⑦時間ですよ

「本当は水着の写真集も出版される予定だったんだ。でも直前で販売中止になっちゃったんだよね。詳しい事情は判ってないけど、私たち親衛隊の間じゃ、某大物〈枢機卿すうきけい〉が圧力を掛けたってのが通説だね」

「そんなことよりチャーハンの作り方でも憶えて欲しいよ」

 ドヤ顔で蘊蓄うんちくを語るタニアに対し、マーシャの表情は渋い。


「で、どう? 〈荊姫いばらひめ〉さまのこと思い出した?」

 タニアはテーブルに頬杖を着き、シロを覗き込んだ。抑えきれない期待が肩を揺り動かし、左右の足がパタパタと上下する。

「……ええ、もう色々と。黒すぎて、ブラックホールみたいになっちゃってて、普通に記憶を眺めただけじゃ見えなくなってた歴史まで、全部」

 呪わしそうに吐き捨てると、シロは顔面に浴びせ掛けるようにお冷やをあおる。コップをテーブルに叩き付ける姿は、年下の上司に叱られた窓際族が、赤提灯あかちょうちんで一杯引っ掛けているかのようだ。


「ふぅ~、ようやく片付いたさあ。やっぱ独りだと手間取っちまうなあ」

 家の外から間延びした声が響き、ガタガタと滑りの悪いサッシが開く。這うような砂煙と共に入って来たのは、汗だくになったアルハンブラだった。

 平然と座るシロを目にした途端、苦しげに舌を出していた顔が見る見るほころんでいく。お疲れ気味に丸まっていた背中が伸びると、しわがれた歓声が店内に鳴り渡った。

「おお、娘っこ、元気になったかあ!」

「は、はい、ありがとうございます!」

 慌ただしく立ち上がり、シロは素早く頭を下げる。病人には無理な芸当をの当たりにすると、アルハンブラは胸に手を当て、深く安堵の息を吐いた。


「いやあ、ドキドキが止まらなかったさあ。何せ身内から受刑者を出す瀬戸際だったからなあ」

「じゅけいしゃ?」

 カタコトっぽく聞き返し、夫にお冷やを渡そうとしていたマーシャが首を傾げる。

「あ、あれは事故! 不幸な事故だよ!」

 これ以上、不利な証言者を増やしてはならねぇ!

 危機感に駆られたタニアは、グルグルパンチのように腕を振り回し、アルハンブラに突っ込む。KOによって真実を封じられようとしたアルハンブラは、のそ~っと腕を伸ばし、タニアの額を押さえる。瞬間、リーチの差で顔面まで届かなくなった拳が、ポカポカと空中を殴った。


「ターニャ、娘っこ、準備しろお。カシムんとこ行くぞ」

「おや? 呂風ロプは三時からじゃなかったかね?」

「若い娘っこが行くっつったらあ、カシムの奴、ボイラー室に突進してったさあ」

 マーシャの質問に答えると、アルハンブラはしてやったりとばかりにVサインを出す。

 対照的に面白くないタニアは腕を組み、ぶす~っと唇を尖らせる。

 タニアはカシムさんが経営する銭湯、呂風ロプの常連客だ。

 自宅にも風呂はあるのだが、広々とした湯船はない。足も伸ばせない浴槽に浸かっていると、リフレッシュするどころかムズムズしたダルさを感じてしまう。何より湯上がりに脱衣場で飲むフルーツ牛乳には、他のどこでも味わえない独特の爽快感がある。


 そんなわけで呂風ロプにぞっこんなタニアとは裏腹に、カシムさんは素っ気ない。

 のれんを潜っても「いらっしゃい」一つ言わないし、入浴料を受け取る時も便秘のゾウみたいな顔をしている。開店時間の三時を過ぎているのに、お湯が沸いていないこともしばしばある。

 今までは親から継いだだけの仕事に勤労意欲が湧かないのだろうと、大目に見ていた。しかし客によって態度を変えると言うのなら、タニアは差別への義憤を表明せざるを得ない。


「私だって『若い娘』じゃんか……!」

「ターニャは、なあ」

「ターニャは、ねえ」

 青少年の主張を聞いた伯父夫妻は、顔を見合わせ、苦笑する。にわかに動き始めた四つの目は、だぶだぶの胸元、骨っぽい尻とタニアの身体を眺めていった。〈小詐校しょうさっこう〉中学年以来、身体測定の結果が変わらない部位だ。

「はっきり言えよ、ジジイ&ババア」

 低い声で吐き捨て、タニアは厨房の出刃包丁を握る。遠回しに発展途上の体型を嘲るような連中には、新聞の一面を飾るのが相応ふさわしい。


「あの、私……」

 口ごもりながら呟き、シロはいたたまれなさそうにテーブルの硬貨を垣間見る。

 呂風ロプの入浴料は子供一八〇イェン、大人四五〇イェン。

 シロの所持金三五イェンでは、風呂上がりのコーヒー牛乳すら買えない。

「娘っこはいつも清潔にしとらんとダメだあ」

 アルハンブラはにっこり微笑み、黒ずんでいたシロの目尻を拭う。続けてポケットに入れていた右手を出し、シロに五〇〇イェン玉を握らせた。

「でねえと、ウチのおっかあみたく、なかなか嫁にもらってもらえなくなっちまうぞお」

「あら、おかしいねえ。私はなかなか嫁を貰えない甲斐性なしのところに、来て『やった』つもりなんだけど」

 女のプライドを傷付けられたマーシャは、すかさず刺々しい声を飛ばす。手痛い反撃を受けた「甲斐性なし」は、決まり悪そうに頭を掻いた。

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