22
―頭が重い。
そっと瞼を開けると、まるで何も見えない。
真っ暗闇。
電気がついていないので、ここがどこなのかもわからないまま。真由香はきょろきょろと周囲を見回すが、皆目場所の見当がつかない。
どうやらソファーに腰を下ろしているらしい。無理な態勢で時間が経過したせいか、体の節々が痛む。
そして気がつけば、口で息をしようとしても何か鉄のマスクのようなものが強制的に咥えさせられているのにきづく。息を吸い込もうとしても、自由が利かず、それもままならない。
手は後ろに回されており、鎖なのか手錠なのかはわからないが、強制的に巻き付けられているようだ。
身動きが取れない。
どうしたらいい?
というより、今自分の身に起きている出来事があまりに非日常すぎて、真由香は呆然とする思いだった。
記憶はかすかに残っている。
大泉学園駅前まで小走りで急いでいた。終電に間に合わせるために。急いでいたせいか足元がよろめき、そのまま転んでしまった。そしていきなり口元に布か何かで覆われて、そのまま意識を失って……。
真由香は唾を飲み込んだ。
時刻はわからない。腕時計をつけているはずだったが、時間を確認することができない。
いったい、ここはどこだろう?
ただ何故かはわからないが、真由香は今ここにいる場所は初めてではない気もしていた。空気感でなんとなくわかる。ここは自分にとって馴染みの場所だ……そういう気がする。
不安で頭がどうにかなってしまいそうだった。大声で叫ぼうとしてもそれも許される状況ではない。
目を閉じる。
しらず神経が研ぎ澄まされているのか、何者かが近づいてくるのが分かった。足音がかすかにきこえる。
気配。
誰かがこっちに近づいてくる。
不安で心臓が破裂しそうになる。これから自分の身に降りかかる嫌な事態を想像して、腋の下を変な汗が流れる。
そして突然、眩い光が視界に飛び込んできた。先程まで真っ暗闇の空間だったので、何度も瞬きする。
辺りに一瞬にして電気が灯されたようだった。
ここがどこなのか、すぐにわかった。
真由香は戸惑う。
ここは……。
部屋の中央に置かれているのは、大画面の液晶テレビ。その横に置かれた機械。部屋の意匠、配置されたソファー。
カラオケボックス。
真由香が馴染みにしていた、大泉学園駅前のカラオケボックスの部屋。
ガタン、と扉が開かれる音。真由香が振り向くと、黒のTシャツにジーパン姿といったラフな格好の男が立っていた。真由香は思わず息をのんだ。見覚えのある顔だった。
「驚いたでしょうね。クロロホルムで気絶したのはどういう心境でしたか?」
陰気な声。若い男の子。このカラオケボックスで確か働いていた……真由香は勝手に副店長だと思い込んでいた男の子。確か名前は多田といったはず。
「夜道は危険なんですよ。宮地さんみたいな美しい女性はひとりで歩いてはだめですよ。ね、こういうキケンな目に遭うわけですから」
よいしょ、と多田は真由香の右向かいのソファに腰を下ろした。陰気な口調は変わらない。いつもの明るい快活な話し方ではなく、とにかく暗かった。そして目は死んでいる。
「何か話したいことでもありますか? でもまあ大声出されても困りますんでね。防音設備はしっかりしていたとしても、閉店したカラオケ屋から女性の叫び声が聞こえちゃマズイんですよ」
多田は笑顔を見せることはなかったが、饒舌だった。受付ではいつも口数少なく事務的に業務をこなすという印象だったが、何かにとりつかれたかのように言葉をつないでいく。
「さっきも言いましたけど、夜道は危険なんですよ。何度も僕は忠告したじゃないですか。プロデューサーなんて仕事はやめたほうがいいって。所詮ただの宮仕え。調子に乗らないほうがいいんですよ。あんなに何度もお知らせしたんですけどねえ」
真由香は小さく喉を鳴らすと、何度も首を横に振った。
目の前のこの男が、あの一連の脅迫状の主だったのか。
そんな、まさか。
いったいなぜ?
真由香のそんな思いがわかったわけでもないだろうに、多田は「あれ、ようやく気づいたんですか。僕が一連の脅迫状の犯人なんですよ」ととぼけたように少しはにかんだ。
「まあ、前々から気にはなってたんですよ。ひとりでいつも寂しくカラオケボックスにやってくる謎の美人の存在がね。いつも平松愛理を熱唱するミステリアスな美女。この人、何者なんだろう。この人、普段はどんなシゴトをしているんだろう、なんてね。気にはなっていたけど、当然知りようもない。こっちが知ってるのは宮地真由香という名前だけ。で、気になったのでネットで名前を検索してみた。すると、大泉の東光撮影所で戦軍作ってる女プロデューサーって出てきた。へえ、こういうお仕事をされてる人なんだって。……僕、ああいう特撮モノまったく興味ないンすよね。でもそこから気になったのでいろいろ調べてみた。たまたま特撮雑誌にも写真付きのインタビューが載っているのも発見したし。ああ、改めてこんなきれいな人がたかがジャリ番のプロデューサーなんだって、興味も沸いてきてね」
なぜか照れたように多田が頭を搔く。
「たかが子供番組に命賭けてナニやってんだろう、この人はって。あんな疲れた顔でカラオケにやってきて、仕事はさぞかし大変なんだろうと同情もして。しかも番組も掛け持ちで担当しているという。インタビュー読んで、あまりの仕事の辛さに多分この人は泣いてるんだろうなあ、毎日たまらない思いで生きてるんだろうと考えるとこっちも辛くなってくるじゃないですか。だから、その苦しみから解放するのが自分の使命だと思うようになったわけですよ」
いやそういうわけじゃないから、と言おうとしても真由香の口元は自由が利かないので言葉を口にすることもできない。
とにかく。
この多田というカラオケボックスの店員が一連の脅迫犯。
昼間の財前の言葉が甦ってくる……なぜ脅迫犯は、東光の本社がある銀座ではなく、撮影所のある大泉宛に脅迫状を送り付けてきたのか?
何となくだが、理由は理解できた。真由香は大泉学園駅前のカラオケボックスの常連客だった。仕事帰りに一人でカラオケに来ると多田は思いこんだ。実際は大泉は数ある仕事場の一つに過ぎないのだが、とにかく多田はそう思った。そしてネットで調べると、真由香が東光所属であることが確認でき、大泉には東光撮影所がある。だから、真由香は大泉で常に勤務していると考えた。もし多少なりとも業界や特撮に詳しい人間なら、東光の本社が銀座にあることくらいすぐわかりそうなものだが、あいにく多田は特撮作品に詳しくなかった。だから……。
整理してみれば、実に他愛のない事柄の連続でしかない。しかし、真由香にしてみればたまったことではない。どうして、そんな訳の分からない理由で、自分はこんな場所に軟禁されなきゃならないんだと泣きそうになる。
多田は部屋をぐるりと見まわした。
「ここはもうすぐ改装の工事が入るんですよ。それまでは誰も入ってこない……僕はこの店の改装期間中の管理を任されてましてね。まあ、根城みたいなもんです。ちょっとした都会の中の隠れ家というわけで」
ひとりで滔滔としゃべる多田。
「宮地真由香さん。あなたは本当に美しい。この店にいつも一人でやってくるあなたを見て、いつも胸が苦しくなりました。本当に愛おしい。あなたは僕の太陽でした……あ、これって横山ノックを偲ぶ会で上岡龍太郎師匠が述べた弔辞の冒頭の一節のパクリです。僕、龍太郎師匠が大好きなんですよ。あの人、今どこでナニやってるんですかねえ」
後半は多田の雑談に変わっていったが、真由香はどうにもひっかかった。
あなたは僕の太陽でした。
過去形?
弔辞?
「まあ、それはともかく、いやもう見てられないわけですよ。そんなプロデューサーなんて仕事を続けることはない。あれだけ何度も忠告したのに、その仕事をあなたはやめなかった。そんなにこっちの忠告を無視することはないじゃないですか。まあ、腹が立ちましたね、はっきりいって。いつまで僕はあなたを心配し続けなきゃならないんですか!」
いきなり多田は立てた拳でテーブルをドン、と叩いた。あたりの空気が震える。真由香は思わず唾を飲み込んだ。
「もうここらでいいでしょう。人生完全燃焼。あなたの人生の幕、僕に降ろさせてくれませんか。それがあなたに対する、僕の精いっぱいの愛情表現なんです」
多田は腰ポケットから素早くさっと一本のアーミーナイフを抜いた。何か特殊な収納ポケットになっており、一瞬の素早い動きだった。なんでそんな物騒なもの、腰に仕舞い込んでるんだと思わずにはいられないが、あまりに唐突で、急激な展開に真由香は戸惑う。
その光り輝くアーミーナイフ。
そのナイフでどうするつもり?
刺す?
まさか。
「死んでもらいます」
多田はあっさりと死刑宣告をする。
「特に遺体をどうこうしようなんてことも思ってません。僕はあなたをナイフで刺したあと、警察にすぐ自首するつもりです。でもその前にあなたに僕のこれまでの思いを、是非ともわかってもらいたかった。だから、わざわざここまで連れてきたんです。何も知らないまま死んでもらうとこっちも困るんですよ。でもようやくわかってもらえた。本当に良かった。真由香さんの最後の男になれて本当に良かった。こんな素晴らしい夜はありません。もう何も思い残すことはありません」
いやいや、噓でしょう。
こんな形でわたしの人生、幕が下りちゃうの? いや、他にもいろいろやりたいこと、あったし。仕事も、恋も、プライベートも。いや、本当にこれで終わり? 嘘でしょう。
神様、嘘だと言って!
しかしどうやら事態は真由香が考えている以上に深刻に推移しているようだった。もしかして、これは何かのドッキリじゃないかと楽観的な予想も行ってみたが、多田のシリアスな表情を見て、その可能性は万の一つもないなと一瞬で諦めた。
「美しいままのあなたで時間が止まってくれれば、僕もなにも思い残すことはありません。真由香さん……永遠にさようなら、です」
多田はナイフを真由香の眉間に突き刺すように示すと、そのまま刃先をゆっくりと胸のところにもっていった。
真由香の口の中かからからに渇く。
これまでなのか。
もう、幕切れなのか。人生、そんなものなのか。当然今のこの状態に抗いたい。しかし、この軟禁状態。手錠で繋がれ、助けを求めることもできない。そして胸にあてがわられたアーミーナイフ。
もはや、これまで。
真由香は覚悟を決めることにした。
何もどうすることもできない。
じっと目を閉じる。
どうせやるなら、苦しまないように一息でやってくれ!
全身が恐怖で震える。
覚悟。
諦め。
そして……。
何かが部屋に飛び込んでくる音。真由香は思わず目を見開いた。
ドアがいつの間にか開かれていた。何者かが部屋に飛び込んできたのだった。その素早い動き。
それはあっという間の出来事。
その人物は多田が手にしていたナイフに蹴りを入れる。刃物は吹き飛び、多田も後ろに倒れこんだ。当然このような事態を多田は予想していなかったようで、彼はよろめきながらも、その人物にとっさに反撃を試みようとするが、相手の動きは予想を大きく上回っていた。
跳躍し、華麗に舞う。
「この野郎!」
さきほどまでの余裕をなくした多田は相手に向かっていくが、相手の動きが一枚も二枚も上手だった。多田は足払いされると、ごてんと床にひっくり返った。相手は手刀を多田の首筋に素早く振り下ろした。
多田は首から崩れ落ちた。そのまま気絶したらしい。
本当に一瞬の出来事。
相手の顔をようやく落ち着いて真由香は見ることができた。
見覚えのある顔。
この人は……。
「大丈夫? こんなひどい目に遭って」
そう言うと、真由香の両肩を優しくつかんで「もう大丈夫だから」とにっこり微笑んだ。
どうしてこの人が今ここにいる? そしてなぜわたしを助けてくれたの?
森永社長にいつも影のように寄り添っている、美人秘書がにっこりと微笑んでいる。
真由香はその微笑みにすっかり安心しきったのか、極度の緊張から解き放たれて精神が弛緩したのか、そこから意識が途絶えてしまった。
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