間(あわい)
spin
第1話 帰郷
船が出港して一時間ほど経った頃――俺はいつも通り、ずっと二等船室で寝ていたが――、船での過ごし方も今回の特別な帰省に相応しい、記憶に残るような過ごし方をするべきではないか、という思いが強まってきた。
俺は夏の青い空と海の風景を堪能すべく、甲板に出てみた。甲板は、子どもや観光客などそこそこの乗船客で賑わっている。
十五、六歳くらいの男の子が前列の斜め前の座席に座った。俺はしばらくぼんやりと彼の横顔に視線を向けていた。そこには俺の注意を惹く何かがあった。どこか懐かしい顔。俺はそれが功の顔に重なることに思い至った。彼は耳にイヤホンをして、音楽を聴いているようだった。手に持っていたソフトクリームが溶けて床に落ちた。俺は慌てて、残っていたコーンを食べると、立ち上がり、彼を正面から見るために彼の席の前方に移動した。五メートルかそこらの距離を置いて、振り返った。遠くをぼんやりと眺めながら、音楽に没頭している様子だ。一重の涼し気な目元にはどこか功を彷彿とさせるところがあった。不意に彼と目が合った。
俺は客室に戻って、横になると、功の顔を思い出そうと努めた。記憶を紐解く限り、彼は功に似ていると思ったが、十数年会っていない人の顔を覚えているという確信が持てなかった。しかし、似ていると思い、驚いたことは確かだった。今この時、功に似ている(あるいは少なくとも似ていると思った)男の子と出会ったことに何か特別な意味があるように思えた。
俺が考えたが、結局、柴田功は俺にとってまだアクティブな友人なのだ、と思った。功とは長い間会っていないとは言っても、彼と縁が切れたわけではないと思っていたし、またいずれ会う機会が訪れるという予感があった。
船が佐都島の
ダイニングの壁際にある目新しい大型テレビが高校野球を映し出している。そのテレビに向けて配置されたダイニングテーブルには俺と両親、そして妹夫妻とその子どもの
俺は妹の旦那と仕事や天気の話など当たり障りのない話をしながら、妻の兄や親の相手までしなければならないその立場に同情を禁じ得なかった。
妹は口を開けば、子どもの話をする。今、柿崎家は心愛ちゃんを中心に動いている。子どもは宝、未来、希望だ。年寄りと中年と子ども。これが人間の
夕食を終え、俺は離れの自室に戻ると、パソコンのセットアップをした。ひと通り配線を接続して、ネットにもアクセスできる状態になると、アダルトサイトにアクセスした。ナンパもののエロ動画を再生しているとき、玄関の戸が開く音がした。俺は慌ててページを閉じた。
「ちょっといい」
妹だった。妹は結婚後急速に肉付きがよくなった。母親としての貫禄が付いたと好意的に言うこともできた。妹は「これから荷解き大変だね」とうず高く積み上げられた段ボールの山を見て言った。
「とりあえず、仕事できる環境と寝る場所は確保したから、後は急がないし」
「そっか。あのさ、近々イベントがあるんだ。いわゆる出会いイベントなんだけど。参加してみたら?」
妹はそう言うと、手に持っていたチラシを差し出した。コミカルな男女が仲睦ましそうに見つめ合うイラストと「ふれあいBBQ(バーベキュー)パーティ」の文言が目に飛び込んできた。俺はこの手のイベントはすでに何度か体験済みで懲りていた。しかし、断る口実はなかった。
「行くでしょ?」
「俺もいい歳なんでね。こういうイベントがどんなものか知ってるんだよ」
「最初から決めつけないで。こういうイベントで出会って結婚している人もいるんだからね。どんどんチャンスをつかんでいかないと。じゃあ、頑張ってね」
妹はそう言って、部屋から出ていった。いきなりかよ、と俺は思った。これが親からの差し金がどうかわからないが、こうした結婚への急き立ては俺が結婚しない限り、しばらく続くだろう。
親の差し金だとしたら、その気持ちもわかる。親は子どもの将来のことを安心したいはずだ。年を取ると友人とも疎遠になり、通常は家族が主な拠り所になる。中年になっても独身でいることは家族を持った親から見れば哀れに見えるだろう。また近所の人も同じように思うだろう。都会であれば、そういう哀れみの目が向けられることはまずないし、もちろん世話を焼く人はいない。ほとんど透明な存在だ。それはそれで楽だが、それで良いのかという疑問もある。女と暮らすことは現実には楽しいことばかりではないだろうが、それでも希望としては女の愛を求めている。子どもはその延長線上にあり得る。こうしたイベントが女と出会うための数少ないチャンスの一つである以上は、それを拒否することはあり得ない。蜘蛛の糸を掴むようなものだとしても。
東京と違い、盆過ぎの夜はすでに涼しい。蝉の鳴き声に悲壮感が感じられる。俺は祖母の介護で使ったベッドに横たわり、目を閉じた。蚊取りマットの匂いが鼻を突く。ベッドが固いせいか、寝付けそうになかった。俺は去年の夏に開催された大学の同窓会のことを思い出した。三七歳の中年に達した同級生の面々には、自分が反映されていた。自分がどれほど歳を取ったかはわかりづらいものだが、明らかに歳を取った同級生を見るとそれが自分の姿であることを認めないわけにはいかない。自分だけが加齢を免れることはあり得ないのだから。
皆、それぞれの人生を生きて、家を買ったり、子どもをつくったりしていたが、特に驚いたのは、
俺は秀人が結婚していないと決めてかかっていたが、話の途中でそうではないことを知り、はしごを外された気持ちになった。そして、俺はそのとき、自分がかつて冷笑していた結婚に躍起な中年男になっていることに気付いた。こうして佐都島に戻ってきたのは、なぜか? ネット回線さえあればできる仕事だからと言って戻ってくる義理はなかったのだ。自分を結婚へと追い込むためだ。恋愛の延長線上にある結婚ではなく、半ば義務的な結婚だが。結婚しない/できない中年男は、憐れむべきかな。昔は毎週末集まっていた友達は家で妻や子どもと過ごすようになり、もう年に数回会えるかどうかだ。さらに、田舎には娯楽が少ない。とりわけ、性風俗のような女関係の娯楽が。独り者はどうやってぬくもりを求めればよいのか? 魚釣りでは決して満たされない。結局、凡人は結婚生活や子育てに従事しないと不幸になるという認識は概ね正しいのだ。
俺はBBQイベントを終え、慣れない車の運転で、すでに日が落ちかけている中、海岸通りを走った。BBQというイベント自体、初参加で不慣れだったが、それを措いても今回は辛いイベントだった。アルコールなしでの、知らない男女とのBBQという企画は俺にはハードルが高すぎた。BBQでは参加者が役割分担して動く必要があるが、初対面の男女がそのように組織的に動くのは難しいものがあった。結局、慣れているか好きな人が中心になって動き、俺を含むそれ以外の者はただ手をこまねいて見ているだけになった。
食事中の会話にしても、ほとんど情報のやりとりだけで盛り上がりに欠けた。連絡先を交換した介護士の人に連絡することはないだろう。その人は三〇代前半で比較的若かったが、どう見ても四〇を超えている女性、五〇を超えているだろう男性もいた。自分も含めて適齢期を過ぎた男女の方が多かった。そのためか、皆、少なくとも表面上は和やかだった。話しかけても決して冷遇されなかった。それは都内でのパーティとは違うところだ。しかし、いくら性格が良いといっても、惹かれる何かがないことには交際とまでは行かない。
結局、俺はまだ恋愛の可能性を捨て切れない。それがほとんど雲をつかむようなものだとしても。恋愛を諦めれば、結婚は難しくないのかもしれない。遠縁の親戚にはフィリピン人の妻を娶った人もいる。そこに恋愛があったとは思えない。田舎で若くて綺麗な女との出会いを期待するなんて現実的ではない。恋愛対象をそういう女に限定しなければ、恋愛できるはずだが、なかなかそれができない。
俺は海に落ちる夕日の美しさに見とれ、車を止めた。この夕日。これは佐都ならではだ。田舎には自然がある。自然が人の精神に与える影響は大きい。ビルと人だらけの都会よりもきっと人間的な環境だ。島を出た一八の頃はそのことに気づかなかった。その頃は都会への憧れでいっぱいだった。今は、都会への未練はないが、この島の人間でもない。俺はどこか宙ぶらりんだ。まず、俺はこの島の経済に直接寄与していない。それに俺はこの島にいそうもない女を求めている。いや……、そんなことはないか。俺は桜子のことを思った。
車を出すためにイグニッションキーをつまんだとき、俺は桜子に会いに彼女の家に行くことを決めていた。噂によるとまだ再婚していないという桜子の存在は、俺が佐都島に帰るかどうか迷っていたときに帰る方向に大きく後押しした要因だった。佐都島の女全員をかき集めても桜子には遠く及ばない、と俺は思った。
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