VとT

 夕方、涼仙りょうせんは自転車のペダルをゆっくりと漕いでいた。


 店は二時半で終わったのだが、明日のための調味料を調達しなければならない。買出しは昔から涼仙の役割で、毎度商店街まで自転車を走らせている。


「こんにちは」


「おぉ、竹網たけあみのじぃさん。元気だったか?」


「えぇ。お父さんは?」


「腰やっちまってよ。情けねぇから俺が代わりに店番してんだ」


「そうでしたか。さすがは大将の息子さんだ」


「褒めてもこれ以上安くならねぇぞ?」


 そう言いながら、店の青年は一本余計に醤油のビンを袋に突っ込んだ。長い間通っているうちに店の家族とまで信仰が深くなり、涼仙が行くと必ず何かしらのサービスが付く。


 そうして自転車の凹んだカゴをいっぱいにして、涼仙は本日の買い物を終了させた。


 いつもは真っ直ぐ帰る涼仙だが、この日は綺麗な夕焼けに気分が上がり、少し遠回りしてみようということになった。


 親と手を繋いで帰る子供たち。


 ケータイを片手に盛り上がる高校生。


 オープンカーに乗って帰ってきたのか、隣でウトウトする女性の肩に腕を回す男性。


 自分が若いころはそんなことをした思い出がないなと、昔に振り返る。


 自分のお爺さんの少年時代には、ケータイなどというものは存在しなかったと聞いたことがあった。今では本当に何もかもが楽になったと、お爺さんは若き涼仙に何度も言っていた。

 

 リモコンで家具を操作出来るようになり、自分たち老人の生活を管理するロボまでいる現在。少年時代に比べれば、本当に楽することが楽に出来るようになった。

 

 だが足腰を痛くしながら歩いてみるのも悪くはないと、昔お爺さんが言っていた。実際に歩いてみて得るものは、楽して得るより少しだけ多い。その少しだけが、何故か自分にとっては大きいのだと。


 昔は心の中で否定していたが、今では断然肯定する方になった。


 楽ばかりで座っていると、こうして夕焼けを見て心を躍らせ、遠回りに歩いてみるなどしなかっただろう。


「おや?」


 涼仙が押していた自転車を止め、立ち止まる。誰もいない公園で一人、目を閉じている女性が座り込んでいた。


 自転車をわきに置き、涼仙はそっと女性に近づいた。音に気づいて女性は振り返り、涼仙の腰の高さまで顔を上げる。


「誰ですか?」


「すいません、隣の道を通りかかった者です。お一人で何を?」


 声のする方向に顔を上げ、女性は口角を上げた。右手に持った白杖を支えに立ち上がり、足元に顔を向ける。


「靴紐がほどけたみたいで、結ぼうとしてたんです」


「どれどれ……」


 白の靴を見つめ、ゆっくりしゃがむ。靴には一本だけ紐がついていて、ほどけている上に切れそうになっていた。


「紐が切れそうになっています。結び直すより、紐を代えた方がいいでしょう」


「あ、そうなんだ……切れてるなんて言ってなかったのにな」


「誰か、お連れの方が?」


「あ、いえいえ。何でもありませんよ。でも困ったな……」


「よろしければ、家まで一度送りましょうか」


「え? いいんですか?」


「えぇ。調度、買い物のついでに遠回りして散歩していたところですから。今、自転車を取りに行ってきますので」


 涼仙の足音が遠ざかるのを聞いて、女性はフゥと息を漏らした。閉じられた目で空を仰ぎ、わずかに顔を触れている日の暖かさを感じて口角をまた上げた。


『お爺さん、メールの所持者だよ』


 自分の時間の沈黙を破り、ケータイから機械音に混じった声が聞こえた。


 自分のケータイをポケットの上から触れて、言っていたことを思い出す。


「所持者? メールを持ってる人って、確か神様を見つけなければいけないんじゃないっけ? うぅん……どうだったけ?」


「そのとおりですよ」


 自転車を取りに行っていた涼仙が戻ってきて答えた。


「失礼ながら、私のメールにあなたが参加者であることが書かれていました」


「じゃあ、あなたも神様を?」


「えぇ。まぁ、仕事が忙しくてなかなか探せずにいると、言い訳をしていますがね」


「そうなんですか」


「申し遅れました。私、竹網涼仙と申します」


倉森くらもりカナです。よろしくお願いします」


「では、とりあえず歩きましょうか」


「そうですね。お願いします」


 涼仙はカナと歩きながら、わざわざ足腰痛めて歩くものだとふと思っていた。


 警視庁


「警部、どちらへ?」


「あぁ、休暇を貰ってな」


「警部が? 珍しいですね」


「ちょっくら、女に会ってくるんだよ」


「へぇ、それは初耳です」


「まぁな。一週間ばかりいないから、その間頼んだぞ」


「お疲れ様です! 二界道にかいどう警部!」


 部下数人に見送られ、二界道卓にかいどうすぐるは自分の車に乗り込んで手帳を開いた。


「倉森カナって言ってたよな……」


 卓はゆっくりアクセルを踏み、車を走らせた。





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