花瓶
開店まえの店で、
客のまえに来る店のスタッフを迎えるために店のまえを掃除するのだが、そのまえによく体を伸ばしてほぐしておく。そうしないと、歳と共に凝り固まった体を思うように動かせないのだ。
「さてと、やりましょうか」
自慢のサラサラな白髪を後ろに流し、ゴムで結んで気合を入れる。
店のまえにホースで水を巻いて汚れを流し、ブラシでこびりついている汚れを
店のスタッフが来るずっとまえ――朝四時半から二時間、このような掃除を続ける。
スタッフみんなから無理をしなくていいと言われるのだが、老人になって早起きになれていると言って涼仙は毎日続けている。
この人を思う姿勢のお陰で人望は厚く、今までストレスを感じて止めたスタッフは一人もいない。
それを証明する店のコック、
「涼仙!」
「おや、今日もお早いですね、浩さん」
「おめの方が早いだろうよ。毎日ご苦労なこったな」
開店当時からコックとして厨房に立ち続け、涼仙と共に店を続けている。浩は涼仙と共に店に入ると、コックを示す白の服に身を包ませた。
「涼仙。ふと思ったんだがおめ、人間ドック行ったか?」
「いえ、まだ行けてないんですよ。この季節は忙しいですから」
「おめ、そう言ってまた行かないつもりだろ? 今度はちゃんと行け。おめが去年、どんななったか忘れたわけじゃねだろう」
涼仙は愛想笑いで誤魔化し、二階の自分の部屋に眼鏡を取りに行った。
暖かな日の光がカーテンを通して部屋に入り込み、窓のすぐそばに置いてある花瓶を照らしている。
眼鏡を手に取りながら、涼仙は花瓶を見て浩の言っていた去年の出来事を思い出した。
突然襲ってきた胸の痛みと、頭のフラつき。思い切り咳き込んで嘔吐した唾液には血が混じって、喉のおくから生臭いにおいが広がっていく。
――涼仙? どうした、涼仙?
――ひ、浩……さ……
胸の痛みはどんどんと増して、立っているのも辛くなる。ついに立てなくなり、自分を支えようと伸ばした腕が花瓶を倒した。
床に落ちた花瓶が割れた音に、浩は何とも言えぬ不安を感じて階段を駆け上がる。
――涼仙?! どうしたんだ、涼仙!
その後救急車で搬送された涼仙は、一週間の入院のあとすぐに仕事に復帰してきた。
その病状は本人以外誰も知らず、涼仙は未だに隠し続けている。
「おはようございまぁす」
「どうもぉって、あれ? 湯島さん、オーナーは?」
次に出勤してきたスタッフに訊かれ、浩は首で窓側の席を差した。
スタッフの人たちが覗くと、窓際の席でケータイを持った涼仙が席についてウトウトしていた。
「もう歳ってことだ。少しだけ寝かせてやれ」
「そうですね」
「うっす」
これからずっと働く涼仙を休ませ、スタッフ全員開店に向けて準備を始めた。
東京 住宅街
「カナ? カナァ?」
「Oh? どうしたんだ、さやか」
部屋中を回って探していたさやかに、ダンボールを持っている黒人が訊いてきた。
「マイク。カナを知らない? いないのよ」
「ん? 知らないな。また勝手に散歩に出たのか?」
「もう、一人で行かないでってあれほど言ったのに……マイク、ちょっとカナを探してくるわ」
「気をつけてな」
さやかはケータイと財布だけを持ち、急いで家を出て行った。
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