きのうにむけて
道破 憧(みちゆき こがれ)
第1話
道路に降り積もった雪を蹴る。
グサッとつま先が刺さって、んっ?楽しい。
もっと蹴る。グサッと刺さる。楽しい。
もっと蹴る…やめよう。
靴は大事にしましょうね。心の中でつぶやく。
こんな雪の日に蝶が舞ってる。春が近い。
「まだ飛ぶのは早いよ」
「仲間はまだ幼虫だし、自分だけ飛んだって誰も仲間は見てない」
「大丈夫、俺は大丈夫」
昨夜のことを思い浮かべて、
「大丈夫、おばあちゃんが心配するのは嬉しいけど、大丈夫、大丈夫」
蝶は河原の方へ飛んで行く。
通勤の道すがら、近寄ってくる鳥や蝶を見つけると、二十年も前に亡くなった自分のおばあちゃんが、自分を心配して、近寄ってきたのかのように感じることがある。
大丈夫、自分は大丈夫、ちゃんと生きてる。
大丈夫だからね、おばあちゃん。なんてつぶやくこともある。
おばあちゃんはいつも俺を心配してくれた。育ててくれた。可愛がってくれた。怒ってはくれなかった。見逃してくれた。
戦争を生き抜いた人は強いなぁ。
勝手にそんな風に思ってる。
「起きにくことを、起こすなんて考え始めたのがそもそもの間違え!」
「ムリなんだよムリ!」
「君のは独創的なんじゃぁ無くムリ、ムチャ、ムボウ」
今日のダメ出しは長いなぁ。来週の研究討論会に向けて焦ってる。自分も同僚も、本部長も。
「現象は少しずつ変わってきていますから」
「文章にまとめるのは待ってください」
「世紀の大発見なんて望んでませんけど、少しでも原理が確認できれば、面白い展開がありますから」
言い訳も変わり映えしない。
現象は変わってきてるか?本当に?
重力波検出プロジェクトは過去を見つける旅なんだなぁ、いつも改めて思い直す。
酒は飲めるが、飲まないようにしている。だいたい、最近は二日酔いがヒドくて、心から酒を楽しめなくなってる。でも、今日は…
宵闇の冷たい冷気が漂う研究所の帰り道。研究所受付の看板レディーに一瞥をくれて、笑顔をもらった。まだ雪が残ってる小道を正門に向かって歩いていると、カラスがこちらを見てる。怒っているのか、笑っているのか、カーカーっ言いながら顔を横へ向けて片目でこちらを伺っている。
「こええなぁ」
「んっ?おばあちゃん?」
「大丈夫、大丈夫、今日は飲みすぎないから」
おばあちゃんにしては威嚇がスゴイ。まぁカラスだから仕方ない。
「久しぶりです」マスターが咲う。
「ご無沙汰してます」自分も笑顔を返す。
「こちらは新人のルルさんです、よろしく」
「新人紹介っすか。自分も久しぶりなんでこの店の新客みたいなもんです」「よろしく」キレイな人だ。
「ルルです」キレイな笑顔だった。中国系かな。
「上海から留学してます」
見透かされてしまったか。
中国系の女性も男性も化粧っ気がない。けれど、美しい人は本当に美しい。なんでも、中国のモラルとして、女性は子供を産んで一人前になるまでは化粧などはあまりしないという考え方があるようだ。韓国とは随分と違う。
「日本は何年ぐらいですか」
「2年くらい」
「日本語上手」
「ありがとう」照れる表情が美しい。
ここまでキレイな人が前にいると、酒が進む。
「ケンさん、真弓が後から来ますよ」マスターが言う。ケンさんと呼ばれるのも久しぶりだ。
「ヘェ〜、まだここにいるんだ。結婚は?」
「してない」マスターが笑う。
「性格悪いからね、真弓さん」マスターが爆笑してる。
「だからねっ」バシッと机を叩く音。
机を叩いたわけじゃ無く、酔って肘を強く突いただけだったけど。ちょっとびっくりした。女性たちも少し緊張が走る。
「オイオイどうした?西条」この店では連れの責任は俺にある。昔からこの店では色々なことがあった。笑いもあったが、もちろん喧嘩もあった。そのうちこの店で飲むときは、全責任が俺にあるような雰囲気が出来てしまってた。だから足が遠のいていた。
久しぶりに顔を出した上に喧嘩はマズイ。
「式にまとまらないんだから仕方ない」西条がニヤニヤしてる。
「まとまってるじゃないか」山本がムキになってる。
「どこかに間違えが入ってる、そうに決まってる」確信がありそうな西条。
「立証しろよ…」
「なんで俺が…、そっちの仕事だろう。間違えの立証なんてやってられない」数学者らしい西条の考えだ。
「西条ちゃん、協力をお願いしますね」俺のこの言葉で少し落ち着いた西条は「確率と重力式の相関を少し考え直してみますけど、期待しないでくださいね」酒を飲みながらこんな会話ができるのも彼らならではのことだなと強く思う。
少し切り出してみた。
「観測できない世界、つまり変数量が定義できないと仮定しよう。今までは変数量の陰に、本物の変数量があるはずだって考えてきた。」西条の目は死んだ魚のようだがもう少し続けてみよう。
「もちろん実体のことだけど。実体を変数で表現しよう、関連付けようとしてきたわけだ」
「限界は見えていたけど、物理屋さんは意地を張っていたということですか?」と西条。
「いやいや、意地を張っただけでは無く、目をつむったわけよ」
「もし実体が変数に関連付けられないとしたら、数学ではお手上げですよね」そうなんだよ天才西条くん。
「変数を使わない理論を考えてくれ」
「ムリ、ムチャ、ムボウ」と西条が切り捨てた。
本当は俺にもわかってる。数学ではムリだ。
「新しい数学?いやいや数字がないからもはや数学でもない」おっと気づいたかな。
「変数はないけど、数字はある」
「…えっ?、そりゃぁ絶対値はありますけどね」西条は考え始めてる。
そうそう、それだけを使うんだ、西条くん。と言いたいところだが数学者でもない自分が言うのはおせっかいってものだ。彼の才能は計り知れなない。横槍は野暮ってものだ。
観測もできないただの数字だけを理論の基礎にする。そんなものはあるはずがない。そう言いたげな西条の顔を見ながら酒場をお開きにした。
西条も山本もまっすぐは歩いていない。自分の足取りも怪しい。そのうち駅へたどり着くだろう。その程度の意識しかない。酒場通りのゴミ置場にカラスが1匹、こちらを見てる。
「大丈夫、大丈夫」
カラスはやめた方がいいよ、おばあちゃん。
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