神の視点

枕木きのこ

第1話

 一番線から四番線ホームまでを繋ぐ大きな通路の真っ只中で、ふくよかなサラリーマンと肩をぶつけてしまった。ぼんやりとしていたせいか、僕は派手に後退し、そのまましりもちをついてしまう。サラリーマンはこちらを振り返ったが、次の瞬間にはもう人波の中へ紛れていた。アナウンスが電車の到着を告げている。恐らく、これに乗る為に急いでいたところだったのだろう。

 少しばかり学生カバンが開いていたらしい、筆記用具や教科書の類が汚い床面に散らばっていた。問答無用で人々に踏まれているそれらを、へこへこと頭を下げながら拾う。誰もが生き急いでいて、弱者に構う暇はないようだ。

 地面ばかり見ていたせいか、最初、その手に気づかなかった。持ち物を回収し終え喧騒に似合わず一息ついていると、か細い腕が伸びてきていた。視線を上げてその先を追っていくと、二十代半ばの女性が手を差し伸べてくれている。

「ありがとうございます」

 頼るにも頼りない腕にすがり付いて身を起こし、制服を払った。もとより大して綺麗には扱っていなかったが、それでも埃は気になった。

 女性はにこりと一つ笑うと、

「大丈夫?」

 尋ねてきた。僕は言葉にはせず頷いて、不器用に笑顔を返す。

 アナウンスがまた鳴った。忙しなく人々は歩き続けている。

「それじゃあ、行かなくちゃ」

「あ、どうもありがとうござ――」

 言いかけたとき、イメージがわきあがった。

 夜。マンション。ベランダ。酒。飲んでいるのはこの女性だ。話し声、電話らしい。悲しそうな顔をしている。風が吹いた。揺らぐ。それは積極性を伴った動作だったかもしれない。落ちる。

 ところどころがモノクロのビジョンだった。

「あの」

 振り返った女性を、声を張って引き止める。

「どうしたの?」

 時計を気にしながら、困ったような顔をする。

「もし恋人とうまくいかなくても、変なことを考えたりしないように」

 どう伝えれば良いものか迷ったが、迷っているうちに言葉が出てしまっていた。恐らく僕も、彼女に負けないくらい困ったような顔をしていたと思う。それか、苦痛に歪んでいただろう。

 女性はさらに眉を寄せた。今度は、怪訝な表情だと思われる。

 しかし次には、微笑を返してくれる。

「大丈夫。うまく行ってるから。それじゃあ、ごめん、本当に。さようなら」

 走り去っていく後姿を見ながら、僕も一番線ホームに歩みを進める。

 恐らく、彼女には何も伝わらなかった、と思った。

 ホームで電車を待つ列に並びながら、朝の雑踏に嫌気が差していた。ここに居る人のどれだけが、自分が死ぬことを、それも時にはひどく簡単なことで死ぬことを認識しているのだろうか。そう思うと、のんきに昨夜のドラマの話をしている女子高生にも、スポーツ新聞に目を通しているサラリーマンにも、うんざりする。

 例えば僕がここでふらついて、前の人を押してしまうとする。玉突き事故のように最前の人は線路にはじき落とされるかもしれない。そういった隣り合った死に関して、人々は呆けているかのように無頓着だ。寿命が来るまでは死なない。もっとひどければ、寿命などないとすら思っているかもしれない。死は絶対だ、と悟ったように口にするが、それは自分には関係のない次元の話だとどこかで思っている。

 先程の女性もそうだった。彼女は、僕の忠告を無視する限り、一週間以内に自殺する。でも、自分がそんなことをする人間だとは、認識していないのだ。

 浅はか、と言うつもりはない。僕も、この少々奇異な能力を持っていなければ、彼らと同様だったと思う。

 人の死ぬ瞬間を見ることが出来る、だなんて、果たして誰が信じるのか。

 電車がホームに滑り込んでくる。流れるように吐き出され、流れるように吸い込まれる。圧迫された状態で、四つ先の駅を目指す。

 この能力を自認したのは、小学生になってからだった。ただし最初にビジョンを見たのがそのときだ、ということではない。

 それは三歳のとき、母親の死だった。

 彼女は若く聡明で美人だった。いつも笑っていて、穏やかな空気を持っていた。

 三歳児の僕は不意に訪れたビジョン(そのときは色鮮やかで、長い時間見ていたと思う)を、彼女に言葉足らずながら説明した。男が来て、お母さんを襲う、僕はずっと泣いていて……。彼女がそれを聞いて何を思ったかは分からない。でも次の瞬間には僕が見たとおりの現象が起きていた。

 当時の僕は、死の映像を見た、とは思わなかった。特に、母親が殺されたわけだし、混乱の中で記憶が誤作動を起こした、改ざんされたのだろうと、そう思っていた。父親にはもちろん何も言わなかったから、彼も特別に不審を抱いた様子はなかった。

 それが、その父親が死ぬ映像を小学生になって見たものだから、ああ、これはこういう能力なのか、と認めざるを得なくなった。彼のときは交通事故で、映像はモノクロだった。それを見て、一週間後に父はその通り死んだ。

 引き取られた先の親戚の家で、僕は、その恐怖を彼らに伝えた。人の死を見てしまう。もちろん、最初は信じてもらえなかった。精神的に不安定になっているだけだ、と一蹴された。でも、近所の高校生に関して、ぴたりと言い当てたものだから、彼らは驚いて、信じた。そして、金になる、と考えた。

 そこからはひどいものだった。小学二年生にしてテレビや雑誌のメディアに踊らされ、僕が人の死を見て、それを食い止めようという趣旨の番組さえ生まれた。

 もちろん、この能力には限界がある。例外もあるにはあるが、基本的に一週間先の映像までしか見えないのだ。つまり逆に言えば、八日後に死ぬ人の映像は見えない。

 収録にやってくるのは素人ばかりで、死ぬか、死なないか、というのをまず診断する。ビジョンが見えれば内容を伝え「気をつけて」と言葉を添えるだけでよかったが、ビジョンが見えないパターンのほうが多かった。大半は安堵の表情で帰っていたが死なないと判断したにも関わらず八日から一月以内、つまり収録から直近に死んだ人が何人か出てしまった。もとより不謹慎だと言う声が多かった中でこの件が相次ぎ、番組は三ヶ月も持たず尻切れトンボの状態で終了。僕もメディアへの露出はなくなった。

 金にならない僕に対して、義父たちは愛想を尽かした。育児放棄をしたのだ。

 見かねた母方の祖父母が僕を引き取ってくれたが、当初からそうしなかった理由にも挙がったように、彼らも先は長くなかった。

 それから転々と居住所を変えたが、小学校高学年の頃にはついに養子に出され、僕は名前もそれまでの経歴も全て捨て、新天地で新しい人生を歩むことになった。

 それで、今の高校にも通っている。

 チャイムが鳴るのとほとんど同時に校舎に入り、下駄箱で靴を替えた。どうやら朝からぼんやりとしてしまっていたせいで、今日も遅刻ぎりぎりである。

 四階建て校舎の二階、三年生の教室に入り、ざわついた喧騒の中に紛れる。

 一ノ瀬浩太、という名前になってから、僕は仮面を被るようになった。それは本来の自分、薄暗い自分を隠す為のものだ。一ノ瀬浩太は普通の高校生、受験生である、ということを自分に言い聞かせる。そうでもしていないと錯乱しそうだった。このクラスに居るうち、現段階で二人の死を見た。一人は交通事故で、忠告はしたが、防げなかった。もう一人は自殺だった為、比較的防ぎやすく、彼は今でも学校に通っている。

 同じクラスに居る人間の、またはここに来るまでの途上ですれ違う人々の、誰かしらの死を毎日のように目撃する、というのは、とても耐えられることではなかった。くだらないと分かっていても、「一ノ瀬浩太にはそういった能力は存在しない」と思わねばやっていられなかった。昔のように、それこそ番組をやっていたときのようにずうずうしく過剰にアドバイスしてやることに意味があるのかも、分からなくなり始めていた。

 しかしだからといって、全てを投げ出したわけではない。例えば今朝のような形で自分に関わってきた者、それからクラスメイトのように、死なれては寝覚めの悪くなる者。これらに関しては、なるべく遠まわしに(それがうまく出来ては居ないが)、忠告をするようにしている。どうでもいい人間(それでも目の前で死なれるのには抵抗があるが)には積極的に関わるつもりはないし、そもそも全てを止められるとも思わない。関わって防げなかったときのダメージを思えば、絶対数を減らしたほうが得策だと考えた。

 何度も苗字が変わり、今では実の両親に付けてもらった名前すら捨てた。これからは円滑に過ごしたい、穏やかに生き、穏やかに死にたいのだと、そればかり考えるようになっていた。

 机に就き、カバンから教科書類を取り出し中にしまっていると、後ろの席から声が飛んできた。

「おはよ、なあ浩太、昨日のドラマ見たか?」

 小麦色に焼けた肌に坊主頭という典型的野球部スタイルの男だ。

「見てないや、昨日は疲れてすぐ寝たんだ」

「疲れたってお前、帰宅部の癖に何に疲れるんだよ」

 笑われたので、笑い返す。

「いろいろだよ」

「怪しいな、彼女でも出来たか?」

「違うよ、家のこととかね、いろいろ」

「ああ」

 家のこと、とはいえ、今までの僕の経歴を知っているものはほとんど居ない。名前も土地も違うのだから当然と言えば当然の話だ。しかし「養子である」という程度の噂は、簡単に広まってしまうものである。僕個人はその程度のことを隠すつもりはないし、むしろそれに紛れてもっと昔のことが隠れるならば自らひけらかしても良いのだが、ともかく皆、親に聞いて「なんとなく知っている」らしい。

 家の話を持ち出すと、大抵のクラスメイトは口をつぐんだ。突っ込んではいけない、もしくは突っ込みづらいという認識の基に起こる当たり前な行動である。

 しかし実際は、家で何かがあったことはほとんどない。義理の両親は優しいし、とても良い人たちだから、気兼ねすることもない。本当に僕が疲れる理由は、先程言ったような、人の死を何度も何度も見てきた経験にある。見るだけでも疲れるし、それはなかなか癒されない。時にはひどくグロテスクなものを見てしまうときもあるし、疲弊するには十分足る理由だろう。

 そうこうしているうちに担任の教師が教壇に立った。今日も無駄な一日が始まる。


 放課後になって、僕はいつもの通り直帰する為に支度を始めた。大半の生徒は部活動へ向かっていく。教室にはすでに半数も生徒は居ない。

 ちらりと見やった空は、どこまでも憎らしいほどの青で、照りつける太陽も鬱陶しいほどの主張だった。

 廊下へ出て、階段のほうへ向かう。生徒たちがざわざわと騒いでいる様をぼんやりとした視界で捉える。ビジョンは一つも見えない。

「おい、浩太」

 声を掛けられ、振り返ると、クラスメイトの笹倉信人が立っていた。学生カバンを肩から提げ、首にはヘッドホンを掛けている。背中には、ベースを背負っていた。こちらは言うなれば典型的な軽音楽部員である。

「どうした?」

 一ノ瀬浩太は特別にフレンドリーではないにせよ、普通の高校生らしく返答をした、というのが僕の中での理想だったが、少しぶっきらぼうすぎたかもしれない。

 笹倉は僕の隣に立つと、目で先へ促した。僕たちは隣り合って歩き始める。

「今日練習の予定だったんだけどメンバーが二人病欠でさ、ドラムと二人でやるのもありなんだけど、どうせなら部室を後輩に譲ろうかなと思って。うち、無駄に部員数が多いから週一回部室で練習できれば良いほうだからさ」

「それで?」

「うん、それでたまたまお前が見えたから、どっか飯でも食いに寄らないかなと思って」

「うーん」

「俺と行くのは嫌? それとも家のこと?」

「まあ、どっちもかな」

「おいおい、前者は否定してくれよ」笑いながら言う。「まあ家のことなら仕方ないか。でもお前、高校生なんだし、もっとエンジョイしたほうが良いんじゃないの? 青春なんて思っているよりあっという間だし、懐かしむことは出来ても戻ることは出来ないんだから」

 妙に的を射た発言をする。

「まあ、そうだね」

「嫌なのを無理やり連れて行くほど俺も愚かじゃないけど、たまにはマックくらい行こうぜ、奢っても良いし」

「え、奢ってくれるの? じゃあ行こうかな」

「あ、お前、せこいなあ」

 小突いてくるのを避ける。

 結局、ついていくことに話はまとまった。

 学校からの最寄り駅近くのマクドナルドに入り、ポテトとドリンクをそれぞれ注文した。本当に奢ってもらうつもりは全くなかったが、それでも金を出すと言って聞かないのでエスサイズを頼んだ。

 窓際に空席を見つけて座り、そこでもう一度丁重に礼を言ったが、笹倉はあまり気にした様子もなくすでにポテトに手を付け始めていた。

「それよりさ、お前、バンドやらない?」

 世間話の折、そんな話題になったが、あまり考えるまでもなく答えは出た。

「嫌だ」

「えー、マジかよ。今さ、ギターが抜けそうで困ってるんだよ。お前暇そうだしさ、最後の文化祭だけ、臨時でやってくれないかなと思ってたんだけど」

「暇そうって、失礼だな。っていうかそれが目的だったのか?」

「まあまああんまり怒るなよ。飯奢ったろ?」笹倉は屈託なく笑う。「それに暇そうに見えても仕方ないだろ、お前何してるか分からんもん。みんな不思議がってるよ。普段即行で家に帰って、何してるわけ?」

「何って、まあ」まさかニュースを見て、ビジョンの答えあわせをしている、とは言えない。「何もしてないけどさ」

「夏だからって引きこもってクーラーばっかり当たってたら、頭おかしくなっちゃうぜ?」

 愛想笑いを返す。

 そこからはまた世間話が続いた。基本的に僕は聞き役で、彼がクラスのだれそれが何だ、という話を延々していた。

 僕は窓外の景色に視線を投げていた。ぼんやりと道行く人々を追う。

 そのとき、イメージがわいた。

 鮮明で、鮮烈な色彩のビジョンだ。これは近い。

 踏切。女子高校生。上の空。遮断機が降り。電車が。人々はざわつく。次には。

「――ごめん」

「え?」

 返答を待たず店外へ飛び出した。後ろで笹倉が何か言っているが、認識に及ばなかった。

 見えた踏切は、まさしく最寄り駅のすぐ横に設置されたものだ。そちらに走ると、すでに警報が鳴り始め、遮断機が下りていた。

 ビジョンに映った少女は、――いた。

 上の空で、何かぶつぶつと呟いているのか、口が動いていた。何人かが通過を待っている中、少女は遮断機に構わず踏切内に侵入した。

 電車の音がしている。

 大きな、警笛の音がする。

 電車が風を切って目の前を通過した。

 危ないところで、少女の手をつかめた。

 二人でしりもちをつきながら、目の前を過ぎていく電車を見やっていた。

 遮断機が上がる。

 人々の流れの邪魔にならないよう、彼女を引いて移動する。

 ようやく正気を取り戻したのか、少女は困惑顔で僕を見た。

「どういうこと……?」

「何してるんだ、死ぬところだったぞ」

 依然切れ切れの息でそう言う。

 少女は相変わらずの困惑顔だったが、ややあってからこう言った。

「つい、声が聞こえて……」

「声?」

「あ……」

「声って何?」

 少女は答えなかったが、立ち上がってからこちらを見た。

「あの、笑わないで聞いてくれますか?」


「私、死者の声が聞こえるんです」

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