「うーむ……」

 平間は言葉に詰まっていた。言いたいことがいくつかあり、何から指摘すればよいか迷っていたためである。また、平間の中である確信が生まれていた。

「本物か……」

 おそらく目の前にいる少女は本物の皇女殿下だ。刺青、服装、口調、佇まい、そして今の話を聞いて分かった。この子は恐ろしく現実と言うものが見えていない。今まで美しいものしか見たことが無いのか、そんな印象を覚えていた。

もし仮にこれが真っ赤な嘘で、かつ少女が盗人の一員だとしても、ここまで質の高い嘘になら騙されてもいいとさえ思える。しかし、今となってはその可能性も低い。

彼女が本物であるとすると、話が変わってくる。

「ひとつ聞かせて欲しい」

「何か」

 顔を上げて壱子が応える。

「いや、その前に跪くのをやめていただきたい」

「しかし……」

「お願いいたす」

「……分かった」

 立ち上がった壱子と入れ替わるように、今度は平間が膝を付いた。


「確かにこの平間京作は権力欲にまみれた俗物です。ですがもし俺……いや、私わたくしが、あなたの、殿下の願いを聞き入れたとしましょう。その後、殿下が追っ手に見つかり連れ戻されたとき、私はどうなりますか」

「……どう、とは?」

 ああ、やっぱり。平間の疑念がほとんど確信に変わって行く。

この娘は平間の質問の意味が分かっていない。


「質問の仕方が悪かったです。陛下は、あなたのお父上は、その時私のことをどのように思われるでしょうか」

「……わからぬ」

「きっとこのように思われるはずです。私が、皇室の一員たる殿下を、拐かどわかしたと」

「それは違う!」

「違いませぬ」

「違います! 私は自ら望んであなたに付いて行くのです」

「違わぬのです殿下!!」

 思わず声を荒げた平間に、壱子が今回は怯んだ。


「……申し訳ありません。ですが、違わぬのです。なぜなら私は今、公おおやけが殿下を探しているのを知っています。公とはすなわち帝です。その上で私が取るべき行動は、殿下を連れ戻すことです。なぜなら、この国で最も貴とうとい方は帝であり、また私はその臣であるからです。にもかかわらず、私があなたの素性を隠して共に旅に出たとしましょう。これは即ち――」

「兄上への叛逆、か」

「そうです。その事実に、今のあなたの意思は介在しません。あなたが見つかった時点で、私は皇女殿下を拐かどわかした大罪人になるのです。まず間違いなく、陛下に死を賜ることになるでしょう」


「それでも……お主は私の素性を知らなかったと言えば!」

「関係ありませぬ。罪は行動からのみ生まれるものです。知ろうが知るまいが、皇女殿下を帝の意に反して連れて歩いたと言うだけで、充分死罪に値します」

「そんな……ではどうすればいいのじゃ」

「お戻りなさいませ」

「……嫌じゃ」

「殿下」

「嫌なものは嫌じゃ!」

駄々っ子のように言う壱子は、やはりまだ子供なのだろう。ほとんど泣きそうになっていた。


 それを半ば無理やり無視し、平間は追い討ちをかける。

「……ではもう一つ、申し上げましょう。殿下の身の回りの世話をしていた者たちは何名おりましたか」

「二十人ほどじゃが、それがどうした」

「その尽ことごとくが数日のうちに死ぬことになります。殿下がお戻りにならなければ」

「何故じゃ」

「殿下が王宮を抜け出すのを止められなかった咎とがで、です。もしかしたら彼らの伴侶や親、子に至るまで皆、首を落とされるかもしれません」

「それは……」

「彼らの為にもお戻りなさいませ、殿下。それだけ殿下のお生まれは貴いのです。酷な事ですが、あなたの行動一つで何人もの臣を死に至らしめるのです。聡明なあなたのことですから、それが理解できぬはずはございますまい」


 平間がここまで論を広げて壱子を説得するのには理由があった。

 まず、平間は危険を冒してまで自信の欲に従うような人間ではない。しかるに、彼はなるべく穏便に、自分に何の負の影響もないように壱子を皇宮へと返すことを画策していたのである。

「……分かった」

 しぶしぶ、といった口調で壱子が言った。


「有難い。ではすぐにでも――」

「いや、戻らぬ。と言うか、戻れぬ」

「……は?」

 壱子の予想外の台詞に、平間は思わず間抜けな声をあげた。

「理由を、お聞かせ願えますか」

「良かろう。まず、私付きの女官は一人として死なぬ。なぜなら私は、兄上に疎まれているからじゃ」

「そんなことは」

「あるのじゃ、平間。第二に、戻れぬと言ったのは『私が』ではなく『お主が』じゃ」

「……仰っている意味が分かりませぬ」


「ではその訳を説こう。もしお主が無理やりにでも私を連れて帰ったら、私は迷い無くお主に唆されたと泣きながら訴える。それはもう、この世の終わりのようにな」

 平間は驚嘆した。少しは賢い娘だとは思っていたが、ここまで知恵が回るとは。

 そんな事をされたら、間違いなく自分は死ぬ。

「それは嘘、でございましょう」

「関係ない」

 涼しげな声で壱子が言う。

「私は大人で、殿下はまだ歳若くあらせられます」

「それも関係ない。なぜなら、私は第八皇女、崇漸院壱子なのだから」

 平間は大いに後悔した。

悔しいがその通りだ。目の前の少女にとって木っ端役人一人の生き死になど、文字通りどうとでもできる。しかもその力が彼女にあると伝えたのは自分だ。笑えるくらい迂闊だった。黙って警吏に引き渡しておけば良かったのだ。冷や汗が止まらない。


さらに壱子は続けた。確固たる意思を込めて。

「第三に、私は戻りとうない。のう平間、お主は良い人間じゃ。私のような子供に対しても斜に構えず、真摯に話してくれた。そんなお主と、私は共に旅をしてみたいと心から思った。もちろん、もし途中で連れ戻されることになっても、私の名に誓ってお主に罪は問わせぬ」

 壱子は膝を折った。二人の目が合う。透き通って輝いていた。平間の右の掌てのひらを、小さな二つの手が包んだ。

「どうか、頼む」


 小さな手は、小さく震えていた。頬に光るものが走るのが見える。

 平間は思わず苦笑する。

参ったなあ。この皇女様は、人をたらしこむ天才なのかも知れない。否定し、脅して、煽おだてて、最後に自分の弱みを見せる。こんなの断れるはずが無いじゃないか。

脅し一つを取っても、取り入れたばかりの知識を即座に、かつ的確に応用している。質が高い。たまたまできる事ではない。


 平間は大きくため息を吐き、そして、観念した。この娘のためなら今の生活が壊れても良いかもしれない、どうせつまらぬ人生だ。そう思えた。

思えば、陳腐な暮らしに新しい風を待ち望んでいたのは、自分も同じじゃないか。この娘は面白い。先が見えない。いつ以来だろうか、平間は好奇心で胸が高鳴るのを感じた。


 この際、どこまでも付き合ってやろうじゃないか。


「わかりました、殿下。全て御心のままに」

 平間の言葉に、壱子の表情がぱあっと明るくなる。

「本当か? 良いのか!?」

「仕方がありません。一介の臣である私が、どうして皇女殿下に逆らえましょうか」

「……そんなこと思ってないじゃろ」

「とんでもない。心から敬服しております」

 半分は本当だ。しかし――


 言うが早いか、思わず平間が噴き出し、クックックと笑う。つられて壱子も笑い始めた。

「ですが殿下、太平の世と言われる今、過去の乱世ほどではないものの旅路には危険は多うございます。そのため、道中は私の言うこと全てに従っていただくとお約束いただきたい」

「うむ、分かった」

「それと、外套を着ていただけますか。ひとまず私の家に向かいましょう。着いてしまえば安全です。あと、道中は堂々と歩いてしていただきたい」

「しっかり顔を隠したほうが良くないか?」

「コソコソしていると逆に怪しまれましょう。まだ日も高いですから、堂々としているほうが人ごみに溶け込めて注意を払われにくい、と言うものです」


「なるほどのう。葉を隠すなら森の中、と言うわけか。さてはお主、忍か何かか?」

「まさか。ただの腐れ役人ですよ」

「腐っているのか」

「ええ。性根がね」

「そういうものか」

「そういうものです。さあ、そろそろ参りましょう。なるべく早く安全なところへ行きたい」

「うむ」

 そう言うと、壱子は平間の腕に両腕を絡ませてきた。突然のことに、平間は思わず日和った。

「……殿下? 何を」

「皇女は普通このようなことをせぬ。より人の中に溶け込まねばならぬのだろう?」

 壱子は悪戯っぽく笑った。

「皇女と腕を組んで歩くなぞ、めったに出来ない貴重な経験じゃ。特に女慣れしておらんお主には、の。有難く思うがよい」

 そんなこともバレていたのか。


「……有難き幸せですな」

 苦々しさが隠せていないことは自覚していた。一方、壱子は得意げである。

「ふふん、わかれば良いのじゃ。では、参ろうかの」

「はいはい畏まりました、殿下」

「む。その言い方、敬意が感じられぬぞ」

「仕方が無いでしょう? われわれ庶民は普通、年下の娘に謙へりくだることはありませんから」

「……大人気おとなげ無いの」

「殿下こそ、子供らしい素直さを身につけられても宜しいのでは?」

「口が減らぬ奴じゃ」

「それはお互い様でしょう」

 二人は互いの顔を見合う。

昼下がりの皇都の一画に、二人の笑い声が響いた。

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