どーでもいい知識その③ イヌとサルは仲が悪い
めぇ!
けたたましい鳴き声をきっかけに、大人しく演奏に耳を傾けていたメーちゃんが暴れだす。一心不乱に
「どーも」
メーちゃんに目を止めた女性は、軽く挨拶し、浅く頭を下げる。
肌つやや声の高さから見て二〇代だろうか。緩く束ねた茶髪は、マーシャの鏡台に似た甘ったるい臭いを漂わせている。
「おはようございます。この仔の飼い主さん、ですか?」
シロはタニアごとメーちゃんを前に出し、女性に確認させる。「うん」と言う返事より早くメーちゃんの翼がパタパタ踊って、質問の答えをシロに教えた。
「この間は急に来られなくなってすみませんでした。〈
「う~ん」
説明を聞いた女性は声を濁らせ、気怠げに額を掻く。
「いや、ありがたくないって言っちゃうとアレなんだけど、実際困っちゃってるんだよね。もう新しいの買っちゃったし」
新しいの……?
一体、この人は何を云っているのか?
まばたきを繰り返すタニアを
「ほら、かわいいでしょ? チワワとチンパンジーを掛け合わせた最新作で、『ナカタガイ』ってゆーの! メーヴンなんて目じゃない珍獣だよ!」
鼻高々に言い放つと、女性はナカタガイを抱え上げ、シロに見せ付ける。
ケンエーン!
元になったチンパンジーのように上唇を
「メーヴンって頭はいいんだけど、可愛げがないんだよね、ヘンにご機嫌取ってきたりして。
絶句するシロが見えていないのか、女性は嬉々とした様子で語る。
屈託のない顔を見ていると、タニアの頭の中にはどの参考書よりも難しい問いが湧き上がる。なぜ一つも言い
「やっぱペットはちょっとおバカなほーがいーよね、この仔みたいに」
ご満悦の表情で放言し、女性はナカタガイの頭を撫でた。
ケンエーン!
ナカタガイは甲高い歓声を上げ、媚びを売るように尻尾を振りまくる。幸か不幸か、人間の言葉が判らないナカタガイは誉められたと信じ切っているようだ。
「……お前の脳味噌はそいつ以下だ」
爆発寸前の身体が静かに震えだし、獰猛な呼気が鼻の穴を膨らませる。ようやく難問の答えが出た。こいつには他者の気持ちを考えるだけの知恵がないのだ。
女性の心ない言葉を聞いて以来、懐のメーちゃんは身体を縮め、縮め、凍えたように震えている。最小限に我が身を梱包したその姿は、両親を失った頃のタニアに瓜二つだ。
メーちゃんはきっと、世界が自分の存在を見落としてくれるのを望んでいる。痛みを連れて来るだけの未来なら、消滅のほうが優しいから。
メーちゃんの気持ちを思えば思うほど、タニアの胸には憎しみが広がっていく。額に隆起した青筋は、宝物を捨てられた時以上に
無論、心の痛みを身体の痛みで思い知らせることは出来ない。力任せに謝罪の言葉を吐かせたところで、メーちゃんの胸に刻まれてしまった言葉は永遠に消せない。だからこそ許せない。誰かに一生癒えない傷を負わせた奴がへらへら笑ったままでいられるなど、絶対に間違っている。
理性とか自制心とか呼ばれるものだろうか、自分を抑えていた何かが切れ、タニアを正面に突き出す。瞬間、タニアは地表を貫くように踏み込み、女性の顔目掛けて拳を振りかぶった。
強く出した足から膝へ電撃に似た痺れが走り、靴底に殴打された地面から小石が跳び上がる。肩から腕が一直線に伸び、限界まで接近した拳が女性の瞳を塗り潰す。
お高い鼻を潰された女性が、血を噴き上げながら吹っ飛ぶ――。
ほんの一瞬先の光景を予見し、タニアは頬を吊り上げる。
だが的中必至の予測が現実になることはなかった。
あと半歩まで迫っていた一瞬の前に、シロの背中が割り込んだから。
見慣れた金髪を目にしたタニアは、慌ててその場を踏み締める。途端、ブレーキを掛け損なった顔がシロにぶつかり、細い肩を小さく揺らした。
「……邪魔!」
横槍を入れられたタニアは目を血走らせ、乱暴にシロの肩を掴む。
お優しく慈悲深く器の大きいシロのことだ。「殴っても何も変わらない。タニアさんの手が痛くなるだけ」などと使い古しの標語を駆使して、タニアを
だが何を聞かされても拳を引っ込めないと断言出来る以上、わざわざ口を開いて頂く必要はない。
「……あなたには判るの?」
ぼそっと聴いたのを契機に、シロの肩が苛烈に震えだす。
「あなたには独りぼっちの気持ちが判るの!?」
露店の賑わい、オーロラビジョンの宣伝、〈
シロが叫んでいる間は聞こえなかった。
頬を鼻を唾だらけにされた女性は、笑顔を消すことさえ出来ずに立ち尽くす。掴み掛からなかったのが不思議な剣幕に、すっかり圧倒されてしまったのだろう。
尋常ではない大声を聞き付け、足早に行き交っていた通行人が足を止める。露店に夢中だった人々も、一斉にシロへ視線を飛ばした。
「この仔がどんな気持ちで夜をやり過ごしてたと思うの!? 独りで何も見えなくて寒いのに、周りには誰の手もない。精一杯身体を縮めて、眠れないのが判ってるのに目を
一方的に
図らずも転ばせてしまったシロは、慌ててナカタガイを抱え上げる――。
自らの激情をすっかり忘れ、ひたすら「ごめんね」を連呼する――。
そう、タニアの知るシロなら、間違いなくナカタガイに手を差し伸べた。
では何事もなかったように女性へ突進するシロは、顔が同じなだけの別人なのだろうか?
「シロっ!」
呼び止めなければ、自分の知るシロが消えてしまう!
危機感がタニアを
何としてでも引き留める!
使命感にも似た強い気持ちが、シロの腰に回した腕に力こぶを浮かせていく。必死にシロを揺さ振ると、ただ女性を睨み付けるばかりだった瞳に、痛々しく倒れるナカタガイが映った。
「あ……」
呆然とナカタガイを見つめ、シロはいたずらに肩を揺り動かす。助け起こしたくても、罪悪感から手を伸ばせないのかも知れない。
めぇ……。
メーちゃんはタニアの懐から翼を伸ばし、そっとシロの手を包み込む。これ以上、大好きだった飼い主が責め立てられるのを見ていられないのだろう。
力なく微笑み掛けられたシロは、収まりが付かなさそうに膨らませていた鼻を少しずつ
「……行こう」
小声で訴えると、タニアは返事を待たずにシロの手を引ったくった。小走りで歩みだし、また顔見知りの他人を連れて来るかも知れない女性に背を向ける。
めぇ……。
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