第9話
どの世界であっても、休日いうヤツはあっという間に過ぎ去ってしまうものらしい。あるいは、そういう風に捉える感覚が世界共通なのだろうか?
そんな取り留めもないことを考えながら、わたしは明日から始まる専門課程の授業の用意をしていた。とは言え、荷物自体は基礎課程とさしたる違いはない。鞄の中身はノートと筆記用具、携帯義務を課された手形くらいのものだ。
制服と共に届いた案内によれば、どの講義も最初のうちは座学形式で
基礎課程の授業風景から察するに、専門課程でも
筆記用具に講義数分のノート、それから時間割がちゃんと入っているのを確認すると、わたしは念のためにと授業案内を荷物に加えた。
鞄を机の上に置くと、今度はハンガーに掛けた制服を確認する。この学園は学科ごとに制服の色が異なり、一目で判別できるようになっている。制服が
ちなみに基礎課程の茶色の制服は、専門課程の授業が開始されてから各自で事務棟まで返却しに行くようにと通達があった。専門課程の授業が開始されるまでは出歩く際に基礎課程の制服が必要になるため、妥当な措置と言えるだろう。
基礎課程の制服を丁寧に畳んで授業とは別の鞄に詰め、同じく机の上に置く。これで準備は完了だ。
ふう、と小さくため息をついた時、遠く鐘の音が響いてきた。授業の合図とはまた別の、時報の鐘だ。お寺の鐘に近い音色のそれは九回響き、余韻を残しながら消えていく。
「九時か……少し早いけど、もう寝ちゃおうかな?」
いつもであれば本でも読んでいる時間だが、明日は大事な授業初日だ。寝過ごして遅刻だなんて、絶対に避けたいところである。
制服と机の上の鞄を指さし確認し、よし、と一つうなずくとわたしは明かりを消してベッドに潜り込んだ。
翌朝、講義室の扉を開けたわたしは小さく驚愕の声を上げた。
おそらく基礎課程での洗礼によって学習したのだろう、前列の席はほぼ占領されていたのである。教壇の前にだけぽっかりと空白地帯ができているのは、ある意味お約束と言うべきだろうか。
苦笑を浮かべながら
かなり早めに出てきたため、授業開始までにはまだ時間がある。時間潰し用に持ってきた図書館の本を取り出したものの、結局それを開かずにわたしは教室内に視線を巡らせた。
基礎課程と同じく、この専門課程も修了通知をもらうまでは何度も受ける必要がある。だが、見た感じどの生徒の制服も真新しいように見受けられた。まぁ、この講義は基礎を説明する座学なので、一度受講すれば必要なことはノートを取り終えるのだろう。あるいは、専門課程に上がったばかりの生徒が対象なのかもしれない。
そんなことを考えている間にも席は少しずつ埋まっていく。そして授業開始の鐘の音が鳴るのと同時に、教室内に担当の教師が入ってきた。
緑の詰め襟服の左腕に紫の腕章を着けた、どこか優しげな風貌の藍色の髪の男性。彼は教壇に立つと、その切れ長の琥珀色の瞳で教室内の生徒を見渡した。
「初めて会う顔には初めまして、私がこの講義を担当するホレス・バーンズです。見ての通りの学科長ですので、講義以外でも
にこりと優しげに微笑んだバーンズ先生に、生徒の大多数がホッとしたように息を吐き、緊張を緩めた。それを見越してであろうか、バーンズ先生は表情はそのままに、少しだけ声の調子を強めて言葉を続ける。
「ですが授業内容そのものについては、後から聞かれても答えませんのでそのつもりで」
基礎課程でもそうだったが、こうやってわざわざ釘を刺すということは、授業を聞いていない人間がそれなりの数いるのかもしれない。ついでに、笑顔の割に先生の目がまったく笑っていないあたり、ゲームのキャラ設定通り怒らせると怖い御仁なのだろう。
周囲の生徒たちも同じことを察したのだろう、居住まいを正す物音が聞こえてくる。
緊張感の高まった生徒たちを再度見回し、バーンズ先生は満足そうに笑みを浮かべて授業の開始を宣言した。
初顔合わせの挨拶も兼ねているのだろう、まずはこの講義でどういうことを学んでいくのかという説明から始められた。
それによると、【
表面上は穏やかに、けれども真綿で首を絞めるかのようにジワジワとプレッシャーをかけてくるバーンズ先生の物言いに、授業終了の鐘が鳴る頃には生徒全員がぐったりとしていた。
死体同然に突っ伏している生徒も多い中、教室移動のために荷物をまとめて立ち上がる者もいる。わたしも鞄から時間割を取り出すと、次の予定を確認した。幸いなことに、この次も同じ教室で座学である。ノートだけを取り替えると、わたしも多くの生徒たちと同じように机に上体を投げ出した。
「
黒板の上をチョークが走る小気味よい音が教室内に響きわたる。サラサラと書き出されたのは、レース編みの図案を思わせる幾何学模様だ。
げんなりしながらため息をついていると、誰かが質問のために挙手したらしい。生徒を指名するバーンズ先生の声が響いた。
「意図しない効果が発生したとして、それの何が問題なんですか?」
何がどう危険なのかがわからないとの生徒の言葉に、周囲からも同意の声が上がる。たかが
「たかが
これがどういうことかおわかりですか? とにこやかに問いかけるバーンズ先生に、質問者のみならず教室内の生徒全員が凍り付いた。転送対象が人間だった場合に起こり得る、非常にグロテスクなことを想像してしまったのだろう。
そんな生徒たちにトドメを刺すかのごとく、穏やかな声音でバーンズ先生が別の例を挙げる。
「また、測量するつもりで陣を描いたものの、それが
満面の笑みを浮かべて問いかけるバーンズ先生に、生徒たちは首が取れるのではないかと思えるほど大きくうなずき、かつてないほどの真剣さで授業に臨んだ。
◆
陣の効果や書き順の知識を確認するテストに合格すると、授業内容は実際に
最初のうちは各講義ごとに第二修練場で行われていたのだが、安定して
合同講義となっている理由は、実際の探索時を想定してとのことらしい。教師
「では次、前に出てやってみろ」
やる気のなさそうな声でベイリー先生が幾人かの生徒の名を口にした。挙げられた中にはわたしの名前もあったため、他の生徒たちと共に前へ出る。
パン、と合図代わりに手が打ち鳴らされると、生徒たちは一斉に杖を動かし、眼前の空間に陣を描き始めた。怪我を治す、
ほぼ同じタイミングで描き上げられた陣は、僅かな燐光を放って消える。その直後、
その代わりにと言うべきだろうか、右隣の鉢植えは可憐な白い花を咲かせていた。
抑えてはいるものの、あからさまな嘲笑が周囲から沸き起こる。この流れまでいつものことだ。気にならないと言えば嘘になるが、もう慣れた。
小さくため息をつきながら杖を下ろすと、幸いなことに授業終了を告げる鐘の音が鳴った。
「よし、ではこれで授業終了だ。杖はいつものように出入り口横のロッカーに返却してから帰ること」
手を打ち鳴らしてベイリー先生が告げる。他学科でも同じようなやり取りがあったのだろう、生徒たちが群をなして外へと向かう。今日はこれが最終授業であることも手伝い、その足取りは軽やかだ。
そんな彼らを見やってもう一度ため息をつき、のろのろとした足取りで生徒たちの波に混ざろうとした時だった。
「ああ、ティアニー。おまえは残れ、少し話がある」
他の教師たちと共に片づけをしていたはずのベイリー先生が、振り向きもせずにそう言い放った。それを耳にした生徒たちが、くすくすと笑いながらこちらを見やる。聞こえよがしな陰口がないだけマシだと思うべきか。
わかりましたと返事をすると、わたしは片づけのじゃまにならない場所に移動して壁にもたれかかった。
無意識に重いため息が口からこぼれる。
「何でうまくいかないのかなぁ……」
口の中でつぶやいて、もう一度ため息を吐き出す。地面に陣を描いて術を発動させていた時には何の問題もなかった。けれど、本番よろしく空中に陣を描くようになると、ちゃんと発動しなくなった。それは
あと一週間ほどすれば習熟度判定の日がやってくる。このままでは
呻きながら頭を抱えてうずくまっていると、わたしの名前を呼ぶ
「どこか具合でも悪いのですか?」
「あ、いえ、大丈夫です。何ともありません」
心配そうな声音に、あわてて
「それならいいのですが」
ホッとしたように笑みを浮かべるバーンズ先生に笑みを返しながら、わたしは内心首を傾げた。
先程の講義はバーンズ先生の受け持ちではなかったはずだ。それなのになぜここにいるのか?
考えて、わたしはげんなりと天を仰いだ。ベイリー先生がわたしを引き留めた理由と関係しているのは間違いないだろう。
「すまない、待たせたな」
いたたまれない思いで待っていると、片づけが済んだらしいベイリー先生の声がした。そちらに視線を向けると、修練場の中央あたりには片づけられたはずの花の鉢植えと衝立が並んでいる。
手招きされたのでバーンズ先生と共にそちらへと向かうと、ベイリー先生は無言で足下に並ぶ鉢植えの一つを指さした。四つ並んだうち、わたしから見て右から二番目の黄色い蕾がついた鉢植えだ。
「さっきの授業の復習だ。これに治癒の術をかけてみろ」
「……わかりました」
問いかけることを許さない調子の声音に、わたしはただうなずく。
鉢植えの正面に立つと杖を構えた。一度目を閉じ、大きく深呼吸を二回繰り返す。
覚悟を決めて目を開けると、一息に陣を描いた。僅かな燐光が放たれ、消える。それとほぼ同時に
「なるほど……」
難しい顔つきで腕組みし、バーンズ先生がうなずいた。ベイリー先生を見やると、小さくうなずいてみせる。そのまま二人は鉢植えを衝立の後ろへと持って行った。並べ替えてでもいるのか、衝立の向こうからはゴトゴトと物音が響いてくる。
「では、次は
衝立のこちら側に戻ってきたバーンズ先生の言葉にうなずくと、わたしは再び杖を構えた。
探索用の陣を描き、目を閉じた。
暗闇の中、星のように白い光が
地図の中央には、生物を示すオレンジがかった光点がいくつか
今回の捜索対象は花の咲いた鉢植えであることから、弱々しい光点に意識を集中させる。その中で比較的力強い光点が目的の鉢植えのはずだ。
「右から二番目の……一番下?」
おそるおそるつぶやきながら、窺うようにバーンズ先生を見上げる。
「惜しいな、その一つ上だったんだが」
答えたのは衝立の向こうのベイリー先生だった。やれやれと
「さて、言わずとも理解しているな?」
「……ハイ」
その後、計五回治癒と探査の術を繰り返したのだが……。
「……一応聞くが、わざとやっているわけではないよな?」
どこか疲れたようなベイリー先生の問いかけに、わたしはうなずいた。
「ここまでくると、もういっそ見事と言うべきでしょうね……。見当違いの方向に行くならまだしも、毎回対象の一つ隣にズレるというのはなかなか見ませんよ」
呆れと関心とが
「よし、あと一回だけやってみるか」
小さくつぶやき、ベイリー先生は再度鉢植えを並べだす。
「一番右端、あれに治癒の術をかけてみろ。ただし陣は空中ではなく、床に描くこと」
「はぁ……わかりました」
教師陣の意図を読めないまま、わたしは再度構えを取った。トン、と床に杖を突き、一気に陣を描き出す。
ぽぅ、と燐光が散って術が発動する。おそるおそる顔を上げて確認すると、指定通りの鉢植えに術をかけられたようだった。
「……なるほど」
どこか難しい声音でつぶやき、バーンズ先生が鉢植えを衝立の向こう側へと持って行く。並べ替えているらしい物音が収まると同時に、
「一番左の、上から三つ目」
回答すると、正解、との声が返ってきた。
衝立の向こうから戻ってくると、バーンズ先生はベイリー先生と顔を見合わせてうなずいた。こちらに聞こえないよう、小声で何か話し出す。
その様子にどうにもイヤな予感を覚え、わたしは杖をぎゅっと握りしめた。これはあれだろうか、規定よりも早いけれども、習熟度の判定試験を行われたということだろうか?
もしそうだった場合、導き出される結論は落第一択と言ってほぼ間違いない。
「ああ、こらそこ。勝手な思い込みで落ち込むんじゃない」
呻いて頭を抱えたわたしに、どこか呆れたような声音でベイリー先生がそう告げた。
「別に今のは試験だったわけじゃないぞ。似たようなものではあるが」
フォローする気があるのか判別のつかないその言葉に顔を上げると、バーンズ先生もうなずいた。
試験ではないとすれば、今のは何を目的としていたのだろうか? 補習というのが一番近い気もするが、どうも何かしらをテストされていたようにしか思えない。
そんなわたしの疑問を読みとったのだろう、バーンズ先生が口を開いた。
「ええ、今のはきみの
「術の、精度……?」
「そうです。
「
まるでこちらの心を読んだかのようなタイミングでベイリー先生が茶化すが、まったくもって笑い事ではない、本当に。
「見たところ描き順等は問題なさそうなので、術の対象となるものを強く意識してください」
ではもう一度、との言葉に、わたしは再度杖を構えた。術をかける対象――鉢植えをじっと見据えながら空中に陣を描く。
「わざとやっていたのなら、怒れば済む話だったんだがなぁ……」
ため息混じりにベイリー先生が笑う。一方のバーンズ先生はと言えば、何とも言い難い表情で考え込んでいた。あれは明らかに言葉を選んでいる。
「正直、こういうケースは今まで見たことがないので、どう対処したものか……」
思わずといった様子でこぼれた言葉が、音を立てて突き刺さる。そこまでの落ちこぼれですか、わたし!?
「そこまで悩む必要もない気がするがな?」
一周回って愉快になったのか、にやにやと笑いながらベイリー先生が口を挟んだ。視線を集めるように指を立て、わたしに向けてそれを突きつける。
「陣を空中ではなく、地面に描くようにすればいい。そうすれば暴発することもないし、威力も安定する。ほーら、全部丸く収まった」
「……確かに、それが一番確実ですね」
なおも考え込んでいたバーンズ先生だったが、やがてゆっくりとうなずいた。
「それじゃ、結論も出たところでお開きとするか。ティアニー、おまえはもう帰っていいぞ。長々と引き留めて悪かったな」
「ええ、片づけは我々でしておきますので、きみはもう帰りなさい」
「……はい、ありがとうございました。お先に失礼します」
深々と一礼すると、わたしは杖をロッカーにしまって修練場を後にした。
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