五百年の楓 其の四

 山梨県にある身延山地みのぶさんち宿坊しゅくぼうと呼ばれる、寺が経営する宿に逗留することになった。

 宿坊とは基本的にお寺であり、ご修行やお参りのための宿なので、ホテルのようなサービスはないし、トイレも共同だった。料理はいわゆる精進料理で、地元で採れた新鮮な山菜や野菜の天ぷらや煮物など、ゆばやごま豆腐も味わい深い、何よりも米が美味かった。

 宿坊の住職に「この辺りに楓の木が有名な場所がありますか?」と訊いたところ「身延山東参道の奥に古い楓の木があって、一説では五百年は経つと言われています。その楓は季節外れに、いきなり真っ赤に紅葉する不思議な木なのです」と、説明された。

 その季節外れに紅葉する楓の木と言うのが夢の男が言っていた『血染めの楓』のように思えて、そこに行ってみようと僕は思った。

 久しぶりに、そういう日本的な霊的パワーに触れて、いわゆるスピリチュアルスポットにやって来て、僕の五感は研ぎ澄まされたように思われる。


 身延山は標高1,153mの山である。そこにある身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)は、鎌倉時代に日蓮にちれんによって開かれたお寺で日蓮宗の総本山だ。

 その東参道を二時間ほど、かなり急勾配な山道を登って行く、目印に聞いた滝から山道を外れてケモノ道に入って行く、深い山なので迷子になって遭難しないか、ちょっと心配になった。そこから更に三十分くらい歩いて奥に入ると楓の木があるらしい。そこは地元の人しか知らない場所だと住職に訊いた。

 深い森の中をずんずん歩いて行く、ここでいいのか? あっているのか? 夢の男に訊いた話なので何の根拠もない。一時の衝動に駆り立てられて、ここまでやってきたが――。

 果たして、『血染めの楓の木の元で女が待っている』という、その楓が本当に、ここにあるのだろうか? 

 木々がざわざわと風に揺れたと思ったら、天から紅いものがひらひらと降ってきた。

 僕の肩に掛かったものを指で摘まんで見てみれば、ひとひらの紅葉だった。《こんな季節に紅葉こうようか?》もしかしたら、これがあの血染めの楓の木なのか!? 

 何かに引き寄せられるように、いきなり駆け出した。


 そこだけ真っ赤に紅葉した楓の木の下で、女がひとりたたずんでいた。

 風景に溶け込んだ女の輪郭はぼんやりと薄く、白い着物の足元は血のように赤い楓が敷き詰められていた。

 そこから霊気が放たれて、もはやこの世の者ではないことは窺いしれた。『血染めの楓』の元で待っているというのは、この女かも知れない……。

 震える声で僕は話しかけた。

「――あなたは?」

『わたくしはここで待っているのです』

「誰を待っているのですか?」

喜助きすけを待っています。楓の木の元で五百年待ち続けました』

 そう言うと、女は悲し気な顔で薄く笑った。

 五百年……五百年も誰かの言葉を信じて待っていたというのか? その女のけな気さが憐れに思えた。僕は鞄の中から櫛を取り出し、それを見せた。

「こ、これを……」

『折れておるが、ギヤマンの櫛!』

 僕の手の中の櫛を見て、女がそう叫んだ。

「ここで待っていたのは、この櫛を受け取るためだったのですか?」

『いいや! 櫛などではない。わたくしが待っておるのは喜助じゃ!』

 喜助? 誰だろう。

 もしかしたら僕の夢に出てきた、あの男のことだろうか。

「僕が代わりに櫛を届けました」

『喜助が来ない、来ない、来ない……』

 女が泣きながら『来ない』を連呼する。

 五百年も待っていたのに期待が裏切られて、さぞ悲しいだろうと僕にも分かる。

 そして落胆したようにガクッと肩を落とした。その瞬間、女の頭がもげて地面にぽろりと落ちた。「ひいぃぃ――――!!」あまりに驚いた僕は、飛び上がって尻餅をついた。

 その時、鞄の中から飛び出した観音像が女の方へころころと転がっていった。すると、観音像の中から白い煙のようなものがモクモクと立ち込めて、やがて、それは人の形へと変化していった。――その情景に声もなく、驚愕した僕はただ見ていた。

紅芭くれは、俺だ』

『その声は……』

喜助きすけだ』

『喜助!』

 いつの間にか、女は先ほどの人の姿に戻っていた。

『ずっと、ずっと……楓の木の元で待っていた。なぜ早く来てくれなかった?』

『すまね。紅芭、聴いてくれ、実は……』

 ふたりの霊魂は人の形になり抱き合っている。どれほど長い間、お互いを待ち焦がれていたことだろうか。いったい、何が起きてこうなったのか僕も知りたかった。


 これから喜助の長い話が入る。掻い摘んで説明すると――。

 楓の木の元で待っている紅芭を残して、急いで喜助は小屋に帰った。隠して置いたギヤマンの櫛を取り出すと、なんと! 真っ二つに櫛が折れていた。これは不吉だと嫌な予感がしたが、とにかく、これを持って紅芭の元へ戻ろうと小屋を飛び出した。

 途中、滝の辺りで三人ずれの武士に出合った。慌てて、茂みに隠れてやり過ごそうとしたら、奴らの話し声が聴こえてきた。そこで男たちが紅芭を犯して、殺めたことを俺は知った。そして真っ赤に染まった袋の中には……愛しい紅芭の首が入っていることまで聴いてしまった。 

 俺の大事な紅芭の命を奪った奴らが憎い! 

 紅芭の仇を討つために、いったん小屋に帰り、平家の落ち武者の家系なので、床下には武器が隠されていたのだ。

 山は子どもの頃から駆け回っていたので地形を分かっているし、夜目もよく利く、槍と弓などを持って、再び小屋を出ると、滝の辺りで夜が明けるのを待っていた、武士たちを襲撃した。

 一人目は小用しているところを音もなく近づき槍で突き刺し殺した。二人目は不穏な気配を感じて仲間を探しに来たところを矢を放ち、動きを止めたところで大きな石で頭を叩き割って殺した。残る最後の武士は相当な手錬れ(てだれ)と見えて隙がない。

 奴は仲間を襲った見えない敵から身を守るために、見晴らしのよく利く、滝の上の崖に陣取って俺を待ち構えているようだった。――紅芭を喪った俺は自暴自棄になっていたので、この武士と遣り合って相殺そうさつでも構わないと考えていた。


 俺は野兎の巣で捕まえた兎たちを放って、奴の注意をそっちに向けた瞬間に飛び出して、槍で突き刺したが、さすが急所は外され刀で槍の先を切り落とされた。だが、土地勘のある俺はすばしっこい。

 刀で向ってきた敵に俺は吹き矢を放つ、それが運良く目に当たって動きが止まった。槍の棒で何度も叩きつけ奴の刀を落とさせた、小刀で斬りつけ組み合って殴り合いとなった。

 奴を道連れに、俺は死ぬ気だったので「死なば諸とも!」組み合ったまま、地面を転がり崖から滝壺へ二人で落下していった。


 気が付いたら、川に流されていたが俺はまだ生きていた。

 だが、すべての記憶を失っていたのだ。自分が誰か分からないまま山野を彷徨っているところを旅の僧侶に拾われた。偶然なのか、運命なのか、その僧侶は都へ行くのだという。

 新しく建立された寺院へ赴く途中だったが、お供の者が病に倒れて、難儀していたところだった。俺が経典や仏具の入った大きな葛籠つづらを担いで京都まで僧侶のお供をすることになった。

 その後、その僧侶のお供の者として都の寺で世話になった。

 俺は観音像を彫るのが巧かった。なぜ、そんなことができるのか、自分でも分からないまま、彫った観音様の顔はいつも同じ女の顔で、どこか懐かしく愛しい感じがする。だが、この女が誰なのか思い出せなかった。

 しかも俺の懐には折れた櫛が入っている――これも誰のものか分からない。ただ、観音像の顔の女と深い繋がりがありそうだと思っていたが、俺の記憶は生涯戻らないままだった。

 やがて天命が尽きて召されるとき、死の瀬戸際、俺の記憶は走馬灯のように巡り思い出したのだ。――俺のことも、櫛のことも、そして楓の木の元で待っている女のことも……すべての記憶が死の淵で蘇えった!

 俺の魂は天に昇らず。この観音像に憑依して、いつか紅芭に逢えることを願いつつ、悠久の刻(とき)を過ごしていた――。


『楓の木の元で俺を待っている。おまえにどれほど逢いたかったことか』

『わたくしはいつか喜助が来てくれると信じておりました』

『やっと逢えた!』

 ふたりの霊魂は融合して輝く光の柱になって天に昇っていこうとしていた。互いに強い念から解放されて、やっとできるのだ。

『ありがとう……』

 どこからか声が聴こえた。

 僕の力でふたりを逢わせて上げられて良かった。感謝して貰えて僕も嬉しいよ。

 五百年の永久の時を経て、ふたりの想いが重なり合って、都ではなく天へと昇っていった。楓の葉がまるで別れを惜しむようにひらひらと空中を舞っている。

 ふたりの固い絆にいつしか涙を流しながら、美しい昇天の儀を見ていた。

 さらに不思議なことに、僕が手に持っていた折れたギヤマンの櫛がきれいに直っていたのだ。たぶん、この櫛はふたりが裂かれる運命を予知して折れたのかもしれない。


 京都に帰ってきた僕は、あのふたりのためにほこらを建てた。

 そこには喜助が彫った観音像と櫛を奉納して、その傍に楓の木を植えることにした。血染めの楓の木は一晩で立ち枯れてしまったと宿坊の住職に、そののち訊いた。五百年も樹齢があったのは、紅芭さんの強い残留思念力(呪い)のせいだったのかもしれない。

“信じていれば、待つことは辛いことではない”五百年待ち続けた愛はきっと極楽浄土で輪廻転生を待っていることだろう。来世で、ふたりが再び巡り逢い、今度こそ生きて幸せになれることを心から願っている。

 理数系脳の僕だけど、この不思議な経験に触発されて、自分自身で《愛の方程式を解いてみたい》なんて、思い始めていた。


 いつか紅い楓の木の下を、未来の恋人と手を繋いで歩きたいと――。



                ― 完 ―

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