06
イルゼイとナーゲルが、向かい合うアルドレたちと人垣の中間くらいの位置まで下がった。徐々に見物人の喧騒が収まっていく。いよいよこれからが本番だ。
アルドレは生唾を飲み込み、片足を後ろへ引く。
オイセルストも、表情から感情を消してすっと構える。彼は、ためらうことなく模擬刀の柄を握った。
両者が共に柄を握った瞬間が、決闘開始となる。しかし、先に柄を握るかそれとも後にするかも勝負に影響してくるので、この時点で既に決闘は始まっているといっていい。
アルドレはゆっくりと息を吸い込み、それから同じくらいの時間をかけて吐き出した。そうすることで、少しでも平静を保とうとする。
オイセルストが先に柄に触れたので、決闘の開始はアルドレ次第ということになる。決闘開始の決定権を委ねられた方が、自分にとってもっとも良い時機に仕掛けることができるので有利に見える。しかし、先に柄を握った方はいつ仕掛けても構わないということなので、一概にアルドレが有利とは言えない。だが、アルドレとオイセルストほど経験に差がある場合、極度の緊張状態の中で出方を待つしかないアルドレが先に剣をつかむ方が不利だろう。見習いのアルドレに、オイセルストが気を遣ったのだろうか。
客観的に見るまでもなく、アルドレとオイセルストの力量には大きな差がある。敵わない。敵うはずがない。しかし、アルドレはどうすれば勝てるかを考えた。敵うはずがないにしても、勝負を投げ出したりはしない。
オイセルストに決闘を申し込まれた後、イルゼイが言っていた。オイセルストは決闘において、ほぼ最初の一撃で相手を負かしている。オイセルストの剣を抜く速度は群を抜いて速く、そのうえ的を外さない正確性を持っているのだという。オイセルストが狙うとすれば、それはきっとアルドレの手元だとも、イルゼイは言っていた。
そこまでは、イルゼイも教えてくれた。しかしそれからどうすればいいかは、教えてくれなかった。自分で考えてみろと、イルゼイは笑っていた。
(上手くいけば、最初の一撃をかわせる……)
イルゼイの助言を得た後、アルドレはどうすればいいかを考え続けた。そして見つけた方法がある。決闘の開始決定権が自分にあるのならば、第一撃をかわすための予備動作に入ると同時に柄を握ればいい。
意を決して、アルドレは柄をぎゅっと握った。
それとほぼ同時にオイセルストが動く。
だがアルドレも、次の柄を握ると同時に動いていた。
どよめきにも似た喚声が上がる。
アルドレは、柄を握って地面を蹴り、後ろへ飛んでいた。
オイセルストの剣先は、ほんのわずかな差でアルドレの柄を捉えられずに空を切る。
(やった!)
ギリギリで成功し、アルドレは内心歓喜の声を上げる。
オイセルストが少し驚いた顔でアルドレを見ている。してやったりと思った。
が、次の瞬間。
オイセルストが大きく前に一歩踏み込み、刺突を繰り出す。
アルドレがぎょっとして目を見開いた時には、昨日と同じように喉元に剣先が突き付けられていた。
「アルドレ・ヴェルソ。君の負けです」
オイセルストがにっと笑い、宣告した。
柄を握ったものの抜くことはできなかったアルドレは、全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。これが真剣勝負なら、アルドレの喉に風穴が空いていた。
オイセルストが剣を引き、イルゼイたちがやって来てもまだアルドレは柄を握ったまま、動けなかった。オイセルストの剣は想像していたよりもずっと速く、空気を裂く音が耳に貼りついて離れない。
リーベスリートに恋する男としてではなく、一人の見習い騎士として、アルドレはオイセルストの剣技に圧倒されていた。
「よくやったじゃないか、アルドレ」
イルゼイがバンバンと肩を叩き、それが痛いなと思ってようやく、アルドレはオイセルストから受けた衝撃から抜け出すことができた。
「でも、全然敵いませんでした……」
「奴も手加減してたとはいえ、最初の一撃を避けたんだ。大したもんだぞ、なあ、オイセルスト」
アルドレの肩を抱いたまま、イルゼイがオイセルストに声をかける。
「教え子を持ち上げたい気持ちは分かりますが、もう少し厳しくしないとこれから先伸びないかもしれませんよ」
「冷たいね。アルドレにかわされて驚いた顔してたくせに」
「その次の動作に移るまでに時間がかかりすぎて隙だらけ、あれでは攻撃してくれと言わんばかりですよ」
見習いのアルドレに勝ってもそれが当然といえば当然の結果なのだから、オイセルストは嬉しそうなことはまったくなく、それどころかにべもない。もしかして、リーベスリートに近付く資格なしと判断されてしまったのだろうか。負けたこともあり、アルドレの頭は自然とうなだれてしまう。
「ですが、悪くない」
意気消沈したところにかけられた意外な言葉に、アルドレは顔を上げた。
「お。それは、おまえの娘と仲良くしてもいいってことか、オイセルスト」
「……それぐらいの譲歩はしないと、コントラルトが怒るでしょう」
オイセルストはくるりと踵を返す。
「見習いに決闘を申し込んだ時点で、コントラルトさまは怒ると思いますけど……」
溜息と共にナーゲルが言ったが、オイセルストには聞こえなかったのかあるいは無視したのか、彼はすたすたと去っていく。決闘が終わったことで見物人も散り始めていた。
「やったな、アルドレ。オイセルストのお墨付きだぞ。これで胸張って交際できるじゃないか」
「イルゼイさま、それはさすがに言い過ぎだと思いますよ。それに、ヴェルソがオイセルストさまのお嬢さんと両思いかどうかも分からないわけだし」
「水を差すなすなよ、ナーゲル」
当事者のアルドレをよそに交わされるイルゼイたちの会話を聞きながら、アルドレはリーベスリートの姿を捜した。
原型がなくなるほど人垣が崩れても、リーベスリートはさっきと同じところにいた。近くにいるハルスが彼女に何事か話しかけると、リーベスリートは友人たちになにかを言って、それから一人でアルドレのいる方へ駆けてきた。
「どれ、年寄りは退散するかな」
「見合いじゃないんですから……」
リーベスリートがやって来るのに気が付いたイルゼイがアルドレを解放し、ナーゲルと連れだってその場を離れていく。
「アルドレ。怪我はない?」
イルゼイたちも去って、修練場の真ん中にいるのはアルドレとリーベスリートだけになる。まだ残っている野次馬もいたが、彼らは近付いてくることもなく遠巻きに見ている者がいるくらいだ。
「大丈夫だよ。オイセルストさまが手加減してくれたから、かすり傷ひとつない」
「本当に?」
「ああ、本当に」
なおも心配そうにリーベスリートが言うので、アルドレはわざとらしいほど元気に笑って見せた。
「良かったぁ」
すると、リーベスリートは胸をなで下ろし、ほっとしたように微笑んだ。
荒涼とした荒野に暖かい春風が吹き込んでくるようだった。決闘に挑んだ時の緊迫した気持ちがほぐれ、急速に和んでいく。オイセルストの剣技を目にした時は、何故戦っているのか忘れてしまうほど圧倒されたが、改めてリーベスリートを見ると、あの剣技を見せつけられると分かっていても戦う価値のある少女なのだと実感する。
「母様が在宅なら、きっと止めてくれたんだけど……。今はちょうど、お仕事で北に行っているから」
困った表情で、リーベスリートは溜息をついた。その表情さえも愛らしい。アルドレはうっとりと見とれていた。一日と空けずに再びリーベスリートと二人きりになれて、どうしようもないくらいに嬉しかった。
「いや、いいんだ。オイセルストさまがご自分の娘のことを大事に思うのは、当たり前のことだよ」
それに伴う行動が過剰すぎるきらいはあるのだが、それは言わないでおく。
「良くないわよ、本当に。父様はね、昔からああなんだから」
「昔から?」
「そう。わたしがもっと小さい頃から。こんな小さな子供相手でも、真剣に今日みたいなことしようとするの。実際に決闘になったことは、さすがにないけどね」
と、リーベスリートは自分の腰くらいの高さを示す。つまり、五、六歳くらいの頃からオイセルストは暴走することがあったらしい。
「……オイセルストさまの、リートに対する愛情の深さが分かる話だね」
まさかその時剣は持ち出していないよなと、心配になる。
「ありがた迷惑よ。おかげでわたし、今までまともに男の子と話したことないの。友達はみんな、男友達の一人や二人はいて、中には付き合っている子もいるのに」
実際に決闘をしたアルドレとしてはありがた迷惑どころの話ではないのだが、しかし、もしかしたらオイセルストに感謝していいかもしれない。
「……リートは、ないのか?」
「ないわよ。こんなに長く男の子と話すのも、兄様たち以外ではアルドレが初めて」
細い肩をすくめ、リーベスリートがあっさりと答える。
「そうなんだ」
アルドレは、リーベスリートにとって自分が今までで一番親しくした男であることを知り、居ても立ってもいられない気持ちになった。彼女はこれほど可愛らしい容貌をしているし気立てもいいのだから、アルドレのように親しくしようと近づいてくる男は何人でもいそうなものだと思っていたから、なおさら嬉しい。
「……あの、さ。それなら、俺が、君の初めての男友達になって、いいかな」
ごまかすように指先で頬を掻きながら、しかし結局恥ずかしくておそらく赤くなっている顔を見られたくなくて、アルドレはうつむき加減に言った。そのおかげで、リーベスリートの表情は見えない。だけど、雰囲気は伝わってきた。
「もちろんよ」
リーベスリートの嬉しげな声が返ってくる。それから、彼女はいきなりアルドレに顔を近付けてきた。アルドレの心臓が一気に跳ね上がり、胸が痛いほどに高鳴る。
「でもできれば、わたしは友達以上の仲になりたいわ――」
リーベスリートがアルドレの耳元で囁いた声は、途方もなく甘く聞こえ、アルドレは意識がどこかへ飛んでいきそうだった。そして次の瞬間、アルドレは驚きのあまりに呼吸が止まる。
柔らかく温かで、少しだけしっとりとした何かが右の頬に触れた。
その感触は瞬きをする間に去っていったが、その時にはリーベスリートはアルドレから顔を離していて、彼の前ではにかんだ笑みを浮かべていた。それでようやく、アルドレは今自分の頬に触れたのは、彼女の唇だと分かった。
リーベスリートの唇が触れたところを、自分でそっと触ってみる。リーベスリートが恥ずかしそうにうつむいたが、嫌そうな顔はしていなかった。頬には、まだ彼女の感触が残っている。アルドレは、体が芯からカッと熱くなったような気がした。
昨日から、嬉しすぎることがつづいていてまるで夢を見ているかのようだけど、いま世界でいちばん幸せなのは、きっと自分だと思った。
「ナーゲル。明日の見習いたちの模擬戦に、俺は是非とも参戦する」
陰からリーベスリートとアルドレを見守っていたオイセルストが、地を這うような声で宣言した。イルゼイから、明日は見習いたちが模擬戦をするから《蒼の冬月》の騎士も参戦しないかと言われているのだ。
「俺は一向に構わないけど」
「ダメです、ダメダメ、絶対にダメです。イルゼイさまも、止めてくださいよ」
イルゼイがあっさりと許可をしたのを打ち消すように、間髪入れずにナーゲルは言った。
「オイセルストさま、あなたの目的は分かりすぎるほど分かってるんです。ヴェルソを徹底的に叩き潰すつもりでしょう。やめてくださいよ、そんなこと。大体、団長自ら模擬戦に出るなんて、今日の決闘のこともあるから、あなたの目的が周囲にもバレバレで、非常に世間体も悪いですって」
「世間体がなんだ。あの青二才の魔の手から、愛娘を守らないでどうする」
今にもアルドレに襲いかかりそうなほど真剣に、オイセルストはリーベスリートたちを凝視している。オイセルストの隣ではイルゼイが「まあ落ち着けよ」と言っているが、あまり効果はない。
「ヴェルソはまだなにもしてないですよ」
「それは確かにそうだ。やるじゃないか、おまえの娘も」
リーベスリートとアルドレが二人きりになった後の一部始終を、ナーゲルたちはしっかりと見ていた。
オイセルストは見なかったことにしているようだが、むしろしたのはリーベスリートの方だ。野次馬がほとんど散っているとはいえ、修練場のど真ん中にアルドレとリーベスリートはいるのだから、人目をはばかっているとは言えないが、その積極ぶりは父親に負けていない。それに、ナーゲルから見ればリーベスリートの行動は可愛らしいものである。オイセルストにひるむことなく立ち向かったアルドレに、過保護な父に守られてきたリーベスリートの心がグラッと傾いても無理なかろう。
「いいや、これから何かするに違いない」
「健全な男女交際の範囲内ならいいじゃないですか。うちの五歳の娘だって、手をつないで頬に接吻くらいしてますよ。オイセルストさまだって、結婚する前からコントラルトさまにそれくらいのことはしていたじゃないですか」
「……見ていたのか?」
「あ、いえ、そういうつもりはなかったんですけど、あなたは所構わずコントラルトさまを追いかけ回していたから、その……」
うっかり口を滑らせてしまったことを、ナーゲルは激しく後悔するが、後の祭りである。
「ナーゲル。君にのぞきの趣味があるとは知りませんでした。いや、でもそういえば昔、君にのぞかれたことがありましたね」
いつもの丁寧な口調に戻っているが、自分の失言がきっかけで元に戻っただけに、これはこれで怖い。
「ほお、《蒼の冬月》の副団長にはそんな趣味があったのか。見かけによらず、意外だな」
イルゼイはあまり真に受けていない言い方をしているが、彼は面白がってそれを吹聴したりするから油断ならないことを、ナーゲルは知っている。
「違いますよ、誤解を招くようなこと言わないでください! 俺はたまたまそういう場面に出会すことが多かっただけで、そうなったのもそもそもあなたが見習いの時から俺に目を付けて振り回してきたからであってですね――」
ナーゲルは慌てて言いつくろうとしたが、慌てすぎて再び失言をしてしまった。言いかけた続きを喉の奥に追いやるが、もう遅い。墓穴を掘るとはまさにこのことだ。
「……ナーゲル。前線を離れてなんだか腕がなまってしまった気がするから、これから少し付き合ってくれませんか」
一応伺う言い方だが、オイセルストの手は逃げられないようにがっちりとナーゲルの襟首をつかんでいる。振りほどこうにもそれができないほど、しっかりとつかまれていた。
「げ、あ、いや、その俺にはまだ色々とほかの仕事が」
助けを求めてイルゼイを見るが、イルゼイは肩をすくめるだけで助けてくれそうにもなかった。ここでナーゲルを助けてくれるくらいなら、イルゼイはアルドレとオイセルストの決闘を許したりはしないだろうが。
「君が付き合ってくれたら、明日の模擬戦に乱入するのはやめましょう」
「乱入って、やっぱり自覚はあったんですね……」
「ナーゲル」
「いえ、はい、分かりました。あなたの気が済むまで付き合いますとも……」
「がんばれよー」
イルゼイの無責任な励ましを受け、未来ある若者を守るためここは年配の自分が犠牲になるしかないと、ナーゲルは涙を呑んで覚悟を決めた。
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