第1話
歌声が聞こえる。
城壁の向こうから、一定の調子を繰り返す、美しい響きを持った歌声がここまで届いている。
「待たせたね」
ヌアンクが微笑んだ。階段の下で待っていた兵士たちは、彼らの姿を見て深々と一礼する。ヌアンクは、青い長衣を着ているが、その上には色鮮やかな鳥の羽などで作られた肩飾りをつけており、黒と金の髪飾りにも鳥の羽が飾られていた。ラワナは厚手の布と皮革製の鎧を身に着けているが、それは凝った装飾と刺繍に彩られたものだ。髪飾りも、金と白金によって作られた見事な細工の物を着けている。一人、エタムだけは普段と変わりない黒石の守り手の装束だった。
兵士たちに先導されて、ヌアンクが階段を上る。その後を、エタムが、そしてラワナが続いた。
城壁の階段を上るにつれて、歌声は大きくなっていく。その歌声に合わせて、何かを一定の間隔で叩く音も聞こえた。
城壁の上では、ワアドが彼らを迎える。ラワナが微笑むと、彼も彼女に頷いて見せた。その背後には、ユトワの人々も立っている。
ラワナは、城壁の外を向いた。
大地を、兵士、戦士たちが埋め尽くしている。色鮮やかな衣裳、軍装は大地を混沌とした美しさで彩っている。携えた刀槍が眩く輝き、それはまるで揺れる蜃気楼のようだった。南から来た戦士たちが、槍や棍棒で盾を叩きながら、
ヌアンクは傍らのエタムに軽く一礼すると、一歩進み出た。片手を上げる。歌声は徐々に小さくなっていき、やがて戦士たちは静かになった。
「カラデア市民たちよ! カラデアの守り手たちよ!」
朗々とした声でヌアンクは言った。
「この街は、沙海の只中で輝く宝石だ。そして、その宝石を奪おうと、西から野蛮な者たちがやって来た。奴らはデソエを攻め落とし、今や、カラデアを狙い窺っている」
罵倒のざわめきが人々から発せられる。ヌアンクは、大きく両手を広げた。
「かつて、我らの父祖は、故郷を追われ沙海の乾きに多くの者を失いながら、この地に辿り着いた。緑あふれるこの地で偉大なる黒石を見出し、その祝福を受けた。そして、彼らはカラデアの民となった。死の大地に、我らの父祖は恵み多き故郷を作り上げたのだ。そして、かつては追われる者たちだったカラデアの民も、今や、数多くの盟友を得た。それが、お前たちの隣に立つ勇士たちだ!」
カラデア兵士たちは、断続的に吠えるような声をあげるとともに手を叩く。それは、カラデアにやって来た異邦人たちを讃えるものだ。それを理解した南からやって来た人々は、武具を打ち鳴らし、歓声をあげて応えた。
「カラデア危急の時に駆けつけし救い手たちよ! 勇猛なる戦士たちよ!」
右手を南から来た戦士たちに向けたヌアンクは、声を張り上げた。
「苦難の旅の後、カラデアを守るために集ってくれた汝らに、大いなる感謝を捧げる。そして、戦士たちの未来の栄光を讃えよう。カラデアが滅びたとして、蛮人どもの歩みは、決してこの地ではとどまらぬ。奴らの刃は、汝らの故郷をも襲うであろう。汝らは、この戦いに勝つことで、遠き異郷で聖なる黒石に見守られ、恐ろしき敵を打ち破り自らの故郷を守り、子々孫々の未来を守ったと、昔語りで誇ることができるのだ!」
南から来た故郷の異なる戦士たちは、雄たけびをあげ、武具を打ち鳴らす。
父の言葉を聞きながら、ラワナは眼下に集った人々を見ていた。
これからおこる戦いは、これまでの流賊や魔物の討伐とは訳が違う。何千、何万もの人間が殺し合う戦争だ。大勢のカラデア人も死ぬだろう。
カラデア人の兵士たちは、裕福な家の子弟から、貧しい者たちまで、ほとんどが志願してきたものだ。その中には、ラワナと親しい者たちもいる。皆、誰かの親であり、子であり、連れ合いであり、そして、友なのだ。彼らを家族から引き離すことが、そして永遠の別れとなるかもしれない戦場に連れて行くことが自分には許されるのか。その思いが今も離れない。
きっと、ワアドは躊躇うことはないだろう。少し離れた所に立つ、軍人としての師である男を見る。ワアドは生粋の武人であり、彼にとって大事なことは、生き延びることよりも勝利だ。勝利のために必要ならば、自分の命も差し出すだろう。しかし、自分はまだそこまで割り切ることができない。
なぜ自分は躊躇っているのだろうか。母親になったからなのか。
ツィニに言われた言葉を思い出す。
彼女の言う通りだ。この期に及んで、自分はまだ迷っている。しかし、もう、決断をしなければならない。
大きく息を吸い込むと、両手を重ねて強く握り合わせた。
ヌアンクはラワナを振り返った。ラワナは小さく頷くと進み出る。
「カラデアの民よ! 聞け!」
片手を上げたラワナの声が響く。髪飾りが揺れ、陽光を浴びて美しく光った。
「我らカラデアの民は虐げられし者だった。そして、苦難の旅の果てにたどりついた安息の地を、再び追われようとしている。皆、かつてのように、敵を恐れて逃げ出すのか? 再び沙海を彷徨い、愛しき者たちが乾き、苦しみ、息絶えるのを見るのか?」
「
まるで雷鳴のごとく、否定の言葉が巨大な音の塊となってラワナを打った。
ラワナは、頷くと剣を抜いた。紅い刃を天に掲げ、叫ぶ。
「民をカラデアに導いた一族の
人に死を強いるのだから、己の命を差し出さねばならない。それが、ラワナの決意したことだ。愛しい我が子らの未来を守るために、皆と同じ場所に立ち、同じ刃の前に命を曝す。
「
カラデア人が熱狂的に彼女の名を連呼する。その叫びに感化されたのか、異郷の戦士たちも歌声や叫びを発して、それは一つの音となって響き渡った。
その叫びに溶け込むように、城壁の上に立っていた仮面の男、ワンヌヴが天に両手を突き出して何かを唱えた。
肩にとまっていた
次の瞬間、
誰もが、空中で巻き起こる光の乱舞に目を奪われた。
やがて、渦巻いていた光が木の葉が舞うように細かい光になり、そして消える。光が消えた後には、そこに小さな鳥ではない、巨大な姿があった。
細長い身体が、優美な曲線を描きながら空中でうねる。それは、巨大な蛇の姿をしていた。しかし、ただ巨大な蛇というわけではない。鳥のような羽毛のはえた翼を持ち、尾羽も備えている。光沢を帯びた緑色の鱗と羽毛は鮮やかで、陽光を受けて赤や青、紫の色を帯びるているようにも見えた。
翼を持つ大蛇は、優雅に体をくねらせながら空中を舞っている。
驚愕と畏怖のざわめきが地に満ちた。
ラワナも、呆気にとられてこの大蛇を見上げる。その姿は、恐ろしくも美しい。討伐の際に対峙した魔物とは異なる、気高い畏敬の念を抱かせる力を感じ取ることができた。
「人の子らよ。黒石に愛されし者たちよ」
蛇が口を開いた。そこから、鳥のような美しい鳴き声が発せられた。耳から入ってくるのは鳥のような鳴き声だ。しかし、その声は、頭の中で人の言葉として意味を感じ取ることができる。ラワナは、そして見守る人々は驚愕の表情で大蛇を見た。
「古き盟約を履行するために、我らはこの地にやって来た。我ら名を持つ精霊は、ユトワの王の導きとともに、黒石の子らと共に戦うであろう」
「偉大なる精霊“
真珠の髪を美しく輝かせたユトワ人の司祭、カングがラワナの背後から進み出ると、叫んだ。同時に、大蛇の姿は薄れ、その姿を消す。
カングの叫びに、南から来た戦士たち、特にユトワの兵士たちが熱狂的に叫んでいる。
ラワナは衝撃から立ち直れずにいたが、何とか大きく息を吸い込み、自らを落ち着けようとする。あの恐ろしくも美しい大蛇は、ユトワの人々にとって黒石のような偉大なる存在なのだろう。そんな存在を呼び出すことのできるユトワの術者の力に、畏怖の念とともに、頼もしさも覚えるのだった。
「ラワナ様、翠の翼は美しいでしょう?」
「ツィニ司祭。本当に驚きました……」
笑みとともに歩んできたツィニに、ラワナは顔を向けた。
「驚かせたのならば謝罪します。何しろ、翠の翼は力を持った精霊です。そう度々と呼び出すことは出来ませんからね。出陣の時に呼び出そうと決めていたんです」
ツィニの言葉に、ラワナは頷く。
「それは……、ありがとうございます。あのような偉大な精霊の加護があるならば、皆の士気も上がったことでしょう」
「敵は、恐ろしい魔術を操ると聞きます。私たちはそれに対抗しなければなりません。ユトワの誇りにかけて、精霊の御名にかけて、我々は全力でカラデアを守ります」
「頼もしいお話です。頼りにしています。本当にありがとうございます」
ラワナの礼に、ツィニは笑顔で頭を振る。
「あなたは礼を言う必要はありません。あなたは心を決めた。だから、私もあなたに命を捧げます。戦場で、私に命じてください。戦え、と。私はそれに従います」
ラワナは言葉を返すことが出来ず、ただツィニを見つめる。
カラデアに集った戦士たちの熱狂的な声が、大地に響き渡っていた。
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