第10話

 迫りくる騎兵。


 千をはるかに越える恐鳥と兵が砂塵を巻き上げながら凄まじい速さでこちらに攻め寄せてくる。


 キシュガナンの戦士たちは、初めて対するこの大規模な騎兵部隊との戦いに、強張った表情を浮かべている。


 その勢いと迫力は、押し寄せる濁流に等しい。その正面に立って待ち構えるなど、緊張と恐怖を感じないほうがおかしいのだ。


 事実、隣に立つアシャンは怯えたように身を固くしている。シアタカは軽く肩に触れると頷いて見せた。アシャンも強張った表情で頷く。


「シアタカ、そろそろ……」


 背後に立つエンティノの言葉に、シアタカは右手を上げた。口を開き、短いキシュガナンの言葉が発せられる。


「槍を構えろ!」


 シアタカの命に、何千という戦士たちは一斉に槍を両手で握り、穂先を敵に向けた。


「待て!」


 シアタカは遠くに顔を向けると、キシュガナンの言葉で叫ぶ。その言葉は連呼され、合図を待つ者たちの所へ伝わっていく。


 どんどんと騎兵部隊は迫って来る。構えた騎兵槍の輝きが見える。数千の騎兵が砂を蹴る音が肌に響く。


「待て!」 


 再び、シアタカが叫ぶ。押し寄せる圧力にじりじりと耐えている戦士たちの表情。彼らはよく耐えている。戦士たちが恐怖に耐えることができずに暴走するかもしれない。シアタカは最悪の結果も想像していたが、今の戦士たちは身じろぎもせず、槍を構えた彫像のように敵を待ち構えている。


 騎兵たちの兜の飾りが、恐鳥の半開きになった嘴が見えた。


「今だ!!」


 シアタカが叫ぶ。


 キシュガナン語の短く鋭い言葉が連呼された。それは、戦場の端に潜んでいたジヤやその他のラハシたちにすぐに伝わる。 


 号令に応じたラハシたちが、すぐさま“合図”をした。


 戦士たちの前に広がる白い平野。


 騎兵たちが駆け抜ける前に、後ろに、左右に、只中に、噴き出すようにして砂塵が上がった。


 砂の下から、黒い巨大な何かが跳び出す。


 それは、万を越える数のキシュだった。


 白い砂原はあっという間に黒く染まった。駆け抜けようとしていた騎兵部隊は、突如出現した黒光りする甲殻の池の中に踏み込んだことになる。


 駆ける恐鳥の足に、大顎クラーシュが巨大な顎を広げて喰らいつき、鎚頭ガウナムが尖った頭と顎を向けて突っ込む。


 巨大な蟻に突然足元をすくわれてしまっては、恐鳥といえどひとたまりもない。甲高い悲鳴を上げながら、次々と跳ねとび、転がっていく。当然のことながら、鞍上の騎兵たちは突進の勢いをそのままに打ち出されるように放り出され、地面に叩きつけられた。


 この突然湧き出た災厄によって、数千の騎兵は僅かな幸運な者を除いてほとんどが大地に引き摺り下ろされてしまった。いくら柔らかな砂の上だとしても、鞍上から放り出された勢いは相当なものだ。騎兵たちは皆、全身を強く打った衝撃で咄嗟に身動きが取れない。手足の骨を折った者も少なくなく、首の骨を折った不運な者もいる。


 戦場に甲高い鳴き声と苦痛の呻きや叫びが響き、辺り一面は霧がかかったように白い砂塵が舞い上がっている。


戦士ガラドたちよ! かかれ!」


 シアタカが叫ぶ。


 その瞬間、戦士たちは解き放たれた猛獣となって、駆け出した。


 槍の切っ先をこちらに向けて駆け寄って来る戦士たちを見て、騎兵たちは何とか立ち上がる。しかし、戦士たちの足は速い。その先陣が迫った時に、未だ騎兵たちは戦える状態まで回復はしていなかった。 


 喚声と共に大槍が振り下ろされる。


 棒立ち、あるいは膝をついたままの騎兵たちは次々と血を噴き出しながら倒れ伏した。


 同時に、地に満ちたキシュが一斉に襲いかかる。


 殺戮が始まった。






 目の前で繰り広げられる恐ろしい光景。


 それは、イハトゥがこれまで経験した、どんな戦場でも見ることがなかった異様な光景だった。


 砂から湧き出した巨大な蟻のような化け物と戦士たちによって、仲間たちが次々と殺されていく。


 大蟻に囲まれた兵が槍を振り回して寄せ付けまいとしている。しかし、濁流のように地を這い四方から押し寄せる化け物の前では無意味な抵抗だ。その大きな顎は鋭いが、一撃で鎧を貫くほどの威力はないようだ。足に、腰に喰らいつかれ、倒れた兵士に大蟻が群がる。兵士はそれでも必死の抵抗をしているが、やがて動かなくなった。


 飛び跳ねるように襲いかかって来た敵に、兵は槍を掲げて戦う。しかし、騎兵槍はその長さゆえに、この乱戦では取り回しが悪い。猛り狂った敵に懐に跳びこまれることで、武器としての力を失う。一方の敵が振りかざす槍は、兵たちの槍を弾き、盾を跳ね除け、鎧を貫く。


 混乱から逃れようと必死に跳ね起きた恐鳥は、群がる大蟻にすぐに引きずり倒された。


 現実感がないその光景を呆然と見ていたイハトゥは、我に返った。


「何をしている! 兄弟たちを助けるぞ!!」


 同じように、呆けたように戦場を見ていた兵たちに怒鳴る。その声に反応して、兵たちは慌てて武器を握り直した。


 負け戦だ。


 イハトゥは、己の兜を殴りつける。


 戦場を睨んだ。


 認めるさ。北伐部隊は崩壊した。これ以上ないほどに鮮やかに、たった一瞬で戦況を覆されてしまった。少なくとも、ここで奴らに勝つことは出来ない。だからこそ、生きて帰る必要がある。生きて帰り、次の機会を狙う。そして、次の機会には、奴らを血の海に沈めてやる。


 沸き立つ復讐心を唸り声として漏らす。


 味方が、抵抗虚しく次々と殺されていく。その凄惨な光景に、身を焦がすような焦りが生まれる。今すぐにでも、手綱を握り、槍を構えて助けに行きたい。しかし、冷徹な兵士としての心がそれを押しとどめ、憤怒に血走った眼は敵を観察していた。


 拙い。


 それがイハトゥの抱いた印象だ。


 槍を手に襲かかる彼らは、その獣のような動きを見ても、鍛え上げられた戦士だと分かる。しかし、武勇に優れた者だけを集めても、優秀な軍隊とは言えない。優秀な軍隊には、優秀な兵士が必要だ。冷静さと忍耐を備え、己の置かれた状況を理解し、連繋を忘れることなく、持ち場を放り出さずに隣にいる仲間と助け合うことができる者。それが、優れた兵士だ。その資質を備えた兵士たちが弓を携え馬を駆り、槍を持ち盾を構えれば、それは一つの砦に等しい。


 しかし、今同胞たちを蹂躙している戦士たちは違う。彼らは狂乱に身をゆだね、数と武勇を頼みにただ暴れている。それは、ただの群れだ。軍隊ではない。あの蛮族たちは、戦の仕方を知らない。


「同胞たちが血を流している! 我が大隊はこれを救援し、ここから撤退する! 皆、奮戦せよ!!」


 イハトゥが叫んだ。


 槍を振るう戦士たちの向こう、小高い砂丘の上に、静かに動かない集団がいる。おそらく、戦の趨勢を見守っているのだろう。そこに、彼らを指揮する者がいるはずだ。自分たちを囮にして、大蟻を地中に隠す。この見事な奇襲を計ったことは評価する。しかし、その指揮下にある戦士たちは、それ以上のことは出来なかった。こういった高度に組織化されていない集団の場合、指揮者を叩くことで、士気を挫き、混乱が生じてその結束を瓦解させることができる。


 イハトゥは敵の本陣に切り込み、その混乱を誘うつもりだった。


 このまま敵の思うままにはさせない。一矢報いて、同胞を出来るだけ救うのだ。


「第二中隊、第五中隊は俺と共に本陣を衝く! 第一、第三、第四中隊はその混乱に乗じて同胞の撤退を援護せよ! 矢を惜しむな! 戦場の流れを読め! ただ撤退することに注力せよ! 出来るだけ多くの同胞を救え!!」


 それは負け戦の宣言だったが、兵たちは何より勇猛な雄叫びを上げて応えた。






 ウァンデが、エイセンが、戦士長たちが、大槍を振りかざし、声を嗄らして指示を叫んでいる。しかし、頭に血が上った戦士たちの耳には届いていない。


 殺意に憑りつかれた戦士たちは、統率も秩序もなく、ただ闇雲に暴れ回っている。


 狂気を露わにした彼らは、ただ目の前の敵に挑みかかり、死体に何度も斬りつけている者すらいる。その過剰な暴力は、本来は戦い慣れていない者や臆病な者が陥ることであり、故郷で何度も戦いを経験しているはずのキシュガナンの戦士とは思えない有様だ。


 しかし、彼らはここまでほとんど休みなくやって来た。ここまでの疲労、それを和らげるために服用したトハの葉による興奮、高揚。そして、初めて対する騎兵部隊の大軍への緊張や恐怖の反動も相まって、戦士たちは狂乱状態に陥ったのだろう。


 今は優勢だから何とかなっている。しかし、何らかの切っ掛けで優位が崩れれば、危うい。狂乱はすぐに恐慌に転じ、軍は瞬く間にただ逃げ惑う人の群れになってしまう。


「ひどいわね……」


 エンティノが顔をしかめて言う。ハサラトが溜息を共に頭を振った。


「血に酔っちまったな。このままだとまずいぞ、シアタカ」

「ああ、分かってる」


 シアタカは焦燥とともに戦場を見た。


 砂丘の上で待機していたウル・ヤークスの大隊が動き始めている。大隊は部隊を大きく二つに分けて、砂丘を駆け下りてくる。


 一つは援護のために、もう一つは自分たちのいる本陣へ攻め込むつもりだろう。


 手薄になった本陣に、敵は容易に肉薄するだろう。何とか戦士たちの統制を取り戻したいが、このままではおそらく間に合わない。


「アシャン!」


 シアタカは、蒼ざめた顔で戦場を見つめているアシャンに声をかける。アシャンは我に返り、シアタカを見た。


「キシュは冷静だな?」

「冷静……? あ、うん! 大丈夫! こちらの言葉を聞いてくれるよ」


 アシャンは何度も頷く。


 戦場は未だ混乱したままだ。ウル・ヤークスの兵たちは最初の衝撃から立ち直り、何とか反撃しようとしている。腕の立つ者は再び恐鳥に跨り戦場を駆け、あるいは手近な者たちと隊列を組んで即席の槍衾を作り出している。そうなってしまえば、キシュガナンの戦士も思うが儘に蹂躙するというわけにはいかなくなった。また、キシュの動きにも混乱が見られる。連繋を取り戻そうとしているウル・ヤークスの兵相手に攻めあぐねているようだった。


「キシュの動きが鈍ったみたいだ。なぜか分かるか?」


 シアタカの問いに、アシャンは驚きの表情を浮かべた。


「すごい、よく分かったね」

「ああ。俺にはキシュが戸惑っているように見えるんだ」

「うん。敵が反撃を始めて、少し混乱してるんだ。これまでとは敵の数も戦い方も違うし、一つの群れになったばかりだから、キシュをどうやって動かせばいいのか混乱してるみたいなんだよ」


 突然自分に手足が何本も増えたような感覚だろうか。シアタカはそんな想像をしながら戦場を一瞥し、アシャンに顔を向けた。


「アシャン、キシュをここに呼び戻してくれ。敵が来る」

「本当だ……」 


 シアタカの指差す先を見て、アシャンが息を呑んだ。戦場を大きく迂回しながら、騎兵部隊がこちら目指して接近してくることに気付いたのだ。


「ここにいる人数だけではあれには勝てない。キシュの助けが必要だ。それに、いくら血迷った戦士たちでも、キシュが一斉に後退すれば気付くはずだ。これで少しは頭を冷やしてくれればいいんだが……」

「う、うん、そうだね。分かった」


 アシャンは硬い表情で深く頷く。


「大丈夫だ。アシャンには近付けさせない」


 シアタカはアシャンの肩に手を置いて言った。


 無言になったアシャンが戦場に目を向けてすぐに、キシュの動きが変わった。


 砂原を覆っていたキシュが、黒い波となって一斉に後退を始めた。


 シアタカは視線を移す。


 迫る騎兵部隊の足は速い。みるみる距離を詰めてくる。


 キシュは間に合うか。


 騎兵部隊とキシュを何度も見比べる。その速度と距離を測るためだ。


「シアタカ、来るぞ!!」


 ハサラトの鋭い声。


 間に合わないか。


 シアタカは覚悟を決めた。


 調律の力を呼び起こす。顔を、全身を紋様が彩る。


 槍を構えた恐鳥騎兵の塊が、砂塵と共に迫った。

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