魔左衛門
カキヒト・シラズ
第1話
男は畦道を急いでいた。
真昼なのに曇天で薄暗かった。
ときどき小雨が降っては止み、止んでは降った。
畦道の両側は水田が広がり、ところどころ茅葺屋根の民家が散在している。
男の他にあたりは誰もいなかった。
旅人と一目でわかる装束だ。
三度笠に褪せた道中合羽。
年は三十路を少し過ぎたくらいか。
細見の長身で、頬の刀傷は浅黒い顔に凄みを添えている。太い眉の下に光る眼光の鋭さは、目を合わせる者に畏怖の念を抱かせる。
腰に差した
辻まで来ると、突然、近くの納屋の陰に隠れていた野武士たちが、刀を構えて男を取り囲んだ。
野武士は四人。ここの村人だろうか。稲作の他に
「知らん顔だんべ」年長の野武士が言う。「おまん、何て名じゃ?」
男は無視して通り過ぎようとする。だが年長の野武士は、そうはさせじと刀の切っ先を男の喉元に近づける。
「何て名じゃ?」
男は三度笠に半分隠れた顔を少し上げる。
「魔左衛門......」
唸るような低い声だった。
「何?何だって?」小太りの野武士が言う。「魔左衛門?変な名だんべ」
「変じゃ、変じゃ」髭面の野武士が言う。「聞いたことねえ名じゃ」
「兄じゃ」少年の野武士が言う。「こんなやつ、やっちまえ」
年長の野武士が魔左衛門と名乗った男の胸に刀を突き刺す。
青緑色の血しぶきが飛び散る。
だが魔左衛門は倒れない。刀は魔左衛門の胸に刺さったままだ。
魔左衛門は素手で胸に刺さった刀の刀身を掴み、ゆっくりと抜き取る。抜き取った刀は水田に放り投げる。
野武士たちは四人とも仰天した様子だ。
刀を刺しても生きているからか。刀を素手で引き抜いたからか。それとも血の色が赤くなかったからか。
「死ね!」
髭面の野武士が刀を一振りする。だが魔左衛門は身じろぎもしない。体から噴き出した血潮はやはり青緑色だ。
魔左衛門は鞘から自分の刀を抜き、八相の構えから髭面の野武士に一太刀浴びせる。赤い鮮血が畦道を汚し、髭面の野武士の首は宙を舞って水田に落ちる。ほどなくして首なしの胴体が崩れ落ちる。
「弥平!」少年の野武士が叫ぶ。「弥平、どうなってんじゃ」
小太りの野武士は魔左衛門と目が合うと、震えながら刀を捨てて逃げ出した。
脇差を抜いた年長の野武士は背後に回って魔左衛門の背中を斬りつける。だが青緑色の返り血を顔に浴びるだけで、魔左衛門は倒れない。
魔左衛門は刀を使わず、片手で年長の野武士の首をしめ、そのまま軽々と持ち上げる。年長の野武士は思わず刀を捨て、地面に浮いた足をばたばたさせる。首の骨が折れる鈍い音。ばたばたさせていた足の動きが止む。
魔左衛門は年長の野武士の死体を水田に放り投げる。水田から水しぶきが上がる。
少年の野武士の姿はすでになかった。逃げ足は速いようだ。
魔左衛門は刀を鞘に納めると、何事もなかったようにまた旅路を急いだ。
傷はとうに癒えていた。
自分の名は魔左衛門。
それが、魔左衛門が自分について知っているすべてだった。
魔左衛門には記憶がほとんどない。
自分がどこで生まれ、これまで何をしてきたか。はっきりと思い出せない。
ただいつの頃からか、自分はこうして旅をしている。どこへ行こうという当てがあるわけではない。ただ気の向くまま、今日の自分が今日向かう先を決め、明日になれば明日の自分が別の向かう先を決める。そういう旅だった。
多分、自分はもう死んでいるのではないか。
かすかな記憶が、唐突に蘇ることがある。
自分は壮絶な死闘の末、何者かに惨殺されたのだ。ところがどういうわけか成仏できず、妙な具合に魂が死体に宿り続けた。
その結果、生きているとも死んでいるともつかない、今の自分になってしまった。
だが生きているときも、今と同じように旅をしていたのではないか。
旅をしている最中に自分は一度死に、死んだ後もまた旅を続けている。死ぬ前も死んだ後も生活はさして変わらない。だとしたら、自分にとって生きているか死んでいるかは、旅よりも大きい意味を持たぬかも知れぬ。
旅の最中、何度も人を斬ってきた。それは生きて旅をしているときも、死んで旅をしているときも同じだった。
人を恨むことも、人に情けをかけることもない。ただ旅の道を阻む輩は容赦なく斬った。
剣の腕には自信があった。
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