第22話
極論すれば、キシュガナンに兵站の概念はなかった。
彼らの戦は、近隣の諸族との争いであり、その為に必要な食料は戦の前に用意して、戦士やキシュが各々運ぶ。足りなくなれば、キシュの産する蜜や、略奪といった現地調達に頼っていた。そもそも、キシュガナンの間では何ヶ月、何年にもおよぶ戦が行われることは滅多になく、何度かの衝突の後に自らの里に帰還する。己の領域よりもはるか離れた外つ国で戦を行うということが、キシュガナンにとっては初めて経験することだった。
一方、鱗の民は、長い交易や遠征の歴史の中で兵站の重要性を学んだ。鬱蒼として湿気に満ちた森が故郷である彼らは、全く環境の異なる外界で生きていくために何が必要なのか、慎重に考え、学び、経験を積んでいった。
それが今、カナムーンという使者を通じてキシュガナンの助けとなっている。
もっとも、鱗の民とキシュガナンでは、肉体的特性が大きく異なる。その差異は沙海を渡った経験のある一族が補い、鱗の民の知識をキシュガナンに適した形に整えることになった。シアタカの教えたウル・ヤークスの軍制は、キシュガナンにとっては異質であったために、参考にする程度にとどまっている。
全てが初めてのために、不確定で不安なことは数多くあったが、彼らは着々と計画を進めていた。アシャンも、この計画に深く関わっている。沙海を渡るためにキシュに何が必要なのか、その意思をキシュガナンに伝え、話し合うための仲介役としての役割を担っていた。
今のこの仕事は、アシャンにとって退屈だった。
キシュガナンたちが話し合ったことをキシュに伝える。キシュはその案を検討し、その返答を受け取ったアシャンがキシュガナンに伝える。どの一族にどれだけのキシュが必要なのか。どれだけの食料や水を用意すればいいのか。移動の速度をどうするのか。話し合うことはいくらでもある。
この仲介は時間がかかる上に、その内容は無味乾燥な数字であることがほとんどだ。ただひたすらに言葉や数字の塊を手渡ししているような感覚に陥っていた。
ここにいない仲間たちを思う。
サリカとキシュや外つ国のことについて教えたり教わったり、エンティノに武術を学びたかったな。頭に浮かんだそんな思いを、キシュが批判した。心が散漫としている。仲介を疎かにするな、というのだろう。アシャンは憂鬱と退屈を吐息として漏らすと、自らの仕事に専念した。
アシャンとウァンデがエイセンやジヤ、他のキシュガナンと計画を練っている最中、彼らのいる屋敷の入り口が騒がしくなった。何事かと皆が顔を向ける中、初老の男が厳しい表情を浮かべて姿を現した。
「邪魔をするぞ!」
その男は、ウッサの
「どうした。何かあったのか?」
エイセンの問いに、戦士長は頷く。
「うちの若い者が、カカルの戦士長に
「
「『導かれし者たち』を討ち取った者が、
「何だと!」
エイセンが驚きの声を上げる。アシャンは思わず向かい側に座るジヤを見た。普段、表情の乏しいジヤも、大きく目を見開きウッサの戦士長を見ている。大きな驚きと困惑の感情が感じ取れた。
「どうやら他の一族の戦士にも声をかけたようだ。血の気の多い戦士たちがカカルの戦士長に連れられていったぞ」
「シアタカたちは今、志願した戦士たちにウル・ヤークスの武術を教えているはずだ」
ウァンデの言葉に、ウッサの戦士長は頷く。
「それが『導かれし者たち』を誘き出すための口実だ。キシュもキシュガナンもウル・ヤークスの戦い方は全て学んだから、余所者は必要ない。それが奴らの言い分だ」
「全て学んだだと? これは全て始まりだ。これからも俺たちは学ばなければならんというのに、そんな事も分からんのか。まったく、愚かな奴らだ!」
エイセンは唸るように言うと、立ち上がる。
「どれくらいの戦士がその企みに加担しているんだ?」
静かにたずねるウァンデ。しかし、アシャンには、ウァンデの発する怒りと動揺が感じ取れた。
「おそらく四十人はいる」
「四十人……」
アシャンは呆然と呟いた。エンティノから武術を学んでいる今、その数は具体的な脅威として想像できる。シアタカたちの危機が突然現実的なものとして感じられた。思わずふらついた彼女の体を、ウァンデが支える。
「ウァンデ! エイセン!」
切迫した表情のマスマが、ニウガドの少年たちを連れて姿を見せた。
「今度は何だ、一体」
エイセンの問いに、マスマが頷く。
「シアタカたちが、危険かもしれないわ。この者たちが、シアタカたちの所へ向かう戦士たちを見たというの」
マスマに促された少年たちが、緊張した様子で進み出ると、口を開いた。
「二十人以上の戦士たちが、『導かれしものたち』の所へ向かってたんだ」
「色々な一族が混ざってた」
「ウ、ウィトが、彼らがが危ないって、それで、ラゴと一緒に助けに行ったんです」
彼らの証言を聞いて、ウァンデたちは顔を見合わせた。
「驚かないのね。知っていたの?」
「いや、俺たちも今、その話を聞いた所だ。シアタカを殺した者が戦長になれると、カカルの戦士長が戦士たちを唆したらしい」
怪訝な表情のマスマに、ウァンデが答える。
「何て馬鹿なことを……」
マスマは絶句すると額に手を当てて嘆息した。
「くそっ、シアタカたちを油断させておいて、その二十人を伏兵にして襲うつもりか。くだらんところで知恵が回る奴らだ」
エイセンはそう言って拳を打ち合わせる。
「間に合わない……」
アシャンは呟いた。戦士たちはもうシアタカたちへと迫っている。すでに戦いが始まっているかもしれない。たとえシアタカといえど、四十人の戦士たちに勝てるとは思えない。 アシャンは狼狽してウァンデに縋り付いた。
「どうしよう兄さん。シアタカたちが、シアタカたちが死んじゃう!」
「落ち着けアシャン! あいつらは強い! あいつらはきっと生き延びる!」
ウァンデはアシャンの肩を強く抱き、その目を見つめる。しかし、ウァンデから感じる焦燥や怒りは、アシャンの心をますますかき乱した。
「愚か者はどうせすぐ死ぬ! 丁度いい。俺がここで殺してやる!」
怒りに顔を歪めたエイセンは、吼えるように言うとジヤに指を突きつけた。
「ジヤ! 身内の始末は身内でつけろ! それが戦士の情けだ!」
ジヤは無言で頷くと、立てかけていた己の大槍を取った。
ウァンデはゆっくりとアシャンから離れると、大槍を握る。
呆然とそれを見ていたアシャンは、突然頭の奥に強烈な“音”を感じて顔をしかめた。それは、大木が嵐によって軋むような、重く強い音だ。
それは、すさまじい力を持ってアシャンの心と感覚を圧倒する。
これが何なのか、一瞬の混乱の後理解した。それは、一つの群れとして繋がったキシュの発した怒りだ。
見れば、マスマも跪き、頭を抱えて呻き声をもらしている。
「どうしたアシャン」
妹の異変に気付いたウァンデが顔を覗き込んだ。
「キシュが……、キシュが怒ってる……」
アシャンは、呟くように言った。
緊張と、そして、おそらく恐怖から呼吸が浅くなっている。ウィトはそのことに気付いて、大きく息を吸い込んだ。
肉体と精神は互いに影響しあう。
ウィトは、旗の館でそう教わった。
強靭な精神が限界を超えて肉体を支配することがある。逆に、弱った肉体に引き摺られて、精神が大きな影響を受けてしまうことがあるという。
だからこそ、弱った精神を肉体の操作によって騙すこともできる。その最も簡単な方法は呼吸だ。緊張や恐怖に硬くなった心や体は、呼吸によって解きほぐすことができる。それは、戦場に向かう者にとって生死を左右する重要なことだった。
キシュガナンの戦士たちは、味方の矢に当たらぬようにシアタカたち三人を遠巻きにしながら包囲している。
射手たちは、様々な角度から矢を射かけようと広がり始めていた。射手たちは全員で二十五人もいる。彼らが広がれば、射手だけでシアタカたちを包囲することができるだろう。
シアタカたちは、すでに武器を置いて、両手に死体を掲げて盾にしている。しかし、このままでは背中から矢を浴びることになる。その前に、自分が何とかしなければならない。
ラゴはすでにウィトから離れている。ここにいるのは自分一人だ。
自分は今から戦場に立つ。
シアタカたちを救うために、一切のしくじりも許されない。
臆病な心に邪魔されて、怯え、竦んでいることはできないのだ。まるで普段の訓練のように、静かな心で全てを行わなければならない。そのために、大きくゆっくりと息を吸い込み、自らを落ち着かせようとしていた。
ウィトは矢をつがえると、茂みの奥から敵を狙った。その目が、無精ひげを生やした中年の男の顔を捉える。
「……ただの獲物だ」
ウィトは呟くと、躊躇いを振り解き、弦から指を放す。
矢を放っていた一人の戦士が崩れ落ちた。
戦士たちは、突然仲間が倒れたことで、何が起きたのか理解できずに混乱している。
ウィトは湧き上がる高揚を押し殺しながら、素早く矢をつがえると、狙いを定めて次の矢を放った。
胸に矢を受けた戦士が倒れる。
自分たちは狙われている。
その現実に射手たちは慌てて周囲を見回した。
もう一度矢を放ったらここから移動しなければならない。ウィトはそう判断した。
ここは敵に矢を射掛けるには絶好の場所だが、目の良い者はすぐにこちらの居場所に気付くだろう。何の守りもないままここにいても死ぬだけだ。囮の役目を果たすためにも、一箇所に留まる訳にはいかない。
三本目の矢が、大柄な戦士の即頭部に突き刺さる。
同時に、隣に立っていた男が、こちらを指差して叫んだ。
気付かれた。
ウィトは素早くその場から駆け出す。
わずかに遅れて、茂みの中に矢が何本も飛び込んできた。
戦士たちが怒号とともにこちらに駆けてくる。その数は七人。それを見て取ったウィトは悔しさに歯噛みした。たったこれだけしか自分を追ってこないのか。それでは、囮の意味がない。
あいつらを全員倒して、私たちを侮ったことを後悔させてやる。
怒りと興奮によって
茂みをかき分け、斜面を登った。男たちの声が耳に届き、振り返る。
もう追いついてきたのか。ウィトは舌打ちした。分かってはいたが、戦士たちの足は速い。何度も木の根に躓きそうになっているウィトとは違い、遅滞なくこちらへ駆けてくる。
すでに木々の向こうにその影が見えている。ウィトは立ち止まり矢をつがえると、素早く放った。
風を切る音に気付いたのか、戦士たちは木の陰に身を隠す。矢は幹に深く突き刺さった。
次の瞬間、戦士たちは身を乗り出すと、次々と矢を放つ。
ウィトは慌てて木の陰に逃げ込んだ。何本もの矢が脇をかすめ、幹に突き立つ。
射撃が止まった瞬間に、すぐに駆け出す。
背後から何本もの矢が飛来するが、木や茂みに邪魔されてウィトには当たらない。
このまま斜面を登っていても追いつかれる。
ウィトは彼らの足の速さを見て、高台へ登ることを諦めた。囮である自分がすぐに追いつかれてしまっては意味がない。後は、出来るだけ早くラゴが仕掛けてくれるのを待つしかないだろう。一時の高揚や激情はどこかへ吹き飛び、今は追われることによる焦燥と恐怖がその体を支配している。結局ラゴ頼みなことは我ながら不甲斐なかったが、自分一人では何も出来ないのだから仕方がない。
しばらく走った後、大木の陰に身を預ける。息が荒いが、収まるまで待っている暇はない。半身を乗り出して、弓を構えた。
戦士たちの姿ははっきりと確認できるところまで近付いていた。
矢を放つが、戦士たちに当たることはない。すぐに反撃の矢が放たれる。ウィトの顔のすぐ側で、木の幹を弾き飛ばすようにして矢が掠めた。飛び散る木の欠片に顔をしかめながら、素早く矢をつがえた
落ち着け。息を整えろ。
ウィトは必死に自分に言い聞かせながら、再び矢を放つ。
やはり、当たらない。身を隠した戦士の頭上を矢は飛んでいった。ウィトは歯噛みしながら身を隠す。次々と反撃の矢が飛んだ。
鏃が木に突き刺さる音を聞きながら、ウィトは違和感を感じていた。刺さった矢の音は五本。姿が見えた戦士の数も五人。残りの二人はどこにいったのだろうか。
激しい警鐘がウィトの頭の中で鳴り響いた。視界の端で何かが動く。
見上げれば、斜面の上から、二人のキシュガナンが弓をこちらに向けていた。
半ば悲鳴のような声を上げながら、ウィトはその場から跳んだ。
風を切る二本の矢。
左足に衝撃を感じてウィトは地面に転がった。
熱い。
見れば、大腿を矢が貫通している。
仰向けに倒れたウィトは、絶叫しながらも弓を構えた。斜面を駆け下りてくる二人へ向ける。
放たれた矢は、一人の胸にまともに当たり、駆け下りる勢いそのままに、斜面を転がり落ちた。隣を走っていた戦士が、怒りの声を上げながら腰の剣を抜く。
震える手を叱り付けながら、矢をつがえた。
戦士が雄叫びとともに迫る。
弓矢を向けた。
赤い刃が振り下ろされる。
矢が放たれた。
眉間に矢を受けた男が、ウィトの体へ覆いかぶさるように倒れこむ。半ばまで振り下ろされた剣は、ウィトの額を切り裂いた。
頭に大きな衝撃を受けたウィトは、苦痛にうめきながらも男の体を必死で押しのける。二人の仲間を殺された戦士たちが、怒号ともに迫ってきていた。
次の瞬間、彼らの怒号とは異質で、大きな咆哮が木々の間に響いた。
狼のものに似ているが、それとも違う獣のような叫び。
ウィトは伏せの体勢になりながらそちらを見た。
戦士が、血飛沫とともに倒れ伏す。鉈のような曲刀を振るったラゴは、すでに次の獲物へ駆け寄っている。
突然の乱入者に、戦士たちは慌てて弓をラゴへと向ける。
ウィトは、大きく息を吸い込み、弓矢を構えた。足と額の痛みが、心の重石となって、ウィトに冷静さをもたらしている。
伏せた姿勢のまま、矢を放つ。
矢を受けた戦士が倒れた。正面からラゴ。側面からウィト。双方向からの攻撃に、戦士たちの判断が遅れる。
ラゴはその隙を逃さない。矢の的にならぬように、蛇行しながら駆けながら、低く跳びこんだ。刀で、腹を切り払う。
溢れ出す臓物を抱えながらその場に跪いた戦士を残して、ラゴは木の陰に走った。そこへ飛んだ矢は、木に突き刺さる。
ウィトは、再び矢を放った。同時に、戦士の矢がこちらへ飛来する。
矢は、ウィトの側の岩に当たって跳ねた。
視線の先で、胸に矢を受けた戦士が大木に背中を預けて、そのまま動きを止めた。
ただ一人残された戦士が絶叫した。その声は、怒りと、そして恐怖の色を帯びている。剣を抜いてウィトの矢から逃れようと走りながら、ラゴの姿を探して顔をめぐらせている。
木々の間を駆ける戦士。そして、樹上から大きな影が躍った。二つの影が交錯する。ラゴが着地した瞬間、戦士の体が力無く倒れこんだ。
僅かに遅れて、恐怖に歪んだ戦士の首が、斜面を転がっていった。
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