第5話カニクリームコロッケ、世に憚る
鼠色の悲しい空の下。ひび割れたコンクリートの上を、少年が駆ける。焦りながら、何かから逃げるように、隠れるように。やせ細った彼の走る先にあるのは、自動車サイズの狐色の物体。
カニクリームコロッケである。
でもそれはピクリとも動かない。魂無き、カニクリームコロッケなのだ。
彼はそこに辿り着くと、懐からスプーンを取り出す。そしてそれをサクッとした衣に突き立て、中のカニクリームごと掬い口に運ぶ。一心不乱に。貪り食う。
カニクリームコロッケ、美味しい。衣のサクッとした食感に、中のクリームのなんと風味豊かな味。カニという旨みの塊を、深いコクを持つソースが包み込んでいる。咀嚼するたびに口の中でサクサクという衣の食感が躍り、客を退屈させる隙が無い。
美味しいと、言う時間がもったいない。少年はひたすらカニクリームコロッケを口へ運ぶという作業を繰り返していた。
幾分か過ぎて空腹だった少年が満足した。そしてリュックからタッパーを取り出し、残りのカニクリームコロッケを詰め込もうとする。
気づかなかった。満たされたが故に。背後に忍び寄る大きな影に。
動く、カニクリームコロッケの存在に。
気づいた時にはもう、遅かった。カニクリームコロッケと彼との距離は手を伸ばせば届く距離。これはもう詰みの状態。そんな彼に残された手段は一つしかない。
彼は懐から拳銃を取り出す。けれどその口径は非常に小さく、とても目の前の怪物を殺せるわけがない。精々殺せるのは弱い生き物。厚い皮膚もなく、毛皮もなく、俊敏に動けやしない生き物。
人間くらいしか、殺せやしないその拳銃。彼はそれを震えながら自らのこめかみに触れさせる。自決用だった。カニクリームコロッケ達による人間殺しは惨いというしかない。熱々の体の中に人間を沈めるという、行為。わざわざ頭だけを出して、最期まで正気を失わせないようにする、工夫。それに対し人間が行ったせめてもの、工夫。それが自決用の、弾丸一発のみの格安の拳銃。
彼は恐る恐るその引き金に手をやる。生への執着というものは、そう簡単に捨てられるものではない。いくらこの後の未来が地獄のように恐ろしきものであったとしても、自ら命を絶つには少年の勇気が足りなかった。
少年の手から拳銃が離れる。彼の意思ではない。カニクリームコロッケが奪ったのだ。その巨大な鋏で器用に掴んで、捨てる。少年はその行動を受けて、カニクリームコロッケを見上げる。
命を大事に。そう語っているかのように見えた。
それから少し後、カニクリームコロッケの群れに、一体のカニクリームコロッケが合流する。その体には小さな骸が一つ。苦悶の表情を浮かべて埋まっていた。
カニクリームコロッケは美味しい食べ物。その概念は崩れ去った。
今やカニクリームコロッケは人間にとって忌むべきもの。カニクリームコロッケは恐怖の象徴。古代のサーベルタイガー、開拓期の狼と同じ。二十一世紀に人間を追い詰める、人間以外の存在ができたのだ。
結論から言えば人類は、カニクリームコロッケにジリジリと首を絞められている。大敗している訳ではない。でも、勝利には程遠い現実。
人間達はカニクリームコロッケから逃げるようにそのコミュニティを小さくし、互いに寄せ集まった。二つの街が一つに。二つの国が一つに。数が減り小さくなる。
その理由は極めて明瞭。点在して暮らすより防衛が楽だからだ。集まり互いを助け合う。原始的で単純な仕組み。悲しくもこれが、専門家が現状出来る最善と認めた策。
そんな現実は、さらに残酷だ。
コミュニティが許容できる人口は限られている。一定の基準を満たさない、中に入れない者が出てくる。体が弱い者、障害を持つ者、おかしくなってしまった者。そうなった者は捨て去られた街や廃墟で暮らす。そこでの暮らしは生半可なものではない。食料の少なさゆえに、カニクリームコロッケの死骸を探してそれを喰らう。けれどそれは長く続くわけもなく、そのほとんどは別のカニクリームコロッケに見つかって殺される。先ほどの少年のように。
カニクリームコロッケ、世に憚る。
人間達はこの事実を悔しくも、受け入れるしかなかった。ジリジリとカニクリームコロッケがその生息圏を広げていくのに比例し、人間の生活圏は狭くなる。その度に色んなものが減っていく。
減っていく畑、漁港、牧場。生産拠点が減っていくのに比例し、治安は悪くなり殺し合いが起きて人が減る。
減っていく銃工場、造船所、兵器工場。それに比例し、カニクリームコロッケを倒す手段は無くなり人が減る。
減っていく。モノも、人も。希望も。増えていく、カニクリームコロッケ。
必要な労力が違うのだ。
カニクリームコロッケを倒すのに必要な鉄、火薬、土地、人間……。一両の対空車両を造るのに、どれだけの資源が必要か。どれだけの労力が必要か。
カニクリームコロッケが増えるのに必要な乳製品、小麦、カニ缶、パン……。『キッチン』から生まれてくるカニクリームコロッケは、軍事車両に比べれば圧倒的に安く、それを倒すには馬鹿みたいな費用が掛かるのだ。
人間達はわかっていた。もう今までの生活を送れないということを。ジワジワと首を絞められていく恐怖を感じ、生きている。
空を飛ぶカニクリームコロッケの群れの中から今、一体のカニクリームコロッケが離れる。これはカニクリームコロッケ達にはよくある行動だ。集団で移動しながらも、時々群れから離れて行く斥候。彼らは周囲に人間の集団が居ないか見つけて、それを群れに報告しに行くのだ。
不幸なことに、その進行先にある廃墟から人の声がする。
「アナタ、私を置いて逃げて……」
「馬鹿、お前を置いて行けるわけないだろ! それに一人の体じゃないんだ……!」
若い男女の力無き悲しい声。さらに女性のシルエットから考えれば、男の台詞の意味が解る。
「でも、このままじゃあ、三人死んじゃうんだよ。一番嫌な死に方で、死んじゃうんだよ。大丈夫だよ。お腹の子には悪いけど、これで逝くから……」
彼女の手には小さな銃。男はそれを見て、悲しくも少し安心してしまった。まだマシな死に方ができるのだ、と。そんな憐れな思考に囚われた男を覚ますように、大きな音を立てて廃墟の壁が崩れる。
「あ、あぁ……」
壁を突き破り、這い出た絶望。でもそれとは対照的な、揚げ物の良い匂いがホワッと彼らの鼻へと入る。
その光景を見た彼女は、安らかに諦めの表情を浮かべつつ喉に銃口を当てて、引き金に手をやる。
「ごめん、ね……」
でもそうは問屋が卸さない。いや、カニクリームコロッケが卸さない。
その鋏で器用に最小限のスナップを効かせて、彼女の銃を持つ手に鋭いチョップを喰らわせた。
「ヒィッ」
堪え難き痛みで声を漏らす。その巨体と固い鋏から繰り出された技は、容易く骨を砕く。プランと脱力する彼女の右手からは銃が落ち、それはすぐにカニクリームコロッケの固い脚が踏みつぶす。
つまり、この瞬間に彼女が楽に逝ける手段が無くなったのだ。でもそれだけではなかった。
「嘘……。嘘、ウソウソウソ!」
不幸というものは重なるもの。彼女の足元が濡れる。これは恐怖で失禁したということではない。破水だ。
「今はダメだって……。殺されちゃうから! 殺されちゃうから!」
今、新しい命が産まれようとしている。でも悲しいかな、すぐその先に待ち受けているのは死。ただの死ではない。苦しみもがく死なのだ。女性の悲痛な声がそれを否定しようとするが、ダメ。新しい命は外の事なぞ知らず、ただただ本能に従って、出ようとしているのだ。外に出てもすぐ、『中』に入れられてしまうというのに。
けれどカニクリームコロッケは彼女を殺すわけでもなく、奇妙な行動をとりだした。
「おい! 俺の嫁に何すんだよ!」
鋭い鋏捌きによって露わになった彼女の下半身。一見、性的暴力と思われる行動だが相手はカニクリームコロッケ。彼女を穢すというわけではない。
罵声を飛ばす男を無視して、カニクリームコロッケは周囲にあるの布の中から最も汚れの少ないものを数枚用意して、彼女の尻の下に敷く。
「お前、もしかして……」
カニクリームコロッケ産婆。
お前も何かしろよと言わんばかりに、男の前に洗面器が放り出される。男は震えながらも黙って頷き、それを持って湯を汲みに行く。幸いにも地下のインフラは地上よりその被害は圧倒的に少なく、このような事態に対処できる。
二人と一体のカニクリームコロッケ。新たな命を迎え入れるため、彼らは動き出した。
「ホギャア! ホギャア!」
廃墟に響く生命の息吹。
おめでとう、今日は君の誕生日。そう言わんばかりにこの夫婦は喜びに包まれている。産まれたばかりの子を産湯で洗い、カニクリームコロッケは慣れた手つきで赤子のへその緒を切り、そっと母親の横に置く。
疲れ切った母親の顔は確かにやつれているが、とても幸せそうである。
「あんた……。悪い奴じゃなかったんだな」
カニクリームコロッケ、人を殺す。なんて馬鹿馬鹿しい話なんだ。カニクリームコロッケが人を殺すわけがない。男はそう思っている。
今まではきっと、何かの間違い。何か込み入った事情によって互いに争っていただけ。カニクリームコロッケと人は共存できる。男はそう、思っている。
「おいおいおい! 待て、何しようとしてんだよ!」
でも真実は違う。カニクリームコロッケ、人を殺す。
疲れ切った母親の腕にカニクリームコロッケの鋏が触り、グイと持ち上げる。今までの触り方とは違う。不必要に宙に浮かべるその行動の意味するところは。
「離せよ! 何で今更こんなことするんだよ!」
もはや抵抗する力もない女を、その身に入れ込もうとするカニクリームコロッケの鋏を、男は必死に押さえつける。でも力は圧倒的にカニクリームの方が上だ。その鋏は徐々にカニクリームコロッケの頭上へと昇っていく。
「クソッ、これでも喰らえ!」
苦し紛れの行動だった。無駄な抵抗だった。本来なら。
周囲を掃除するために用意しておいた、バケツ一杯の水。彼はそれをカニクリームコロッケの鋏の付け根目がけて、かけた。
水のかかった場所の衣が水を吸う。ダボダボになったそれはボロボロと崩れ、鋏も付け根からドロリと落ちる。カニクリームコロッケと鋏が分かれ、女が落ちる。
一瞬、男は呆けながらもこの現象を理解した。
(カニクリームコロッケ、水に弱い!)
原理はわからない。けれど今、目の前の女を救う手段ができたのだ。
男は何度も何度も水道から水を汲んで、カニクリームコロッケにかけていった。脚の付け根にかけていけば、カニクリームコロッケのその動きの自由度が下がっていく。鋏の付け根にかければ、カニクリームコロッケは攻撃の手段を失う。
気づけば男の目の前には、ビチョビチョで、巨大で……。酷く不愉快な食べ物のような何かがそこにあった。
「助かった……! 助かったぞ、お前……!」
勝利の喜びを分かち合いたい。ただその思いだけで、男は彼女の肩を触る。でも彼女にはまるで反応が無い。動かない手足、表情。そして、心臓。
死んだのは、カニクリームコロッケだけではなかったのだ。
男は廃墟に佇む。母亡き子を抱いて。
先天的な体の弱さからか。栄養失調か。その原因を確かめてくれる者はいない。
男は絶望している。けれど、この事件は人間が、人類が、希望を取り戻す大きなきっかけになったのだ。
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