五百年の楓 其の二
――それが、ある日、こんな山奥にまで追手がやってきたのです。
わたくしが裏山で山菜を採っていると、小屋の方へ役人と思われる武士たちがやってきたのが見えたのです。
慌てて草むらに身を潜めて、小屋の様子を窺っておりました。
戸口に立っている喜助は、役人に何を訊かれても、首を横に振って知らないと答えているようでした。
利口な喜助は、わたくしが
それにしても……こんな山奥まで調べに来るとは、館の主はギヤマンの櫛とこのわたくしにそれほど執着しているのか? 執拗に探し回っているようで怖ろしい。このままでは、いずれ見つかってしまうだろう。一刻も早く逃げ出さねば……喜助にも迷惑が掛かってしまう。
いつまでもぐずぐずしている場合ではない、わたくしは再び旅立つ決心をいたしました。
今宵、最後の情を交わした後、喜助が寝込んだのを見計らって、わたくしは羽目板の中から荷物を取り出しました。すると、中に入っているはずのギヤマンの櫛が見当たりません。
姫君の大事な形見の品を、誰が……まさか喜助が売ってしまったのでは……という疑念を抱きましたが、まさか、起こして訊く訳もいかず……わたくしを助けてくれた、この男に恩義として、差上げても構わぬかと諦めました。
喜助の寝顔に別れを告げて、涙を堪えながら小屋を出て行きました。
もう、振り向くまい!
そう心に誓って、ずんずんと山の奥へ入って参りますと、深い森の中に月光に照らされた一本の楓の木がございました。
まだ紅葉の季節でもないのに、不思議と、その楓の木だけが真っ赤に紅葉しておりました。その妖艶な美しさに、わたくしは目を奪われて……しばし立ち竦んで見惚れておりますと――背後から、誰かの呼び声がしました。
はたと我に返り振り向けば、そこには喜助が立っています。
「……
はぁはぁ……と息を切らせて、走って追い掛けて来たようです。
「――喜助」
「ひとりで行くなっ!」
「わたくしは都へ戻らねばなりませぬ」
「だったら、俺も一緒に行く」
「えっ?」
「おまえと暮らしたい。俺も都へ連れていってくれ!」
「喜助……」
その言葉に、わたくしの心は揺れました。
「俺は……紅芭の下僕になってもいい! 決して、おまえの傍を離れない」
見れば、喜助の目には光るものが……。わたくしの目にも涙が溢れました。
嫌いで別れる分けではない。
もはや、後戻りはできない。覚悟を決めて《死んでも別れない。一緒に都へ参りましょう》と、互いの想いが重なり――ふたりは誓い合った。
「ギヤマンの櫛は俺が持っている。紅芭が勝手に出て行かないように、実は隠して置いた」
喜助がそう白状した。
「今すぐ、小屋に取りに帰るから待っていろよ」
わたくしが不安そうな顔をすると、喜助は笑って、
「この楓の木の元で待っていてくれ」
「喜助!」
「必ず戻って来るから!」
そう言って、慌てて来た道を戻って行く。
ひとり残されて……真っ赤な楓の
どうやら油断したようで、待っている間に目を瞑りうとうとしてしまった。
パキッという小枝の折れる音でハッと目が覚めました。喜助かと思って、暗闇に目を凝らすと……それは追っ手の武士たちだった。
「
「あなたの姿を見かけたと里の村人が噂しておりました」
「都の女は美しいので、この辺りでは特に目立つのじゃ……」
屈強な東国武士三人に取り囲まれて、もはや逃げる術もない。
「我ら、お館様にギヤマンの櫛と紅芭どのを連れ戻すように命じられておる」
武士が乱暴に腕を引っ張って連れて行こうとする。
「放せ! 下郎ども」
逃げようと必死に抵抗するが……しょせん、女の力では敵わない。《嫌じゃ! もうすぐ喜助がここに戻ってくる》館の主の元へなんぞ戻りたくなかった。
「おいっ、ギヤマンの櫛はどこだ!?」
わたくしの荷物を探っていたもう一人の武士が訊いた。
「……く、櫛は谷に落ちた時に失くしてしまった」
わたくしがそう答えると、
「なんだと? 嘘をぬかすなっ!」
ギヤマンの櫛が見当たらないことに、激昂した三人目の武士がわたくしの肩を掴んで楓の木に突き飛ばしました。よろけて倒れた、わたくしの頬に何度も平手打ちをくれた。
「どこだ? どこに隠した!?」
「この女、身ぐるみ剥いで調べるぞ!」
「よーしっ、やれい!」
わたくしは乱暴に着物を剥ぎ取られてしまいました。
「さすが、都の女は肌がきれいじゃのう」
素っ裸の女を見て、男たちは口ぐちに野卑なことを申します。
その後、男たちが無体な所業を! 穢い獣のような東国武士たちに替わるがわる、わたくしは凌辱されてしまったのです。泣きながら、《喜助、助けて!》心の中で何度も叫びました。
やがて事が終わって……。
「どうやら、ギヤマンの櫛は無いようだ」
「この女どうする?」
「犯してしまったことがお館様にしれたら、わしらが叱られるぞ」
楓の木の元で、惨めな姿で横たわっている女を見て男たちが相談し合っている。
「――見つけた時には女は山で死んでいた。櫛は持っていなかった……」
「ふむ……」
「――そう言うことにして、女を殺せ!」
突然、男はわたくしの喉を刀で掻き斬った!
絶叫と共に真っ赤な鮮血が辺りに飛び散って、楓の木が血飛沫で染まっていく。
最後に《喜助―――!!》と強く心の中で念じて、わたくしはその場で息絶えました。
その後、武士たちはお館様に見せるために首を斬り落とし、わたくしの着物に包んで持っていったのです。
楓の木の元に首の無い女の死体が打ち捨てられたまま、流れだす血潮が地中に吸い込まれていく――。わたくしの憐れな末路でございました。
『喜助、早く戻ってきて……』
おまえに逢えずに死ぬのは嫌じゃ!
辱めを受けて殺されたのは無念でならぬ!
この世に未練と怨念を残して死んで逝った、わたくしの魂は成仏できず、やがて楓の木に宿りました――。
わたくしの骸を山犬や野猿がきて肉を喰い骨を砕いて、無残な姿になりました。その上、骨を咥えてどこかへ持って行ってしまうのです。やがて、肉体は腐敗して、蟲どもが湧き、徐々に干乾び、骨だけが残り、やがて朽ち果てて……土へ還っていったのでございます。
その有様を楓の木に宿った、わたくしの魂は、ただじっと見ているしかないのです。
ああ、口惜しい。
『喜助、おまえをここで待っています』
ずっと、ずっと……この楓の木の元で喜助を待っている。
たとえ肉体が消滅しても、この想いだけは消えませぬ。わたくしの一念は残留思念力(呪い)となって、喜助を待つために楓の木に憑依して自縛霊となりました。
そして長い長い時間、この楓の木の元で喜助を待つことになるのでございます。
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