③シュネーヴィットヘン

「シロの本心がどうでも、トメさんは笑ったんだよ。そう、笑ったの。何もしないで困ったままにしておくより、ずっといいじゃん」

「思いやりのない親切なんて愚弄と一緒ですよ。私はきっと誰かが困る度に安堵してる。うつむく誰かを笑顔にしたその一瞬だけは、生きている価値があるように錯覚出来るから」

 無理矢理絞り出すように微笑み、シロは〈自漕船じそうせん〉の底に視線を移す。

 嘘の水面を見下ろす目には、好意的な雰囲気は勿論もちろんさげすみや憎悪すら見受けられない。朧気おぼろげに映る鏡像には、感情を配ることすらもったいないらしい。


「手を伸ばしていい資格なんて、私にはないのに」

 か細くこぼすと、シロは潰れるように背中を丸めた。

 目を伏せた顔が肩の間に沈み込み、〈自漕船じそうせん〉のハンドルを握る腕が伸びる。停まっていた船体がよろよろと進みだし、水面の鏡像を容赦なく踏みにじった。


「資格とか善悪とか、手を伸ばした側が決めることなのかな?」

 最低限の反論を口にした途端、学のないタニアは声を詰まらせてしまう。

 何も思い付かないわけではない。わけではないのだが、胸の内を表現する言葉が判らない。漠然とした想いを、感情の色合いを適切な言葉に置き換えられないなら、言いたいことは伝わらない。


 自分の考えを他人に伝わるように作り替えるのは、何度経験しても難しい。

 どれを使えばいいのか? どれとどれを組み合わせればいいのか? 

 ああでもない、こうでもないと脳内の辞書にある単語と格闘している内に、小一で習った五〇音が一万ピースのジグソーパズルに思えてくる。長年、言葉より先に手や足を出してきたせいで、言語能力や思考能力が退化してしまったのだろうか。

 結局三分くらい、不甲斐ないタニアは靴音の独唱を拝聴はいちょうしてしまった。


「私、親切には四つのパターンがあると思うんだよね」

 タニアは顔の前に手を出し、親指以外の指を立てる。

「動機がよくて結果がいい。動機がよこしまで結果がいい。動機がよくて結果が悪い。動機がよこしまで結果が悪い。マシな順に言うとこんな感じかな」

 語れば語るだけ上手うまく伝えられない焦れったさが膨らみ、いたずらにタニアの手足を揺り動かす。貧困な語彙ごいと言い、やたら飛び散る唾と言い、進歩がないにもほどがある。腕を大きく振り回しながら、「〈荊姫いばらひめ〉さまはスゴい!」と連呼していた頃とまるで同じではないか。


「助けてあげたいって気持ちが原動力でも、相手が不快に感じてたらありがた迷惑。ほら、よくドラマに出て来るじゃん? 何度もお見合い写真を持って来るおばちゃん」

 ふと純白のいろどりが視界に紛れ込み、タニアの目を沿道の平屋に呼ぶ。

 茜色に照らされた庭には、レンガ製の花壇がもうけられていた。

 すこやかに咲いた花々は、縁側の周囲を七色に染めている。夏の日差しにはぐくまれた香りは、春先よりも甘く、同時に力強い。

 柔らかくなだらかに花びらを広げているのは、純白の薔薇。

 ティーカップのふちめくったような形は、上品な以上に愛くるしい。


 シュネーヴィットヘン――。


 薔薇をこよなく愛するあの人が、一番好きと公言する花だ。


「手を掴んでもらった人にとって一番重要なのは、笑顔になれたかどうかだよ。本心から助けてもらえたほうが嬉しいのは当たり前だけど、涙が止まったことに比べればそんなのは小さな問題。本当にどうでもいい話だよ。一方的に善悪を決めて欲しい話でもない」

 暗く閉ざされていたタニアの世界に、鮮やかな色が戻ったのは事実だ。あの人の差し伸べてくれた手に、どんな後ろめたい背景があったとしても、変わりようのない事実だ。


「つーか、本当に無償で誰かを助けられる人なんていなくない? 私もおばちゃんに肩叩きとかしてあげるけど、お駄賃だちんもらえたらいいな~とかちょびっと考えちゃうよ」

 おどけた口調で言うと、タニアはニシシと強欲な笑みを作る。

 タニアが家業の手伝いをしているのは、少しでも伯父夫妻の役に立ちたいからだ。とは言え、お小遣いと言う報酬が無関係とは言い切れない。不良従業員ほど露骨ではないにしろ、誰しも善行の裏側には多少なり含むところがあるはずだ。

 極端な話、義侠心ぎきょうしんから救いの手を伸ばす人にだって、「自分の良心にそむくことにならない」と言う利点がある。子供を育てる親なら遺伝子の存続、宗教とやらの教えにのっとって、篤志とくしに励む人間の場合は信仰の徹底――と、屁理屈をこねれば、幾らでも自分のために世話を焼いていることに出来てしまう。


「深刻な状況には踏み込めない? 当然だよ。道案内とか草むしりとはケタが違う。他人を命懸けで助けることなんて、教室とか朝礼で教わったほど簡単じゃないよ」

 命懸けと呼ばれる現場の凄まじさを、タニアは嫌と言うほど知っている。

 暗闇の中から迫り来る地鳴りは、まさに怪物の咆哮。真っ黒く濁った洪水は、はりと柱で組まれた家々をトランプタワーのように洗い流してしまった。天空に飛沫しぶきを吹き掛ける荒波は、コンクリや流木をひっきりなしに揉みしだいている。

 世界の底まで続くような大渦に飲まれた時、「助けて」と要求出来るか?

 いいや、見ず知らずの他人どころか、家族にだって求められない。


「少なくとも、私は誰かが溺れてる人を見捨てたとしても責めないよ。責められない。私なら飛び込めるとは言えないもん」

「……タニアさんは優しいですね」

 賛同でも否定でもない答えを返し、シロはかすかに笑みを浮かべる。

 寄せた眉間に蓄えた影は、擁護されたことに照れているにしては濃い。

 だが、薄情なタニアに不快感を抱いているにしては薄い。

 ただ二つ言い切れるのは、タニアがシロとの間に感じた距離は、顔中シワだらけにされた時よりも遠かった。そしてその遠い笑顔がタニアに許していたのは、口をつぐむことだけだった。


 ちっ、ちっ、ちっ……。


 何かのタイミングを図っているのだろうか。

 シロは人差し指を立て、〈自漕船じそうせん〉のハンドルを叩きだす。

 迷鳥めいちょうさえずりに似た音色を聞いていると、タニアの脳裏には否応なく現実が浮かぶ。


 シロが〈ロプノール〉に居続ける理由はどこにもない――。


 シロがミューラー家で寝起きするようになってから、早二ヶ月がとうとしている。

 これ以上世話になるのは悪いと思ったのか、拾われた翌日、早朝四時に脱走を試みた奴は、待ち構えていたマーシャに拘束された。

 夜明けの脱走劇は翌日以降も繰り返されたが、それも三日で打ち止め。四日目には昼過ぎまでイビキをかいていたところを、マーシャに起こされた。連日新聞配達より早起きしていたら、爆睡してしまうのも無理はない。

 最初の一週間、遠慮がちなシロは主菜にハシを伸ばせずに、たくあんばかりかじっていた。二週目には野球部員のように威勢よく「おかわり!」して、マーシャを笑顔にした。


 店の手伝いを申し出たのは、他でもないシロ自身だ。「気をつかわないで」と連呼していたマーシャが、「働かざるもの食うべからず」を座右の銘にするシロにおかもちを引ったくられた。

 正直、タニアの勤務状況が楽になったとは言いがたい。

 出前に行かせたら最後、ミューラー商店を便利屋と勘違いしているシロはなかなか戻って来ない。二時間、三時間と待たせる度に、「ジャングル在住のお客さまはいたっけ?」とタニアの首をかしげさせている。


 何しろか弱いタニアがお冷やを出すのを忘れただけで、お玉の鉄槌を振り下ろすマーシャだ。

 渾身の天ぷらそばをサルガッソーにしたなんて抜かしたら、百叩きを受ける――はずなのだが、ハチの巣を駆除していた、迷い猫又ねこまたを捜していたと、遅刻常習犯以上に多彩なエピソードを語るシロは真剣そのもの。困っている人を助けること自体は悪いことではないし、出前先からもクレームどころか感謝のお言葉が寄せられているので、今のところは苦笑混じりの注意で赦免しゃめんされている。


 一方、大らかなのか、おつむに何らかの欠陥があるのか、シロが出前に半日掛けても「おかえり」で済ませてしまうアルハンブラは、単純に晩酌ばんしゃくの相手が出来たと喜んでいる。

 童顔どころかJCにも見えないシロは、一見するとチョコレートボンボンで鳥足どりあしになりそうだ。その実、タニアはこの二ヶ月間、シロが酩酊めいていしているところを見たことがない。と言うか、好物のベビースターラーメンを与えると、一升瓶いっしょうびんくらいすぐに空けてしまう。


 もう一つアルハンブラに歓迎されているのが、荷下ろしの手伝いだ。

 身長一四九㌢、体重四〇㌔前後――。

 四捨五入してはいけないお年頃としては、病的に小柄と言っていいだろう。

 一体、奴のどこに三個の米袋を担ぎ上げるパワーが秘められているのか? キクさんの引っ越しを手伝った時なんか、冷蔵庫を独りで持ち上げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る