04

「アルドレ。無事戻ってきたんだな! 遅いから俺はてっきりオイセルストさまに塵にされたのかと思ってたぞ」

 アルドレが至福の一時を過ごして本営に戻ってくるなり、ハルスがアルドレの帰還を喜んでくれた。

「ハルス。俺はもういまこの場で死んでも本望だ……」

 飛びつくように抱きついてきた友人を全身で受け止めつつ、アルドレの視線はハルスではなく、宙に向いていた。

「へ? おい、アルドレ。やっぱりオイセルストさまに何かされたのか?」

 アルドレの言動がおかしいことに気付いたハルスは、アルドレの肩をつかんだまま体を離し、真正面から彼の顔を見据える。宙を漂っていたアルドレの視線が、ゆっくりとハルスに下りてきた。

「俺ほど幸運で幸せな男は、この世に二人といないだろうよ」

「アルドレ、おまえ、大丈夫か……?」

 アルドレとの噛み合わない会話に、ハルスが不安そうに表情を曇らせる。

「それからな、ハルス。オイセルストさまは、すごく紳士で良い方だったぞ」

「おまえもしかして、催眠術でもかけられてるんじゃないのか? しっかりしろ、アルドレ!」

 ハルスがアルドレの肩をがっしりつかみがくがくと揺さぶるが、そんなことでアルドレは至福の一時の思い出から容易には戻ってこなかった。

「リート……良い響きだ。そう思うだろう、ハルス」

「しっかりしろって、アルドレ!」

 首がむち打ちになりそうな勢いでハルスはアルドレの肩を揺さぶったが、アルドレの目に正気の光はなかなか戻ってこない。

 ひっぱたいた方がいいかもしれないとハルスは思い付いたが、実行する前に午後の修練開始を告げる笛が鳴った。




 修練場の中心に見習い騎士たちが集まり整列したところで、イルゼイが昼休み前に見えたような笑みで告げた。

「午後の修練を始める前に、良い報せがあるから教えておこう」

 腰に手を当て、もったいぶるように見習いたちを見回してからイルゼイはまた口を開いた。

「今日は特別に、《蒼の冬月》の騎士が修練に参加してくれるそうだ。《蒼の冬月》の団長から直々に申し出があってな」

 途端に、整然と並んでじっとイルゼイの言葉を聞いていた見習いたちの間から、歓声が上がった。普段は仲間同士で手合わせすることが多い見習い騎士たちに、実戦経験豊富な騎士と手合わせをする機会はそれほど多くない。《碧の秋星》第一分団が主に指導に当たっているが、指導する騎士は見習いに比べれば少数で、その競争率は高い。

「しかも!」

 歓声に負けない声を、イルゼイが張り上げた。再び静寂が訪れ、イルゼイが続ける。

「《蒼の冬月》の団長・副団長共に参加するそうだ。皆には、この千載一遇の機会を是非とも活かしてほしいと思う。今日は、普段よりもいっそう励むように。以上だ」

 それから準備運動をして修練が始まったが、皆どこか気もそぞろな様子だった。アルドレもその一人だったが、彼の場合はどちらかといえば昼休みの一件で集中力に欠けていた。

「なあ、アルドレ。なんか、怪しくないか?」

 模擬刀を使って素振りをしている時、隣にいたハルスが不安そうな表情で言った。

「なにが?」

「今日これから、《蒼の冬月》の騎士が来るっていう話がだよ。しかも、団長付きだぜ。よその騎士団の人が来ることはあるけど、その団長までなんて滅多にないことだろ」

「今は王都にいるからじゃないの? 別に、俺は怪しいと思わないけど」

「いや、怪しいって。おまえが昼休みに王宮に行ったことと関係あるんじゃないのか。そこで、オイセルストさまに会ったんだろう」

 話ながらも、二人が模擬刀を振る動きに淀みはない。

 アルドレはまっすぐに振り下ろしながら、昼休みのことを思い出していた。リーベスリートとの楽しい昼食。見習い騎士のアルドレが《西の朱の塔》へ入っていくと、彼に気が付いた侍女たちが一斉に視線を寄越してきた。好奇心に溢れた少女たちの視線にどぎまぎしながらも、アルドレはリーベスリートに腕を引かれて食堂に案内され、そこで向かい合わせに食べたのだ。遠巻きに侍女たちがアルドレたちの様子をうかがっていて居心地の悪い面もあったが、誰一人として見ているだけで声をかけてこなかったことが幸いだった。おかげで、衆人環視状態ではあったが、リーベスリートと二人きりで食事をすることができたのだ。アルドレが思っていた以上の成果が得られた。しかも別れ際には、また一緒に食事をしようとまで――。

「アルドレ? おまえ、顔が妙ににやけてるけど、どうしたんだ?」

 ハルスの怪訝そうな声で、アルドレは幸せいっぱいの昼休みから現実に引き戻された。

「いや、俺ってほんと、幸運で幸せな男だよ、ハルス」

「それはさっきも聞いたけど、オイセルストさまと会ったことも幸運なわけ?」

「オイセルストさまはきっと、俺を見て見習い騎士のために一肌脱ごうと思ってくださったに違いない、ハルス」

「それはものすごく楽観的で前向き思考だと、俺は思うんだが」

「ハルス。俺は、あの人に認められるように、今日は特に頑張るぞ」

 午前中の、リーベスリートと会えないことで落ち込んでいた気分が今は嘘のように、アルドレは高揚していた。柄を握る手には力がみなぎり、模擬刀の剣先はぶれることなく真下に振りおろせる。

 《蒼の冬月》の騎士たちと手合わせをするのが、楽しみだった。彼らと組み合って、一人前の騎士の力を直に感じ、そしてその技を少しでも良いから盗みたい。どの騎士よりも、オイセルストと手合わせをしてみたかった。

 オイセルストに認められたい。それは、リーベスリートに想いを寄せる男としての願望でもあり、騎士を目指す見習いとしての純粋な願望でもあった。


 ○ ● ○ ● ○


 いつも通りの修練の項目をこなしながら、アルドレはオイセルストが現れるのを今か今かと待っていた。おそらく、アルドレ以外の見習い騎士たちも似たような心境だろう。ちらりと周囲を見回す。いつもなら真剣な表情で取り組んでいる仲間たちの表情が、今は騎士たちの登場に期待を寄せてどこか明るい顔つきに変わっている。

 《蒼の冬月》の騎士たちが姿を見せたのは、見習い同士で手合わせを始めて間もなくのことだった。

 イルゼイが簡単に団長であるオイセルストと副団長のナーゲルを紹介した後で、今度はナーゲルが騎士たちの紹介をした。オイセルストとナーゲルを含め、総勢十名の前線で戦う騎士が見習いたちの前にいた。

 騎士たちは甲冑を身に付けておらず、見ただけで彼らが強靱な体付きをしているのが分かる。アルドレたちも毎日鍛えてはいるが、第一線の騎士たちにはまだまだ遠く及ばない。

「ちょうど手合わせをしている最中のようだから、彼らを仲間に入れてこのまま続けてください」

 紹介を終えた後で、オイセルストがにこやかな顔で言った。見習いたちは期待に胸を高鳴らせ、わっと歓声を上げる。

「オイセルスト。おまえも、もちろん手合わせに参加するんだろう?」

「団長自ら率先して参加しないと、下に示しがつきませんからね」

 イルゼイに話を振られたオイセルストが答えると、歓声がひときわ大きくなる。

「そういうことだから、みな気後れせず積極的に立ち向かってくれ」

 そう言ってイルゼイが開始の合図を告げると、見習いたちは花に群がる蜂のように一斉に騎士たちに駆け寄った。中でも、やはりオイセルストにいちばん人が集まる。アルドレも仲間たちと押し合いへし合いしながらなんとか前に出てオイセルストに相手をしてもらおうとするが、それはほかの仲間たちも同じことを考えているわけで、容易にはいかない。

「順番に相手をするから、押さないでください。それに、騎士は俺以外にもいますよ」

 あまりの人気ぶりに、オイセルストが苦笑いして押し寄せる見習い騎士たちに言った。

「彼らは麗しい淑女たちに取り囲まれるのが本望ではあるでしょうが、君たち後輩を無下にするほど冷血漢でもありませんよ」

 と、二、三人の見習いしか集まっていない、彼の部下である騎士たちを示す。今度は、オイセルストに言われた騎士たちが苦笑いする番だった。

 イルゼイが一人にそんなに偏ったらどうしようもないだろうと言ったこともあって、オイセルストに殺到していた見習いたちはほかの騎士の元へ散っていきそこで順番を決め、余った者同士で手合わせすることで、ようやく修練は再開された。

 アルドレは、なんとかオイセルストの元から移動せずにすむことができた。一番最初に彼と手合わせすることはできなかったが、ともかくオイセルストと剣を交える機会は手に入れたのだった。

 アルドレの順番が回ってきた時、既に五人と手合わせをしていて体は疲れ始めていたがようやくオイセルストと手合わせできるのだと思えば、そんな疲れはすぐに吹き飛んだ。

「次は俺、いや僕にご指導を、お願いします!」

 アルドレはオイセルストの前に立つや、頭を下げて大きな声で言った。

「君は、さっき《南の白館》で会った見習い騎士ですね」

 オイセルストもこれまで五人の見習い騎士の相手をしているはずだが、少しも疲れた様子のない、《南の白館》で会った時と変わらない口調だった。

「はい」

 顔を上げ、アルドレは正面からオイセルストと向き合う。少し汗ばんでいるが、やはり表情からも疲れはうかがえない。アルドレの父親よりも年上のようだが、やはり第一線で活躍するだけあって体力は相当あるのだろう。

「名前は?」

「はい。アルドレ・ヴェルソです」

 オイセルストとほかの見習い騎士の手合わせは、実はちらちらと盗み見していた。その時、手合わせ前に名前を訊かれた見習いはいなかったはずだ。自分だけ名前を訊かれた。そのことだけで、アルドレはオイセルストに認められるのではないかと密かに心躍らせた。

「アルドレ。お使いの後、《西の朱の塔》に行っていましたね」

 オイセルストの口調も表情も、変化はない。変化はないはずだが、何故か彼のまとう雰囲気が少しだけ変わったような気がした。

「は……い?」

 その変化を、嫌な予感としてアルドレは受け止めた。何故そう思ったのかは分からない。直感か、あるいはアルドレの深い深いところで眠っていた動物的本能が危険を察知したからかもしれない。

 オイセルストの模擬刀の剣先が、すっとアルドレの喉元に向けられる。突然のことに、アルドレは目を丸くして剣先を見、それからオイセルストを見た。獲物を狙う肉食獣か猛禽類のような鋭い視線が、アルドレを射抜いた。背筋に冷や汗が流れるのを感じる。肉食獣に狙われてとうとう追い詰められた小動物になったような気分だった。

「俺はリーベスリートの父として、娘を守る義務がある」

 口調もがらりと変わり、ずっと目の前にいるのにまるでさっきまでとは別人のようだった。オイセルストは剣を引き、それを地面に突き立てた。たったそれだけの動作だというのに、アルドレは圧倒されて思わず肩をすくめる。

「オイセルスト・ルフティヒ・シュナウツは、アルドレ・ヴェルソに決闘を申し込む。我が娘に近付く資格が、貴殿にあるか否かを確かめるために」

 オイセルストは右の拳を胸の、心臓のある位置にあてて言った。それが決闘を申し込む時の姿勢であると、いつかどこかで聞いたことがある。

「え、あの?」

 アルドレの思考は状況についていけなかった。今は修練の時間で手合わせをするはずなのに、何故オイセルストは決闘を申し込んできたのだろうか。周囲もアルドレたちの様子がおかしいことに気付いて手合わせをやめ、こちらを見ている。

「なにやってるんですか、オイセルストさま!」

 混乱するアルドレの耳に、慌てふためいた声が飛び込んできた。

「今は手合わせをするんですよ。決闘なんて、以ての外です。というか、仮にも団長ともあろう方が見習い相手に決闘を申し込まないでください」

 どこからかナーゲルが飛んできて、アルドレとオイセルストの間に割って入る。

「俺は、一騎士としてではなく、一人の父親として申し込んでいる」

 邪魔をされたとばかりに、オイセルストは顔を不機嫌そうにしかめてナーゲルを睨んだ。自分が睨まれたわけではないのに、オイセルストのその眼力に強さに、アルドレは再び肩をすくめた。

「公私混同です。今は、勤務中なんです。父親より騎士の立場を優先してください」

「ならば、騎士たる者としてアルドレ・ヴェルソに問おう」

 蚊帳の外になりかけていたアルドレを、オイセルストは無理矢理中へ引きずり込んできた。

「騎士たらんとする君は、この決闘を受けて立つか否か答えなさい」

 有無を言わさぬ声だった。アルドレはごくりと唾を飲み込んだ。

 《西の朱の塔》は《南の白館》のそばだったから、アルドレがリーベスリートと立ち話していたところをオイセルストが見かけていたとしてもおかしくはない。そして、アルドレがリーベスリートと出会った後にハルスが言っていたことを思い出した。

「あの人は、自分の娘に近づく男がいると、決闘を吹っ掛けるんだよ」

 できれば噂であってほしいし、まさか一騎士団長ともあろう人が見習い相手にそんなことと疑ってかかっていたのに、ハルスの言ったことに間違いはなかったことが証明されてしまった。

 普通に考えて、見習いのアルドレがフィドゥルムの英雄であるオイセルストに敵うはずがない。一太刀も浴びせることなく返り討ちに遭う。結果は火を見るより明らかだ。

 しかし、しかしである。そう分かっていても退けないと思った。

 オイセルストは父親として、リーベスリートに近付く資格がアルドレにあるか確かめようとしている。この決闘を受けなかったら、オイセルストはアルドレを腑抜けで根性なしの腰抜けと見なして二度と顧みることはない。そんな気がした。

 敵うはずがない。結末は誰の目にも明らか。だが、決闘の申込みさえ受けずにいたら、その時点でアルドレは負け犬に成り下がる。

 戦わずして逃げるのは、リーベスリートに会えない時と同じくらいにいやだった。

「受けて立ちます」

 アルドレの答えを聞いたナーゲルが、なにか色々と言いながら頭を抱えた。

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