Episode6 疑惑
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新聞記事を改めてじっくりと読み、真由香は溜息を吐いた。
この「東光の関係者が一名倒れ、病院に搬送された」というのは真由香のことだった。急に気分が悪くなって、そのまま気を失ってしまった。気を失うのは真由香にとって初めての経験だった。近くに衣里とかほかの人間が大勢いたのは幸いというべきで、そのまま救急車が呼ばれて、病院に搬送された。
日野市の私立病院に搬送されると、北関東弁なまりの初老の医者からの診察を受けた。結果的には最近の激務が積み重なっての過労と診断されて、数日間検査入院をさせられることになった。病院に入院するのも初めての経験で、九月九日火曜の朝に退院する予定だった。真由香の家族にはあえてこのことは伝えていない。そもそも時間が不規則ないまの仕事に両親などは納得していないので、今回の件が知れたらややこしいことになりそうだった。
「この夏ほとんど休みがなくて、睡眠もまともにとってなかったら、そりゃ倒れますよ。とにかくしばらく安静になさってください。有給も溜まってるでしょう? まあ、ベッドの上でおとなしくなさってたら別に仕事もしてもらって構わないので。でもムチャのし過ぎはだめですよ」
お医者さんからそう言われ、真由香は「反省します」と頭を下げた。
そうなると、途端に退屈になってしまい、しばらくは何もすることがなくなった。そして新聞を読むと、そんなことが書かれてある。もう数日前の新聞記事ではあるが、何度も見返してはあまりの恥ずかしさに茫然とする。
しかし休んでる暇はなかった。自分の立場を思い出す。
とにかくやることが山積み。
真由香の病室は個室じゃなく他の患者さんもいるので、夜遅くまではなにもできない。また病院だから携帯電話やパソコンなどの電子機器も使えない。とにかく自分ができる範囲内で仕事を再開するしかなかった。
「去年は僕が入院したけど、宮地さんが倒れちゃうとはね。ご愁傷さまとしか言いようがないね」
来年スタートの新戦軍『恐竜戦軍ザウルスフォース』の準備に忙しい槇が、小曽根や神長倉とともに病院にやってきてそう慰めてくれた。しかしそう言う槇の顔も別に健康そのものでもない気がした。小曽根や神長倉に依頼して資料を持ってきてもらったので、彼らが帰ったあとさっそくチェックを始めていく。見舞いに来た小曽根や神長倉たちに細かく指示をする。
結局入院中でも真由香の仕事は延々とつづきそうだった。
「あなたねえ、からだが悪くて病院に来てるんだから、仕事のことなんて忘れてゆっくり休みなさいよお」
隣のベッドの初老のご婦人がそう忠告してくれたが、真由香は「仕事ですから。それに好きでやってますから。ノープロブレムです」と言ってにっこり笑った。
そんな入院生活も明日でようやく終わる。九月九日月曜日の午後、真由香はまわりをカーテンで遮蔽して、能勢朋之が執筆した『スカイフォース』の準備稿のチェックを行っていた。普段はパソコン上で行う作業だが、小曽根に依頼してプリントアウトしてもらっていた。
早く退院して仕事がしたい。真由香の気持ちは焦っていた。
そして一方、体調が落ち着いたと同時に真由香の心にあの火事の一件は微妙な影も落とした。記事の通り、東京東光撮影所の旧第六ステージはほぼ全焼した。倉庫代わりに使用していたそのスタジオには『超時空少年トキオ』の撮影で使用する着ぐるみや装置が保管されていて、それらが被害に遭った。ただし撮影で使用済みのものばかりであったため、被害は最小限のダメージで食い止められた。
夜中の撮影所の火事。あそこは普段は倉庫代わりになっていたから火器の類は置かれてなかったはずだ。本当に記事通りに、電気室が原因で出火したのだろうか。
それとも。
真由香宛てに届いたあの不気味に六行だけ大書きされた手紙。あれが関係しているなんてことはないんだろうか……。
そういう思いに駆られているときに突然―
カーテンがいきなり乱暴に開かれた。え? と真由香が一瞬びっくりした後、さらに驚かされることになる。
「えー?」
思わず悲鳴を上げてしまう。
男が二人、そこに立っていた。二人とも還暦過ぎの老人。
ひとりは『超時空少年アラン』のラインプロデューサー折尾仙助。フルーツの盛り合わせの籠を手にしていた。
もうひとりは実に久しぶりの再会だった。サングラスにオールバックに顎髭。パッと見やくざのような風貌だが、これでもれっきとした映画人。『飛翔戦軍スカイフォース』でパイロット監督を務めた長門清志郎が真由香を無表情で見下ろしていた。
「ホント突然すぎてびっくりするじゃないですか、来るなら事前に連絡してくださいよ。こっちはメイクもしてないし、心の準備もしてないのに!」
真由香は折尾と長門に背を向けると、いまは顔を見せずに壁をじっと見つめていた。とにかくこんな不健康でノーメイクの顔を見せるわけにいかなかった。
「誰もそんなこと気にしてねえよ、もう枯れてるからなあ俺たち」
「あんたと一緒にするなよ、俺はまだまだ現役だぞ」
「てめえ、しょうもない見栄はるんじゃねえや」
「俺はな、嘘つきで有名だがこんな下らん見栄張ったってしょうがねえだろうが」
真由香の背中で折尾の言葉に長門がちっちゃな反論をしている。老人同士の言い争いにはなんの興味もないので、真由香は「ここは病室なんでお静かに」と顔も見ずに慌てていった。
「お前なあ、病院に来てまでお仕事お疲れさん。変わってないようで何よりだ」
長門の口調はいつもながら澱みがなかった。たぶんパイプ椅子に腰を下ろしたのか背後で音が聞こえる。
「カントク、どうしてわたしがここにいること知ってるんですか」
「このジイさんからたまたま聞いたんだよ」折尾からということか。「病院に行くから見舞いに行くかって訊かれたんで。まあ、いまはヒマだからさ」
「……ご無沙汰してます」
「三月の電話以来だから、ちょうど半年振りか。元気そうだな、と言いたいところだったがお前のその顔はなんだよ。もうちょっとシャキっとしなよ。嫁に行けねえぞ」
シャキっとしなよ、ってどういう意味なんだよと思ったが、口には出さない。
「折尾さんと交流があるんですか?」
「交流なんてあるか。目黒のうまいとんかつ屋で昨日たまたまばったり会ったんだ。で、ウチの女プロデューサーが病院だから明日見舞いに行くかって声を掛けたんだよ」
これは折尾の声だった。長年東光のラインプロデューサーを務めている男だから、そりゃ数多の東光特撮を手掛けた長門との付き合いが古く、長いのは当然のことだろうと思った。
長門清志郎。
もともとはピンク映画の独立プロダクションに身を置き、デビュー作品もピンク映画である。その後東光のテレビプロに移籍し、刑事ドラマなどを監督した。東光特撮作品では数々のシリーズに携わり、多くの作品を演出した。その質の高い演出力で多くの視聴者を魅了してきた。
ただ非常にクセのある男で、スタッフキャストをしごき抜く性格で多くの人間を周囲から遠ざけていった。数年前に主戦場にしていた戦軍の現場から追い出された長門を『飛翔戦軍スカイフォース』のパイロット監督に招聘したのは真由香だった。斜陽状態の戦軍を復活させるには長門の力があらためて必要と考え、周囲の反対と戸惑いを押し切って断行した人事だった。長門は真由香の期待に見事に応えて、冴えわたる手腕を発揮した。『スカイフォース』立ち上げの間違いなく功労者の一人だった。都合長門は五本作品手掛けてもらった。
……だが、メイン監督の長門には番組を降板してもらった。とある理由があった。そして長門更迭は真由香自身の判断によるものだった。
そういった過去の思い出が瞬時のうちによみがえった。思い出を振りはらうために真由香は咳払いをした。
「カントクってトンカツ好きなんですか? 知らなかった」
「目黒に『とんき』って店があるんだ。うまいぞお」
「目黒はフルーツで有名な店もありますけどね、確か……」
「お前ら仲がいいんだな。和んだよ」
折尾仙助がボソッと会話に割り込んできた。真由香はそばのテーブルに置いてあった大きな黒縁の眼鏡をかけた。これでノーメイクはいくぶん誤魔化せるはずだった。
「ごくふつうの世間話です」
真由香はくるりと振り向いて二人に顔を向けた。「折尾さん、ご迷惑をおかけします。撮影所の火事の状況はあれからなにかわかりました?」
「現在調査中でな。まだ状況は変わらんよ。建物が老朽化してるから、いま工事の改築真っ最中なのにこういうことになっちまった。まあ不幸な事故ということだ」
「ホントに事故なんでしょうか?」
「そりゃ事故だろうよ。消防がそのセンで捜査してるっていうんだからさ」
折尾がフルーツの籠を近くの台に置いた。
「まさか誰かが放火したとか言いだすんじゃねえだろうな。お前の口ぶりだとそういうふうに聞こえるが」
「……実は折尾さんには言ってませんでしたが」
真由香は先日自分あてに届いた手紙の話をした。もしかしてこれはあの手紙の予告通りに真由香に対する嫌がらせの一環としての放火なのではないかという可能性について説明した。
だが、折尾も長門も別段特に顔色を変えることはなかった。
長門は首を振る。
「あのな、お前さんはテレビドラマや映画のプロデューサーさんだから、そうやって話をドラマティックに持っていきたい気持ちもわからんはないが、くだらないよ。ありえない」
「でも偶然にもタイミングが一致してます」
「お前の言う通りなんだよ、これは偶然。これくらいの偶然、世の中にはいて捨てるほどある」
ついで真由香の脳裏に財前松太郎の顔がふいに浮かんできた。財前の言葉がなぜか思い出される。そのうち現場で何か事件が起きますよ―。
「財前さんの言うとおりになりましたね。ホントに現場で事件が起きてしまった」
折尾仙助が人差し指で鼻の横を搔いた。
「あいつの言葉もただの偶然だよ。気にする必要はない」
「おお、財前って松太郎のことか? あいつが何か言ったのか?」
なぜか長門が財前の名前に食いついてきた。真由香は手短に、先日の長門とのやり取りについて説明した。
「あいつは何も変わっちゃいねえのな。惜しい奴なんだよ」長門が首を振った。「もともとはたいそうデキる未来の大プロデューサーだったんだがな」
「未来のプロデューサー? どういうことですか、それ」
「ナニお前知らなかったのか。財前はな、もともと東光本社のプロデューサーだったんだな。『特甲警察』でもアシスタントでメインの下に就いていた。頭がよくて、小回りが利いてな。なにせ東大出てたから、人脈ももの凄かったし。デキる奴だったんだよ」
「そうなんですか?」
真由香は折尾に視線を移す。折尾は膝の上で拳を固めると、少し目をつむると小さく頷いた。
長門が続ける。
「あいつ還暦手前だよな? もうすぐ定年退職ということは、確か昭和五十一年くらいの入社だったかな? 東大出てるからといってスゴい奴とも限らんわけだが、アイツはたいした男だったよ。雑用も平気でこなすし、若くても頼りがいがあってな。優秀な奴だった」
優秀な奴だった、というのが気になる。
「じゃ、どうして財前さんはプロデューサー職をおりることになったんですか?」
「詳しくは知らん。ただ刑事ドラマの二時間モノで地方ロケに行ったときになんじゃかんじゃトラブルがあったって聞いているが……詳しくはこのオヤジが知っているはずなんだが」
そう言って長門清志郎は折尾仙助をチラと見る。折尾は「まあ、そうだな。俺はそのロケ組にいたからな」と呟いた。
「そういえば折尾さんは、あの時わたしにこう言ってましたよね。あいつのことは許してやってくれって。そしてこうも言ってました。あいつにはあいつの立場があるって……あれはどういう意味なんですか?」
「別に込み入った事情じゃない。至って理由はシンプルなんだ。ただたまたま状況が悪く転がっただけでな」
折尾は天井を見上げた。
「……もう三十年前くらいの話だ。二時間モノの刑事ドラマで四国の高松にロケに出ていた。当時は人気のあったシリーズもので、メインは現場の誰も逆らえない超大物が主役の刑事モノ。天皇が支配している現場で、みんな主役には気を遣う……財前はデキる男だったが、その主役とは相性がよいとは言えなかった。ロケの二日目のホテルで皆で食事をしていたときだ。その時の食事に主役が文句をつけた。こんな食事じゃ俺は明日から仕事しねえからな、ってな。こっちは制作担当だから慌てて見に行ったが、別になんの問題もなかった。刺身も肉も天ぷらまである。むしろ主役だから、他のメンバーよりも豪勢にしていたくらいだ。おそるおそるこっちが何か問題がありますかと聞いたら『盛り付けがよくない、しかも色合わせがよくない!』なんていう。ようはその日、天皇の機嫌があまりよろしくなかったということだ。昔の主役にありがちな、王様のワガママだったというわけだ」
隣の長門は腕をゆっくりと組みながら「あいつはいろいろメンドくさい奴なんだ」と呟いた。
「それでこっちもその場を収めなきゃならないと思い、慌てて頭を下げてデザートの盛り合わせを頼んで機嫌を直してもらおうと瞬時に考えた。まあ実際、今までもそういう小トラブルはいくつもあって、都度なんとかなってきた。ところが主役の機嫌はその日非常に悪かったらしく、なぜか矛先が財前にいった。オイ東大出、お前今から厨房に行って天ぷらもう一度揚げてこいや、なんて絡み始めた。それでも財前はうまく切り返しゃよかったのに、その日はそういう展開にはならなかった。たぶん財前は財前で主役に対してこれまて思うところがあったのかもしれない。ただ機嫌が悪かったのかもしれない。よくはわからない。ただのプロデューサー補でしかない財前は天皇に対してこう言い放ったんだな。『うるせえな、黙ってさっさと食べちゃってください』とな」
それはさぞかし、瞬時に現場が凍り付いただろうと真由香は当時の状況に思いを馳せた。
「そのあとのことはまあ思い出したくないなあ。その夜のうちに財前は東京に強制送還。番組は下ろされてしばらく謹慎状態だ。主役にヘソ曲げられてシリーズ打ち切りになっちゃあ目も当てられんから、それは当然の判断と言える。当時でドラマは視聴率が常時二十パーセントを稼ぐドル箱番組だったからな。ただこれくらいで財前もプロデューサーをクビになったわけじゅない。優秀な奴には何度もチャンスが巡ってくる。ほとぼりが冷めたら上も財前をまた現場に戻すつもりだった。ところがだ、その謹慎中に今度は財前は東光上層部の批判を開始した。弱腰で腑抜けで間抜けでアホの集まりだとね……高松のトラブルが呼び水になったのか、財前は一転デキる未来の大プロメデューサ―からトラブルメーカーへと早変わりした」
「どうしてそんな展開になっちゃうんですか? 財前さんは損得勘定がきちんとできる人だったんですよね?」
折尾は咳払いする。
「これはあくまで俺の想像だから、まあ聞き流してくれ。奴は奴なりに自分は優秀な人材だと自負しているところがあったんじゃないか。ところが、主役の言いなりに番組を干されて一時とはいえ冷や飯食いになった。上は自分を守ってくれないじゃないか、どういうことなんだと失望したんじゃないかと。……結局その後奴はトラブルメーカーに転じて、誰もやりたがらない組合活動に傾倒した。当然上層部は面白いはずもない。完全なる左遷が決定して、財前はプロデューサー街道から完全に外された。あとは定年までほそぼそこの撮影所でひっそり息をひそめるしか奴の生きる道はなくなったというわけだ。おそらく嘱託としても残れないだろう。ほんの少し、わずかに歯車が狂っただけなんだがな。あいつは今の自分の人生をどう考えているんだろうな」
折尾の話で納得できるところもあったし、できないところもあった。まず第一はなぜそこまで組合活動に固執するのかがいまの説明だけではわからなかった。財前松太郎には財前なりの思想があるんだろうが、そこは真由香が関わる必要のない領域だと感じた。
そのあとは三人で少し世間話になった。一人ぺらぺらとよく喋る長門はケーブルテレビ局のドキュメンタリー番組の構成演出を今度やることになったと早口でまくしたてた。そのかたわらで、映画の企画も練っているという。還暦過ぎてもエネルギッシュなおっさんだな、と真由香は知らないうちにパワーをもらったような気がした。
また明日から元気に頑張って仕事をしよう。
そう思った。
しかし―。
ほらほら、いわんこっちゃない
図に乗った結果がこれだ
たかがプロデューサーが
あぶないあぶない
改めてもう一度言う 図に乗るな
番組を降りろ
さもないともっと大いなる不幸が訪れることになるぞ
翌日退院し、そのまま銀座の東光本社に直行した真由香は、再度自分あてに届いていた八行だけ書かれてある手紙に唖然とさせられることになる。宛名はまたも『東京東光撮影所 宮地真由香殿』となっており、それが大泉から銀座に転送されてきた。手紙の到着は日曜日時点なので,投函は火事の直後ということになる。筆跡といい、雰囲気といい、前回の手紙と全く同一の者からとしか考えられなかった。
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