんて失態……大いに反省した。
なので、パンを食べさせてくれた――助けてくれたお礼の意味も込めて、幼い令嬢はこう自己紹介したのだ。
「わたしはノイマン家の一人娘、キティ=ノイマンです。どうぞ御見知り置き下さい。ミコ姉様。助けてくれてありがとう」
姉様という最大限の敬称をもって。キティとミコはようやく自分たちを紹介しあったのだ。それは同時に疑問解消の訪れを告げる。キティは身を乗り出して、カゴの中の、ミコが作ってくれたパンに手を伸ばした。すぐに食べることはせず、ミコが勧めるジャムを塗ってみる。ミコ曰く、これは美食の町イレ・アイエの然るべきジャム専門店で手に入れた逸品だという。ミコの勧めでたっぷり贅沢に塗り付けてあーんと頬張ると、目の前の景色が変わるような刺激が全身を駆け巡った。その刺激に病み付きになり、何度も何度もよく噛んで味わう。ミコの言う通り、美食の町で入手した一級品の味は最高だった。これまで両親の作ってくれる料理しか知らなかったキティ。両親も食材にこだわる方だったけど、これに比べたら評価は下だろう。自分の人生というものが、井の中の蛙であったことを今思い知らされた。大海の幸はこんなにも開けて、多種多様だったのかと。
「姉様、他の種類のジャムはないの?」
「もちろんあるわ。何味がいい?」
わがままともとれるキティの頼みに嫌な顔ひとつ見せることなく、ミコはまた影帽子のチャックを開けて黒い腕・手に色々なジャム瓶やバター、マーガリンに至るまで握らせて取り出し所狭しと机の上、パンが詰っているカゴの周りに色鮮やかに配置すると、「これは大人向けで……」と味の説明やらトッピングのコツやら色々語って教えてくれた。キティはそれを全て聞き留め自分で取捨選択し、美食暴食空腹廃絶主義に基づき、とにかく食べに食べまくった。その健啖ぶりはもう名家の令嬢から完全に遠ざかっていたが、キティ当人はそんなこと気にも留めていなかった。おなかの空いた状況の中では名家のお嬢様だろうと神様だろうと無力で非力な生命である。そこに食が提供されれば貪りつくのが本能であり、義務であり、使命なのだ。当然の使命に基づき、キティはミコが作ってくれたパンをがむしゃらに、かつありがたくいただいていた。
そんな様子を微笑ましく見守りながら、ミコもまた自作のパンを手に取り、自分の説明を実演するように、キティにお手本を見せるようにパンを食す。そのときキティはハッと気付く。そうか、姉様もおなかを空かせていたんだ――自分のことばかりで気付かなかったことを恥じたキティはそれまでの一人食べにカポンと蓋をし、ミコとの会食モードに切り替えた。「姉様、もっとこっち来て」とミコの座っていた椅子を引っぱってベッドに座る自分の隣、脈の音が聞こえるくらいに近い距離にまでミコを動かし、横に並び座ると、キティとミコはお互いの顔を見つめ合い、どこからともなく笑顔になった。そしてまた食べ始める。今度は適度に会話をしながらお互いの食べるものをトッピングして差し出し合いながらと、それはまさに会食、小さなパーティだった。母であるベアトリクスの死の一件以来、塞ぎがちだったキティは気持ちが段々と軽くなっていくのを実感していた。それは母の死やこの家でしかありえない「飢え」というちょっと特殊な極限状況で追い詰められていたキティを助けてくれたミコ。そのありがたさは「姉様」という愛称だけでは量れるものではない大恩である。でも同時に、ミコが助けてくれたのは上に関する一件だけで、母の死に関すること家族問題に関してどういえばいいのかという不安がキティの胸を締め付け始めていた。ひょっとしたらこれでお終いになっちゃうのかも――その可能性が否定できなくて、怖くて、絶対に受け入れられなかったのだ。今ミコと離れるのはイヤだと、キティははっきり認識していたから。
するとミコの暖かい手がポンとキティの頭にポンと載せられ、優しく頭を撫でられる。
ハッとしてキティがミコの顔を見上げると、ミコは変わらぬ微笑みを称えたまま、「言わなくていいの。大体察しはついているから」と、今のノイマン家に起こっている事情さえも知っているかのような素振りを見せたのだった。
「知って……るんですか、ミコ姉様」
「観察しただけよ。でも伝承楽団が芸術したあとの残り滓を感じたから、相当の事情があるって直感したの。あの伝承楽団が『芸術』を残すなんて、相当なことなのよ? あいつら流浪の民だから、会うこと自体難しいの。しかも他者のサーチには絶対引っかからない、会えただけで自慢できるレア集団なのよ。わたしも会えたのは一度だけだし」
ほえ〜――キティはあの女性芸術家たちがそんなにも稀少な存在だったのかと、今になって思い知るが、その価値を知ったところで悶々したりしないし、他人に自慢することもない。だってあったとき初めて聞いた「伝承楽団」の名、きっと町の人に説明してもわからないだろうと思ったから。あの人たちには母様の死体の腐敗を停めてくれた感謝しかない――キティはミコとの会話を続ける。
「そうだったんですか。すごかったんですよ、伝承楽団の方々。もう腐敗が始まりかけていた母様の死体に死化粧を施して父様に死を受け入れさせてしまうほどの芸術品に変えてしまったんです」
「やっぱりそういうことだったのね。死化粧に使う絵の具や化粧品の匂いがしたからそんなことだろうとは思っていたけど……さぞかし辛かったでしょうね、キティ」
そう告げるとミコは素早くパンをひと千切りしてキティの口に突っ込むと、その手をキティの頭に回し、隣に座っていたキティの頭を自分の胸に引寄せ抱きしめた。突然パンを押し込められ、詞を発せなくなったキティはもがもがと動こうとすることで事態の打開を図ったが、ミコはそんなキティを胸と腕でぎゅっと抱きしめ、「辛かったでしょう」との詞を発して抱きしめ続けたのだ。その瞬間キティはミコが同情だけじゃない、母という大きな存在を失った悲しみやなんでという気持ちも理解して受け止めてくれていることに気付いた。ミコがキティの頭を抱きしめる腕の力は強く、でも支えになっている胸の方は小刻みに震えていた。そして微かに聞こえた「……うっ、うっ」という嗚咽。ミコは我が事のようにベアトリクス――キティの母の死を悼み、それを目の当たりにしたキティを力強く、でも精一杯の優しさで包み込んでくれていたのだ。とく……とくとミコの鼓動がキティの耳に入り、染み渡っていく。同情でも慰めでもない。キティの思いに共感したミコがしていること――それにつけるべき詞などなく、動機なんてないのだろう。だがミコの溢れんばかりの暖かい想いがあらゆる感覚を通してキティに伝わってくる。いつの間にか銜えさせられたパンは飲み込んでしまっていたキティ。口の中に空気が通り、声を出せるようになったとき、キティの心の箍が外れた。自分もミコの背中に両腕を回しきつく手を結びミコから決して離れないように抱きついて、抱きついて……泣き出した。
「ねえさまぁ〜、うっ、ううう〜。母様が、かあさまが〜」
「うん、そうねキティ。あなたのお母様は死んじゃった。信じられなかったでしょうね、辛かったでしょうね。わたしにはこんなことしかできないけど、あなたの涙は全部わたしが受け止めるから」
「姉様〜!」
キティは泣いた。子供だけに子供らしく、子供のようにわんわん泣いた。抱えられている頭を自分からミコの胸に押し付け、涙を流して慟哭する。自分を抱きしめ包んでくれるミコの身体を離すまいと、必死に縋り付きながら。
あの日、医者が去った後玄関口でもキティは泣き、兄に慰められたけど、本当に兄に求めていたのはそういうことではなかった。そう、キティは今ミコにしてもらっているように自分の悲しみも涙も泣き声も全部受け止めてほしかったのだ。その点をミコはよくわかっていたのだろう。最初の嗚咽を最後に、じっと黙って泣き喚くキティをただただ必死に、離さないように抱きしめていた。キティはミコの行為が本当に嬉しくて、だから全力でその胸に甘えた。胸の奥から聞こえるミコの心臓の鼓動が、悲嘆に暮れていたキティの身体と心にささやかな安らぎをもたらしてくれる。それが薬かはたまた癒しなのかは8歳のキティにはわからなかったが、ともかく、ミコのおかげで心に溜め込んでいたやり場のない気持ちを解放することができた。泣き続けるのも疲れるもの。時間が過ぎ、心が落ち着いてきたキティは今までミコの胸にしか向けていたなかった目を頭ごと上げて、ミコの顔を見上げ目と目を会わせる。ミコもキティの意図を察したようで簡潔なフレーズで訊いてきた。
「もういいの?」柔らかに被せるようにかけられる詞。暖かすぎる詞だった。
「うん。もう大丈夫よ、ミコ姉様」
キティは気丈に答えたが、その声はちょっと震えていた。実際、まだまだ甘えていた気持ちが心の奥底にある。でもそれじゃ、母様に縋ってわたしたちを省みなくなった今の父様と同じになっちゃう――キティは持ち前の冷静な視点で自分を、家族の現状を見返してミコの抱擁から離れる決心をしたのだ。離れる最中、名残惜しさを醸し出しながらも、キティはミコの腕から抜け出し、元の位置へと戻っていった。一部始終を見届けたミコはまたパンを一切れとって、それを千切って半分ずつ、キティと分け合って食べる。キティもそれに応えるように、涙の痕も拭わずに「えへへ」と泣いた後の笑顔を魅せて渡されたパンを頬張った。これが最後の食事になるだろう――その確信がキティにはあった。
というより、キティがこれを最後にしてしまえばいいだけの話なのだ。先の確信とは確信犯として行動するキティ自身の意思へのものだったのだ。
「おいしい……」ジャムもなんのトッピングもないパンを噛みながら、キティは焼きたてもちもちとしたミコのパンの食感を最後と噛みしめ食していた。なにもつけてはいないけど、ミコの胸の中で泣きまくって気持ちがスッキリしたせいか、今まで食したどのパンのパターンよりその味は食べ応えがあるものだった。最後のパン……キティはよくよく噛みしめ味わって、そのパンを胃に放り込んだ。そしてミコの方に振り向き、目を瞑って両手を合わせ、感謝の詞を贈る。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「?」キティは自分の「ごちそうさまでした」に全く同時に重なるようにミコの「ごちそうさまでした」を聞いた。あっ……目を開けてみると、ミコもまた同じタイミングで食べ終わっており、キティの方を向いて食事の終了を告げる挨拶である「ごちそうさまでした」を合掌し、目を瞑って呟いていたのだ。そしてどうやらミコも気付いたらしい、おそるおそる瞼をゆっくりぴくぴくと震わせながら開けると、真正面に全く同じ所作をしているキティの姿を認識したようだった。互いを見つめ合う二人。硬直し固まった二人。どこからともなく、やっぱり同時に微笑み笑い出す二人。ここまで息がピッタリの自分たちがおかしくなってしまったのだ。こうしてキティの空腹危機とミコの登場から始まった波瀾万丈の食事は終わった。
食事が終わってひと呼吸置いた二人は、またしても全く同時に「あの」と会話を切り出そうとした声をハモらせた。ここまでくると以心伝心を通り越して一心同体の間柄と自慢したくなっちゃうキティだったが、さすがに会話をする順番で重なったのはバツが悪い。
しかしキティは町一番の名家ノイマン家の令嬢。こういう場合は自分からおもてなしするのが礼儀作法と知っている。なので、詞に詰ってしまったミコを本気で労うべく、おもてなしの心を伝える。
「ミコ姉様、わたしたちはもう一線を越えた仲。禁断の仲とも言える間柄になりましたわ。だから会話の切り出しもごちそうさまも全て同時になってしまったのです。わたしと姉様は『リンク』してしまったのです。それでもここはわたしから話をさせていただけませんか。まずは我が家がこうなり姉様に多大な心配をおかけした経緯、キティの口から話させてくださいませ。舌っ足らずで詞足らずなわたしの説明など姉様の観察力には到底及ばないとわかっています。しかしここで起きたこと、見たこと聞いたこと感じたことをわたしはお伝えしたいのです。ですからどうか、わたしに先を譲っていただけないでしょうか」
神妙に頭を下げるキティ。一連の動作は洗練され、詞は輝きにも似た幻想を魅せていた。そしてそれを無下にするほど、ミコという人間は無粋ではないようだ。柔らかく、暖かい手で下を向いていたキティの頭を丁寧に撫でると、「わかったわ、キティ。小さなレディの御提案、謹んで受けさせてもらいますわ」と了承の返事をくれたのだった。礼儀と誠意が通じる――そんな簡単なことがとても心地よかった。
ミコの同意のもと、キティはおもてなしを始めた。ことの始まり。母様の死。伝承楽団との邂逅。伝承楽団が施した処置。父様がその死を認め棺に贈ろうとリバムークに目を付け、ものの見事に打ちのめされた暗転の兆し、そしてキティが予測した通り、母様の死体に縋る父様、そんな父様を元に戻そうと子供ながらに愚直なまでに奮闘するが、肝心のネジが外れている、思考の歯車がズレている兄様、そんな二人に愛想をつかして自分は自失のベッドに寝転んで、飢えに耐えていたことを――包み隠さず、身振り手振りに適度な休憩も交えながら、1から24まで全部語った。語り終わった後の心が抱いた感想は、『よく生きてたわ、わたし』という、自分の運への感心だった。今日ミコにこうして出会えなかったら、そもそもパンを作ってもらえなかったら、明日には瞼を閉じたまま、永遠に眠っていただろうから。
さてさて自分の話が終わるとそれが如何な出来だったのか気になるのがそれなりの家の子供の年頃特有の習性である。一切合切を喋り終わったキティはミコの顔色を伺う。すると……。
なぜか「あー」と目を瞑って身体ごと仰け反っているミコの珍妙なリアクションを目撃した。両手は前に突き出して「もうやめてー」と訴えてる。確かに聞くに耐えない話だろうけど、そんなにミコにとっては毒だったのだろうか?――キティの心に不安がよぎる。
「どきどきはらはら……終わった? キティ」戦々恐々――ひどく緊張した声色でミコは目をうっすらと開けながら訊いてくる。それがキティのおもてなしに対するミコの第一声だった。キティが「はい、終わりましたわ姉様」と答えるとミコはようやく張りつめた緊張の糸をほぐし、あの意外な(実をいうとキティはちょっと面白いとも思っていた)ポーズをやめて、胸に手をあてひと呼吸した。
ようやく安心した――って御様子。見本お手本そのものだった。
「どうしたんです、姉様? わたしが話している最中、ずーっと挙動不審になっちゃって」
キティの率直な感想。幼さゆえに、無邪気がゆえに残酷だったかもしれないその詞を受け取ったミコは、「いやね……」と手をヒラヒラさせてまで前置きして返事を返し始めた。
「わたしがここに来たのって、ほら……空から桜の花びらと一緒に落ちてきたでしょう?」
「あーそういえば! そうでしたわ」
「あれ桜島に一本しかない桜の心樹が魔法でわたしのために作ってくれた花道だったのよ。空に架かったね。このリバムーク・プロトタイプの種を植えるにふさわしい場所を導いてくれるって言われて昼夜空を歩くことえーと……10日か半月か、それでここ(目的地)に来て花道は御役御免で崩壊し、キティとわたしの出会いのあのシーンに繋がるの。だからなんかさー、ものすごい整合性っていうか、運命の悪戯というか、現実のご都合主義がわたしへの当てつけをかましたのかってくらいに聞こえちゃったのよ。実をいうとわたし、ガデニア盛花祭でのリバムークの競売の現場にもいたし……寝てたけど」
「な……なん、ですと……」ミコの返事を聞いて、今度はキティが固まった。全身小刻みに震えながらではあるが、目立った行動は封じられる。行動と硬直における質と量の等式に従って。ミコの返事を聞いて、その内容に心臓が停まりそうになりそうで。でもいつもより早く脈打ってもいそうなのだ。キティはそれほどの衝撃をミコの返答から受けていた。
「リバムーク……プロトタイプって」
「新種の花が完成するまでの開発過程で生まれた『要求品質を満たせず失敗作と見なされた花達』のこと。つまりはリバムークの数世代前の親戚だと考えて貰えればいいわ。ほら、この箱この袋にある」
ミコはそう言って影帽子のがま口チャックを開けると黒い舌に載せてひとつの黒い箱を取り出した。上下に波打つ黒い舌が先っぽに乗っけているのは同じく黒い箱、ミコがその箱を手に取ると、黒い舌はちゅるんと引っ込む。キティはそれを見て驚かずにはいられなかったが、同時に平静を心掛けてもいた。このミコ=R=フローレセンスという人物に関しては、きっとやることなすことみせること全部びっくりさせられるのだろうから。それくらい大量の「引き出し」を持っているだろうということは、ミコが大事そうにしている影帽子を見ていてなんとなく感じていたキティである。
さてミコは黒い舌に手元まで運ばせた黒い箱を膝枕に寝かせて蓋を丁寧に撫でる。さすがにその箱、唾液塗れなんてことはなく、誇りひとつついてないような黒の神々しさを放っている。そしてミコがその蓋を開けると、中には花一束覆えそうな折り方をされた上質な絹の布と二重に薬包紙で包まれつつもなおそのふくらみ、隠しきれない青の色合いでもってその存在感を称えた種子と思しきものを包んだ薬包紙袋。ふたつの包みものが目に入ってきた。
「これが……リバムーク・プロトタイプですか、姉様」
「そう、瑠璃色の種が19個にこっちの絹の布には人工授粉に使った親花たるリバムーク・プロトタイプと種付けに使った万能受精花キャッシャーを包んでいたの。ほら」
そういってミコが膝の上で布と薬包紙の袋を丁寧に、閉じた蕾の花びらをめくるように開いていく。すると確かに、絹の布には結果を残して本懐を遂げた2種類の親花の姿が、薬包紙の折曲げられた谷間の底には重力に従い溜まって小さな山を作っている少量の結果こと種の山が、それぞれ姿を現したのだ。親花の状態の良さにも関心を寄せたキティだったが、やはりなにより食指を動かされたのは、青色の宝石・ラピスラズリのような深く純度の高い青を身に纏ったリバムーク・プロトタイプの種達の方だった。先程ミコが偶然とか現実のご都合主義とかについて語っていたが、キティもこの現実には「機会仕掛けの神」の存在を疑ってしまう。こんなにも一気に都合よく、物事は展開するものなのか……。
ミコの返事は中途半端だったが、一連の所作も合わせてキティはミコの目的に察しがついた。なので、ここで会話を切り上げ、行動に移ることを提案した。
「姉様、兄様を探しましょう。兄様は先程話した通り父様に然るべき花を贈れば善いと思ってます。通りすがりの詐欺師に騙されて渡された花じゃ案の定だったけど……姉様の持っているリバムーク・プロトタイプなら、きっと。姉様もそのつもりなのでしょう?」
訊くまでもないことだが、敢えて口に出す社交辞令。詞のボールを投げられたミコは満面の笑みで受け取り、ボールを投げ返してくる。
「もちろんよ。わたしは物わかりの良さが美点かつ欠点でね。その手のエピソードには事欠かないわよ。キティ、わたしがここに来たのはきっとあなたとアイズの兄妹にこの種を託すためだった――今はっきりとそう言える。だからねキティ、遠慮なんかしないでもっともっとわたしを引っぱって、引きずり回して、翻弄して。それこそ長い旅路の中、今のわたしが求めていたものよ。間違いないわ!」
ミコの暖かく強い想いのこもった返事に家族問題を諦めきっていたキティの心にも火が灯る。不貞寝で枯れかけていた身体と心。身体はミコのパンで満たされ、心もまたミコの詞で熱く迸る。そこまできてキティはようやく「ある事実」に気付く。
それは、自分がもう何日も同じ寝間着を着用して不貞寝している間に汗をかき、汗臭くなっていることだった――。
その事実に気付いたキティは顔面蒼白青ざめて、内心激しく自分を責め立てた。仮にもノイマン家のレディがあられもない姿を他人に晒してしまうとは……然るべき階級の家の礼儀作法でも『厳禁』に値する項目、『然るべき家の者は、決して初対面の人間に不快を与えるような姿を見せる事なかれ』に抵触してしまった。数日寝続けた間にかいた汗で透けてしまった白の寝間着に、その汗が発する不快臭が極めつけだった。こんなにもみっともない格好でよくミコに甘えられたな泣きつけたなとキティはお嬢様特有の悶絶タイムに突入する。両手で頭を抱え振り回し、「あ〜ぎ〜ゔ〜」と唸り声を上げる。それをミコの目の前でしていることが、ますます自分を(自分で)貶めているとこに気付かないのが、まだ8歳のキティの限界であり、同時に愛すべき子供らしさでもあった。
それをわかっていたのだろう。ミコは突然取り乱したキティを手元に抱き寄せる。キティは「姉様ダメ! 今のわたしは」と抵抗しようとするが、ミコは即座に「姉様なら身内、家族特例じゃなくて、キティ?」とキティに返す。その詞を聞いて、キティのじたばたはピタリと止んだ。ミコの指摘を受けて思い返し、考える。
(わたしは生命を救ってくれたこの方を姉様と呼んだ。それは最大級の尊称を贈ると同時に姉様を家族同然として見たかったからってこと?)
思い当たれば……フシもある。
「じゃあ姉様はわたしにとって実質家族みたいなものだから礼儀作法の『厳禁』には当たらないということですか?」
「そういうこと」
「いい案ですけど……こじつけですね」
ミコの提案に傾きつつもそれをこじつけと正鵠を射た発言も忘れないキティ。抱きしめているミコは抱きとめたまま、しばらく黙る。それは自分が選択することよ――ミコの声無き声がキティには聞こえたような気がした。沈黙の閑話休題、キティは決めた。
こじつけを用いる女狐になることで、自分を許す、すなわち甘やかすことを――。
そうと決めたらスタートダッシュ。キティの行動は速かった。
「そうです。姉様は家族も同然なのですから、みっともないとこを見せたっていいのです。では姉様、兄様のところへ行く前にわたしの着替えを手伝ってほしいのです」
「ええ、わたしの可愛いキティ。家族同然の子の着替えを手伝うのは人類の使命。謹んで承らせてもらうわ。着替えの下着と服、あと汗を拭くタオルがあるのは……あのワードローブの中かしら?」
「うん。姉様お願い、取ってきて。中は自由に見ていいし、下着も服も姉様の見立てで構わないから。わたし、ずっと寝てたせいか、ちょっと身体が……」
「わかるわよ。わたしも経験してるもの。身体が寝ちゃったり痺れたりして動かなくなること、あるよね。じゃあ、行ってきます」
先程までとは打って変わり、キティは自分に甘くなり、ミコにも露骨に甘え出した。その変貌ぶりを他人が見たら「女狐」と納得するのだろうが、ミコは嫌な顔ひとつせず、部屋の反対側にあるワードローブ――洋服箪笥へと赴き、キティの服装一式を見繕いだした。
間もなくミコは両手に服と下着とタオルをまるで仕立屋の店員のように綺麗に折り畳んで重ね、キティの待つベッドへと帰ってきた。一番下の腕にガーデニングドレス、真ん中に大きなタオルが2枚、そして一番上には、少女を少女たらしめる白い絹と紫の糸による小さな下着一式を重ね、そして抱えて。
キティに恥ずかしいなどという気持ちはもうない。あのこじつけ論理に身を任せたことで心が軽くなったから――違う。あのこじつけがきっかけでミコという女性をより近くに、より親しく、より心許せる『姉様』へと昇華させられたからだ。もう厳禁の罰も怖いとは思わない。そんなものこっちから吹っ飛ばしてやるとキティは意気込む。そしてミコがキティの隣のベッドの上に持って来たもの一式を置き、食べるときにも使っていた椅子に座り、向きを変えてキティの真正面に構える。そして平然とこう宣うのだ。
「じゃ、脱がすの手伝うわね、キティ」
「うん姉様。やさしくしてね。わたしは後ろ髪まとめとくから」
そう言ってキティは目を瞑って肩にかかる長さのオレンジ色の髪の毛を纏めると、ミコはキティの着ている寝間着のズボン部分に手を掛けて慣れた手つきで脱がしだす。寝間着を掴んだ手は太腿からお尻を通過し、上半身へと向かうにつれて露になっていくキティの素肌。そしてミコの手が上半身をなぞるように持ち上げられていくと、髪を纏めていたキティの両腕もまた持ち上がり、首と肩の高さで脱げてないのはネックラインと両腕の袖だけ。小さな鎖骨に心臓に直に触れられそうな胸と、上半身もほぼ全てが丸見えになっていた。
そして、そこで脱がせているミコがキティに声をかける。
「はいキティ、これからネックラインと袖を脱がすから、髪の毛、ちゃんと頭にくっつけといてね」
「うん、姉様……」キティは静かに頷き手で掴んだ後ろ髪を逆立たせ、がっちり頭に固定する。ミコはその隙を逃さす素早く、でも細心の注意を払って寝間着を引っぱった。そしてとうとうキティが着ていた寝間着はキティの身体からすっぽり脱げ取れ、ミコの手元にはらりと落ちた。懸念していた後ろの長髪も脱がすときにネックラインを当てて上へと梳くように動かすことで一本の抜け毛被害も被ることなく綺麗に脱がせることができた。
残るはパンツ一枚だけ。ミコは裏返った寝間着を表に戻してわざわざブティック畳みにして床に置くと、怪しさ半分優しさ半分の手つきでそのまま座っているキティの腰に指をかけ、するするっとパンツを足先へと脱がして運び、そして『時間』をかけて足先からパンツを取り上げた。上(寝間着)も下(パンツ)も、一連の動作には澱みが無く、非常に洗練された動きで取ってみせたミコ。その手つきの鮮やかさに全裸となったキティは恥ずかしがるよりも前に、「姉様素敵……」と感心するのであった。
「これも女の嗜みね。じゃあ拭いてあげるから、もうちょっと近寄って」
「はい」
ベッドのシーツの上でキティがしゃがんだ体勢のまま、両手を前に突き自分の身体をずずずっと押し出しミコに近寄る。タオルを手にするミコとの距離は、もうお互いの吐息、心音が聞こえそうなまでに近付いていた。またその胸に甘えたい衝動を懸命に抑えるキティ。もう意識は熱さで朦朧としていた。少女はその熱さの本当の出所も知らぬまま、汗に覆われた裸体を晒す。そこにミコがタオルを当てた。上から下へ――最初に汗を拭ったのは顔と首周り。ぷにっとしてもちもち柔らかい少女の肌を傷つけないよう、触れるか触れないかとは言い過ぎだが、タオルを押し付ける感触を極力避け、被せるように、包み込むように顔と首周りを覆ってから、一気刹那に汗を拭う。やらせている側のキティからして見ると最初こそ非常に手抜きに見えたのだが、ミコの被せ方は絶妙で、タオルを押し付けるのではなく必要十分なだけ触れさせることで見事に額や鼻、頬や首もとの汗を拭い取っていた。とはいえそれもここまで、皮膚が繊細な部位だけの話。残り首から下の部位を拭くにあたって、ミコはタオルを片手持ちに変えた。それは片手でキティの身体に触れて支えるという意思表示。キティは抵抗なんてしない。だって気持ちがいいから。
ミコの左手が先にタオルで拭いていたキティの右肩に添えられる。それを起点としてミコは椅子から立ち上がってキティの腕、肩、背中、胸を拭き始めた。虚ろな瞳、熱い吐息、零れる嬌声。蕩けるような濃密な時間が、キティとミコの間で織り交ぜられていく。
「はい、上半身終了。それじゃ下拭くから、ちょっと横になって」
ミコの詞に逆らうこともせず、シーツを波立たせて片手を枕に、ごろり横になるキティ。半身に寝転んでまずこっちに身体の前を向けてきた少女の甘酸っぱい肢体を、ミコは丁寧に拭き取っていく。まずタオルを左手持ちに変え、右手で右半身を持ち上げこちらに向けているキティの腰を支えてから、腿から足首まで、表裏と右足を舐めるように拭いていく。外側が拭き終わるとミコはまたタオルの持ち手を移し、左手でキティの右足首を持ち上げて股下からの右足内側にもタオルを滑らかに滑らせる。作業途中キティの甘い嬌声が何度も発せられた。それは幼い少女が感じる、秘められた女性の可能性をミコに掘り当てられたことへの反射だろう。ミコはそんなキティの反応に「それでいいのよ」と囁くと、今度は寝返るよう指示して自分の正面にキティの背を向けさせた。ミコの姿が見えなくなったキティはすぐにミコがまた半身になって上に変わった残る左足を拭いてくれるものと思っていたが、ミコはまずキティの背中を指でなぞったのだ。タオルではない、ミコ自身の指で。触られた途端キティの身体はビクッと波打ち背中を丸めて縮こまる。それはまるで臆病な子猫みたいで、ミコの心に響いたらしい。「きゃあ〜! 可愛すぎる〜ぅ」とキティに負けず劣らずの嬌声を発したのだ。それは、キティがはじめて見たミコの「女の部分」だった。膝も折曲げ丸まりながら感情と思考が行ったり来たりを繰り返していたキティだったが、やがて左足に感じる、タオルの感触。ミコは丸まったキティに文句もつけずにキティの「ありのまま・そのまま」を受け入れ許容してタオル拭きを再開したのだ。なんでそこまでしてくれるのか――疑問に思ったキティは背中越しにミコに訊いた。
「姉様、どうして背筋伸ばせとか、足伸ばせとか言わないんですか? わたし、姉様に要らぬ苦労をさせているのに……なんだか、申し訳ない気持ちになっちゃいます」
それは嘘偽り無い、飾らない詞による本音だった。まあミコに苦労をかけている申し訳なさは自分のみっともなさに通じることを、キティはなんとなく感じ取っていた。だから喋った途端、胸がきゅーって痛くなった。全ては自業自得なのだろうか?
けれどもそれは違った。否、ミコによって否定された。ミコは朗らかな声で、明らかに上機嫌なのがわかる口調でキティにやさしく語りかける。
「苦労なんて。キティ、縮こまらせた原因はわたしにあるんだし、可愛いあなたの取った行動は今まで見なかった新鮮なもので、わたしの心をときめかせたのよ? だから苦労も忘れちゃった。折れ曲がった左足を持ち上げて汗を拭き取る――なんてこともない。苦労なんて当てはまらないわ。だってキティはわたしの愛しい妹分で、わたしはキティの『姉様』なのだから。あなたの全てを愛おしく感じる時点でわたしは惚れた。負けたのよ。でもそれは――愛情は苦労も損も楽しさ嬉しさに変えてしまえる魔法のスイッチなんだな〜♪ キティ、あなたがこういう状況なんかを後ろめたく思うことも自由だし、それは人なら当たり前に持っている機能。でもね、この人生を満喫したいんならそれをきっかけにして、チャンスにして、燃料にしてより素敵なあなたへと進むことに使わなきゃ。後ろめたく思うことは決して悪いことじゃないわ。何事もそう、善行か悪行か――その方向を最終的に決めるのはあなたの考え方であり心持ち。忘れないで。どんな絶望の中にいても、諦めなければ進もうと思える道はあなたの前に見えてくるから」
ミコの詞が姉たる者が妹へ教えている教訓の類であることは聞いていたキティもすぐにわかった。石板に文字として刻み込みたい。日記に赤インクのペンで残しておきたい。そんな衝動に駆られるが、汗を拭いてもらっている立場では叶わぬ夢である。要は心に刻んで記憶から忘れなければいいのだが、ミコの喋り方は透き通った冬の空気みたいでやはりまったく澱みが無く、それだけに覚えておけるかどうかキティを激しく動揺させるのだ。
心地良さに酔ってしまいそうで、大事なことを忘れはしまいかと――。
その心配が詞に出た。無意識の内に、気付けばキティはミコに訊いていたのだ。
「姉様、ありがとう。すごく気が楽になったわ。あと勇気も貰ったわ。姉様の教えとしてずっと覚えておきたいけど……忘れちゃったりしないかしら?」
正直な告白。それこそが今キティの進んだ“道”だった。背中の向こうのミコはまず「大丈夫よ」と返してからこう続けた。
「幼気で純粋無垢な女の子相手だもの、わたしだって手は抜かないわ。今喋ったこと、キティの心だけじゃなく、身体にも語り聞かせたから大丈夫。相互補完とでもいえばいいかしら? 記憶が薄れたら身体が行動で思いださせてくれるはずだし、どう動いたらわからなくなったときこそ心がこの記憶を呼び覚ましてくれるはずよ。わたし、ミコちゃんが修めているのは影の秘術だけじゃないんだから」
「姉様……」
「はい。足首以外全部拭き終わったわ。キティ、起き上がってこっち向いて。右と左の足はあなたの見ている前でやりたいの」
「うん、わかった」
見事に話を変えられた――その気持ちがキティになかったわけではない。もっとちょっと話していたかったが、会話の中でミコの真意みたいなもの――『ここから先はあなたが自分で学んでいきなさい。あなたはわたしのお人形じゃないんだから』――なんて感じのメッセージを感じ取ったから。空気の読めるレディにならなきゃ――キティはミコに言われた通り大人しく起き上がりちょっと位置をずらしてシーツの上に座り、ちょうど伸ばした足がミコの作業する位置に来るように座った。さっき足を折曲げて困らせたことへのお詫びのつもり――ミコにはちゃんと伝わっていた。彼女はこんな詞で褒めてくれた。
「ナイスポジションよキティ。距離感完璧じゃない。どうやらあなたは空間把握の才能に秀でたところがあるみたいね」
望外の褒め詞を頂いたキティは足を伸ばしたままゆで上がってしまう。また余計な汗を出してしまう危険性があったが、それよりも速く、だけどゆっくり丁寧にミコはキティの両足を拭いた。足の甲に足の裏、指の間に至るまで入念にタオルで拭いてくれた。「ハイ終わり」ミコの一声でキティが汗を出す前に我に帰り、足元を除いてみると……ピカピカのツヤツヤだった。汗臭さも足に特有の不快臭も見事に取り除かれており、靴下を穿くのを躊躇いたくなるくらいだから相当だろう。まさに神業。いや……愛のなせる業だ。
キティは膝を曲げ綺麗になった足をうっとりと見つめる。それだけでも絵になるのだが、先に予定がある以上、いつまでもそうしているわけにもいかない。キティはミコから渡された下着第一弾として、床に足をつけられるように靴下を受け取り、それを「……んっしょ」と掛け声入れながら両足に穿いた。別にスリッパもあるし、まずはパンツからでもとは……一切全く思わない。ミコの用意してくれた衣装はガーデニングドレスと確認できた時点で、外に連れ出されるのはわかっていたから。それに、部屋用のスリッパにも少なからず匂いはあるもの。素肌に匂いがつくのを防ぐ意味合いでも、靴下を下着第一弾に選択したのは、ミコとキティ、二人の女性にとっては当然の選択だったのだ。どうせ汚れるとわかっていながら――だからこそキティは全裸の肢体にあえて靴下を選ぶのだ。
それが済んだあとは早かった。黄色の糸の刺繍にフリル付きのパンツ、ダブルストラップに小さなリボンがあてがわれたキャミソールを疾風の如く迅速に、だけど細波のようにしっとり優雅に着終わり、キティは下着の全てを装着。さらにミコの用意したインナーウェアを着込んだ後、とっておきとミコが持って来たミルクブラウンに赤のガーデニングドレスを着用した。その際ミコが立ち上がってキティの後ろに回り、キティの後ろ髪をまとめていてくれた心遣いがキティには涙が出るほど嬉しかった。
そして全てを装って、キティは見るも可愛いお嬢様へと変身したのだ。
「どうですか姉様? これがノイマン家の一人娘、キティ=ノイマンの園芸鑑賞用礼装姿でしてよ」キティが完全装備姿をミコに見てもらおうとくるりとその場で一回転。
「天晴れ!」ミコは瞬時に影帽子のがま口チャックを開けて黒い腕・手にから普通の扇子を持たせてそのまま黒い手でパッと扇子を開き、黒い影の手と自らの口でもってそう賛美した。息つく間もなく発せられたミコの賞賛はこちらが天晴れと言いたくなるほど気持ち良く、心晴れ渡り軽くなり、風か吹き抜ける爽快感をキティにもたらす。もういくつめになるのかもわからないミコからの「贈り物」を受け取ってすぐに胸がいっぱいになるまだまだ軽いキティではあったが、食べさせてもらって、身体を拭いてもらって、着替えを用意してもらってまでと至れり尽くせり尽くさせてしまった。ここは少女のノイマン家。キティはミコへの恩返しも兼ねて自分から動くことを自らに課した。ミコに手を伸ばし、落ち着いた口調で誘いの詞をかけるのだ。
「では姉様、アイズ兄様のお部屋に案内しますね。さあ、お手を……」
「ええ、キティ。どうかわたしを導いてね」
8歳の少女相手に縋る、傍から見たら道化師の可笑しさと勘違いされそうな仰々しさを真顔で魅せて、ミコはキティに手を重ねた。
重なり合う肌。絡まる指。そして繋がれる、二人の手。
ミコは目敏くもう片方の空いた手でまだパンが残っていたカゴを手に持ち、手土産に。
キティも外出用の靴を履く。準備は全て整った。
キティが先んじて部屋のドアへと進み出し、ミコと繋いだ手でミコを引っぱり先導する。
ミコは逆らうこともせず、「るんるるん♪」と楽しそうについてくる。背中に感じるミコの視線がとても暖かく、力強く、まるで追い風のように感じられた。
キティはそんな心地良さを動力に、部屋のドアを開け、ミコと一緒に屋敷廊下へ消えていった……。
ミコがそんな感じに、花の道に導かれ、ノイマン家に辿り着いた前後の時間軸……。
俗世から一寸離れた場所に或る、神様達の俗世本拠地で一寸した動きが有った。
逆を言えば其れまでは何の音沙汰も無かった。魚達外出組が帰還した丁度其のタイミングで進に乗っ取られた創作班がゲームの委細詳細を纏め上げて進が追い出された逆襲とばかり提出に行って、直ぐに返り討ちに遭ってドッペル藁人形に括りつけられた傷だらけの身体を外出組と製作班の休んでいた一階大ホールに投捨てられてからと云うもの、何の音沙汰も兆しも無かった。
その間述べ数日に渡り、実質魚が率いる神様連中はこの世の堕落を体現するかのような暇つぶしに興じていた。飲み、食い、騒ぎの酒池肉林。元々不老不死なので栄養摂取も何も関係ない身の上だが、神様だって心持ったる生き物である。枯れかけているとは言え個性もあるし、長い神様生活の中で磨かれてきた趣味嗜好と言った物も有る。久々の俗世に降りた以上、俗世の食文化を楽しみたいと――神様の大半が心中思っていたことなのだ。
そこに抜擢指名された食の神こと禊=ハレルヤが徹頭徹尾徹底的に手を抜くことなく秘密裏に買い集めていた俗世の高級食材を、神の手で調理し振る舞った事でこうなった訳だ。
飲めや歌えやの大晩餐会。自業自得の進を土台のドッペル藁人形ごと広間の中央にオブジェとして配置し、其の回りに沢山の絨毯を敷き詰めて禊の手料理を配膳、神様達は絨毯の大きさに合わせて小グループに別れ、盛り上がっているわけである。で、其の宴会何日目という所で、製作班がカンヅメしている部屋の扉が突如開き、進を下克上した製作班の神様面々が夫々其の手に紙持って吹き抜けから一階大ホールへと飛び降り飛び込み飛び入りしてきたのだ。四方八方を縦横無尽に暫く飛び回る其の神様仲間達は、食べ物を取り、飲み物を取り、進を蹴り――等さんざ好き勝手に動き回った後、漸く其の足を床に着けた。
「来たな……」宴会していた神様達が其の出現を予測していたかのように呟く。製作班の仕事部屋から飛び出してきた神様9体が進を背にして取り囲むように、皆の中心に立ち、登場到着した事を是見よがしに見せつけた。各々飲み食いしていた外出組39体、創作班7体、そして見せしめのスタチューにされている進1体。計47体の神様達が各々諸々の視点で見つめる中、新たに登場した製作班9体はすぅ〜と息を吐き、「点呼!」と突然叫んだかと思いきや、順に右手で隣の神様仲間を指差しなぜかそいつの名前を呼ぶ。
「要(かなめ)!」
「治(おさむ)!」
「遥(はるか)!」
「祭(まつり)!」
「学(まなぶ)!」
「牙(キバ)!」
「暁(あかつき)!」
「宝(たから)!」
「華(はな)!」
「グルッと一周全員勢揃い! 進の支配から卒業し、叛逆の狼煙、業火を溶かし、冷まし固めた灰から作り上げたわ9通りのカードセット! さあ皆の衆、決戦占拠の決選挙よ! 不精まだまだな私達が丹精込めて作り上げ出来上がった珠玉の名作カードゲームが9セットここに揃ってる。これぞ解散分裂の呼び水よ!」
「来たようぇるかむ難解女神、華が華々しく気勢を上げたね」
「全くロンリネス。華に喋らせると豪華難解詞化けなのにね」
魚と並ぶ実力者、通称珊瑚衆の他二極を占める御両所、絵と迷が見ていた方の立場から製作班のリレー点呼とその仕掛人にして仕置人である製作班の1体、栄光の神、華=フィニッシャの最大個性とも云うべき「良さげな詞過剰羅列しまくり説明」を聞き終えて取合えずの反応を示す。ここでスルーしたら多分9名全員泣いて暴れだしかねないから。
ともあれ実力者である絵と迷の返事が雷管の合図に成った。他の神々も口々を動かし、製作班の苦労を労い始める。湊が。希が。透が。務が。雅が。紫が。葵が。焰が。颯が。守が。十人十色の声色と、十人十色の表現で、詞一つ揃える事は無く、だが其の言質は誰一人横道に反れる事も無く、一様にゲームを完成させた9名への賛辞だった。情熱の神である遥や好機を逃さない好機の神である暁などが其の賛辞を受け取りつつ手を振るが、突如其の手が示す物は「照れ」から「待った」に変わったのだ。場違いな程真剣な眼で変わった場の空気に、褒めていただけの神様連中は息も停められ息を呑む。
そして9名の製作班は夫々が無味乾燥な手拍子で、其の足元、其の頭上、其の正面に作業用二重厚紙製のデカい箱を出現させ、結局各自の足元に落とす。最初から素直に足元に出していた華、宝、要は無事だった。だが正面に出現させた牙、遥、学。頭上に出現させた暁、治、祭の6体は出した勢いを殺すまいと後先考えずに自由落下させたため、結果箱に爪先を潰されたり、脳天植木鉢落としの如く頭に落として潰れるなど、思慮の足りなさから事故を起こし、見ていた他の神様仲間達に要らぬ失笑と失望を与えてしまった。
そう、既に勝負は始まっていたとしたら、この6名はビハインドを背負ったという風に。
そもそも飲み食いしていた神様仲間達からすれば、箱が9つ出て来た事が不思議だった。ごく一部の“例外”を除いて、神様連中は挙ってその訳を訊き出すが、其の答えは、返ってきた内容は軽率にも神様なのに訊いた連中を大いに狼狽・げんなりさせる物だった。
9個の訳を訊かれた製作班。今度は華ではなく、エキサイトホリックの祭とモノの価値を知るデータベースの宝、2名の女神が熱く冷静に互いを補完し合いながら経緯を話し出した。
「いやね、ほら、クリエイティブな作業っていうのはチームワークと個々のバイタリティ、そして才能が必要じゃん? 進は“素質覚醒”に支配信号を付与してそれを一顧に纏めようとした。が度を越えていた! だから今こうして、肉晒しの刑に処されてる次第」
「でもね、進の処置自体がマイナス効果一辺倒だったかっていうとそうでもなかったんだよ。進を追い出してからのわたしたちはゲームの概要ができるまであれやこれやとデザイン案を濁流のごとく出せていたし、空想は膨らみ希望に満ち溢れていたんだよね」
「だがしかし! 追い出した進からゲームの資料を受け取ったあたしたちは今までの妄想を燃やしつくしていざ実作業と意気込んで、それぞれの作業を始めた。一見何の問題も無いようにダチの諸兄はお思いだろう。けれどあたしたちは致命的なミスをしていた。誰がどこを作業するか――所謂『担当』を全く決めずに始まりから終わりまで誰一人気付くことなく全身全霊個人のキャパシティをフルドライブさせ続けてそれぞれのデザインによるゲームを完成させてしまったというわけなのよ!」
「その結果がこれですよ。創作班が創ったカード8782枚、全てワタシ達は個人で作り上げてしまったって訳です。それがこのダンボールの正体。気付いたときには遅かったわ。取り掛かったのが同時なら、終わる時も一緒だったんですもの。そこで、ワタシ達9名が作り上げた“ファニータイム”の異なる9つのカードデザイン、どれがいいか皆に決めて欲しいのよ」
「なんつう傍迷惑な……」訊いていた神様連中を代表して呆れのコメントを発したのは最初の神にして通り名は数の神、仲間内ではジジイだの御老体だのおじいちゃんだの呼ばれる老神、始=フィナーレだった。一番神の呟きに周囲も次々に同調する。其れは、小さな旋風が海面を揺らし、波紋を広げていく様に。仲が良いのか悪いのか、頭が良いのか悪いのか、進を追い出した事が良かったのか悪かったのかと周囲の神様面々は色々な側面から製作班の「無駄すぎる努力」を解析する。そして其れに対する結論は、魚に寄り添い甘える祝=エイプリルフールの「まあ〜、『似た者同志』ってことでしょうね〜。早くしましょう。もう作ったことは取り返しつかないんだし」と言う至極的を射た一言で終わった。又もざわわとぞよめきながらも意見は収斂され、皆が祝の詞に合流していく結果に終わる。
そう、作ったものを即座に無礙にする程、神様達は非道く無い。其れが同じ“ステージ”に居る神様仲間の作った物なら尚更だ。面倒臭い気持ちも或る。ミコとの早期決着を急がねばならないのにと言う不満も或る。でもなればこそ、祝の言う通り。さっさと作業に取り組むべきなのだ。「じゃあこっち来て」との声が九つの方向に構えた製作班の面々一人一人を呼び、其れに応える様に製作班の神様達9名も足元の箱こと『自分の作品』を持ち上げ、浮かし、絨毯の上で待ち構える神様仲間達の元へと運ぶ。中から出て来たのは、本当に凝ったデザインのカード達。これがミコに勝つために神様達が仕掛ける勝負、カードゲーム“ファニータイム”なのだ。
何処からとも無く、誰からでも無く、皆が自分の方角に置かれたカードを浮かして飛ばして条件付けして、進を中心とした絨毯円に居る仲間達の頭上へ飛ばす。デザインの出来を比較検討する為だ。条件付けしたので、空に飛ばしたカード達は夫々最短の待ち時間で、つまり『今』別デザインカードを必要としている神様の元へと自動で飛んでいく招かれていく。此れが神様流のシステマティック。製作班が情熱の余り忘れていた、分担作業の真髄だ。
作業は進む。進を残して。
そんな作業途中、神様連中の筆頭格である魚=ブラックナチュラルが製作班にこんな事を訊いた。
「そういえばさあ〜、華ちゃんたち製作班は、わたしたちの処に飛び込んできたけど、デザインの決定を残る最後の一角、プレイヤー班に託そうとは思わなかったの? 大事なことだから二度いうけど、こういうのってわたしたちが『これ!』って決めてもプレイヤー班の子たちにひっくり返される畏れ、なくない?」
魚の発言、特に後半部は吟味作業中の宴会してた方の神様連中の顔を引きつらせた。そうだよ、其の可能性大じゃん――魚の投げた一石が、作業自体の存在意義を洗い流す津波に成りかねなかったが、其処は良く出来た製作班。女神陣で喋ってなかった遥が「ここしかない!」と妙な危機感を匂わせながらも、簡素明快に答えてみせた。
「行ったわよー、プレイヤー班の部屋に。先に。でもあいつら、冬眠モードで爆睡中だったの。正直ムカついた。だから私達こっちに来たのよ」
その詞を聞き、皆は黙々と作業に戻った。理由なんて語るまでもない。
だから語らない。ただ、作業は黙々とから段々とかつての活気を取り戻しつつあった事だけは、神様なりの使命感・責任感とか言う物なのかもしれない。
斯くして進一人を磔に円を描き、神様達のデザイン選定作業は粛々と進められていたのであった。
好機の神、暁=ネットワーク。
対価の神、要=コンセント。
継承の神、牙=クラシックライフ。
真実の神、治=エターナルドライブ。
送迎の神、学=エヴォリューション。
根性の神、祭=エネルギィチャージ。
情熱の神、遥=シークレットパーティ。
尊厳の神、宝=ニーズ。
栄光の神、華=フィニッシャ。
以上9名の力作から、『この唯一』を選ぶ作業が。
着々と。素早く。間違い無く。
「そんな偶然、ボク信じられません」
キティ同様部屋でくたばる寸前だったアイズをキティとミコは見つけて食べさせ介抱して、事の仔細を説明した。にもかかわらず兄が妹とミコに開口一番発した台詞がこれだった。なんというわからずやの空気読めない恩知らず――キティは強い兄妹愛ゆえに、兄の詞が許せなかった。兄を愛してやまないキティだが、こと今回の言動に関しては、一切弁明の余地も、情状酌量の余地も与えない。
怒り心頭のキティは、澄まし顔をしていた兄の頬に一発ビンタを食らわせた。8歳の少女ができる全力で兄の頬を引っ叩いた。その威力、推して測るべし――大してアイズの顔を動かすには至らなかった。ああ、それで終わりかと思いきや、そうは問屋が卸さなかった。というのもビンタを食らったアイズは木枠でできた背もたれの長い木製椅子に、背筋をピンと張って姿勢正しく座っていたのだ。キティのビンタでズレたのはほっぺであり、動いたのは顔だが、それだけじゃない。打たれてもなお保たれた姿勢の良さが災いし、動いた頭部に連動して、体の芯も軸もずれたのだ。
一から全へ。きっかけはささやか些細なビンタも、ぶった相手のコンディション次第ではどう転ぶかわからない。アイズの場合は、良家特有の躾が染み込んだ立ち振る舞い(座っているけど)が仇になったケースとなった。早い話が、身体の軸を傾けてしまった兄、アイザック=ノイマンは椅子ごと傾いてバタンと床に倒れてしまったのである。この滑稽な結果こそ、まさしく町一番の資産家ノイマン家が子供に躾けたマナー教育の賜物なのだろう。もっともぶった張本人であるキティは、こんな生温い結果に満足してはいなかった。血を分けた妹の詞を、想いを無下にした鈍感な兄への一撃――これは言わば「気付いて、兄様」との願いを込めたビンタだったのだ。もっと身体ごとすっ飛んで壁にめり込むくらいの結果が欲しかったのだが……そこは8歳少女の限界であった。
それに一部始終を見ていたミコが「そこまでにしときなさいキティ。それ以上やったら今の楔、罅になっちゃうから」と窘めてきたのでキティは大人しく従った。一時の感情は行き過ぎた結果を求め、しかしもし本当にそうなったら、それは取り返しのつかない後悔をもたらすと――キティはなんとなく(そんなことなのだろう、ミコ姉様の言いたいことって)と察し、胸に手を当て案の定、激しく鼓動を打っていた心臓を落ち着ける。逸る心をその手で冷まし、暖かな心音に安らぎを見出すと、ミコがキティの後ろから一歩進み出て、アイズの座っていた椅子を起こして(窮屈さにも気を留めず)座り、床に倒れたアイズに話しかけ始めた――。
「別に信じなくていいわよー。でもアイズ、お兄ちゃんとして妹を悲しませちゃあいけないなあ。個人的な話だけどね、わたしも『信じる』なんて詞、嫌いだから」
「え? 姉様、それは……」
「キティ、いらっしゃい」
ミコは被っている影帽子のがま口チャックを開き、二本の黒い腕をキティへの迎えによこした。キティは抵抗しなかった。なぜかはわからないが、怖くなかったから。すると二本の黒い腕はキティの身体をお姫様抱っこで抱えシュルルと開いた影帽子の口を移動してミコの前まで運んでくれた。そして伸ばされていたミコ自身の腕にバトンタッチして元の中へと消え、チャックも再び閉じられる。ミコの両腕に抱えられたキティはミコの膝の上に座らされる。二人がかりで椅子に座り、倒れたアイズを見下す構図。この閑話休題ともいえるワンクッション・幕間の準備作業を終えたのち、ミコは再び語り出す――。
「極めて個人的な感傷なんだけどね。わたし、『信じる』だの『信じない』だの、そういう『信用』に関する詞をこの人生の中聞きまくってきたわ。だから聞き飽きた。そういうことなの。喩えとしてはうまくないけど……心臓ってさ、生きてるときは全く休まず動いて、寿命が来たら停まるでしょ? そこまで動き続けた回数が、人の一生。斜に構えて言えばさ、心臓は動き疲れた・動き飽きたから停まる。だから人は死ぬ。そういうことだとわたしは思ってるわけなのよ。で、さっきの話に戻るけど、わたしは自分ではそういう『信用』に関する詞を一生分聞いたから、いつしか耳が拒絶反応。それが価値観にまで作用して、今では信用とか信じるなんて意味ない嫌いって思ってる方の人間ですから」
「姉様、かわいそう……この若さでそんな重い制約を課されてしまうなんて」
「ほんとよねー。なんて可哀想なのかしらわたし。でもねキティ、ついでに言うとわたし、一生分喋りつくしてもいるのよねー。ああ、今は気分がノっているから大丈夫。で、ねアイズ君、君はわたしたちの説明、こんな偶然を信じられないと言ったが、そんなのわたしとキティも既に思ったことだから素気なく却下させてもらいます。運命学を語るほどわたしはその道詳しくないけど、わたしの友達、桜島の心樹オピィが魔法でもって導いてくれた行き先がココ! オピィが魔法を使ったのはガデニアで祭が終わった後――則ちわたしがまだ顔も見てないあなたたちのお父さんが絶望した日より遅いはず。きっと魔法でここのことを感知した――そう考えれば合理的だわ」
「でも……結局は信じる信じないの問題なんじゃないですか?」
床に顔の片面をつけて倒れたままの体勢で聞いていたアイズがそうぼやく。その物言いにムキィ〜ッとなるキティだが、ミコは沸騰しそうなキティの頭をやさしく撫でて、アイズのケチに澄ました声で答えだす。
「そうね、信じることは疑わないこと、確かなものとして受け入れること。それだけしか知らなかったら、わたしがオピィを信じたってことでしょうね。でもぉ〜、わたしはさっき話した通り、過去のせいで心が変わっちゃった。性格的にかなりひねくれたのもこの頃ね。疑わずに受け入れる? 今のわたしは全然違うわ。そんなこと笑えば善い――これがわたし、ミコ=R=フローレセンスのスタンスよ。それこそわたしは旅人だからね、いやまあ、旅人に限った話じゃないけど、世の中自分に降り掛かる幸も災難も色々あると思うのよ。信じられない程の幸運とか、受け入れ難い災難とかね。でもね、信じるとかいう行動で心を支えていてもさ、人は決して完全にはなれないからね。信じていてもどこか疑ったり、信じていたのに後悔したりってことがきっとある。わたしはもう一生分生きて続けて今は人生三周目だからね〜。そんなこと繰り返しても面白くないってこと、知っちゃった。その結果会得したのが『信じる』んじゃなくて『どんなときでも笑う』ってことよ。たとえ自分がツイてなくても、出会った他人の不幸を見せつけられても、わたしは笑う。笑顔でいる。その笑顔がきっと自分が、見知らぬ誰かが立ち上がるときに心を浮かせ持ち上げてくれる風になるからね」
「ミコさん……」
「そういうことよ、アイズ。人の一生、生きていればあるのよ。運命の悪戯としか思えない年でも月でも日でも時間でも分でも秒でもなく今、わたしたちが歩いている人生の道の今が重なることが。そういうのを俗に塗れた巷では『運命の出会い』っていうんでしょ? まったく皮肉……“系統樹”ではみんなの人生の道は、全天全周囲バラバラなのにね――」
「ミコ――さん?」「姉様♡」
ミコの生き様授業を聴いてこちらに向き直り手を突き上半身を持ち上げてミコのことを見上げながら呆然と呟くアイズに、素敵な授業に感動し、ミコに甘えじゃれつくキティ。ミコはキティの顎を猫にするようにゴロゴロさせながら、影帽子のがま口チャックを展開し、中から黒い箱、さらに絹の袋を取り出し、アイズにこれ見よがしに見せる。それを目撃したアイズの目の色が変わる。
「それが、リバムーク・プロトタイプですか?」
「ええ。完成世代ではない、試行錯誤の世代のものだけど……ちゃんとリバムークの名を冠してる。余計なしっぽもついてるけどね。さてここで問題です。わたしはリバムーク・プロトタイプを持ってます。わたしはそれを蒔きたくてここまでやってきました。しかしそんなわたしの邪魔をする奴がいます。誰でしょうか? あなただ」
その瞬間、ミコのアイズを見る目が変わった。鋭い視線は光……いや雨のようにアイズを打ちつけ、痛めつける。当然だ。今ミコはアイズを見下しているのだから。飼い猫が不審者の侵入に気付きびくつくようなその仕草を、ミコの首元に入り込んでいたキティはニヤリとしながら眺めていた。内心兄様可哀想だとかいう気は、まったく起こらなかった。
それはミコのやることなすことがアイズを立ち上がらせるための『演出』なのだと、知っていたから。
実はアイズの部屋に入るまで、廊下を歩いていた間の会話で、キティはアイズがこの現実を信じられないって拒絶すると、ミコから聞かされていたのである。理由は簡単。
『裏切られ続けたから』
アイズは愚直で人というものをすこぶる信じている。それが結果としてキティでも詐欺とわかったのを歯牙にもかけずに父に殴られた。それでもめげずに手を尽くそうとしたことは無条件に褒めてやるべきことだ。近年稀に見る精神的タフネスの持ち主だろうね――ミコは廊下を歩いていたとき、手を繋いでいたキティに愛しい兄をまず評価してくれた。しかし続け様に今アイズ起きている変化を、ミコは見逃していなかった。それと端的に表した原因が、先の詞、『裏切られ続けたから』なのである。
いくら精神的にタフって言っても、無限でないなら消耗し続け、いつかは底が、0がくる。そここそ人生観が変わる最大のポイント(分岐箇所)。部屋にこもっていたキティでも知っている――この2日、アイズは外に出ていない。それはつまり、底(資金)が尽きたということだと、ミコは答を導き出した。そしてキティも納得する。確かに、あの兄様とて自分の持ち金が無くなっては何もできない。家の金には道徳的にも手をつけられないのは当然。そういう躾をされているから。八方手を尽くして八方塞がりとなれば兄様とて絶望し得る。そしてミコが語るには、人間が先天的に持つ質の悪い所として、『自分が何もできなくなったとき、人はその原因を外に擦り付けたがる』と言うのだ。排他的性質――アイズのケースで考えるなら。
・人を信じて行動してきたのにダメだった→
・自分がこうなったのは自分の気持ちをわかってくれなかった他人のせい→
・極論、他人は自分を裏切り続けた→
・これまで自分が信じてきたことは間違い(ポイント切り替えの発症)→
・だから、これから行っても最初は信じないとかいうだろう(Q.E.D)
そういう予想を立てて、まさにアイズが冒頭その通りの対応を見せたものだから、キティは兄に関してミコに一任したというわけ(押し付けたわけじゃない)である。落ち込んでいるときに年下の妹から励まされたら却って感情を逆撫でしてまうからとミコからアイズの部屋のドアノブに手を掛け、まさに入る直前、ミコはそう諭してくれた。キティにもその意味はわかる。たかが1歳差とはいえ、人生経験の歳月で劣る者から諭されると無条件でムカつくものだ。
知っているから、手出ししない――。
そういうわけでキティはミコの凍てつくような視線を浴びせられているアイズを他人事のように俯瞰していたわけである。最初の怒りとそこまでに至ったカラクリが全てわかってしまうとなんというのか……超越的な視点で物事が見れた。だからこそだろう、今だけはアイズが震えているのにも同情しないし何の感慨も抱かない。思っていたことといえば、ただ先にミコに出会ったというだけでこの差なのだから、つくづく自分は笑顔なのだろう――ということ。
さて、そんな風にキティの無温度じみた視線が見守る中、ミコとアイズのやりとりがいよいよ佳境を迎えてくる。ミコはこれ見よがしに見せていたリバムーク・プロトタイプの種入り絹袋を無造作にアイズの懐へと放り投げたのだ。
「確かめてみたら? 自分の手、自分の目で。ここ、パソコンもあるんでしょ?」
余裕の表情で(婉曲な言い回しながら)指図してのけるミコからは貫禄さえ感じた。そしてその余裕と婉曲な言い回しが聞いたのだろう。アイズはおずおずと手元に投げられた絹袋に手を伸ばし、手に取り、中身を確認する。9歳の少年の小さな掌に積もる、19個の瑠璃色の種。その碧い輝きが、少年の瞳に写り、光を灯す。
それまでの体たらくが嘘のように、アイズはその場で俊敏に跳ね起きし、自分のパソコンがあるこの部屋にみっつある机のふたつめに飛び込んだ。すぐさまパソコンを起動させ、ネットの接続を確認するとすぐさまブラウザを開き検索をかける。しかしすぐにどん詰まり。これもミコの予想通り。しかし結果を出せなかったアイズが「データ、ありましぇ〜ん」と涙声泣き顔を見せたのはキティもミコも予想外で、二人は目を合わせ、素で笑い合った。
ここでミコに抱かれているキティが、甘ったるい声でミコにせがむ。
「ねえ姉様。どうやら兄様のネトラーレベルではお望みのページさえ開けないようです。どうでしょう姉様、ここは三人姉弟ごっこ一番年上の『姉』として、半人前な兄様を助けてあげてはくれませんか?」
キティは顔を上に向け、ミコの耳元に唇を近づけ、舐めるように囁いた。
するとミコは「ああん」となにやら快感を感じたようで、すぐに応じた。
「わかったわキティ。実を言えばリバムーク・プロトタイプのデータを見るとすれば、この花を作った花一族のデータベースにクラッキングするしかないんだものね。適材適所。できることはできる人がすれば善い――やってあげるからアイズ、ちょっとパソコンから離れなさい。あとキティはもうしばらくこのギリギリの快感をわたしに感じさせといてね」
「喜んで♪」キティがまたしてもミコの耳元で囁き、その声でミコの耳たぶを震えさせるとミコが動いた。さっきリバムーク・プロトタイプの種を入れた袋を取り出したときから開けっ放しにしていた影帽子のチャックから三本の黒い腕を出現させた。現れた三本の内二本はアイズのいる机に向かい、アイズの使っていたパソコンを腕の先備え付けの手でダダダダカチカチと操作する。その一方で余った腕――先っぽの手にごく普通の携帯電話を持っていた腕はなにやら携帯電話を操作したのち、キティが甘えていない方のミコの耳元に携帯電話を持って来る。まるで電話係の召使いのように。それをさも当然のように受けるミコは、電話口で聞いてビックリの人物と会話し始めた。
「もちもち、スイートピー? ……あれ? コスモス? この番号スイートピーのよね? なんであなたが……えっ? スイートピー今人格改造作業中だから携帯電話預けさせられた? まったくもう、あいつ陳情受付係なのにここぞというときに繋がらないんだから。ん? 『で、ミコちゃん要件はなに〜?』って……そうね、友情育んだコスモスなら十分以上に代わりになるわね。あのね、先月そっちに行った際、わたし個人的な用事で来てたじゃん? そう、リバムーク・プロトタイプの種作り。んで一ヶ月近くこの俗世を渡り歩いてようやく『ここ!』だっていう場所を見つけ出したんだけどね……ほら、わたし旅人だからさ、蒔いて咲くまで留まるにしても寄辺がないとダメじゃん? 今電話かけているの、種を必要としてわたしも託そうって思ったあるお家からなんだけど、二人兄妹のうちのお兄ちゃんが突然都合良く現れたわたしのことを胡散臭いって言うわけ。で、渡した種がリバムーク・プロトタイプだって証拠見せてやりたいのよ。あ、わかった? そう、これから花一族の研究資料まとめたデータベースにアクセスするからさあ……誰のでもいいからIDとパスコード貸してくれない? いきなりで悪いからお駄賃として1分につき幸先金貨3枚出すからさ。どっか金欠で困ってるその辺の適当な子の……え? 自分の貸すから大丈夫? どうしたのコスモス、幸先金貨そんなにほしいの?」
『ほしいに決まってるよー! わたしに幸先金貨ちょうだーい!』
ミコと電話先のコスモスと名乗る人物との会話、ミコの話し振りはやり手の交渉というよりは友達同士の女子トークという面が強く、それだけにその話し方ですらすら頼み事を了承させる様子は圧巻だった。そして離れた位置からようやく聞こえたコスモスと名乗る女性の声は、なんだかスイーツみたいに甘ったるくて女性よりも女の子ってイメージを強くキティに植え付けた。それにしても幸先金貨とは……色んなものを持っているミコの凄さを、少女は改めて思い知らされる。
と、ここでキティの耳は意識の外から打鍵音のラッシュ轟旋律を聞き取った。
何かと思い視線を向けたら、そこはアイズの机の上。アイズのパソコンを黒い両手が猛烈な速度でタイピングし始めていたのだ。そのすぐ傍にいるアイズは、押されているというよりも叩かれているという表現が正しいキーボードの高速入力に少々ビビっているようである。件のパソコンでは、ディスプレイの表示が目まぐるしく変化している。ウィンドウが現れたと思ったら消えた。と思う間もなくまた新しいのが現れた……と思ったら消えたの繰り返し。プロセッサチップは大丈夫だろうか?
そんな心配を考えるキティの顔をミコはその手で抱き寄せ、杞憂だと答えてくれた。
反応しようとした矢先、遠くからアイズの声が届く。「うわ! 出た!」と。
それはつまり、熱故障する前にプロセッサチップが仕事を終えたという結果。
(なるほど、確かに杞憂だったみたい……それにしても、驚いてばっかりで姉様にいちいち手間を取らせちゃってるわたしはどうしようもなく一般人なんだろうけど、それでもいい。だってこうして驚けば、姉様はわたしを見てくれるから)
キティは心のどこかで今興じている姉妹ごっこが『期間限定』だということ、いつかは終わってしまうということに勘付いていた。だからこそなのだろう。『自分の涎を舐める』、『自分の汗ばんだ裸を拭く』ほどの濃密な関係になってしまったキティとしてはなおさら、できるうちは甘えたくてしょうがないのだ。兄アイザックとは違う頼りがい、年上の女としての憧れ、そして芽吹いた愛しさ。それらが複利的にキティのミコへ想い・態度となっている。その変わりぶりはキティ自身も感じていた。「わたし、こんなに甘えん坊だったっけ?」とたまに思い返すぐらいには。
ともかく今回のかまってかまってには一応の成果が出たのでキティもそっちを見ることにする。そっち……則ちアイズのパソコン画面にはリバムークそっくりの花の写真に何やら研究資料らしき文章の羅列。目はいい方のキティでも、さすがに数メートル離れた場所にあるパソコンの画面の文字(しかも文字サイズが小さすぎる)はわからず、読むこともできなかったが、そんな心配も杞憂だった。文字サイズのデフォルトを小さくした元凶、そのパソコン唯一のユーザーにしてオーナー、アイズが黙読して納得しているようだから。
そう、実の所キティが無理にパソコンの内容を読む必要など皆無なのである。なぜか? キティはミコのチャーミングな説明で既に納得済みだから。まあ、今パソコンに表示されているのはあの花一族の機密資料らしいので、それなりに興味はあるのだが、そこは兄アイズの十八番。小さい頃町にやってきた劇団ビンタに病欠の代理キャストとして連れて行かれる程に磨き上げられた表現力は半端じゃないのだ。そう、その代理出演時にその名演技を褒め讃えられ、「匿名美少年6741面相」の称号を拝領したわけじゃない。喜怒哀楽に悲喜交々、まさに6741の感情表情リアクションをもってしてパソコンが見せている情報が兄自身を納得させている&驚かせている花一族の機密情報であることを口に身体に暴露していたのでやはり見る必要などなかった。むしろ見たくないとも思い始めている。兄のウザったい6741面リアクションの方を。
そんな闇側の愛憎オーラパワーを蓄積しつつあったキティの耳に、不意に聞こえたアイズの叫び。まー今時「Oh NO!」は古いと思ったが、それも一瞬で捨て去れる愚考思考の通り風。原因はアイズの両脇でほんと「影」のように大人しくしていた、ミコの黒い両手が再び起動し件のページを閉じた……もとい切ったのが原因。と思いきや、残るひとつの黒い腕がミコの耳に当てていた携帯電話に、ミコは苦情を申し立てたのだ。
「ちょっとちょっと、コスモス、ページが勝手に落ちちゃったわよ。再入力してもダメじゃない」
そういうことだったの?――キティは心中で自分の誤った認識を若干の驚きを添えて書き換えその会話に聞き入る。するとミコはこの説明はキティやアイズにも聞かせる必要があると感じたのか、携帯電話を持たせていた黒い手にスピーカーホンボタンを押させていた。その心遣いが実に自然で様になっているところが、ミコの凄いところであるとキティは感じていた。だが横道にそれるのもここまで。スピーカーホンでこの部屋にいるみんなに聞こえるようになった電話相手のコスモスさんから答えが語られる。
『あ〜やっぱり閉じちゃったー? あのねー、この前情報システム全般を改造したんだよー。ほら、あの事件のとき、ミコちゃん実演でうちのセキュリティ開けちゃったことあったでしょー? あれがやっぱり衝撃的だったんだねー、ミコちゃんが旅に出たあと花君様があらゆるセキュリティの強固化を指示したのー。IDとパスワードはわたしのものでもアクセス元の場所がはなれているからねー。そこトランスフェイクって町の郊外でしょー? まあ保って3分が限度かなーって』
「なるほど。そういうことだったのね。納得したわコスモス先生。いい解答をありがとう。さっき話した報酬の計算では1分につき幸先金貨3枚だったけど……この先のゴタゴタへの備えとあなたへの親愛の証として、幸先金貨は24枚あげるわ。アジサイとか金にうるさい連中を黙らせるのにとか、サクラちゃんと萌枝ちゃんにも1枚ずつあげといてよ。そっちは秘密裏にね。今送るから、ちょっと待ってて」
そう告げるとミコは影帽子の開いたチャックからさらに黒い腕を取り出して、その手が中から運んできた幸先金貨の入った皮袋と黒いペン、そしておそらく送る用と思しき別の袋と黒い伝票をミコとキティの眼前に掌の上、並べ立てる。ミコはその四番目の黒い手を案の定作業台にしてまず自分用皮袋から24枚の幸先金貨を取り出し、空っぽだった別の袋に惜しげもなく入れていく。幸先金貨といえば霊験あらたかな不思議な効力を持つという滅多に御目にかかれない貴重品である。それをミコはたくさん、惜しげもなく送る方の袋に入れていった。先の通話での計算なら3分保ったので9枚が報酬なのだろうが、ミコはさらに15枚も上乗せして送るから凄い。色々言っていたが、ボーナスのつもりなのかもしれない。
そして送る方の袋に24枚の幸先金貨を入れ終えると袋は封がされ、続いて黒い伝票に黒いペンで相手の名前――「Cosmos」と白くキラキラ輝く、白金色をした文字が書かれた。
ミコはすぐさま伝票裏のシートを剥がし、シール面になっていた裏面を24枚の幸先金貨を入れた袋に貼付ける。するとどうだろう、ミコはその袋を地面に落としたのである。
その突飛すぎる行動にキティもアイズも驚きを隠さないが、本当に驚くべきはその後だった。なんと落ちた袋はそのまま床に吸い込まれるようにして消えたのだ。さらにその瞬間、床全面を黒い稲光が走り、シューと何かを焦がしたような音を残して鎮まった。いったい今のはなんだったのか?――はてなの尽きないキティの耳に、その答えたる詞がなんと電話の向こうから聞こえてきたのだ。
『おー届いたよ〜。わたし宛ての黒い伝票にミコちゃんの筆跡ねー。袋を開けて、ちゅうちゅうたこかいな……うん、幸先金貨24枚ねー。ちゃんと受け取ったよミコちゃ〜ん』
「え……? 今ミコさんが床に落とした袋がもう届いたんですか?」
にわかには信じられないというキティの反応を見て取ったミコは、携帯電話を耳から遠ざけると、種明かしをしてくれた。
「そうよキティ。アイズも。見たでしょ今の超常現象。これこそわたしが極めた影の秘術で作り出した黒いアイテムのうちのひとつ、黒い伝票を貼り付けた荷物の届き方よ」
「黒い伝票……ですか? 姉様があれを貼付けて床に落としたら荷物はフッと消えてなんか真っ黒な稲妻みたいなのが走ったのしか確認できませんでした」
「あ〜キティ! あなたなんて可愛くて煌めいて聡明なのかしら! それだけわかれば十分よ。ねっ、電話口で実際受け取ったコスモスさん?」
ミコはこの場にいない、でも話には参加している(いたのか?)電話先のコスモスに話を振り、自分では答えずにキティを自分の身体に締め付けるようにキツく抱きしめた。その行為を受けたキティの心中は『望外の歓喜』であった。愛し慕いしミコの身体に密着させてもらえるチャンス、何度あっても足りないと感じるくらいだからミコが抱きしめてくれたことが嬉しくてしょうがなかった。その匂い。その鼓動。その吐息。全てを肌で感じ取れる――もう答えよりも先に御褒美貰っちゃった、みたいな感じでキティは顔も思考も蕩けていく。それでも配置場所の勝利である。電話相手コスモスの解答こと、ミコの黒い伝票に関する解説はふやけた耳でもちゃーんと聞き取れた。
『そうだよー。そこにいる少女ちゃんに少年くん、ミコちゃんの影の秘術「黒い伝票」は元が影だからね〜、地面に落ちた途端元の影に戻って伝票に書いた相手のところに疾走るってゆー仕掛けなんだよー。影は光の狭間でしょ〜? その出現速度は光の速さそのものなのよー。ミコちゃんは影の秘術で黒い伝票を作ったとき、その点意識したみたいー。そしたら見事だよね〜、できた伝票の効果の程は見ていて充分わかったでしょ〜?』
「そうか、影は光速の光が差すことで瞬時に出現する。その速度を活かして作り上げたということですね、姉上!」
「あ、姉上?」『おね〜ちゃん?』
ミコと電話先のコスモスがほぼ同時に反応する。アイズの突飛なミコにつけた呼称に、さすがに二人とも、当惑している様子だった。
しかし、キティは驚かない。これもキティにとっては予想通り。今日からの姉であるミコでさえ分からなかった事実、八年間妹をしてきて見抜いた、兄アイザック=ノイマンの本質――。
(つまるところ、わたしと兄様は似ている。そういうことなのよね〜)
キティは心中理解した結論に皮肉なものねと溜息をついた。個性ってなんなのかなって、思わずぼやきたくもなったが、さすがにそこまでアウトは取らない。自分とアイズは兄妹。同じ親から生まれ、同じ家に生まれ、同じ環境下で同じ教育を施されてきた。そりゃ性格や人格面で似ることもあるだろう――そこに個性の存在意義を問うたのだが、それも一瞬のこと。それでもキティは確かな『自分』をその身体その心その魂に感じていた。兄のアイズとは違う自分だけの個性。そう、同じように姉と尊称するミコ=R=フローレセンスへの懐きぶりは、自分でなければできはしない。女であり、妹であり、キティ=ノイマンという人間にしかできない所業。それこそ神の御業でも不可能な大業である。ミコと出会い、その数奇な改稿の中でキティはミコに甘えまくり、依存しまくり、終いには姉様と呼び姉妹ごっこを始めるまでに至ったのも、全てキティだけのミコへの愛情表現。アイズがミコを姉上と呼ぶようになったのも、キティがアイズを勝手に自分たちがやっている姉妹ごっこに組み込んで台詞にしていたから。目敏い兄がそこにつけ込んでごく自然なフリしてミコを姉上と呼んだ――キティにとっては単純明快、関数論より簡単な答え、当然の結末だったのだ。
「ふふふ」そこまで思い、思わず可笑しくなって笑い声を零すキティ。それと同時に少女はようやく本調子に戻った兄の突飛な言動をフォローすべく動く。再びミコにじゃれつき、甘ったるい声でミコ(と電話先のコスモス)に喜ばしい現実を報告する。
「よかったですね姉様。兄様もようやく納得したみたいです。ほんとに手間隙かかりましたが、家族ごっこの兄妹頭数が三人体制になりましたわ。これで姉様が希望したリバムーク・プロトタイプの種蒔きがスムーズに進められますわ」
「キティ? え? なに? そういうことなの、アイズ?」
「そうですとも従いますとも! ボクの上にいて然るべき姉は天上天下唯一人! ミコ姉上をおいて他にはありえません! さあ、輝ける家族(ごっこ)ロードを三人で共に駆け上がりましょう!」
いきなりの超転回。アイズのゴーゴー持ち上げ発言にミコが一瞬固まったのを抱きついていたキティは見逃さなかった。というか見逃すはずがなかった。アイズの主張転回癖も妹として知っているキティである。その兄がいつものテンションでいきなりミコのことを持ち上げる方に変わったらミコだってぐうの音も出ずに唖然とするはず――キティの予想能力はその領域、「そこまでするか」とツッコまれる域にまで及んでいたのだった。
そしてバッチリ見られたミコの呆け顔。キティは胸キュンときめきドキューンと、ミコへの慕情が募るばかり。しかも自ら望んだ結果に(自分換算だけど)利回りがついた形、平静を装っていても心の中では興奮しまくりだった。
(あ〜姉様のレアショットが脳内でリフレインしてわたしを絶頂へと誘ってくれる〜)
恍惚の表情をミコにも向けず(そもそもミコに抱きかかえられているのだからミコが見られる道理はない)アイズにも見せず、一人うっとりするキティ。しかし相手はミコ=R=フローレセンス、自分が姉様と呼んだ女性。後ろ頭越しにこんなピシャリ忠告をいただいてしまった。
「はいキティ、エクスタシーを感じているのはそこまでよ。アイズも。わかったでしょう? それは紛れもなくリバムークの血統持ちだってこと。ボケっとしてないで。やることはたくさんあるんだから。荒れ果てた花畑の供養。ノイマン家の名誉回復。お父様の現実逃避&育児放棄の阻止。そしてリバムーク・プロトタイプの開花――約2ヶ月ね、あなたたち兄妹の面倒見るのと併せて、わたし、この家にお世話になるから。いいわね?」
「はいっ!」キティとアイズが嬉しそうに返事を返す。同時に携帯電話で遠くガデニアから話に加わっていたコスモスも『あ、スイートピーの人格改造終わったみたいー。用件も済んだことだし、わたしはここでさよならするね〜。キティちゃんもアイズくんもバララーイ♪ さーて、サクラに萌枝ちゃん、人格改造の成果は出たかなー?』と妙に聞き手を惹き付ける話術と挨拶でもって電話を切った。用済みとなった携帯電話、及び黒い腕と手たちは御役御免となり、ミコの被っている影帽子、そのクラウン(山)とブリム(つば)の継ぎ目にある開いたままの、特徴的ながま口チャックの中へと戻していく。その光景の面白さ楽しさ美しさもさておき、その過程でアイズに渡していたリバムーク・プロトタイプの種をちゃっかり回収し、キティに預けるというミコの華麗なる愛情表現に、キティはときめくばかりであった。
そしてそれが終わるとミコは、自分自身の両手で抱きかかえていたキティを「名残惜しいわね……」と呟きながらも持ち上げ、引き剥がし、椅子から降ろす。そしてチャックの閉じた影帽子の鍔を片手でつまみながら立ち上がる。その姿は大きくて、可愛くて、とても、頼もしかった。
「早速、お父様へのあいさつね。キティ、アイズ、部屋まで案内して。お母様が死体となった今も眠ってる、お母様の部屋まで」
「かしこまりました姉様。ほら兄様、一緒に行きましょ」
「うん。キティも姉上もボクを置いてかないでよ。でもパソコン落とすのにもう少しだけ、時間が欲しい」
「まったくもう……むぐっ」至極当然のこととはいえ、流れを狂わせるアイズの言動にいわれなき反発でもしてやりたかったキティだが、その口は背後に回ったミコの両手に塞がれた。突然のことに赤面してしまうキティをもう何度目かと抱きとめて、ミコはアイズにこう告げた。
「いいわよ。いくらでも待ってあげる。限りある命。だけどわたし、急いでないから」
それくらいは待つわ――そう言ったミコの顔は思慮深さと確固たる決意を感じさせ、面と向けられたアイズと下から盗み見ていたキティの両者をもう何度目かと感服させる。
そしてしばらく時が過ぎ、パソコンの電源が安全に落ちる。
アイズはアクロバティックな足さばきで座っていた椅子ごと踊るように回転させると向きをミコとキティに合わせ照準ロックオン。椅子から飛び出しひとっ飛びで、ミコとキティの目の前に着地してみせたのだ。その様子を見ていたミコは「へえ〜やるじゃん」と感心していたが、キティは全然驚かない。劇団ヘルプのときに身につけた小技で姉様の気を引く気なのねと、むしろ警戒感を高めていた。
(冗談じゃないわよ兄様。姉様がするのは姉妹ごっこ。兄様はオマケなんだから)
心の中でそう吐き捨てて、でも外にはおくびにも出さず、キティは復活したアイズに社交辞令のような営業スマイルで応じた。そして面倒臭かった兄への対応を早々に切り上げ、自分をだいてくれているミコの手を取りドアへと向かう。ミコもそれを受け入れ引っぱられるままにドアに向かう。そんな二人の様子を見ていたアイズもつられてドアへと向かう。
仮初めの姉妹姉弟になった三人はその事実を報告すべく向かう。
育児放棄した父の元へと。
「ここです姉上。母上の部屋は。もう何日前だかも忘れましたが、母上はその日、亡くなりました」
「そして伝承楽団の芸術家たちによって生きていたときよりも魅力的な朽ちない死体へと変えさせられ、その美しさに惚れ直した父様はこの通りわたしたち兄妹の育児を放棄し、ここにひきこもっているんですの。母様の部屋は独自に簡易キッチンと冷蔵庫があるから、父様もずっと部屋にいられます。そう、母様の部屋は『家の中の家』みたいに、トイレや洗面所、バスルームも備え付けだったから……ずっと部屋にいられるの」
「なるほどね。そういえば30年くらい前に流行ってたっけ。『ハウス イン ザ ハウス』、『リトル イン ビッグ』をキャッチコピーにした二重構造家屋。この屋敷もその類なのね」
「さすが姉様! そうなのです。この屋敷は29年前に建てられた二重構造の屋敷なのですわ。わたしたちの祖父母の代に建てられたこの屋敷、売りにしている『自活部屋』は父様と母様の二部屋のみ。だからわたしたちは飢えてましたの」
「かわいそうなキティ。でも大丈夫よ。今日からお父様がマトモに戻るまでわたしが面倒見てあげるから。まずはその旨ちゃーんと本人に伝えなきゃね」
そう言ってミコは部屋のドアノブに手をかけると、バタンと音を大々的に響かせて乱暴乱雑そして力任せにドアを開く。ミコが初めて見せた意外とも言えるガサツさや乱暴な一面もそうだが、衝撃的だったのは部屋の中――。
死した妻の顔を持ち上げ、唇を重ね濃密に吸い合う父親というネクロフィリア――屍姦症行為の現場の方だった。父親の異常性癖、異常性欲、死体性愛を目撃し、キティとアイズは顔を引きつらせるより先に身体そのものが固まってしまった。
そんな中前に一歩、部屋の中にミコは踏み出し、妙によく響くまるで楽器のような手拍子の音をパン、パンと二回鳴らして目撃者の存在を音で知らせると父――クェンティンが振り向く前に、その背中に詞の鏃を射し込んだ。
「夫婦円満の秘訣は何度なく惚れ直し惚れ続けることにあるとも言いますが、他方で気持ちが通じ合わねば何処まで行ってもすれ違い。愛にならない現状は、やがて憎悪なり偏愛なりにカタチを変え、狂気の沙汰へと人を動かすとも言いますね。さてクェンティンさん、死した妻の死化粧した美しさに惚れ直して、抵抗できないのをいいことに一方的に愛欲を押し付けているあなたの行為、どちらにカテゴライズされるのかしら?」
皮肉たっぷり挑発的な口調でミコは問いかける。その詞はキティの、アイズの、そしてクェンティンの耳にも入る。するとクェンティン。濃厚な口づけをやめて妻ベアトリクスを元通り寝かせると、こっちにこわーい表情を向けてきた。
「なんだお前は? 夫婦の営みにケチつける気か? 大体何勝手に家に入り込んでいるんだよ。誰の許可を取った? その上俺とベアトの子供を我が物顔で侍らせやがって。いや……これは我が子の危機意識の低さが招いた失態か。躾けなきゃな……親父の鉄拳家財でバーンだ!」
躾、と称してクェンティンはそこらにあった箱やら椅子やら家財道具をミコの横に控えていた、まだ部屋にも入っていない――否、入れなかったキティとアイズ目掛けて雨霰と投げつけてきた。ただでさえ異常な光景見せられてその場に固まった二人である。避けられるはずもない。方程式はピンチと出る。
が、そんな兄妹のピンチを救ったのは一時的な「ごっこ」とはいえ『姉』になっているミコである。右足を浮かしてちょいと揺らした後、とんでもない技名と共に動いた。キティとアイズを守るべく。
「『親父の鉄拳家財でバーンだ!』……返し」
そう平然と呟いてミコは身体を翻し、右足で一回転の回し蹴り。その過程で飛んできた家財道具全てを弾き飛ばし、クェンティンの方に蹴り返してしまったのだ!
「ん? 返し? ってうお!」
悲鳴を上げるが既に遅し。クェンティンはミコに蹴り返された家財道具の集中投下を受け、死した妻が眠るベッドの横の床に倒れ、次から次へと落ちてくる家財道具に潰されて、完膚なきまでに身動きとれない状態にされてしまったのだ。
(姉様……すごーい!)
ミコの美技は固まってしまったキティを感心させると同時に、硬直状態だったキティが再び動けるようになれる呼び水となった。動けるようになるとすぐにキティはミコの手に縋る。反対側でアイズも同じようにしているのを見て、ああ……兄妹だなと思ったものだ。
そんなスキンシップをしている間に、思わぬ反撃を食らった父クェンティンは家財道具を剥げ捨てて起き上がり、こちらに不満げな表情を見せつけてくる。
それを意にも介さずミコは自分のペースで一方的に話しかけた。
「始めましてお父様。わたしはミコ=R=フローレセンス。今日からしばらくキティとアイズのお姉ちゃんをやる女。あなたが父親として再起するまでの姉妹ごっこの御世話役。それだけよ、じゃあね〜」
本当にそれだけ。喋り終わったミコはおもむろどころかくるりと素早く身を翻し、キティとアイズの手をとって部屋を後にした。開けっ放しだったドアは、さりげなく影帽子のがま口チャックから出した黒い足で蹴り飛ばして閉めた。まさに無礼講。
「姉様……これでよかったの?」キティは下から上目遣いでおずおずもじもじとお伺いを立てるように訊いてみた。言いたいことにも先があり、それを言おうとした矢先、兄に機先を制された。物凄く悔しい。
「あれだけじゃ姉上がボク達の世話をするってことしか伝わってませんよ。姉上はなによりもリバムーク・プロトタイプを蒔く為に我が家に来てくれたって、言わなくていいんですか」
「いいのいいの。そんなのあとで」
キティが言いたかったこと、アイズに言われてしまった質問第2弾はミコに素気なく弾かれた。「ええ〜」とショックを受けずに済んだキティは兄が急ぎ足のせいで被害を被ってくれたことに感謝しつつ、ミコの真意を計りかねていた。するとミコはこちらがなにも言っていないのに、淡々トントンと訳を説明し出したのだ。
「一度に全部情報をくれてやるとね、聞いてる奴の欲を掻き立てるのよ。そういうの、非力なあなたたちの立場からして善くないと思ったの。リバムークの種持ってますなんて言ってごらん? お父様はその場でキティから種を奪い取ってたでしょうに。それよりは黙ってことを進めていざ花が咲いたとき、その圧巻の光景でもって正気に戻した方が面白いじゃないの。そりゃ子供心理として父のネクロフィリアが後2ヶ月も続くのは耐え難いものがあるでしょうけど……そんなの忘れるくらい、わたしが『お姉ちゃん』として愛をあげるよ。だから、勝負の時までお父様は放っておきなさい」
「姉様……」うっとりしながらキティが聞き入っていると「それとね」とさらにミコは話を続けた。
「人生の先輩として&お姉ちゃんとして忠告しとくけど、口が軽いと長生きできないわよ。『軽口』と『好奇心』、そして『秘密主義』は、人生削るし、身を滅ぼすわ」
「お、おお……なるほどー」
反対側のアイズがミコの発言に勢い呑まれたといった風に辿々しい口調で相槌を打つ。キティはそれをじとーっとした半開きの目で眺めつつ、ミコの詞を噛みしめていた。
(確かに「好奇心は猫を殺す」って言うものね。他ふたつは姉様がすでに二周した人生で体得した心得――大切にしなきゃ)
キティはミコが教えてくれた教訓を何度も心の中で繰り返し唱え、頭が悲鳴を上げるほどに厳しく叩き込んだ。深愛する姉が教えてくれた、長生きのコツを。
だがその行動は決して声には出てなくても、繋いだ手越しにバレバレだったらしい。ミコはキティに追加で助言した。
「覚えようとしてくれてるのは嬉しいけど、頭だけじゃどうにもならないわよキティ。こういうのは頭だけじゃなく身体で、すなわち経験、身体でも覚えてはじめて体得できる。忘れずにいられるの。辛い経験前提なのはちょーっと未来に腰が引けるけど、そのときは今叩き込んだ頭の方で思いだして。『引き際』だって、撤退して。そうして危機回避できてはじめて、わたしの詞が身に染みるはずよ」
「姉様……うん! わかりました!」
キティはめいいっぱいの愛想を振りまく顔をしてミコの気持ちに応えた。人生善いことばかりじゃない。時にはゼロを通り越してマイナス、奈落の底まで墜ちる日もある。そういうときに役立つのだろう、ミコが教えてくれた教訓は。
そうして自然と会話が終わり、三人は黙って廊下を歩き、花畑へと向かっていった――。
「こりゃひどいわ。ここまで病んだ畑を見たのはわたしもはじめてよ」
屋敷を出て道の向こう側に位置するなだらかな丘陵――母ベアトリクスが花畑にしていた場所の惨状を見てミコが驚嘆の詞を発する。花は朽ち、茎は腐って土に倒れ、土壌を歪な色に染めている。腐った空気が充満し、虫さえも寄り付かない場所となっていたかつての花畑を見て自然と飛び出たミコの発言。反論する余地などない。事実花は枯れ果てて、母様も死んだのだから。
それでもミコはやはり大人にして姉、そして知識人であった。その眼力でもってこれがなんの惨状なのか、説明を始めてみせたのだ。
「これは厄介なモノを発症したわね。まさか壊発腐眠症だとは……お姉ちゃんも予想外」
「ええっ! 姉上はこの病気、知っていらっしゃるんですか?」
アイズがびっくりだーって顔をして訊くと、ミコは「ええ」と頷いた。
「壊腐病素子っていう細菌でもウイルスでもない病気の素が発症したってことよ。風に運ばれこの土地に根付き、その数を増やし発病まで潜伏していた。お母様は一番この花畑の手入れをしていたんでしょう? だったら、なんらかの経路で病素が潜り込んでも不思議じゃないわ。それが不幸にも発症したってことなのでしょうね。実に善くない。手は早急に打つべきね。キティ、アイズ、手を出して」
はい――キティとアイズは言われた通り、ミコの取りやすいように手を持ち上げた。ミコはその手を自分自身の手で強く握ると、いきなりビリビリ、二人を痺れさせた。
(なにこれ、電流? いや……なにかエネルギーみたいなものが全身を駆け巡ってる)
とっさにミコと繋いでいた手を離し、全身の様子を確かめるキティ。それは自分固有の反応だと思っていたが、そこはやはり兄妹である。さっき心で呟いた詞を音で聞いたので視線を向けると、アイズもおんなじようにしていた。それを見た途端キティはげんなりするが、それ以上に身体がリフレッシュされていくのを感じていた。
身体が洗われ、気力に満ちる。ほどなくしてその種明かしはミコの口からもたらされた。
「免疫信号と浄化信号をブレンドしてあなたたちの身体に流し込んだわ。これであなたたちの中にある壊腐病素子は消滅させられるはずよ。ま、ちょいと媒体にしたエネルギーの量が多かったかもしれなかったかもだけど。甘んじて受け取りなさい。そして……」
「そして? なんですか、姉上?」
「見てみなさいよ。花畑の方」
ミコがそう言うのでキティとアイズは俯けていた視覚を広げ、その眼を死して腐って朽ち果てた花畑に向け……目を丸くした。
なんと腐敗した花や草が、黒い炎に覆われて、燃やされていたのだから。驚かない方が無理だろう。キティもアイズも同時にミコに顔を向けると、それを待っていたかのようにミコは活き活きと話しだす。
「あれこそ影の秘術のひとつ、焼却影炎。わたしは自分以外の影にも秘術を使うことができるからね。その応用技がアレ。腐敗し腐臭を放つ死んだ草花の影を意味変え火に変え炎に変えて、絶対に逃げられない黒い影の火で焼いてるわけなのよ。もちろんあなたたちにしたように信号も付加しているわ。浄化信号と乖離信号をね。免疫信号は付けてないわよ。意味ないから。この花畑を一度焦土に変え、その上で再生させる。ちなみに消火の心配はないわよ。影の炎は元である草木を燃やしつくして跡形もなくした後、影の理に従って自然消滅するからね」
珍しく得意気に話し、胸まで張ってみせるミコを横に、キティは呆然と焼畑農業ライクな灼熱地獄を眺めていた。いや、地獄という表現はおかしいかもしれない。なんせ燃えているのは病を抱えて死に至り、挙句の果てに母の命まで奪った病魔達である。だから地獄という表現に一瞬疑問を感じたのだが――しばらく眺めていたら腑に落ちるものを感じた。
(ああ、そっか……母様を殺した憎い連中だからこそ、地獄で悶え苦しみ死にゆく結末がふさわしい。元から似合ってる悪だからって地獄煉獄以外の選択肢なんてないわけね。もっとも、姉様にしてみたら、単純に効率の話なんだろうけど……やっぱり深読みしちゃうよねー)
キティは考えをまとめ、8歳の身長から黒炎の煉獄を眺め直した。ミコが説明したように、病魔の処理だけに「浄化」という詞じゃないかなんて、最初こそは思っていたものの、生死の狭間で繰り広げられる喧騒にはやはり「地獄」という詞の方がしっくりくる。
合点がいったところでその行く末を見届けようとしたキティだが、そうは問屋が卸さない。というより、ミコがそうさせてくれなかった。「さーて、行きますかー」と謎発言をしたミコは、影帽子のがま口チャックを開けて、中からなんと車を一台、取って出してみせたのだ。しかも4人乗りのオープンカー。道にドスンと置かれたそれに、キティもアイズも唖然としている。
「ね、ねーさま? これは……えっ、この車はなんのために……?」
呂律の回らない口ぶりでなんとか心に思ったことを正直に伝えるキティだが、その瞬間、ミコから発せられる気配が変わった。まるで猫から豹に脱皮したかのような、まさに変化変身と言わんがばかりのモードチェンジ。ただ明らかなのは、今のミコから感じる気配はとんでもないと言っても過言ではない闘争心だということである。それだから怖い。得体のしれない闘争心が、未来をまったく予想できなくしているから。
しかしそんなこと考える暇さえなかった。というより、考えること自体無駄だった。杞憂だったのだ。
なんせキティとアイズの身体は、ミコの影帽子からまた現れた黒い腕に引っぱられ、本人達の意思完全無視のまま、ミコが用意した車に乗せられてしまったのだから。
同意を示す隙もなく、ミコは二人を後部座席に乗せた後運転席に乗り込んで、仰天の詞を口走った。
「乗ったわね。じゃあトランスフェイクの町に行くわよ」
「ええっ! 町に? なにしにいくんですの姉様?」
キティの反応は至極自然な詞のやりとりだった。その詞にのせた只事ではない感情も、これまでの流れからすれば当然だった。そう、これはキティにしてみればできる限りの講義なのだ。
が、相手はミコ=R=フローレセンス。姉で旅人で大人である。キティのそんなめいいっぱいの意見など気にも留めずに一蹴し、強引に自分の話を進め続ける。キティにとって救いだったのは、ミコの話が一応自分の疑問への回答になっていたことであった。一応さっきの台詞はミコのものと会話の体を成していたらしい。
「町に行く目的はふたーつ。ひとつ、アイズが詐欺られた分の落とし前をつける。そいてふたーつ、下がりに下がりストップ安のノイマン家評価を立て直しに行くのよ」
「姉上、ボクが盗られたお金取り戻してくれるんですか? でもって、うわっ!」
アイズはそれ以上喋れなかった。キティも声など出せなかった。悲鳴なら出せたかもしれないが。なんせミコはアイズの話を最期まで聞かず、町へと車を走らせたのだ。その際ようやく車の方向が町とは逆方向に気付いたのか、過激に苛烈にアクセルターンで方向転換し、町に向かってアクセル全開、一気に車を飛ばしたのだ。
しかもさすが大人というべきか、手際が良すぎる。次にミコの口から出たのはこんな詞。
「影の秘術のひとつ、影間強制思話通信の技報黒放影で今トランスフェイクの町の連中全員に宣戦布告したわ。売り詞に買い詞って本当ねー。町の連中共、こっちの挑戦受けて立つって、笑いながら応じたわ」
オープンカー故に強烈に当たる風のせいで後ろ向いて泳いでいたキティとアイズの頭が、超反応と言っても過言ではない反射速度で起き上がった。当然である。ミコがさも当然のように話したことは、極めて重い問題を、わざわざ起こしたという告白だったからだ。ミコの真後ろに座っていたキティは、逆風の中ミコの座っている座席にしがみつき、顔を突き出してミコの横まで持っていて講義&抗議する。
「姉様、わかっているんですか! トランスフェイクに宣戦布告なんてしたら……家の町の決着の付け方はっ!」
「過酷を極める無茶競技のオンパレードでしょ? わたしを誰だと思っているのキティ? あなたのお姉ちゃんよ? 町の特徴なんて、知ってて当然でしょうに」
そこは旅人だからとか人生三周目の知識だからとかじゃないの姉様――キティは風に掻き消されるほどの小声で悩ましげに突っ込むと、声量を戻して話を再開した。
「知っててなんでやるんですか! 町全体に宣戦布告なんてしたら、敵の数は115,115人にものぼるんですよ! こっちたった三人じゃないですか! 勝ち目無いですよ〜」
悲観的な考え方に当たる逆風の痛さも相まって、キティの目から涙が飛んでいく。ただでさえ父クェンティンと兄アイザックの醜態のせいでノイマン家の評判はミコのいう通りストップ安、もはや地に底腐った料理。それを再評価させるためとは言え、トランスフェイクの誇る(恥とも言う)無茶競技で挑むとは。無謀を通り越して偉大である。もちろん悪い方向で。
しかしミコには勝算というか考えがあるみたいで、自信満々に事の仔細を教え出した。
「相手は115,115人だからね、対してこっちは三人。『闘いは数』なんて論理を信じきっている町の連中は競技の決定権を完全にこっちに委ねてくれたわ」
「なに選んだんです!」自分も参加確定となっているアイズが口を挟んでくる。ミコはさらにシフトレバーでギアを入れ替えスピードを上げると、心底楽しそうに答えてくれた。
「『千畳大広間枕投げ合戦』、『持久走料理対決』、『町内大かくれんぼ大会』の3つよ。心配いらないわ、順番決めの決定権もこっちのもの。ノイマン家をバカにした連中が泣いていい子になることを誓うような大どんでん返しを魅せてやろうじゃないのよ!」
ミコはそう言い切ってさらにアクセルを踏み込んでいく。さらにスピードを増すこの車にキティは限界がないのかと心中突っ込んだが、どうやらこの車限界も問題もないらしい。
町への距離も到達時間もぐんぐん縮めるミコのオープンカー。その後部座席からミコの座席に乗り出していたキティはもう追及することをやめてバックの席に背中を埋めた。超今更と言われるかもしれないが、今更になって理解したのだ。ミコは姉様であり、同時に独裁者であったということに。
それがわかったら暖簾に腕押し。いくら訴えても不起訴が善いとこだろう。ならば限られた人生、無駄にすることもない。ミコには策があるようだし、それにのっかってみようと思った次第でありました。
そう思っていたら唐突に、顔に風を感じなくなった。なんでだろうと横を見ると、風が、気流が綺麗な壁を作っていた。図鑑で読んだことがある。スリップストリームだ。
この車は空気を整流する機能まで持っているのか――心底ミコの徹底ぶりにキティは尊敬傾慕の念を募らせる。そして風がシャットアウトされ楽になったオープンカーの後部座席でしばしの間目を閉じた。
迫る決戦の時。それはもう待ったなしで、ぐんぐんこちらから近付いているのだから当然。だからこそ、残り短い闘いまでの間は穏やかでいたいと、キティは願った。
目を閉じた少女が感じるものは、視覚以外が教えてくれるつかの間の心地良さ。そして内心昂っている、ミコにも負けない熱き闘志。
ノイマン家名誉回復の大義名分を賭けた闘いの火蓋が、まもなく切って落とされる――。
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