第3話 老猫の忠告
目が覚めたとき、モミジは自分が何者かすらわからなかった。
目の前にいた黒い髪の少女の真っ赤な瞳がなんだか懐かしくて、声をかけると、少女は目を丸くする。
「あなた、狐なのに話せるのね!」
少女にそう言われて、自分が獣であると気が付いたのも、おかしな話だと自分でも思う。
その少女に自分が命を救われていたことも、モミジは少し落ち着いた後から知った。
モミジが、この社の敷地で暮らすようになってもう二月が過ぎていた。
初めてクマ狩りをしたときは、山羊ほどの大きさで、それでも十分大きな化け狐だったのだが今は、田畑を耕している牛くらいの大きさにまでなっている。
はじめ、村の人間はモミジのおおきな姿を見て「この畜生の飯を村人で負担するのは年貢よりも大変なのではないか」と心配していた。
だが、そんな心配をよそにモミジは、毎日1匹の魚と、月に一度ウサギの肉を食べていればいいとわかり、村人たちは胸をなで下ろし、「神様が遣わせてくれた神獣なのだから餌を多く必要としないのだろう」と勝手に納得しているのだった。
中庭にもちらちらと雪が降り積もる季節だった。
コハクは知らないが、モミジは体の大きさを仔猫くらいの大きさから牛くらいの大きさまで、自由自在に変えることが出来るようになっていた。
夜、コハクが寝静まったのを見計らってモミジは体を小さくし、神殿の天井の隅に空いている穴から中庭に出た。
空気が澄んでいて、さっきまでチラついていた雪が嘘のように、空の星たちの瞬きや息遣いが聞こえてくるような、そんな夜空だった。
モミジは、新雪が降り積もる中庭に飛び降りる。
雪の上に自分の足跡がぽつぽつと出来るのが面白かった。
「うすうす気が付いていたけど…あんた、ただの狐じゃないねぇ。」
ふいに聞こえた声に、モミジはビクッとして体をこわばらせ辺りを警戒する。
いつ襲われてもいいように、体を大きくするとキョロキョロと月光と雪明りに照らされている中庭を見回した。
モミジの視界には、いつものように濡縁でうつらうつらしている老猫以外に、見慣れないものはなかった。
警戒を解き、もう一度辺りを見回すが、特に異常なものは見当たらなく、モミジは気のせいだったのか…とでも言いたいようにその太いふさふさとした白い尻尾を左右に揺らした。
「能力は妖狐に近い。だが、頭はそこいらの狐と同じ程度みたいだねえ。」
また声が聞こえた。
モミジは全身の毛を逆立てて唸り声をあげながら、急いで体を低くした。
ばっと目の前を何かが横切る。
とてつもない速さで動いたその物体を目で追ったモミジは、思わず自分の目を疑った。
そこにいたのは、先ほどまで濡れ縁でうとうとしていた老猫のイチョウだったのだ。
イチョウは、のそのそとモミジのほうへと歩みを寄せる。
その眼光はいつも見せている老いぼれを思わせるようなのんびりとしたものではなく、獲物をそれだけで射殺してしまえそうなほどの鋭さだった。
イチョウは、冷たい眼光を湛えながら口を開いた。
「あんたに、わしからひとつ忠告をしてやろう」
「忠告?」
モミジはわけもわからないまま首をかしげる。
そんな狐に、軽蔑なのか落胆なのかわからない感情を浮かべたイチョウは言葉を続けた。
「あの子、コハクは一六になったときにコハクではなくなるだろう。
ここにいるつもりなら、あんたも同じことになる。
生き延びたいなら、さっさと夏が来る前にここからお逃げ。」
モミジはわけがわからなかった。
何故、ただの猫だと思っていたイチョウがこんなに殺気を纏いながら自分やコハクのように話せるのかも、コハクの運命を説明しだしたのかも、自分をここから去らせたいのかも。
何よりも、話す人がいなくてつらい思いをしていたコハクのそばに何年もいながら、話せることを隠し続け、死ぬに近い運命であるコハクを助けようとすらしないこの猫が、モミジにはとても冷酷な化け物に思えて、強い憤りを覚えた。
「それよりも…なんで話せることを隠してるんだよ…。
コハク、寂しかったって…ずっと寂しかったって…。
なんで平気なんだよ…なんで助けようとしないんだよ。」
「わしみたいな畜生には、どうにもできないこともある。」
イチョウは、興奮で声を震わせるモミジを見て、吐き捨てるように言い放った。
そんなことは納得できないと言いたげに唸り声をあげるモミジを見て、イチョウはf深い深いため息をつく。
モミジは、出会ってから間もないが、たくさんのことをコハクと話をしていた。自分は彼女のことを何でも知っているつもりだった。
だが、イチョウの話を聞いてそれは思い違いだったとしった。
コハクは、自分が一六になったら神に娶られることも、どんな理由でこの敷地に閉じ込められているかも、自分には話してくれていなかったのだ。
それは、コハクが認めたくなかったからかもしれないだけで隠したいわけでもモミジを信用していないわけでもないだろう…と狼狽えるモミジに対して、イチョウはそう付け加えた。
モミジは記憶がないながらも「そんなに力があるのなら、コハクはわざわざ村人に縛られなくても生きていけるのではないか」と思っていた。
それが不可能なのは、コハクの水を操る力は神様から貸し与えられているもので、村人に向けてしまった水の刃は、村人に当たる前にただの水に戻るという条件があることだけではなく、村から離れると水の力どころか生きる力そのものを失ってしまうという理由があったのだ。
彼女が小さなとき、社に戻るのが嫌で野盗退治の後森の中に逃げ込んだこともあったらしい。
そのとき、追ってきた村人に対して水の刃をつい放ってしまったとき、コハクは村人を殺してしまうと焦ったらしいが、村人に当たる前に水の刃は、ただの水になり土に吸い込まれたのをイチョウは見たのだという。
それに、村から子供の足で2時間ほどの距離に離れたとき、急にコハクは体から力が抜け歩けなくなり、その場に倒れてしまったところをやけにのっぺりとした顔の男に捕まえられ、村に戻されたことがあったのだという。
その話を聞いて、モミジは苦虫をかみつぶしたような表情になった。
彼女は、神に片手と家族を奪われただけではなく、勝手にこの村でしか生きられない体にされてしまったのか…と考えると、胸の中に熱い炎のような怒りの感情が湧いてくるのが自分でも分かった。
「わしが、この話をしたのはあんたに蛇神様を憎ませるためじゃないんだがねぇ。
折角コハクが救った命だからね。わしは、お前に知恵を授けたいだけなんだ。
蛇神に目をつけられる前にさっさと逃げればあんたは死なないで済むよ。」
「ふざけるな!コハクを捨てて…哀しませて俺だけ生き延びろっていうのか!」
「このままだったらあんたがどうなるかがわからないほど、コハクは愚かじゃないよ。
かつてこの地の土地神すらも喰ってしまった蛇神になんて、わしら畜生が勝てるはずもない。
神からコハクを救おうとして、犬死にするよりも、あんたが生き延びたほうが
コハクもよろこんでくれるだろう。
…決して、神殺しなんてたくらむんじゃないよ。神を殺せば祟られる。」
イチョウは、「二、三日の間に出ていきな」と言うと、モミジの返答も聞こうとせずに背中を向け、中庭の奥に広がる雑木林の闇の中に姿を消した。
モミジは、憤りと絶望と葛藤と、様々な行き場のない感情をぐるぐると駆け巡らせながらただただ、暗闇に消えていく老猫の姿を目で追うことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます