第20話

 遠くの木々の間に、褐色の姿が見えた。


 ウィトは、傍らのラゴに手で合図する。


「ガァフッ」


 久しぶりの狩りに興奮しているのか、ラゴが奇妙な声を発しながら頷いた。そのまま、足音を立てずに彼らから離れる。


 ウィトの隣や背後で、同じように茂みの陰に身を潜めた三人のキシュガナン。ウィトと同年代の少年たちだ。皆、弓を携えている。しかし、今、矢を番えているのはウィトだけだ。


 狩りの成否は、獲物にどれだけ近付けるかで決まる。


 キシュガナンの地は、赤き砂漠よりもはるかに身を隠す場所が多い。そして、多くの木々や茂みが風を乱し、自分の匂いが獲物に届くことを阻んでくれる。逆に、木の枝を踏み、草葉を揺らすことで自らの居場所を知らせてしまう恐れがある。赤き砂漠では風向きと日差しに気をつけておけばよかったが、森の中では、周囲のすべてに気を配らなければならない。森の歩き方を知るまでは、ぶら下がった鈴を鳴り響かせながら自分の位置を触れ回っているようなものだった。今でも、完璧な森の歩き方を身につけたとは言い難い。


 見渡す限り青い空と赤い大地しかない、赤き砂漠で暮らしていたウィトにとって、この緑の地での狩りは初めてのことばかりだった。 


 ウィトの優れた目は、初めのうちかせとなった。人で込み合う町に迷い込んでしまった時と同じように、鬱蒼とした森林において、どこに目の焦点を合わせてよいのか混乱してしまう。キシュガナンの地を訪れたばかりの頃はそれによって苦労したが、しばらくすると何とか慣れることができた。そして、ラゴとウァンデに森での狩りの方法を教わったことによって、ウィトは自らの弓の技量を活かすことができるようになった。


 茂みを駆け抜け、斜面をくだったラゴは、威嚇の鳴き声をあげ始めた。ここからは姿が見えないが、獲物の背後に回ったのだろう。その足の速さには驚かされる。


 ラゴに追い立てられて、鹿が姿を見せた。


 打ち合わせどおりに、少し開けた斜面まで跳びはねながら逃れてくる。


 ウィトは小さく、しかし深く息を吸い込んだ。


 弦を引き絞る。


 鹿が完全に姿を晒した。


 優美な肢体。見事な角。小さな頭。


 ウィトの目がそれらを捉えた。


 ゆっくりと息を吐き出す。


 矢から指を離した。


 弦の弾けるような音。矢羽の風を切る音。


 泳ぐ魚のように身をしならせながら、矢は飛んだ。


 一度瞬きをした後。


 鹿が、崩れるように倒れた。駆けている最中であったので、その体は斜面で何度か跳ねて、そして止まる。


「やった!!」


 少年たちが歓声を上げると、立ち上がり駆け出す。


 ウィトも慌ててその後を追った。


 斜面を登ったり降りたりするための足運びは未だ完璧とはいえず、とてもキシュガナンの少年たちのようにはいかない。ようやく追いついた時には、ラゴと彼らは倒れた鹿を取り囲んでいた。


 少年たちは振り返ると、ウィトのために場所を空けてくれた。


 矢は、鹿の頭を射抜いていた。傍らに跪いたラゴが、小さく遠吠えのような声を発しながら、短刀を首の付け根辺りに当てると素早く突き刺した。深くもぐりこんだ刃は頚動脈を切り裂き、溢れ出した血は斜面を流れ落ちていく。その間も続くラゴの鳴き声は、独自の旋律をもって、歌のように聞こえた。


 ウィトは、その鳴き声が、狩人の祈りであることを知っていた。獲物に感謝し、その魂を送る。それは、狩人の作法であり、掟だ。これを怠れば、獲物の魂は彷徨い、祟るかもしれない。あるいは獣の精霊を怒らせて、その土地で二度と獲物が獲れなくなるかもしれなかった。


 祈るのは狗人だけではない。ウィトも跪き、拳を額に当てるとカッラハ族の祈りの言葉を唱えていた。そして、同じように、キシュガナンの少年たちも、顔を手で覆うと彼らの言葉で何かを呟いている。


「一矢必中か……。やっぱりウィトはすごいよな。俺もお前みたいに上手くなりたいよ」


 祈りを終えた少年が、鹿の頭から矢を抜きながら、言った。キシュガナンの言葉に不自由なウィトのために、ルェキア語だ。


「でも、私は槍が上手くないからなぁ」


 ウィトは、手渡された矢を受け取りながら答えた。


「何言ってるんだ。あの三人に鍛えられているんだろ? すぐに強くなるさ」


 少年は笑った。 


 ニウガドの一族である彼らとは、長く里に滞在する間に親しくなった。


 最初は高圧的な態度で話しかけてきた少年たちだったが、ウィトが弓の腕前を披露した後は彼らの尊敬を勝ち取ってしまった。


 ウィトは、自分の弓の腕前に自信をもっている。赤き砂漠で、砂トカゲや跳ねネズミを相手に鍛えた弓の腕は、生きることに直結していた。獲物が獲れなければ、飢えて死ぬのだ。嫌でも上達せざるをえない。


 旗の館に連れて来られて嬉しかったことは、飢える心配がないことと、弓の練習を思う存分できることだった。赤き砂漠で暮らしていた頃は、矢は貴重品だった。小さな獲物は投石器で、大きな獲物にだけ弓矢を用いていた。一本の矢も無駄にできない。それは半ば強迫観念となって今もウィトを縛り付けている。二の矢は無いものと思え。それがウィトの心がけていることだった。


 ウィトの弓の腕前に感心した少年たちは、度々ウィトを訪ねて来るようになった。初めのうちは彼らとの距離を計りかねたが、少年たちはそんなウィトを気にすることなく、話しかけ、遊びに誘う。こうして、ウィトは次第に彼らと共に過ごす時間も増えることになった。


 昨日の訓練を終えた後、ニウガドの少年たちはウィトを狩りへと誘った。この忙しい時に従者が主人から離れるわけにはいかない。そう思ったウィトだったが、その時隣にいたシアタカは、その狩りに行くことを認めた。自分だけが遊びに出かけるようで申し訳なく思ったが、シアタカは大事なことだと優しく送り出してくれたのだった。


 きっと、少年たちは戦に出てしまうウィトのことを思ってくれたのだろう。今のウィトにはそれくらいのことは想像できるようになっている。シアタカの思いやりと少年たちの友情が嬉しく思えた。シアタカがウル・ヤークスに戻らないと言った時、まるで世界が終わったかのように思えたが、今はこうして、はるか異郷の地で新しくできた友人たちと狩りを楽しんでいる。それは、沙海に来たときには想像もしていなかった未来だ。


「『希望と共に道の先を見よ』……」


 ウィトは呟いた。 


「何だって?」


 発せられたウル・ヤークスの言葉を聞いて、少年は首を傾げた。


「いや、何でもないよ」


 ウィトは小さく頭を振った。絶望の後に、新しい希望がやって来る。ウィトはこれまでそうやって何度も救われてきた。ここから先、シアタカと共に歩く先に、新しい希望があるのか。かつての同胞たちと戦うことになったことは、ウィトにとって大きな不安と恐れを感じさせる。一方で、シアタカへの忠誠もいや増した。自分の主人は、聖王の資格を持っている。サリカの語ったことを、ウィトはそう解釈した。ウィトにとって、ハサラトが冗談交じりに言ったことは、大いなる希望となったのだった。


 キシュガナンの少年たちによって、血抜きを終えた鹿の解体が始まっている。その見事な手際を見ていたウィトは、ふと、遠くに視線を向けた。波打つようにして斜面が連なる先に、突如森が開けるように平野が広がっている。遠くに見えるその野原を、人々が早足で歩いていた。


「あれ? 何だろう」


 傍らで同じように視線を向けた一人の少年が言った。その言葉に、皆がそちらを向く。


 槍を担ぎ、弓矢を携えた男たち。二十人はいるはずだ。


「戦士たちだ。でも変だな。色々な一族が混じって歩いてる」

「本当だ。ウッサのそわの一族、ソマオの丘の一族もいる。ほとんど交流のない一族なのに、一緒にいるなんて珍しいな」

「どこに向かってるんだろう」

「……騎士シアタカたちがいる方だ」


 呟いたウィトは、戦士たちを見て胸が騒いだ。


 ここからでもウィトの目には彼らの表情がよく見える。戦士たちの目は吊り上り、行く先を睨み付けている。音は聞こえないが、半開きになった口からは浅い呼吸が短い間隔で繰り返されているはずだ。


 それは、ウィトにとって馴染みのある顔だ。


 人を殺す覚悟をした者。これから、戦いに向かう者の顔だった。


「皆! 私は彼らの後を追う! 皆は、アシャンやマスマたちにこのことを知らせてくれ!」

「何言ってるんだ?」

「すごく嫌な予感がする! 騎士シアタカたちが危ないんだ!」

「わ、分かった」


 少年たちは、気圧されたように頷いた。


「ラゴ! 一緒に来てくれ!」


 ウィトの呼びかけに、ラゴは一声鳴いて大きく頷く。


 二人は、駆け出した。







 ウル・ヤークスの武術を学びたい。


 キシュたちと行った大規模な訓練の後、何人かの戦士たちにそう乞われた。


 シアタカは、代わりにキシュガナンの武術を教えて欲しいと提案した。キシュガナンの戦士がどう戦うのか。それを知ることで戦場での戦いも想像がしやすくなる。そう考えたのだ。これにキシュガナンたちも同意し、武術の技術交流が行われることになった。


 諸族から大勢の戦士たちが希望したため、里から少し離れた原野に集う。ウァンデやカナムーンは、沙海への行軍のために諸族の戦士たちと話し合っていた。 


 ウル・ヤークスの地は古来より様々な民族、種族が交錯してきた。征服者、被征服者。旅人、商人、開拓者。この地に根を下ろした者たちもいれば、覇権を握った後、去った者たちもいる。古き歴史をもつこの地では争いが絶えることはなく、戦いの技も磨かれてきた。


 紅旗衣の騎士は、いわばその最先端にいる。彼らの武術は、戦場のためだけにある。それは、騎射の技から、刀剣、槍、そして組討ちの技まで、あらゆる状況、あらゆる敵と戦うことを想定して組み立てられ、練り上げられたものだ。


 一方のキシュガナンの武術は、違った。ある部分では異様なまでに精緻で洗練されており、ある部分では荒削りで不完全だ。シアタカから見ると、いびつな発展をしているように感じる。実際に、キシュガナンの戦士たちは、シアタカたちの繰り出した簡単な技にかかってしまうことが度々あったのだった。


 それは経験の差なのだろう。シアタカはそう推測した。


 紅旗衣の騎士は、様々な戦場へ送り出される。剽悍な遊牧の民から、数に物を言わせた農民兵、時に妖魔や精霊まで。敵も様々だ。どんな場所で戦い、どんな相手と戦うのか、その時になるまで分からない。しかし、キシュガナンは違う。僅かな例外を除き、彼らは長い間、良く知る相手とばかり戦ってきたのだ。それは、半ば儀式化した戦いだったのだろう。昨日の訓練で垣間見たキシュガナンたちの動き。そして、今日の戦士たちとの交流でそう感じた。


 いずれにしても、この交流によって様々な一族の戦い方を肌で感じることができた。それだけでも有意義だったといえる。彼らを一個の軍として考える時に、この感覚は無くてはならないものだった。


 この交流の間、戦士たちは謙虚で貪欲だった。外つ国の優れた戦いの技を真剣に学んでいる。


 しかし、シアタカは、ここに来た時から、ずっと違和感を感じていた。


 こちらを推し量るような、窺うような気配。戦長いくさおさになろうとする外つ国から来た人間の実力を確かめたいのだと思っていたが、それとも違うように思える。


 一体この違和感が何なのか。


 休息する戦士たちを見ながら、シアタカは考え込んだ。 


「シアタカ」


 名を呼ばれ、シアタカは振り返った。すぐ近くにハサラトの顔がある。


「どうした」

「嫌な感じがする。キシュガナンの様子が妙だ」


 ハサラトは小声で言った。ハサラトが自分と同じように感じていたことに驚く。微かなその驚きの表情に、ハサラトは頷いた。


「あいつらの目が気になる。あれは、ガキの頃に散々見てきた目だ。誰かをめようって時の目なんだ」

める……」 

「ああ、そうだ。あいつらは、俺たちに何か仕掛けようとしてる。それも、碌でもないことをな」


 ハサラトの言葉に、得心がいった。


「確かに俺も、ずっと妙な感じがしていたんだ。……何を考えていると思う?」

「俺たちをる気だな」

「結論が飛躍していないか?」


 剣呑な答えに、シアタカは眉をひそめた。ハサラトは鼻を鳴らすと、シアタカを見やる。


「おいおい、シアタカ。お前、随分と丸くなっちまったな。俺たちはこんな所に誘い出されたんだ。孤立させて始末する。そうとしか考えられねえだろ」


 諸族の同盟がなった今、自分たちを殺して何の意味があるのか。シアタカは戦士たちを見やる。彼らは、さり気なくこちらの様子を見張っているように思えた。


「何で? って顔してるな。お前が戦長をするのが気にくわねえのか。俺たちを殺せば沙海行きの話が無くなると思ってるのか。まあ、色々理由は考えられるよな。やる気だけはある馬鹿や、手の早い臆病者ってのはどこにでもいるもんだ」

「……仕掛けてくると思うか?」

「こっちの手の内も大分見せちまったからな。俺たちの実力を測り終えたと思ったんなら、それが戦の始まりだぜ」


 ハサラトはにやりと笑う。シアタカは溜息をつくと腰の刀に手を触れた。


 この場にいるキシュガナンの戦士たちは十八人。彼らが押し包むようにして攻めてきたならば、無事ではいられない。多数を相手にするならば、こちらが先制しなければ圧倒的に不利だ。仕掛けられる前にこちらが仕掛けるべきか。しかし、ハサラトや自分の勘違いである場合もある。そうであった場合、取り返しのことつかないことになるだろう。


「どうしたの、シアタカ。深刻な顔して」


 怪訝な表情のエンティノが聞いた。ハサラトが笑みを浮かべたまま答える。


「シアタカがなまっちまったって話だ」

「はぁ?」


 首を傾げたエンティノに、シアタカは言う。


「キシュガナンの戦士たちが、俺たちを殺す気かもしれない」


 エンティノの表情が消えた。戦士たちを一瞥する。


「確かなことなんでしょうね」

「俺とシアタカの勘がそう言ってんだ。間違いねえよ」

「そう……。先手を打つ?」 


 静かな口調でエンティノが言った。シアタカは小さく頭を振った。


「まともにぶつかるのは避けよう。囲まれる前に、ここから逃げる」

「そうね。敵の数が多すぎる」


 エンティノが頷く。ハサラトも、肩をすくめた後、頷いて同意を示した。


 シアタカは周囲の地形を見ながら、逃走する道を探った。調律の力を顕現させれば、普通の人間では追いつけない走力を得ることができる。しかし、シアタカたちは山道を走ることを得手としていない。山の民であるキシュガナンの追跡を振り切ることができるのか。それが大きな問題だった。


 思案していたシアタカが戦士たちを見る。森の方向を見ていた戦士の表情が微かに変わった。


 頭の中で警鐘が鳴り響く。


「来るぞ!」


 何が来るのか分からないまま、シアタカは叫んでいた。


 森の方向から、音が聞こえた。それは、耳馴染みのある音だ。


 何十本もの矢が飛来する。


 三人はその場から跳んだ。


 避けきれずに、左肩に一本の矢が突き刺さる。


 横を見れば、ハサラトは無傷だ。


 そして、頭をめぐらせた視線の先に、エンティノが倒れ付していた。


「エンティノ!」


 シアタカは駆け寄る。


 右足、背中、右腕、と矢が何本も刺さっている。


 エンティノは、苦悶の表情でシアタカを見上げる。


「ごめん、避けられなかった……」

「大丈夫だ」


 跪いたシアタカはエンティノの体を支えた。


「シアタカ!!」


 ハサラトの鋭い呼び声。


 顔を上げる。武器を手にしたキシュガナンの戦士たちが迫っていた。

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