第24話

「ユハ……、俺と一緒に太守の館まで行ってくれ」


 カドラヒは、感情の消えた顔で言った。


「カドラヒ! お前、自分が何を言っているのか分かってるのか? 恩人を売るって言ってるんだぞ!」

「ああ、俺は卑怯者だ」


 声を荒げたダリュワに、カドラヒは頷いて見せた。


「ダリュワ、マムドゥマ村を滅ぼされかけたことで腸煮えくりかえってるのは分かる。だがな、俺たち諸教派の運命は、あいつの手に握られているんだ。太守が一言命じるだけで、俺たちはお終いだぜ」


 カドラヒの言葉に、ダリュワは厳しい表情で口を噤んだ。カドラヒは再びユハに顔を向けると、抑制された声で言う。


「すまねえ、ユハ。俺は、この町の奴らや、商会の奴らを守らなきゃあならねえ。あんたにこんなことを言うのが恩知らずなことだってことは、重々承知してる。それでも、俺はあんたに頼むしかねえんだ」


 表情豊かだったはずのカドラヒは、今や冷たく凍りついたように頬を歪めさえしない。しかしユハは、卓上で固く握られた拳、その目に浮かぶ光に揺らぎを見て取った。何とか自分を殺そうとして、それでも己を苛むことから逃げられずにいる。ユハはそう感じた。


 運河での戦いの後、ユハたちはルミヤという女の言葉に従ってカドラヒの商会へ向かった。


 暴動で混乱する状況の中、突然やって来たユハたちに、商会の者たちは当惑した。そして、カドラヒが呼び出されて緊張している商会で、ユハたちが事情を話したことで、当惑は混乱に変わった。暴動のことで呼び出されたのならばともかく、ユハの身柄を手に入れるためにどうして商会が関係するのか理解できなかったからだ。


 そして、戻って来たカドラヒが太守からの要求について話したことで、混乱は怒りに変わった。 


 あれこれ質問をしていたハーリオドは眉間に皺を寄せて黙り込み、ダリュワはカドラヒに噛みついている。


 自分たちは、あの人の手の内に囚われている。そして、あの人の思惑でかき乱され、弄ばれている。


 ユハはそのことが怖ろしく、そして悔しかった。


 食堂で会った時に感じた恐怖は、今や冷たい刃となって喉元に突き付けられている。そして、自分はそこから逃れることが出来ない。


 ユハは、カドラヒを見つめると、静かに答えた。


「正直言って、とても腹が立っています。だけど、仕方がないことだっていうことも分かっているんです。だから、カドラヒさんに何て答えるべきなのか、私には分からない」


 カドラヒはその視線を無言で受け止める。


「だから、私はカドラヒさんと一緒に行きます」

「ユハ、何を言ってるんだ! あいつは俺たちを正教派への当て馬にしようとしているだけだ! 必要なくなればきっと俺たちは簡単に切り捨てられるに決まってる! お前が犠牲になる必要なんてないんだぞ!」


 ダリュワが叫ぶ。


「私はカドラヒさんや、諸教派の人たちの為に行くんじゃありません。私は、シェリウの為に行くんです。シェリウは私の為に命を懸けてくれました。だから私も、シェリウの為に命を懸けます。それだけです」

「ユハ……」


 決意に満ちたユハを見て、ダリュワは顔を歪めた。月瞳の君が笑みを浮かべる。


「こうなったユハを、誰も止められないわよ。私たちは何があろうとシェリウを助け出す。太守や、あんた達の思惑何て関係ないわ」


 月瞳の君の隣で、ユハは深く頷いた。


 ダリュワは、ラハトに鋭い視線を向けた。


「それで、何か策があるのか? あんたはシアとは違う。正面から殴り込むなんて言い出さないだろう?」

「何よそれ」


 口を尖らせた月瞳の君の隣で、ラハトが大きく溜息をつくと、肩をすくめた。


「敵はこの街の権力者で、人質を取られ、味方はいない。圧倒的に不利な状況だ。俺は、シェリウのことは諦めてこの街を出ることを提案したが、ユハは認めなかった。全く……、付き合うのも馬鹿馬鹿しい話だな……」

「え?」


 ラハトの仕草、言葉遣いの急変、そして何よりその語った言葉に、ユハは戸惑った。


「お前、何を言ってるんだ?」


 カドラヒが怪訝な表情を浮かべて聞く。


「聞いた通りだ。ユハは、シアと共にお前と太守の所へ行くそうだ」

「お前は来ないのか?」


 カドラヒが微かに眉根を寄せた。


「俺は……」 


 ラハトは素早く立ち上がると、向かいの席に座っているハーリオドに短剣の切っ先を突き付けていた。その動きがあまりに早くて、ユハには何が起きたのか一瞬理解できなかった。他の者たちも同じらしく、呆気にとられて何の反応もできないでいる。


 ハーリオドが己の喉元に微かに触れる白刃を見て、大きく息を呑み込んだ。


「俺は、ユハを置いてここを去る。行きがけの駄賃だ。この商会から金目のものをいただいて行くことにしよう。この爺さんを殺されたくなかったら、言うことを聞け」

「ラハトさん! 何を言ってるんですか!!」


 ユハは思わず悲鳴のような声を上げた。


 ラハトはユハを見ることはなく、カドラヒとダリュワに顔を向け、握っている短剣をひらひらと動かす。


「……なるほどな」


 カドラヒが微かに頬を歪めた。


「ハーリオドは商会の要だ。殺されるわけにはいかねぇ。お前の言うことを聞かないわけにはいかないな」


 ダリュワも、小さく息を吐きだすと腕組みする。


「俺ではラハトを止めることは出来んな。仕方がない。素直に言うことを聞くことにしよう」


 緊迫したその場の空気が一転して弛緩した。それを感じ取ったユハは、一人困惑すると皆を見回す。


「ラハト……、あんたは悪い子ねぇ。ユハを囮にしようって言うんでしょう?」


 月瞳の君が、横目でユハを見ながら言った。


「ユハが言い出したことだ。シェリウを助け出す。その為に、ユハには命を懸けてもらう。それで良いんだろう?」


 短剣を収め、椅子に腰かけたラハトはユハを見つめる。


 芝居だったのか。ようやくそのことに気付いて、ユハは安堵のため息をついた。そして、唇を固く結び、ラハトに決意を込めた視線を返しながら深く頷く。


「それで……、俺はお前に命乞いしながら何を差し出せばいいんだ?」


 ハーリオドが喉元をさすりながら、ラハトを睨み付けた。


「シェリウを助け出す為に力を貸してもらう。今言った通り、商会の商品を譲って欲しい。あんた達には、それくらいの貸しはあるはずだ」


「本当に金目の物を奪っていくってのか。シェリウの嬢ちゃんを助け出すために、うちの商会に何か役立つ物があったか?」


 ハーリオドは首を傾げた。ラハトは皆を見回して言う。


「太守とまともに戦っても、俺たちの勝ち目は薄い。シェリウを救うためには、賭けに出る必要がある。その為に必要な物だ。正直に言えば……、上手くいくかどうか分からない。危険な賭けだが、太守たちを相手取るには、試すしかない」

「私はラハトさんを信じます」


 これまでラハトは、人を不安にさせるような言葉を口にしたことがない。そのラハトが賭けだと言うのだ。どれだけ困難な状況か理解できる。しかし、自分がどうするべきなのか、ユハには何も思いつかない。そんな愚かな自分は、例えどんな危険があろうとも、ラハトに頼るしかない。


「商会にある物で役に立つって言うなら、いくらでも持って行ってくれて構わねえ。他に俺に出来ることがあるなら言ってくれ」


 ラハトはカドラヒを見据えて言う。


「カドラヒ。あんたは芝居が得意な人間だ」

「お前だって大した役者じゃねえか」


 カドラヒは、苦笑すると共に頭を振った。


「お互い仕事熱心ということだ。だが、皆が皆、そうじゃない。この商会も太守の手の者に監視されているだろう。目端が利く、信用できる人間を何人か貸してほしい。他の者たちには、俺がハーリオドを人質にして出て行ったと信じ込ませてくれ」

「ああ、分かった」


 カドラヒが真剣な表情で頷いた。 


「つまり……、ユハを囮にして、お前はシェリウを助け出す為に別で動くということか?」


 ダリュワの問いに、ラハトは頷いた。


「そうだ。勿論、太守も簡単には俺がユハと別れたとは信用しないだろう。だから、出来るだけ奴等を惑わせて、時間を稼ぐ必要がある」

「時間を稼ぐ?」

「この賭けは、絶妙な機を計る必要がある。ユハたちと別れて、仕掛ける前に俺を付けてきた者たちがいるとするなら、そいつらを始末しなければいけない。監視役と連絡が取れないと敵が気付く前に、仕掛ける必要があるんだ」

「綱渡りだな……」


 呻くようにカドラヒが言った。


「見てもらいたいものがある」


 そう言ってラハトは、自分の荷物の中から丸めていた紙を取出し、卓上に広げる。


 そこには、簡易的ではあるが、幾つもの線や記号が書き込まれた街の地図が描かれていた。


「こいつは……、リドゥワの地図か?」

「そうだ。仕掛けのために、カドラヒたちに教えてもらいたいことがある」

「ちょっと待て。こいつはリドゥワの暗渠や下水道じゃねえのか?」


 カドラヒは、地図上に描かれた幾つもの点や線を指差して言った。


「分かるのか?」

「そりゃあ、商売柄、人目に触れたくない時があるからな。抜け道は抑えておくもんだ……。しかし、詳しく調べてあるな。この地図、どうやって手に入れた?」

「作った」

「作った?」

「危急の時に備えて、隠れることのできる場所、街から抜け出す道、そう言ったものを調べておいた。下水や運河、暗渠もその一環だ」


 その地図は、簡易的ながら細い路地なども書き込まれているものだ。ラハトが街を見回っていることは知っていたが、ここまで詳細に調べていたとは、驚くしかない。


「……さすが、大した使用人だぜ」


 カドラヒは苦笑すると、ダリュワと顔を見合わせた。


「しかし、お前、下水道から太守の館に潜り込むつもりか? そいつは無理な話だ」


 カドラヒは一転、厳しい表情を浮かべてラハトに言う。


「俺はガキの頃、ドブさらいの仕事をしていことがあるが、御大尽の屋敷の下水溝は穴が小さくて格子で蓋をしてる。虫や蛇ならともかく、お前の図体じゃあ潜り込むのは無理だぞ」

「潜り込むつもりはない」

「それじゃあ、何だって俺たちにこんな物を見せるんだ?」

「烽火台を探しているんだ。……狼煙を上げるために」


 怪訝な表情を浮かべたカドラヒに、ラハトは静かに答えた。






 シェリウは、ゆっくりと息を吐きだすと、目を閉じた。


 精神を集中し、心のさざ波を鎮める。


 深く沈み込んでいくような感覚と共に、シェリウの観る世界が変貌した。


 肉体ではなく幽体が感じ取るこの部屋は、何重にもわたる魔術的な力、高度な術式で編まれた結界に覆われていた。その全てを理解することは出来なかったが、その効果は単純かつ明解だ。部屋の外部へ何らかの魔術的な干渉を試みれば、その力は雲散霧消してしまう。


 その結界は強固で、シェリウの力では真っ向から破ることは出来ない。おそらく、何らかの方法で結界の穴や綻びを探しだし、解き、崩すことは出来るだろうが、その為には時間と技術が必要だった。


 しかし、この部屋で魔術を使うことが出来ないわけではない。もしこの部屋で完全に魔術を禁じれば、彼らもシェリウを監視するための術法が使えなくなってしまう。この結界は、外からの干渉は可能でありながら、内部からの影響は跳ね飛ばす。そんな高度な仕組みも与えられていた。


 いわば、今のシェリウは身の丈をはるかに越えるとても背の高い箱に入れられた状態だ。上からは覗かれ、物を放り込まれても、こちらは悪態を返すことしかできない。しかし、それは決して強固な実態を持った鉄の箱ではない。あくまで、魔術的、呪術的な不可視の箱にすぎない。この部屋の扉を蹴破れば、シェリウはいつでもこの部屋から出ていくことは出来た。


 当然ながら、部屋の外には屈強な兵士が見張りに立っており、武術の心得のないシェリウが扉を開けて出たとしても、すぐに取り押さえられてしまうだろう。魔術が使えなければ、シェリウはただの娘にすぎない。そう考える太守たちの認識は正しい。そして、その認識こそ、シェリウが付けこむことのできる隙でもあった。


 太守ラアシュを殺すと覚悟を決めたあの時、頭の中で、次々と何かが繋がっていくような感覚があった。


 それは、シェリウの中に眠っていた懐かしくも怖ろしい記憶を呼び覚まし、力を導いた。


 幼き頃に読んだ教典を思い出す。


 古代の秘教的な教典の記述は、忘却の沼の中から浮かび上がり、記憶という石碑に刻まれてシェリウの前にあった。


 鋭く刻まれた記銘に導かれて、さらに深く、シェリウは沈んでいく。 


 その魂は、まるで大きな穴を降りて行くように、ゆっくりと、深奥を目指す。

 

 暗く底を見通すことが出来ない暗黒の穴。それは、心の淵源だった。


 渦巻く力。


 それを感じ取り、手を伸ばす。


 幼い頃にすでに形を与えていたそれは、いとも容易く淵源からすくい出された。蠢き、揺らいでいた力が、しっかりとシェリウを掴み、そして共に浮上していく。


 急激な浮遊感に眩暈を覚える。


 それに耐えながらゆっくりと目を開けると、自分の隣に一人の娘が座っていた。色白で、長く艶やかな黒髪をもったその娘は、覗き込むようにシェリウに微笑みかける。


「お久しぶりですね、シェリウ」

「……イェリム、久しぶり」


 シェリウは、緊張の面持ちでイェリムを見つめ、頷いた。その姿は、記憶の中に在る幼い頃のものとは違う。しかし、自分と同じように、子供だったイェリムが成長した姿なのだと何の違和感もなく受け入れることが出来た。それは、やはり彼女が自分の分霊だからなのだろう。


「またお会いできてとても嬉しいです。私の力が必要なようですね」


 その問いかけを聞いたシェリウは、小さく首を傾げて笑みを浮かべるイェリムから、思わず目をそらす。


「残念なことにね……」


 イェリムは悲しげに目を伏せると、小さく溜息をついた。


「シェリウ……。折角再会できたというのに、そんなつれないことを言わないでください。悲しくなってしまいます」


 シェリウは強く両手を握り合わせると、そのまま額に手を当てた。大きく息を吸い込み、再びイェリムに顔を向ける。


「……ねえ、あたし達、また仲良く出来るかな?」

「会えない日々が続いていたけれど、私はずっとあなたの傍にいたんです。私はあなたの友達。昔と、何も変わってはいませんよ」

「そうね。でも、もう勘違いはしないわ。あんたは、友達じゃない」

「私を怨んでいるんですか?」


 イェリムの問いに、シェリウは頭を振った。


「ううん、怨んではいないわ。あたしの中には、荒れ狂う嵐や業火のような、怒りや憎悪や殺意という怖ろしくて醜い感情がある。これは、魂を蝕む病にもなるし、時に奮い立たせ、困難を跳ね除けるための剣にもなる。あの時、あたしはあまりに絶望して、その剣を抜くしかなかったんだ。イェリムは、いつもあたしを守ってくれていたし、そのために、その時最善の方法を取った。あたしは幼くて、未熟で、それが分かっていなかった。だから、剣を握ったあんたを解き放ってしまった……」

「シェリウ、自分を責めないでください。私が良かれと思ってしたことなんです」 


 シェリウは、優しく置かれたイェリムの手を見て、苦笑した。


「そうやって、またあたしを甘やかそうとするのね。もう昔のシェリウじゃないことを知ってるくせに」


 その言葉に、イェリムは微笑みを浮かべたまま答えない。


「イェリム、あんたは、あたし自身なんだ。それが納得できた今、こうやってあんたと付き合うことが出来る。だから、改めてお願いするわ。あたしに力を貸して」


 幼い頃に憧れていた、鳶色の瞳を見つめて言う。


「勿論ですよ、シェリウ。早くユハの元へ帰りましょう」


 イェリムは、そう言って頷いた。

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