第2話

 風が大きな音を立てて渦巻いた。


 突如生じた風の撹乱に、ウリクは大鳥の翼を傾けて身を伏せる。大鳥は風に押し流されるように斜めになりながら下降していった。ここで無理に逆らっても大鳥の体力を無駄にするだけだ。へたをすれば、風に巻き込まれてぐるぐると回転することになる。ウリクはそう考えると、風の流れを読みながらその時を待つ。渦巻く風に翻弄されないように姿勢を保ちながら、然るべき機を見計らって一気に羽ばたかせた。


 大鳥は大きく羽ばたきながら渦から抜け出す。


 しかし、風の暴力はそれで終わらなかった。


 上方から、吹き降ろしてくる風。それは、塊のような強い風だった。


 大鳥は叩き落されるように急激に下降し、騎乗していたウリクの体も前のめりになって大鳥の首に押し付けられる。


「ぬうっ……!」


 ウリクは大きく唸ると、大鳥もその唸りに合わせるように甲高く鳴いた。手綱を引き絞ると同時に、首筋を強く足で締める。大鳥は、その指示に従って翼を折りたたんだ。


 大鳥は尾羽に吹き降ろしの強い風を受けて、その体は垂直に天を向く。翼を折りたたんでいる為に、みるみる下降していく。耳元で風を切る音が押し寄せてくる。


 次はすぐに昇る風が来る。


 ウリクは肌でそう感じて、あえて大鳥を待たせた。大鳥は喉の奥で小さな音を発している。不安や苛立ちを覚えている証だが、騎手を信じてそれに耐えている。大鳥は、天を向いたまま地上へと落ちていく。


 下方から吹き上げてくるわずかな風の兆候。


 ウリクは鐙で大鳥の体を強く打った。大鳥は、喜びの声を上げるように鳴き、大きく翼を広げる。


 すぐにやってきた吹き上げる大きな風を受けて、大鳥の体はあっという間に上方へと浮き上がった。時折羽ばたくことで姿勢を正しながら、上空を目指す。


 やがて、そのまま平穏な風の空へとたどりとき、大鳥は大きく翼を広げたまま安定した飛行を始めた。


 振り返れば、イェナもウリクの後を難なくついて来ている。


「新兵のくせに、大した度胸だ」


 ウリクは笑みを浮かべると呟いた。知らない空は、飛んでいて誰もが不安になる。しかし、ここまでの行軍で、彼女はそのような素振りを見せなかった。むしろ、知らない空を飛ぶことを喜んでいたようにも見える。今のような突発的な出来事にも、落ち着いて大鳥を操って対処している。空兵として、実に頼もしい素質だった。


 沙海の風は読み難い。


 砂漠の上空を吹く風は時に恐ろしい勢いとなるが、それにも予兆があり、空の様子、地形や日差し、気温、季節によってある程度予想ができる。もちろん、様々な土地によって特徴はあるが、何日かそこで過ごせばある程度の勘は養われるものだ。


 しかし、沙海ではこれまで培ってきた経験や勘が全く役に立たない。


 砂嵐ならばまだ良い。その前兆となる日差しや空、風からある程度予想することができる。それは、この沙海でも変わることがないことだった。


 しかし、『白い風』は違う。


 今のように、何の前触れもなく突風が吹き、空兵を翻弄する。砂嵐とは全く違うその風は、突発的、限定的に吹き荒れる。そして、その風は時に途轍もなく巨大なものとなり、地表の砂を巻き上げて、白い壁となって沙海を蹂躙する。これに巻き込まれてしまっては空兵もひとたまりもない。向かう方向を変えて風を避けるか、はるか高空に上昇してやり過ごすか、着陸して砂と風の暴力にじっと耐えるしかない。いずれにしろ、ひどく体力を消耗することになり、空兵の移動距離を大きく減じる原因となった。


 海の上に吹く風もまた独特なものだが、同じ海の名で呼ばれていても、沙海の風はそれとも全く違う。


 ウル・ヤークス軍も、この風に紛れて襲い掛かってきたカラデア軍に手痛い傷を受けたという。いつしか、第三軍の中では、この奇妙な風を『白い風』と呼ぶようになっていた。


 この『白い風』を含めて、この地で吹く風を、一から覚えるしかない。ウリクは、今、己の感覚全てを使ってこの地の風を自分の中に取り込もうとしていた。


 ウリクは、イェナと共に沙海の上を飛んでいる。本来ならば、もう一騎の大鳥空兵、そして翼人空兵が一人か二人随伴することが空兵斥候部隊の基本的な編成だが、物資を節約しなければならないこの戦いでは、人数を減らして編成している。また、今回の任務は迅速に場所を確認してすぐに帰還するという偵察任務のために、そこまで数を必要としないという理由もあった。


 すでに、デソエははるか北にあり、彼は再び沙海の只中を飛んでいる。


 援軍がデソエに到着した際の、友軍の歓迎振りは異常なほどだった。彼らはそれだけ困窮していたということだろう。街に漂う荒んだ空気は、占領統治がうまくいっていないことを感じさせた。そして、カラデア軍の特殊な『耳』について聞かされたことによって、自分たちが呼び寄せられた理由が理解できた。地上を歩くことで全てを聞き取られてしまえば、これまでとは全く異なる戦い方を考えなければならなくなる。空を飛ぶ自分たち空兵が重要な役割を果たすことは間違いないだろう。 


 ウリクたちの部隊は、デソエに到着して休む間もなく、『砦』所属の空兵部隊として南へ派遣されることになった。


 カラデアへ進軍するための橋頭堡として、『砦』は、着々と守りを固めている。このままいけば、近いうちに第三軍の大軍を受け入れる中継拠点として完成するだろう。カラデア攻略も容易なものとなるはずだ。


 しかし、そのためには、目の前を飛ぶ目障りな蝿を追い払う必要がある。


 大鳥空兵は、翼人空兵と比べて航続距離が長い。それは、背に人や荷物を載せた場合でも変わることはない。その大きな翼と体を風に乗せて、翼人よりもはるかに長い距離を飛ぶことができる。今回の任務に翼人が随伴しなかった理由の一つに、これまでよりも長距離の偵察を目的としたことがあった。


 どこまでも続く白い砂原と、時折見える黒色や褐色の岩石。代わり映えのしない景色だ。しかし、ここ数日周辺を何度も飛び、方角を意識しながら目立つ岩石の姿を頭に叩き込んで、ある程度の地図を頭に描くことができるようになった。砂漠の風を理解できれば刻々と変化していく砂丘の形も理解の助けになるのだが、今はそこまではできない。むしろ、今の段階では砂丘を意識してしまっては混乱してしまうだけだろう。


 もっとも、翼人たちにとってはそこまで難しい話ではないはずだ。彼らは沙海の地理や方角について、もっと簡単に覚えてしまうだろう。彼らの優れた力は、その背にある翼だけではない。地形を読み、方角を迷うことなく知ることができるという力がある。翼人は、大地から放たれる人には見えない光を見て、方角を知ることができるという。それは、微かな光だが、地や天を走るその光を見ることで確実に空の旅を助けてくれる。彼らからその話を聞かされた時、驚くとともに、羨ましく思ったものだ。


 とはいえ、人の身としては翼人のような目を得ることなど望むべくもない。元々人は、空の住人ではないのだ。光が見えることを羨んでいる暇があるならば、自分なりの才覚を活かして飛び、経験と勘を鍛えるしかない。そうやって大鳥乗りはやってきたのだから。


 『砦』から出発して随分たつ。ウリクたちは、かつてない遠地まで飛んできていた。


「隊長、空ノ魚です!」


 隣に大鳥を寄せてきたイェナが叫ぶ。


「なんだと?」


 彼女の指差す方向に目を凝らす。すると、確かにそこには、やや白みがかった半透明の雲のような一群が見えた。獲物を食らってある程度腹を満たした空ノ魚たちだ。


「本当だ。さすがだな」


 ウリクは感心する。遠目に関しては、遊牧の民ムタハ族の視力にはとても敵わない。


 空ノ魚は鋭く獲物を嗅ぎ付ける。


 とはいえ、これは比喩だ。目も鼻もない空ノ魚がどうやって獲物の存在を感知しているのか、ウリクには分からない。これまでの人生で、湿地の側で暮らす農民、羊を追う牧人、馬を連れた遊牧の民、大鳥を駆る軍人、出会った人々の中ではっきりとした答えを知っている者はいなかった。物知りな学者や魔術師は知っているのかもしれないが、彼らに話を聞いたことはない。


 ただ、いなごの群れが発生すると、どこからともなく空ノ魚や空ノ蟲が無数に集まり、いなごを貪り喰らうことは事実だ。この、空や地上で繰り広げられる壮大な狩りの様子は実に見物であり、また、農作物の被害が最小限に抑えられることから、農民たちによっては救いの光景でもある。無数の空ノ魚や巨大な空ノ蟲が蝗を喰らってその身体が白くなっていく様は、聖典において、『救済の雲』『空から喜びの雪が降る』、などと表現されていた。


 蝿は、遊牧の民の間では砂に湧く虫と皮肉交じりに言われる。彼らが旅するところ、どんな所にも蝿は飛んでいるからだ。そして、それを獲物として遠くから追ってくる狩人が現れる。それが空ノ魚だ。


 数百の騎獣や兵士の糞尿、水があれば、どこからともなく蝿や蚊が湧く。泉を住処とする虫もいるはずだ。空ノ魚はそんな虫たちを餌とする。小さな虫の群れ程度では巨大な空ノ蟲がやってくることはないが、蝿や蚊を好物とする空ノ魚にとっては、不毛の砂漠に突然現れた豪華な食卓に見えるだろう。


 カラデアの残党兵が潜んでいるのは、餌の少ない沙海の中でも、大量の空ノ魚が集っている場所のはずだ。


 それが軍が出した結論だった。


 そして、まさしく眼前にはその光景が広がっている。


「あの、大きな岩。あの下が隠れ家ですね!」


 イェナの叫びに、ウリクは頷く。あるいは大きな緑洲オアシスならば空ノ魚が群れていることも考えられるが、こんな不毛な岩場ではそれもないだろう。


「ああ、間違いない。情報は確かだったな。空ノ魚があそこまで集まっているなら、人と駱駝が潜んでいること以外考えられん」


 ウリクたちが『砦』を遠く離れて真っ直ぐにこの方向に飛んできたのは理由があった。一つの情報があったからだ。その情報によって大まかな方向、場所を推測することができた。しかし、限定的な情報であり、第三軍として、その場所を確定する必要があった。だからこそ、彼ら大鳥空兵が派遣されることになったのだ。


 そして、予測どおり、空を乱舞する空ノ魚の群れがその情報を確実なものとして裏付け、敵の潜む場所をはっきりとした場所を確定することができた。


 敵の矢を警戒しながらも、空ノ魚が飛び交う空域を下にある巨大な岩塊を目指して下降していく。


 大鳥が、低く長い鳴き声を発する。空ノ魚を食べたいとねだっているのだ。ウリクは苦笑するが、それに応じることはない。


 その岩塊は、まるで一枚の巨大な岩でできた舞台のようだった。周りの岩々が荒い形をしているだけに、そのなめらかな形は目立っている。


「ここが奴らの命の泉だ。この下に、奴らは隠れている」


 ウリクはそう言うと岩塊の周辺に目を凝らした。しかし、敵の姿はおろか、人が暮らしているという痕跡も見えない。砦のように軍事施設としての環境を整えていると考えていたが、敵はどうやら隠れ家として徹することにしたようだ。


 ここからは姿は見えないが、敵は息を潜めてこちらを見ているに違いない。なぜか、そんな確信がある。


「イェナ! 敵の姿は見えるか?」


 並んで飛ぶイェナに問う。


「岩場には、見えません。ただ……」


 イェナは言葉をとめる。そこにためらいを感じ取って、ウリクは続きをうながした。


「どうした。続けろ」

「地面に大量の動物が歩いた足跡のようなものが見えます。おそらく、駱駝のものではないと思います。砂が崩れ始めているので、確実にそうだとは断言できませんが……」


 こいつは空の上からでもそんなことに気付くのか。ウリクは驚きをもってイェナを見る。いくら高度を落としているとはいえ、そんなものを発見できる彼女の目の良さと、何より観察眼には感心するしかない。


 駱駝は、その足の構造から足跡が残りにくい。おそらく、鱗の民が乗っているという駆竜や甲竜の足跡だろう。


「よし。それだけ分かれば充分だ。俺たちは勢子じゃないからな。帰って報告するとしよう」

「はい!」 


 ウリクの言葉に、イェナは笑顔で頷いた。


 二羽の大鳥は、身を翻すと、大きく翼を打ち振るって一気に上昇していく。


 そして、来た方向、『砦』へと飛び去った。

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