シュガーポット ~瞳の底の願い星~

壺壺

第1話 瞳の底に

 寂しさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締め付けるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。

 隣の席の男子がぎょっとした表情で私を見た。

(ああ、何のプリントだっけ)


 千切ったプリントのかけらが、すっと机から落ちた。千切った中でも大きめなそれは、ひらりひらりと舞い降りてゆく。

 私は千切る手を止めず、目でそれを追いかけた。


『者会』、ふと、かけらに書かれた文字が私の目に留まった。保護者会という単語が私の頭に浮かぶ。


 どうでもよい。そう思った。

 私は千切る手を止めない。私の寂しさをごまかすために。何より、私の寂しさが彼女に伝わらないように。




 彼女の細い指、滑らかな肌がふと、目につくことがある。そのたびに恐れに似た感情が私の肝を冷やした。 

 そういう時、舞はそれを察していたのか、わずかに身を引いた。

 私は自分の手を見る。日焼けした肌、ゴツゴツとした指先が目に入った。自分の手の甲に右手でそっと触れる。しっとりとした肌の感触が伝わってくる。でも、指先で撫でてみるとすーっとした音。そして、かさつきを感じた。

 こんな肌でも男の子と混ざって遊んでいると、きれいな方に見える。でも、女の子といると私は劣等感を覚えざるを得なかった。



 ねっとりとした真夏の風が頬を撫でた。横の窓が少し空いているのだろう。外から、賑やかなはしゃぎ声が聞こえる。まだ昼休みの途中のようだ。

 私は首筋に滲んだ汗、べたつく腕に不快感を覚えた。閉じていた眼をうっすらと開ける。教室の窓から入る日差しが私の目を刺激した。目の前の黒板のふちが、少しぼやけて見える。

 お昼を食べ、ボンヤリとしていたら寝ていたみたいだ。落ち着いた雰囲気の教室には、ほんのわずかに今日の給食のにおいが残っていた。

「んっ」

 私は机に突っ伏した体を持ち上げる。体にこもった熱が抜け、少しさわやかな気分になった。

 私はゆっくりと周りを見回す。起き抜けだからか、目に入るものが白っぽく見えた。残っているのは、教室の一角でおしゃべりに花を咲かせる、そんな女子だけのようだ。

 女子たちの視線を、背中で感じた。一瞬、背筋がすっと冷たくなる。でもそれは、すぐに消えた。彼女らにとっての私なんてそんなものだ。いてもいなくても変わりない。

 私はなんとなくそちらに、すっと視線を向けた。

 ―あっ―

 舞と目が合った。私は気まずくて目をそらす。でも、舞は私のそらした目線を追いかけた。そして私の目をとらえ、微笑む。だけど、私はどんな反応を返していいかわからず、顔をそむけてしまうのだった。



 私と舞は幼いころからの友人だった。家が近いということもあって、今でも放課後はほとんど毎日のように遊んだ。幼稚園、小学校と多くの時間を彼女と過ごしたような気がする。

 でも、私たちは全然違う。私の体は外で遊びまわってばかりいたので、生傷が絶えなかった。それに日焼けで肌も浅黒く見えたので、よく男の子に間違えられた。

 それに比べ舞の肌はきめ細かく、ほのかにピンク色が浮かぶ。そんな肌だった。そんな舞が日差しの下に出ると、真珠に太陽の光が当たって反射したみたいに、きらきらと輝いて見える。それに私と違い腰まで伸びた髪は、丁寧に作りこまれたガラス細工のようにつやつやとしていた。

 舞を目にすると誰もがみんな、そのお人形のような体に目を奪われた。舞はクラスの中の誰よりも女の子らしかった。クラスの誰よりもかわいらしく、きれいだった。

 違いは見た目だけじゃない。不愛想な私は、いつもクラスで孤立していた。それに対して、人当たりの良い舞の周りには、常に人が集まった。舞の周りにいる人は、誰でもふわふわとした笑顔を浮かべている。

 その様子は離れて見ると、まるで一本の花にチョウや羽虫が集まっているように見えた。

 舞は私の持っていないものを持っている。私はそのことに嫉妬していたのだと思う。学校で多くの人に囲まれている舞を見るたび、心にもやもやとしたものが立ち込めてくるような気がした。

 そんな自分の気持ちを振り払いたくて、男子と一緒になって遊んだ。本当は、休み時間に教室から逃げたかっただけなのかもしれない。休み時間の教室は居心地が悪かった。

 でも以前は、舞やほかの数人の女の子も男子と遊んでいた。だけど小学四年生を過ぎたあたりから、舞が参加しなくなった。するといつの間にかほかの女の子も来なくなった。そして、五年生になった今では、私だけが残ってしまった。そうなって、余計にクラスの女子との間に、私は壁を感じた。私だけが取り残された気分になった。

 でも、それならそれで構わないと思った。だって教室でおしゃべりなんかしているより、外で走り回っているほうが、ずっと楽しかった。それに放課後になれば、 舞がそばにいてくれた。私には舞がそばにいてくれる。そう思うだけで、私の気持ちは軽くなった。

 ただ、やっぱりみんなとの壁に、ほんのちょっとだけ胸が痛みだすこともあった。



 昼休みの校庭の真ん中。呼吸を整えるため私は立ち止る。バクバクと動く心臓の音が私の体に響いていた。

「ふう」

 心臓の音が落ち着いてくると、周りの子供たちの声が妙に耳についた。

 むわっと地面から立ち上る熱気が、私の体を包む。それに加え、容赦ない直射日光が肌を焼いた。髪が汗で濡れ、首筋にピッタっと張り付く。額の汗が前髪を伝い滑り落ちた。肌に汗がにじみ、べたつきを感じる。のどの渇きのせいか、頭がぼんやりとした。

 私は額に滲んだ汗をぬぐって、校舎の脇にある水飲み場に向かった。


 水飲み場にはクラスメートの男子が二人いるのが見える。二人とも少し水を飲みに来たようで、私と同じくらいに汗でぬれていた。

「おい、聞いたか。山島がさ」

「ああ。付き合ってるんだろ」

 彼らの真後ろまで近づくと、彼らの話が耳に入った。

 ―は? 舞が付き合ってる。彼氏がいるだと―


 そんなうわさ話が聞こえた瞬間、私の体は無意識に動いていた。

「おい」

 私はすぐさま、蛇口から水を飲む彼らに詰め寄る。

「ん、なんだよ上田。怖い顔して」

 彼らはにやにやとしながら私のほうに振り返る。でもそれに対して私は、まじめな調子で言った。

「今の話なんだよ」

 彼らはきょとんとした表情をし、顔を見合わせた。

「は、山島が付き合ってるって話? なんでも隣のクラスの奴が山島に告ったんだってさ」

「舞が告られるなんて、よくあることだろ。そのたびに断ってんじゃん」

 私のそんな言葉にちびの方は、どうでもいい、といった様子で吐き捨てるように言った。

「しらねぇよ。なんでも、山島とそいつが放課後一緒にいるのを見たってやつがいるんだよ」

 私はこの言葉を聞いて、すっと体が冷たくなった。何か冷たいものが胸の底にこつんと落ちたような感覚。一方で頭には血が上り、顔が熱くなってゆく。汗がまた、前髪を伝って落ちた。汗が目に滲んで目頭が熱くなる。視界がぼやけ、頭がくらんだ。

 どれくらいの間、立ち尽くしていただろうか。しばらくして、私は何かを払うかのように頭をかく。

「おい。上田、何やってんだ。早く行こうぜ」

 後ろでかすれたような声が私を呼んだ。

 でも私はその声に答えられない。答えようという気が起きなかった。

 結局、私はその場を後にして、とぼとぼと校舎に向かうのだった。




 帰りの会が終わり、ランドセルを抱える。そして

 教室の扉を乱暴に引き、外に出た。扉を開けた瞬間、廊下の騒がしさが私の体を突き抜けた。ふんわりと舞い上がるほこりの匂いが鼻をかすめる。私は不快感を感じ、少し顔をしかめた。

 昼休みに舞のうわさを聞いたときから、私の胸には憂鬱感が立ち込めていた。そして、このもやもやとしたものが私の中から出ていこうとするたび、私の心がすり減っていくような気がした。


「ちょっと、咲、帰るの早いよ」

 下駄箱の前に立ち、外靴を取り出す。そのとき、後ろから弾むような声がした。

 声をかけられた瞬間、今までの気持ちが嘘であったかのように軽くなる。駆け足できたのだろう。舞は少し息を吸って、わずかに乱した息を整えた。

 わたしは「べつに……」とそっけなさげに返すものの、わずかに頬が緩んだ。自分の汚れた外靴を地面に置き、うち履きを脱ぐ。そして、顔を背け急いで、昇降口に足を向けた。


「そういえば、今日昼休み、外いなかったね」

 校門を抜けたとき、舞が私に尋ねた。

 このとき私はどんな顔になったのだろうか。きっと、困ったような渋い顔になっていたのだろう。舞はそれを見てか、付け加える。

「教室からたまに見るんだよ」

「うん……」

 私は歯切れの悪い返事をして、舞の顔を見た。その瞬間、私の心臓がトクンと跳ねた。

「舞はさ、彼氏でもできたの」

 私はすっと、つぶやくように言った。

 言葉にしたらまた、憂鬱感が波のように私を襲う。胸の鼓動が早くなるのを感じた。

 でも、私の予想と反して、舞は「えっ」と大げさに驚く。そして、きょろきょろと辺りを見回す様子を見せ、否定した。

「いない、いない。どうしたの急に」

(えっ)

「だって、男子がさ。舞が隣のクラスのやつに告られて、放課後も一緒だって……」

「ない、ない。だって、ここ最近、放課後は咲と一緒でしょ。そんな時間なんてないよ」

(ああ、そうか)

 何を私は馬鹿なことを考えていたんだ。そういえばそうじゃないか。

 そう思った瞬間、私の胸に突っかかっていた冷たい塊を、ぬるま湯のような安心感が外へと押し出した。わき出てくる安心感が私の胸を温めていく。でも、なぜか私の頭だけはすうっと冷たくなった。理性が私の下半身を痺れさせる。

(あれ、何だろう)

 私は違和感を覚えた。

(安心、しているのかな……。ん?)

 私は胸の下あたりに手を置き、少し息を吸う。

 舞に彼氏なんてできたら……。そう考えたら、胸がとげを押し付けられたようにチクチクと痛み始めた。

(また、嫉妬?)

 だったら、告白されるような。そんな舞に対してなのだろうか。

(でも、それでこんなに胸が苦しくなるのかな)

 私の心臓はまだ、振動していた。バクバクと低い鼓動が私の体中に響く。

(私、舞のこと、そんなに嫉妬してるのかな)

 私は考えてみる。


 違う。よくわからけど違う。そういうことじゃない。なんなのだろう。私は自分の気持ちが言葉にできない。

「どうしたの、咲、そんな怖い顔して」

 気づいたら舞が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「ん、何でもないよ。舞」

 私は舞の顔を見て、笑ってみせた。



 私が自分の気持ちに自覚したのは、それから三日後のことだった。いや、自覚したというより、気づかされたといったほうがいいかもしれない。舞に彼氏がいるといううわさが出てから、私は舞のことが気になってしょうがなかった。ふとした時に舞のことが頭に浮かんだ。でもその癖、舞と二人になると何もしゃべれなくなった。初めての気持ちだった。

 でも、その気持ちを自覚していくほどに、私は自分のことが恥ずかしくなった。私はやっぱり、みんなと違うのだと、今まで以上に思った。

 そう思ったら、私は自然と舞のことを避けていた。一緒に登下校はしなくなったし、放課後も舞の家にいかなくなった。



 私はリビングの椅子に腰を下ろした。電気のついていないぼろ臭い部屋はわずかに夕日が差すだけで薄暗い。お父さんが帰ってくるのは、いつもと同じであれば八時くらいになるのだろう。


「ふう」

 私は一つ息をついた。

 何をする気にもならず、宙を眺める。

 こうしていると、私の家には何もないのだなと思った。コンクリートでできた、 地上すれすれの一室。生活用品が詰め込まれているだけで、他にあるのは壁紙の黄ばみや天井のシミ、それに黒ずみのできた床だけ。舞の家のようにきらびやかな物は何一つない。


 外から子供のはしゃぎ声が聞こえた。でも、その笑い声はだんだんと遠ざかっていき、部屋の中は静寂に包まれる。私は自分の体を抱く。半袖の薄いシャツを通して肌の感触を感じた。

 急に胸の奥がきゅっと締め付けられるように痛んだ。自然と目頭が熱くなる。

 目に映るものがだんだんとぼやけていき景色が消えかける……。

 そのとき、ピンポーンとチャイムが響いた。その音にハッとなり、顔を上げる。私は慌てて強く顔をぬぐった。

 呼び鈴が、もう一度鳴った。耳を突き抜ける高い音が私の頭を揺さぶる。私は体に力を入れ玄関に向かった。


 すっと、つま先立ちになり、扉の覗き穴に目を近づける。

「舞……」

 思わず、つぶやく。

 すっと気持ちが軽くなったように感じた。

 私はたまらなくなって、乱暴にドアノブを引く。そして重たい扉を肩で押した。

 少女のひらひらとした白いワンピースが目の前で、ふわりと揺れる。

「やあ、咲」

 少女が私の顔を覗き込むようにして言った。




「久しぶりだね」

 私は四畳ほどの和室に舞を通した。部屋に電気をつければいいのに、どちらもつけに行こうとはしなかった。私たちはぼろぼろの畳に腰を下ろす。

「今日も学校であったじゃない」

 舞が笑いながら言った。

「そうだね」

 私は苦笑する。すると舞はわきに置いた手提げかばんからクリアファイルを取り出した。そして、そこから一枚、紙を取り出す。

「はい、プリント」

 私が破いた保護者会のプリントだった。

「なんで」

「だって、咲の机の下に破れたプリントが落ちてるんだもん。」

 私は机から落ちていったプリントの切れ端を思い出す。

(その後、破いたプリントは机の中に突っ込んだんだっけ)

「それで机の中のぞいてみたら、破れたプリントがね……ん? ……」

 ふいに舞が、手を伸ばし、私の頬に触れた。

「咲、泣いてたの?」

 私は口を結んでうつむく。


 長い沈黙。そう感じただけで、本当は短かったのかもしえない。カチ、カチ、と鳴る時計の音が妙に大きく聞こえた。


 そんな沈黙を破ったのは舞だった。

「私、咲のこと好きだよ」

「えっ」

 私は驚いて、顔を上げる。それを見て舞は言葉をつづけた。

「でもね、それは親友として」

 舞は私との間に境界を作るように、人差し指と中指で線を引く。

「この好きはね、たぶん咲の好きとは全然違う」

 舞は私の目をじっと見つめた。私はなんだか捕まえられたような気がして、瞳を離せない。逃げられないと思った。

 私はすっと息を吸い込む。そして、口を開く。

「私、なんだかおかしい。普通と違う。女の子なのに見た目も性格も、好きになる相手だって普通じゃない」

 舞はわたしのそんな告白にも目をそらさない。だから私も目をそらすことができなかった。舞が二つ瞬きをした。

「咲、そんなことないよ。別におかしくなんてない」

 私がぐっと唾をのむ。気付かないうちに、なぜか唇が震えていた。

「私たちは、子供なんだから。だから男とか女だとか、そういうのが分かりにくいんだよ。みんな、そのうち女の子は女らしく、男の子は男らしくなっていく」

 舞が私の右手を両手で包み、手の甲をさする。

「咲だって、生理が来ちゃえば、どんどん女らしくなっていく。私のことだって、いつかどうでもよくなるよ」

 舞の口調は優しかった。暗い部屋に舞の柔らかい表情がかすんで見えた。

「舞は大人っぽいね」

 私はそっと、つぶやく。すると、私の言葉に舞は私の手を見つめたまま、返した。

「でも、子供だよ」

 私の体がびくっと反応する。舞は顔を上げ、私を見つめた。

「私たちは、みんなちぐはぐだよ。でも、男の子も女の子も、それぞれ同じようになっていく……体も心も……ね」

 舞の言葉は、最後にはどこからか水が漏れだすような。そんな口調になっていた。私はそんな舞の言葉に重ねるようにして言った。

「じゃあ今の私の気持ちって、いつかなくなるものなの」

「そうだね、自然と私のことなんて意識しなくなっていくよ」

「でも、……」(今の私の気持ちって、じゃあ、嘘なの)

 言いかけた言葉は声にならなかった。この気持ちを否定されるのが怖い。そう思った。頭に浮かぶ言葉も、私の喉元まで来ては声にならず消える。まるで、水の中にいるようだった。水圧がかかったみたいに心臓がキュッとなる。息が苦しい。

 私は唇を噛み、うつむいた。


「嘘じゃないよ」

 舞の言葉はすっと優しく耳に届いた。私は顔を上げる。

「咲の、今の気持ちは嘘じゃない」

 顔が熱くなって、だんだんと鼓動が早くなる。

「ただ夢とか、幻想みたいなものなんだよ。きっと」

 舞の言葉が頭を揺さぶる。

 ふんわりとした柑橘系の匂いが私を包んだ。舞の髪が羽のように広がって私の鼻をかすめる。気が付いたら舞の華奢な腕が私を肩ごと包み込んでいた。

「だからね、今日、今からのことは全部夢なの。いい?」

 舞が私の耳元で甘くささやいた。舞の吐息がうっすらと耳にかかり、私の脳に電気が走る。私は体の力が抜け、後ろに倒れた。

 もう外は日が落ち、真っ暗になっていた。でも、暗闇に慣れた私の眼には舞のうるんだ瞳がはっきりと映っていた。

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