さやかとカナ

 道ではない道を通り、少女は山を駆け下りた。すっかり汚れてしまった白のワンピースをはたき、コンクリートの道路の前に出る。


「通れ……ない」


 目の前を横切る車の群れが、彼女の進路を妨げる。真っすぐ行かなくてはいけない訳ではなかったが、とにかく今は、あの倉庫から遠くに行きたかった。だが彼女の思いを知らず、車は絶えず目の前を通って行く。


「遠くへ……遠くへ!」


 意を決して飛び出す。車と車の間を通り、向こうへとただ走った。途中鳴らされたクラクションなど、耳に届かない。意識は常に前にあった。


 息を切らし、座り込む。後ろを通る車の群れを見て、彼女は安堵したのか深く息を吐いた。ケータイをしっかり握っている事を確認し、ワンピースのポケットを上から触って中身を確認する。


「両方、ある」


 再び立ち上がり、走る。自分を見る人々の目など気にせず、ひたすら走り続けた。右へ左へ、真っすぐ行く為に曲がり続けるが、決して戻ろうとはしない。後方には、あの倉庫がある。倉庫の存在が脳裏をぎると、体中の傷が痛みだした。


 1時間も走り続け、彼女は止まった。公園の蛇口をひねり、水で喉をうるおす。


 木で出来たベンチに座り、腕を押さえた。走っている途中で切ったらしい。切り傷から血が流れている。少し深いかもしれないが、彼女にとっては問題ではなかった。体には、それ以上に大きい傷が幾つもある。


「遠くに行かなきゃ。もっと、もっともっと遠く……」


 それ以外に考えられない。もう傷付かない場所に行きたかった。もう体中が痛くならない場所を欲し続ける。しかし一時間走った体は、そのまま休息に入ってしまった。ケータイを握りしめたまま、眠ってしまう。


「う、うぅ……」


 気がつけば空は赤く、夕暮れ。暫く空を見上げ続け、彼女は立ち上がった。腕の傷も既に塞がっている。


「遠く……ずっと、遠く――」


 その時だった。彼女の前を通っていた女性が、持っていた杖を落としてしまった。白の帽子を被り、緑の上着を着た茶髪の女性。


 杖は転がり、彼女の足元で止まる。だが女性はその場にしゃがみ込み、手さぐりで杖を探し始めた。女性がずっと目を瞑っているのに気付き、彼女は杖を拾った。


「あの……これですか?」


 彼女が女性に話しかける。女性は声の方向を頼りに振り返り、女性は杖を触った。


「ありがとうございます。私、目が見えなくって」


 彼女の思った通り、女性は目が見えなかった。杖は白く、黄色の点字が付いたテープが巻かれている。女性は杖をしっかり持つと、ふと彼女に訊いた。


「指……細いんですね。音楽か何かされているのですか?」


「い、いえ……特に何も」


 いきなり訊かれて戸惑う彼女に、女性は笑う。


「いいですよ、音楽は。目の見えない私でも、想像力を膨らませて楽しめますもの」


 はぁ、と返事する彼女。女性は徐々に盛り上がり、杖を持ったまま器用に手を叩いた。


「そうだ! ちゃんとお礼したいので、うちに来られませんか?」


「え?」

 

 こんなことで?


「それとも、何か御用時でも?」


 用事などない。ただ遠くに、あの倉庫から逃げたいだけなのだ。故にお礼などどうでもよかったのだが、女性の雰囲気で断れなかった。


「……では、お言葉に甘えて」


 返事を聞いて、女性が喜ぶ。


「よかった! では行きましょう!」


 女性が杖を頼りに歩き出す。何をそんなに喜ぶ理由があるのか分からなかったが、とりあえず付いて行こうと思って歩き始めた。しかし歩き始めてすぐ、女性が立ち止まった。


「お名前、伺ってもよろしいですか?」


「な、中川なかがわ……中川さやか」


倉森くらもりカナです! では、行きましょう」


 カナを怪しく思いながら、さやかはケータイを握りしめて付いて行った。


「どうぞ上がって下さいな。狭いですけどね」


 カナは目が見えないと言うのに、玄関からは杖も手も使わずにスラスラと進んで行く。長年住んでいるのか、慣れている様子だ。


「紅茶はお好きかしら?」


「え、えぇ……大丈夫」


 テキパキとお茶を入れ、さやかと自分の前にカップを置く。ここまでの事を全てこなしたカナの目を見なければ、視覚に障害があるとは思えなかった。


 紅茶を啜り、落ち着くカナ。さやかは少しの間躊躇っていたが、一口だけ啜った。さやかが飲む音を聞いて、カナが笑みを浮べる。


「……おいしい」


「よかった!」


 クッキーもあるとカナが勧め、さやかがかじる。また齧る音を聞いて、カナは笑みを浮べた。


「そんなに、嬉しいの?」


 ずっと笑みを浮べるカナに訊く。するとカナが首を傾げるので、さやかもつられて首を傾げた。


「嬉しいですよ。私、目が見えないから、お友達は少なくて……話す相手は、将来を約束した人一人だけ。だから、久し振りに他の人と話せて嬉しいんですよ」


「……そうなんだ」


「えぇ」


 カナは少し冷めた紅茶を飲み、一息つく。さやかは何だか、不思議な感覚の中にいた。


 カナの家は白い二階建て。屋根は赤く、緋色に近い。家の中も外と変わらず白い壁で、芳香剤のいい香りがする。家具には必ずと言っていいほど点字付きシールが張ってあった。


 古く錆びた小さな倉庫。屋根も壁も青と赤の錆が隠される事なく剥き出て、血の臭いと混じった鉄の臭いが鼻を突いていた。周囲にいつも、誰のか分からない血が付いてあった。


「さやかさん?」


 カナに呼ばれてハッとなる。さやかは自分の目を擦り、首を横に振る。だがカナの目が見えない事を思い出し、大丈夫と告げた。カナは笑顔を見せる。だがそのカナの前で、さやかは涙を流していた。


 さやかは手で目を擦り、涙を拭く。その時、突然ピーという高い音が鳴り、それに続いて高い女の様な声が聞こえてきた。


『五時四七分。隆一が帰宅』


 誰の声かと周囲を見渡したさやかだったが、すぐに声の主は分かった。カナがポケットからケータイを取り出し、指でボタンを探りながら操作してから言った。


「驚きました? 三ヶ月くらい前から、私に送られてくるメールなんです」


「メール?」


「隆一さんに読んで貰ったら、神様からなんですって。Voiceボイスメールって言って、少し先の事を私に告げてくれるんですよ」


 笑顔で語るカナの前で、さやかは自分のケータイを握り締める。自分に送られたメールを思い出し、額が汗ばんだ。


「そうだ。さやかさん、今何時ですか?」


「え? えと……五時半――」


「あら、じゃあもうすぐ帰ってくるのね」


 先程のメールを思い出し、カナが席から立ち上がる。さやかは紅茶を飲み干して、ケータイをポケットにしまった。カップを置いた音と立ち上がる音を聞いて、カナが振り返る。


「もう帰られます?」


「え、あぁ……うん、ありがとう」


「そうだ! メールアドレスと番号、教えて頂けますか?」


 さやかが首を傾げ、カナは笑顔でケータイを持つ。


「こうして知り合えたんです。お友達になれそうだし」


「あ……でも、私買ったばかりで」


「じゃあ、隆一さんにやって貰いましょうか」


 えぇと頷くさやか。だが、実際は違った。さやかがずっと握り締めていたケータイは、逃げ出す今日まで自分を閉じ込めていた奴に奪われていた。だから、やり方など忘れてしまっていた。


「さやかさん、晩御飯どうですか? もう遅いですし」


 さやかは頭の中で議論した。いつ倉庫から逃げた事がばれるか分からない。ここは早く出て、遠くに逃げた方がいい。だが、滅多に食べられないだろうこの先を考えると、今食べておくのがいいとも思う。二つの考えを交差させた。


「さやかさん?」


 カナにもう一度名を呼ばれ、体をピクリとさせる。


「お、お言葉に……甘えるわ」


「はい!」


 カナが笑顔で頷く。さやかはこの時、倉庫を出てから初めて安堵した。彼女に会ってよかったと、この時は思った。



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